西式健康法

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新解・西式健康法 とは

西式健康法創始者 西勝造について

 西式健康法を創始した西勝造は、1884年(明治17年)神奈川県高座郡鶴見村(後に大和村と改称→現;大和市)で土屋藤吉の3男として生を受けました。土屋家は地元ではそこそこの名家であり、次々代当主の土屋利保氏は長年神奈川県会議員を務め、またその長男である現当主の土屋氏は大和市議会議員を経て、平成7年より19年まで3期に渡って大和市長を務めました。

 当時は、長子が基本的には家のすべてを引き継ぐ慣習でありましたから、3男であった土屋勝造は後に九州の西家に養子として入り西勝造となりました。

 土屋勝造は子供のころから体が弱く、とても二十歳までは生きられまいと言われていたこともあり、健康法・民間療法・宗教に興味を持つに至ったということなのですが、同時に職業としては土木技師を選択し、当時多くの若者の就職希望企業ナンバーワンだったであろう三井本社に、鉱山技師として就職することができました。

そしてその中でも花形でもあり、坑道が福岡県の大牟田市から熊本県の荒尾市にまで至る三池炭鉱に配属され専門技師としての経歴が始まりました。

三井三池炭鉱時代の職名は「坑長」という肩書であったそうですが、子供たちは父親が「こうちょう」と呼ばれていたので、学校の先生だとばかり思い込んでいたとのことです。

なお、この辺りのことについては新潮新書「健康の天才たち」(山崎光夫氏著)に詳しく紹介されておりますので、創始者の経歴、人柄等にも興味がおありの方は是非ご一読ください。

さて、その西勝造は当時の欧米最新鉱山学、採掘技術を熱心に研究、実験し鉱山技師として名を知られるようになり、明治専門学校(国立九州工業大学の前身)の講師を務めたりするようにもなりました。

さらには、当時の東京市が日本最初の地下鉄道建設構想を計画した時には、設計責任者として白羽の矢を立てられ、米国の地下鉄道研究視察目的で1年間の米国留学、また東京市議会で地下鉄道計画が承認されるまでの最後の2ヶ年間は東京に家を用意され、あてがい扶持までいただいて地下鉄建設にゴーサインが出されるまで待機をしておりました。

何を申し上げたいのかというと、西勝造は医学の専門家という肩書こそなかったものの、失敗が絶対許されない日本最初の地下鉄計画を成功させるため、設計責任者を任せられるのは西勝造しかいないと期待されるほどの超一流の土木技師、隧道(トンネル)設計専門家として知られた人間であった、ということをご理解いただきたいのです。

留学資金や東京で待機中の家賃、さらにはすでに子供も四人にいた西勝造のための生活費を用意してくれたのは、地下鉄建設によってメリットを受けるという経済目的もあったのでしょうが、当時の実業家や素封家の方々です。

当時は地下鉄推進派と、建設コストとしては安いモノレール推進派の真二つに分かれていたそうで、その地下鉄派(当時の後藤新平市長は地下鉄推進派)の期待を一心に背負っていたということです。

医学という学問分野は経験主義が中心ですから、長いこと師匠に師事して徒弟的に修業を積まないと一流にはなれませんが、土木の世界はほぼ100%科学ですから、一年間米国に留学してみっちりと学ぶべき内容などは存在しません。

実際の現場を視察させてもらい、基本的なこと、例えば、一見しただけではなぜそこに取り付けられているのか理由が分からない構造材等があれば質問し、なるほどと理解しメモにさえ残しておけば完了であって、師匠にお伴しながらご機嫌をとる必要もありません。条件別の計算結果をまとめたハンドブックさえもらってしまえば、それで十分です。

土木の世界、というか科学の世界では付き人をしながら盗まなければ身に付かないといったような特殊な職人技は存在しませんから、西勝造は余った時間のほとんどを当時の欧米最新医学情報収集のために費やしたようです。

図書館にも頻繁に通ったでしょうし、当時の米国の何人もの高名な医学者に面談することができたということは、記録は残ってはおりませんが、最低でも東京市長あるいはそれ以上の爵位をお持ちの方からの紹介状を持たせてもらえたからであろうと思います。

西勝造はアメリカ留学を終え、最新の欧米医学情報を携えて帰国し、本格的な地下鉄トンネル設計等の仕事を始めるにはまだ時間がありましたから、その期間に当時の最新欧米医学情報を整理して、日本の医師、医学者とも意見交換、情報交換をしながら日本の医学の進歩にも貢献できると考えていたはずですが、残念ながらそうはなりませんでした。

今日でもそうですが、医師の世界ほど権威主義が強い世界はありませんから、西勝造が最新の欧米医学情報に基づいて議論をしようとしても、その反応は「土木屋風情が何を言うか」というものであって議論にもならなかったようです。

さらにもう一つ議論にならない理由があります。それは医師、医学者のほとんどは物理学とか化学のような自然科学には疎くて、土木屋が計算式に基づいて主張する内容のほとんどが理解できないからということがあげられます。

当時の常識では、血液循環は唯一心臓のポンプ作用によって成立すると考えられていたわけですが、西勝造は心臓という臓器のポンプとしての仕事量と、血液の粘性、内部があまり滑らかとは言えない、管路抵抗が決して小さくはないであろう、しかも先端に行けば行くほど細くなる血管の中を、握りこぶし大のポンプによって循環を成立させることは不可能である、ということを、炭鉱技師の時代にポンプを取り扱った経験と計算から示すわけですが、医師、医学者はその理論、証明の意味を理解することができません。

それが、長い前書き中で展開したカンフル剤への批判であり、これは後半で説明いたしますが、心臓のポンプ作用のよってのみ血液循環は成立しているという理由で、その考えに基づいた誤った治療法を行う当時の医学に対してのアンチテーゼとして「血液循環の毛細血管原動力説」を展開するということにつながっていきます。

当初、西勝造がしたかったことは、医学という学問を通常の科学という土俵の上で見直すべきだ、ということであって、ただそれだけが目標であったと思われます。

西式健康法の基本

 四大原則

 考え方の説明というのは多くの方にとっては退屈でしょうから、簡単に要点のみを説明します。西勝造は健康を維持する秘訣と言いましょうか、病気になる要素として次の四つをあげました。

 ①皮膚、②栄養、③四肢、④精神の四つであり、各々が平均点以上でないと人は必ず健康を損なうと考えました。この順序は進化の過程を踏まえた順番です。

皮膚

 皮膚は外界と生命体を分ける境界、接点であり、単細胞生物であってもその機能を持つ細胞壁を有します。ヒトは内部の脆弱な細胞を守るために真皮、表皮という複雑な皮膚組織を有していますが、この皮膚組織が完全でないと、細菌等による外部からの侵略を許すことになります。

最も愚かしい行為は、あか擦り等で皮膚をわざわざ削り取るような行為です。無理に皮膚を削り取りますから表皮細胞の再生ピッチは上がります。

それを称して「新陳代謝が良くなる」と称しているようですが、表皮を無理やり削り取れば真皮は必至で表皮細胞を増産しますから、新陳代謝が良くなるという表現はウソとは言えないものの、健康に良い、皮膚機能を改善向上させるかと言えば、ただ傷つけているだけという以外の何物でもありません。奴隷はムチで叩けば叩くほど良く働きます、と言っているようなものです。

西勝造の時代には、皮膚は無理に鍛えなくても自然環境における寒暖等の刺激がありましたから、ただ自然環境の中で暮してさえいればそれで良かったのですが、今日のように子供に汗をかかせたら可哀想、寒い思いをさせることも虐待になるかも、といったことになってくると、日常的に皮膚に刺激を与える療法も心がけた方が良い時代、環境になってしまったと言えるでしょう。西式健康法では温冷浴(後述)を奨励しています。

栄養

 単細胞生物にとっては栄養を選択する能力はありません。自分が浸っている環境中に溶解している成分を摂取するだけです。これが多細胞生物になると自ら積極的に移動し食物を選択することが可能となります。

 また、西勝造の時代には食べ過ぎによる害ということは、ほとんどの方にとってはまったく無用な心配でした。貧しさ故に必要最低限のたんぱく摂取、ビタミン摂取が不足するといった方々に対する配慮はしておりますが、食べ過ぎによって生じる問題を心配するということはほとんどありません。

ところが今日では、糖尿病治療を受けている方、将来的には糖尿病治療が必要になるであろうとされる「糖尿病予備軍」、また、空腹時血糖値は正常値であるが、食後血糖値が正常値を上回ってしまう「隠れ糖尿病」の三者を合わせると、一説では2千7~8百万人になるとも言われており、今日では過剰栄養対策を万人が真剣に考えなくてはならなくなりました。

ご存じの方も多いかと思いますが、西式健康法をベースにした少食療法を確立した甲田光雄医博は、今日では栄養が健康に関与する割合が顕著に増大しているという視点から、栄養の問題を中心に据えて臨床的な面で大きな成果を上げました。

精神

 今日ほど精神の問題に注意を払わなければならない時代は、ここ100年以上なかったことです。大正時代から太平洋戦争が始まるまで、正確には日本本土がたびたび空襲されるに至るまでは、多くの国民にとっては努力さえすれば必ず報われる時代でした。

額に汗して一生懸命働けば必ず生活は豊かになり、年金制度などなくても子供、孫が面倒をみてくれました。

長患いで寝込んで家族に迷惑をかけるということも、今日と比較すれば大変少なかった(寝たきりのまま長生きさせるような医療技術、制度がなかったということですが)し、十分な労働はできなくても、長年の経験、知識が子や孫たちのために本当に役に立った時代です。

今日のように、爺さん婆さんに聞くよりインターネットやスマートフォンで何でも分かってしまうなどということもありませんでした。

しかし、現在はうつ病の患者数は数十年前の十倍以上、と言っても正確には抗うつ薬を処方され、服用している人の数であって、本当にうつ病という診断が適切であるかどうかは別問題なのですが。

つまり、今日と比較して精神的な面でのケアが必要な人の割合は圧倒的に少なかった、ということです。

四肢

 なぜ、順序を変えて「四肢」の説明が最後になったかというと、この「四肢」という要素こそが、西式健康法の基本であり中心である六大法則中の背腹運動が生まれた理由であるからです。

皮膚、栄養、精神という3要素は、ヒトの健康を左右する重要な要素ではありますが、大正時代から戦前くらいまでは、それが主たる原因となって健康を害していた人々はそれほど多くはなかったということでもあり、それと比較して「四肢」の問題が原因となって健康を害している人はたくさんいた、というより、ほとんどの人は「四肢」の不整によって健康問題を生じさせたから、それを正す「背腹運動」がもっとも重要であったということです。

 それでは具体的な説明に入りましょう。二足直立歩行を行う人類は、大変高度な制御システムのもとにそれを達成しているのですが、物心ついた時には自然と二本の足で歩き、走ってきた普通の人にとって、その高度な制御システムについてまったくと言って良いほど関心を持つことはありません。 

 しかし、ホンダの技術の粋を集めたとも言える、外部からの動力エネルギー供給を必要としない、自己完結型二足歩行ロボットである「アシモ」は、確かに二本足で歩くことはできますが、仮に外観のシルエットを変更して精巧なゴムマスクを被せ、服をきちんと着せて巧みに変装させたとしても、歩かせてみればすぐにばれてしまいます。言うまでもありませんが歩き方が普通ではなく、とてもぎこちないからです。

こういったことはホンダのアシモの開発、設計担当エンジニアであれば、極端に言えば毎日こればっかり考えているようなものでしょうが、いまだに人が歩くような自然な歩行をさせることはできません。

 愛着を持ってもらおうとわざとぎこちない、変則的な歩き方をさせているのではなく、現在のところあれ以上の歩き方をさせることができないからです。その理由、原因は何かということをこれからご説明します。

カメラの三脚は特にバランスを取る必要はありません。実際は三本足ではありませんが、カンガルーなどは太くて頑丈な尻尾を第三の脚として使い、安定した直立姿勢が維持することができます。

 一般の哺乳類等は四足ですから、これまたバランスを保つための高度なシステムは必要がないということです。

しかし、二本脚で歩くということは、バランスを保つために相当高度な制御が必要になってくるわけで、この仕組みこそが人間の姿勢を決定するのです。

二足歩行におけるバランス制御

 生物はすぐに環境に適応しますから、環境の違いによって無意識に、瞬時に制御方法を選択し、変更します。

 本来の自然環境の中ではあり得ない環境なのですが、今日我々先進国で暮らす多くの人々の生活環境は、まっ平らと言っても良いところばかりで生活しています。足元など一切見ずに、ショーウウィンドゥだけ眺めながら歩き続けても、つまずいて転倒することなど滅多にないという環境です。

 そのような環境下ではどのようなバランスのとり方をしているのかというと、足を置く位置、接地させる位置を巧みに、前後左右に無意識に調整してバランスを取っています。

 本当かいな?と疑う方は、平均台の上や畳の縁(へり)、カーペットタイルなどの目地を一切踏み外さないように歩いてみてください。身体は不安定となり、両手を左右に広げてバランスを取りたくなってしまいます。

足を下ろす前後左右の位置を制限されてしまうとたちまち歩き方が不安定になってしまうわけで、これが、平らなところでは足を置く位置を調整することによってバランスをとっている、ということの証拠になると思います。

 それでは、人類は進化の過程の中で、常に足を置く位置を調整することによって、二足歩行時の姿勢制御してきたのかというと、決してそうではありません。

 足を置く位置を自由に変えられるということは、何度も申し上げているように、ほぼ完璧な平面上を歩く場合に限ってできること、つまり現代の道路や建築物内という極めて特殊な、人工的な環境下においてのみ可能なバランス調整法であり、凸凹だらけの自然の地形の上ではほとんど行うことのできない方法です。

 凸凹を無視して、出っ張った石の上や土から突き出た木の根の上に足を下ろせば、たちどころに体は不安定になって転倒しかねません。

 一度転倒してしまったマラソン選手が、転倒中に追い抜かされた全員を抜き返して優勝するという話は聞いたことがないように、転倒して立ち上がるという動作は、非常に多くのエネルギーを消費すると同時に、満足な歩行、走行ができないという原始の時代であればこの一瞬、転倒が原因となって致命的な状況に陥ることにもなりかねません。

 

エネルギー節約と備蓄は

ほとんどの生物に共通するプログラム

 もう一つの重要な要素についてもお話させていただきます。今日では、多くの大都市郊外の主要駅近くにはアスレティック・ジムがあります。

食べ過ぎと運動不足の相乗効果?によって生じる肥満等が健康に悪いから、エネルギーを消費するためだけに、安いとは言えない料金を払って非生産的なエネルギー消費に明けくれています。

あのトレッドミルという、走っても進まないベルトコンベヤーのような運動器具や、自転車こぎ運動器具(自転車エルゴメーターが正式な名称のようで、エアロバイクともいう)はただ過剰エネルギーを消費するため、汗を流すために使うのではなく、発電機につないで少しはエコロジーに貢献してくれれば良いのではと思いますが…。

 ほとんどの生物(海中で暮らす一部の生物はあまり気にしていないようにも思われますが)、陸棲生物における生存競争は他種生物間における食うか食われるかという争いも、もちろんありましたが、その多くは飢餓との戦いに費やされたとも言えます。

 確実に食料を得られる保証などまったくなく、運よくありつける日もあるが、その後3も4日も食料を得られないことも日常的なことであったと考えられます。

 やっと手に入れた食料は、無駄なくすべてをエネルギー源として取り入れたいし、できれば備蓄もしたい、備蓄と言っても倉庫に貯めておくといったことができるのは、今日でも高等生物のごく一部であって、原始時代の人間もそういった技術は持ち合わせていなかったでしょう。

 例えば、という臓器は、動物性の脂質を大量に摂取した時、胆汁の供給が追い付かないことによって、せっかくの動物性脂質を便と一緒に捨ててしまうことのないように、胆嚢に貯蔵していた胆汁を放出して脂質の吸収効率を上げるための臓器です。

胆汁によって効率良く脂肪酸に変化した脂質は、液体に溶解する状態になっていますから消化管の毛細血管中に吸収され、体内でヒト用の脂肪に再組み立てされて、食料が不足した時の備蓄エネルギー源として主として皮下脂肪として蓄えられます。

食料確保の効率を上げるためには、強靭な力と俊敏な身のこなし、俊足であることが求められますが、これらすべての資質を求めようとすると、体は大きくなり、太い筋肉も必要となり、必要なエネルギー量が増えてしまうという、二律背反の関係にあります。

そこで、これは現代のテクノロジーもまったく同じですが、というより現代テクノロジーが自然から学んだということになりましょうが、あらゆる面から効率の良い生物、マシンはエンジン出力をあげていく一方で、燃料消費率の一層の向上、軽量化等によるエネルギー節約という両面からアプローチします。

生物もまったく同じで、驚くほど巧妙かつ精巧なエネルギー節約の仕組みを持っています。

二足歩行の意義、目的

二足直立歩行システムという姿勢がもたらした利点は、体重が少なくても視点を高くすることができたということが一つであろうと考えられます。

視点がヒトと同等の高さにある動物は、ほとんど体重が数百キログラムといった大型動物であり、体重がヒトと同じレベルの哺乳動物の視点は地上からせいぜい70~80cm 程度でしょう。

危険察知能力が高ければ、それほど素早い逃げ足も必要なければ、強力な顎も牙も必要がありません。

また、これは別な項目でも説明しますが、細胞が十分な能力を発揮するためには必要十分な酸素とブドウ糖、ATPが必要となるわけですが、これは血液によって各組織に供給されるわけで、つまり理想的な血液循環が達成されることによって初めて可能となります。

では、理想的な血液循環とは何かということですが、これは動脈血を組織に押し込むことではなくて、静脈血をスムーズに流し去って、動脈血が遅滞なく流れこめるような状況を作ってやることです。

 なぜ、そういうことが言えるかというと、動物の脳の位置から容易に類推することができます。我々人類は活動時には、脳が循環系の中心である心臓の真上に位置しています。

 一般的な哺乳類、犬猫とか牛馬等ですが、これらの哺乳類の脳は心臓から見ると斜め上方に位置しています。それが爬虫類であるとか両生類という、明らかに我々より下等な生物は心臓と脳の間には高低差がまったくありません。

 これは脳の重要度が高い生物、つまり、脳が多量の血液を必要としている高等な生物ほど、静脈血管を通じて組織から血液を効率良く流し去り、動脈血を一瞬の遅滞なく流入させるためであるとしか考えられません。

 つまり、活動時には脳の位置を少しでも高くして、脳が十分な能力を発揮できるようにするためというのがもう一つの理由であるということです。

 この二つの重要課題を達成するために、ヒトは二足歩行という特殊な歩行法を選択したものだと考えられるのです。

しかし、この二足歩行のための制御システムは原始の時代にはほぼ完璧であったわけですが、人類の知恵がある面で設計者の想定を上回ってしまったために、必ずしも完璧なシステムではなくなり、健康法といったものを実践しないと健康を維持できない、野生の生物と比較すると大変厄介な問題を抱えることになってしまったのです。

二足歩行時の制御法が姿勢を作る

 話が前後してしまいましたが、具体的な二足歩行制御システムの話に戻します。二足で立つ、歩行するといっても、人類は自転車のタイヤのような回転部分を持っていませんからジャイロ効果で直立を維持している訳では無く、まるで綱渡り中のパフォーマーのように微妙に重心点を調整してバランスをとっています。

バランスはとり続けなければ転倒してしまうし、かといってバランスを取るためにエネルギー消費を増やしたくないという、二律背反の問題に対する進化の回答が、背骨の一つ一つをわずかに曲げ、ねじることによって重心点を調整するというバランスのとり方です。

原始生活ではこのシステムは何ら問題とはなりませんでした。自然の地形にはまったくといってよいほど法則性は存在しませんから、一定時間歩行すればバランスをとるための脊椎骨の前後左右の傾斜、ねじれは必ず平均化されます。

特定の椎骨を常に特定方向に曲げている状態、特定方向にねじっている状態などということはまったく心配する必要がなかったのです。

しかし、今日では生きるということは多くの場合お金を稼ぐということであり、お金を稼ぐということは狩猟、採取行動とはまったく異なって、歩き回るようなことはほとんどないどころか、座っている時間が圧倒的に長いというのが現実です。

そのような時、座りっぱなしの状態であっても、本能は最もエネルギー消費が少ない状態を選択してしまいます。好むと好まざるとにかかわらず、現代生活をしているだれもが、背骨の特定部分をいつも曲げ、ねじった状態になっていまっているということです。

ここでいう現代生活というのは定職を持って、同じ職場、同じ就業環境で働いている人はもちろんのこと、同じ間取り、配置の家、台所で家事に従事する主婦もまったく同じことがいえますし、学校で学習する子供たちにも同じことがいえます。

特にまじめな学生、生徒ほど、同じ席に座り、座らされて常に先生か黒板を注視していますから、本当に同じ背骨の曲げ方、ねじり方を毎日毎日繰り返すことになります。

こうして、その人の姿勢、つまり、決してまっすぐな状態でない背骨というものが普通になってしまうということです。

ここまでの解説は、ヒトの姿勢制御システムのソフトウェアに関することです。もし、この問題、いつも背骨の同じ部分を曲げたりねじっていることによって、好ましくない姿勢が生じるのであれば、同じ姿勢にならないように注意するように心がけるとか、伸びをするとか上体をねじったり曲げたりする運動を適宜実践すれば解決するわけで、とくに健康法などということを考えるまでもないことになります。

しかし、問題はこのようなソフトウェアの問題には留まらず、ハードウェアの問題も関係しているために事態を複雑にしています。

背骨が歪むと簡単には治らない

ハードウェア上の問題

まず、解剖学的なことから理解していただく必要があるのですが、脊骨とは33個の椎骨と呼ばれる骨が連結して柱状になったもので、連なった状態では脊柱という言い方もします。

上から7個の首の部分を頸椎、その下の12個で肋骨が出ている椎骨は胸椎と呼びます。そしてその下の5個を腰椎と呼び、そのまた下はほぼ癒着結合してしまっているようなものですが、仙骨、尾骨(尾てい骨)と連なっています。

さて、何を知っていただきたいのかというと、脊柱という連結した状態は、何によって維持、接合されているかということをご理解いただきたいのです。

一般的に、整形外科クリニックや柔道整復院等で見かける模型や背骨の模式図では、1個1個の椎骨の間に椎間板という軟骨のような組織がはさまっており、一見その軟骨が結合組織となって上下の椎骨をつないでいるように見えます。

しかし、ご承知のように椎間板は大変脆弱な組織であって、床に落ちた物を拾おうとしただけで椎間板の中身(髄核)が飛び出した結果、激痛で進退極まってしまったり、とても脊柱をしっかりと支えて結合、保持するような強度は持っていません。

背骨も関節を構成していますから、骨同士がはまっていることによって、つながっているのではないかとお考えになるかもしれませんが、生物の関節というのは建具の蝶つがいのような構造ではありません。骨同士は基本的には向かい合っているだけであって、お互いの骨が軸を共有するような構造では決してありません。

それではなぜ関節はそう簡単には外れないかというと、という組織によってつながれているからです。

スポーツ選手がよく膝や肘の靭帯を傷めて、しばらく休養したり手術を受けたという記事が出ますが、筋肉と骨を結合して関節を動かす役目を持った組織が「」であり、骨と骨をつないで関節を構成し、関節が勝手な方向に曲がったり、離れたりしないように結合、保持する役目を持った組織が「」というわけです。

背骨を結合するは、6種類ありまして、それぞれ前縦靭帯、後縦靭帯、黄色靭帯、棘上靭帯、棘間靭帯、横突起靭帯という名称がつけられています。位置関係の説明は省略しますが、この6種の靭帯がそれこそ縦横無尽に張り合って、結合して頑丈な脊柱として存在せしめているということです。

なぜ多くの方がこの脊柱を構成する靭帯について認識していないのかというと、あまりにも脊柱をがんじがらめに結合し覆っているがために、すべての靭帯を図に書き込んだり、模型を製作するときにそれらを再現してしまうと、脊柱の全体構造、すなわち、脊髄、椎骨、椎間板、椎間孔等(脊髄から分岐した脊髄神経が、脊椎外に出てくるためのスリット)と靭帯のすべてを表現することで難しいからです。

解剖学者が、背骨の全体構造を理解させるのに邪魔になるから、靭帯をそぎ落とした状態のモデルから解剖図や模型を製作させているということなのですが、それだけ靭帯群の重要度に対する認識が低いということでもあります。

さらには、手指の関節と同様、背骨も関節を構成していますから、脊椎関節にも関節包というものが存在します。

こうなると関節包ついても説明が必要になりますが、関節包とは読んで字の如く関節を包んでいる組織で、その関節包の中は「滑液」という潤滑油の役割を有する液体(ヒアルロン酸と糖タンパク質を豊富に含むリンパ液のような液体)で満たされています。

また、骨同士が直接接触する部分の表面には軟骨様の組織があって、関節に荷重がかかった状態で動かしても、摩耗したり動きがぎくしゃくすることのない構造になっています。

(椎骨と靭帯の模式図が必要)

靭帯の構造と問題

 肝心な靭帯の問題点、構造の説明に進みます。骨と靭帯の結合部分は強力なタンパク結合によって結合しており、どんなに力を加えても骨表面の骨膜と靭帯との結合が剥がれることは絶対といって良いほどありません。

 自動車事故のように尋常でない外力が加わった時はどうかというと、結合部分が剥がれるのではなく靭帯そのものが断裂するという形で破壊が起きます。

 一方、あくまで可動するのが大前提である関節の構成要素ですから、骨と骨をつないでいる中間部分、もともと骨と接していない部分は、まったく骨膜とは結合しないようになっています。

見た目はまったく同じ線維性の組織ですが、靭帯の端部と中間部で、片や強力に骨膜と結合する性質、中間部は逆にまったく結合しないようになっていて、その性質はまったく異なるということです。

 これも当然のことで、一定範囲で可動するのが関節ですから、中間部分まで骨膜と強力に結合する性質が備わっていたら、うっかり首を曲げてうたた寝しているうちに元に戻らなくなってしまう訳で、そうならないように中間部分にはまったく結合するような性質をもたない細胞で構成されているわけです。

 ところが、これが生物の面白さとでもいいましょうか、これほどまでに精巧に、想像を絶するような工夫が凝らされた人体構造ですが、やはり精密機械部品とは異なる点があります。

 それは、性質の異なる細胞同士の境界線は、きちんと線を引いたようにはなっていないということです。

例えば手の甲と手のひらの細胞は見かけが異なります。手の甲にはメラニン色素が存在しますが、手のひら側にはほとんど存在しないようで日焼けすることはありませんし、見た目にも異なる性質の細胞です。境界線はどこかというと相当曖昧な状態です。

唇とその周囲も同様です。DNAの設計図上は明確に区分するように指示されていると思われるのですが、実際の施工技術は完璧とは言えず、かなりギザギザというかデコボコな状態です。

唇の境界線がまっすぐでなくギザギザなままだと、個体としての完成度が低いという印象を与えますから、血色よく見せ、境界線を鮮明に描くことによって男性からの好感度が上がる、もてるようにするというのが口紅によるお化粧ということになります。(コラム②)

それと同じで、靭帯の細胞も、骨膜と強固に結合する性質を持った細胞と、まったく結合しない性質を持った細胞との境界線はギザギザでデコボコで、くっつく性質を持った細胞と、くっつかない細胞とが混在する部分がどうしても出来てしまいます。

自然の地形の中を十分に歩きまわった結果、バランスを取るために、椎骨のすべてが満遍なく、可動範囲いっぱいに動かされていれば生じない問題なのですが、標準的な現代生活をしていると、仕事や家事による体の使い方の癖、偏りによって、本当に同じ椎骨を同じように曲げたりねじったりしたままの状態が続きますから、本来結合、固着しては困る部分にも固着が生じてしまい、その結果脊柱が歪んだ状態が生じます。

ここで、申し上げている「歪んだ状態」とは、全般的に大きくS字状に湾曲した側湾症のような状態のことではなく、個々の椎骨が傾斜したり、捻じれた状態になってしまう状態のことです。

脊柱に歪みが生じると何が問題か?

 一般的に、整形外科医はこの背骨が歪んでいる状態についてはまったく問題にしていません。

 もちろん側湾症は問題にしますが、個々の骨の傾斜、ズレ的な歪みに関してはまったく無関心なようで、そういう意味であるなら、逆に背骨がきれいにまっすぐな人なんて世の中にほとんど存在しないのではないか、といったスタンスです。

 整形外科分野の見解は、椎骨が傾斜したりねじれたり、加齢や事故などによって椎間板が薄くなったり、変形して、椎骨が直接神経鞘を圧迫し、脊髄神経をも圧迫変形させることになれば問題ではあるが、それ以外の、ただレントゲン的に椎骨の並びに歪みが認められるというだけの状態では、痛みもしびれもないのだから、別に病気とは言えないでしょう?問題ないでしょう?という見解が一般的であるということです。

しかし、ここで脊髄周りの構造をもう一度見直さなければなりません。脳脊髄液という用語については前書きでもご説明しましたが、脳の動脈血管の変形を起こさせないためという役割の他以外にも、一般的には繊細な脳や中枢神経を衝撃などから守るために、脳を浮かせておくための体液という認識であると思います。

豆腐が輸送中に型崩れしないように、柔らかいプラスティック製容器の中を水で満たし、密閉した状態で販売するのと同じです。

ところが脳脊髄液にはもう一つ重要な役割がありまして、血管網が十分に備わっていない、脳、中枢神経、脊髄周辺に血液栄養成分を供給する役割をも担っています。

血液をたくさん必要とする臓器として有名な、脳の血管網が十分でないと聞かされてもあまりピンとは来ないでしょうが、脳の髄質という内部の豆腐様の部分にはまったくといってよいほど血管網がありません。脳内部のように見える、折り重なった脳組織の表面分には血管が存在しますが、本当の意味の脳実質内には存在しないということです。

脊髄を代表とする太い神経組織も同様で、表面と中心部にのみは動静脈血管がありますが、神経組織内に密に血液成分を供給するような、一般組織における毛細血管網のような組織は存在しません。神経が実際に白色であるということは、毛細血管網を有していないということの証拠でもあります。

神経伝達の基本は電気刺激による信号伝達ですから、神経電流発生のエネルギー源となるイオン、主としてプラスに電荷したナトリウムイオン、カリウムイオンですが、そのイオンを神経細胞に供給することも大きな役割です。

脳脊髄液は日量500cc程度産生され、その総容量は120~150cc 程度とされていますので、毎日3.5~4回入れ替わっていることになります。

 脳脊髄液の循環原理については、いまだに生理学上完全な定説がなく、良く分かっていないのですが、それでも流れが生じており、毛細血管圧よりもまだ低いレベルということになっていますが、もちろん圧力もあります。

 圧力と流れがある液体が通過する管路に、著しく狭い部分があるとどうなるかというのは流体力学の初歩中の初歩でして、狭くなった部分の流速は上がると同時に圧力の低下が起こります。

 一般的には、ホースの先端を押しつぶすようにつまむと、その部分の水圧が上がって水が遠くへ飛ぶと思い込んでいる人が多いようですが、実はそうではなくて、物理学的には狭くなった部分の圧力が低下した代わりに流速が上がった結果として、慣性によって水は遠くへ飛ぶというのが正解です。

 さて、脊髄神経にも脳脊髄液を通して血液(栄養)成分を供給していますから、脊髄神経鞘と脊髄神経の間のは大変重要な意味を持ちます。椎骨の歪みによってクリアランスの狭い部分が固定化してしまうと、その部分の脳脊髄液圧はさらに低下してしまい、神経細胞への血液成分供給に不足が生じることが懸念されるわけです。

 この問題に関してはまったくと言って良いほど研究がなされていないようで、参考文献等の提示は残念ながら出来ないのですが、物理学的に考えれば間違いなく懸念すべき問題であるということになります。

 それでも、つまり、歪みを抱えたままの状態であったにしても、毎日毎日それなりに不整地を歩いていれば問題はないと思われるのです。

 先ほど、脳脊髄液循環のメカニズムは不明な点も多いと述べましたが、ともすると神経の圧迫を容易に生じさせるほど椎骨間のクリアランスを小さくしているのには、それなりの理由があるはずです。

 それについて、私は次のような仮説を立てています。大型の四足哺乳類と人類は、頭部と脊柱、脊髄の高低差による問題、つまり脳脊髄液の循環を達成するために、わざと歩行時に脊柱をうねらせることによって、脊髄神経鞘を椎間孔の縁で圧迫させる(神経への圧迫は生じさせない)ことによって、物理的にしごくような作用によって脳脊髄液の強制循環を行わせているのではないかと考えています。

 こういった仕組みになっているのだとすれば、仮に椎骨の歪みを抱えていたとしても、人類であれば不整地を歩行すること、四足動物にとっては地形に関係なく移動、歩行さえすれば脳脊髄液の循環は促進され、神経の伝達機能はつねに100%近い能力を発揮するであろうということです。

 この仕組みこそが六大法則のところで説明する金魚運動の効果の一つであると考えられるのです。

 (コラム③)

六大法則

背腹運動

 左右搖振

 こうして、日常生活によって歪んだ状態が固定化されてしまい、神経の伝達に支障が生じてしまうことを解消するために考案されたのが背腹運動です。

 背腹運動とは図のような運動のことですが、背骨を1本の棒のような状態にして、メトロノームの針のように左右に扇状に往復運動させる運動法のことです。

 一言で言えば、脊髄には絶対にダメージを与えずに、脊椎骨をつなぐ靭帯の余計な固着を穏やかにはがす運動ということになります。

イメージの上では、尾てい骨の先にまだ硬いまっすぐな尻尾が付いているという気持ちになって、その尻尾を畳にしっかり差し込んで、その状態のまま絶対に背骨をくねくねと曲げることなく、自分自身がメトロノームになったつもりで規則正しく左右に逆さ振り子のように振ります。この動作を左右搖振と言います。

もちろん、本当に脊柱を硬直させてしまってはいけないのであって、メトロノームの金属性の針とは異なって、脊柱には柔軟性がありますから自然にしなるのが正しいのですが、しならせた方が良いと説明すると、ぐにゃぐにゃ曲げてしまう人が必ず出てしまうので説明の上では、あたかも一本の棒のようにと表現しています。

実際問題、1分間に50~55往復という既定の速度できちんと左右に傾斜させようとすれば、本当に硬直させた状態では運動不能で、実際はわずかにしなっているのだけども、気持ちとしては、一生懸命一本の棒になったつもりで左右に搖振させると、正しくできているということです。

ところが、左右搖振は椎骨間の余計な靭帯固着が原因となる、椎骨間の歪みを除去するためには最適な運動ではありますが、一方で問題も生じます。それは、交感神経の興奮状態を招くということです。

自律神経

 腹部運動の説明に入る前に、重要な関連がある自律神経について簡単に説明します。自律神経については今日では承知している方も多いと思いますが、基本的には自身の意識ではコントロールできない自動制御による神経系統のことです。

 緊張すると心拍数が勝手に上がったり、手に汗をかいたりするといったように、とくにこうしよう、ああしようと意識しなくても勝手に命令を出してくれるのが自律神経であり、その自律神経は3系統存在します。

 交感神経、副交感神経、腸神経系の3系統です。従来、自律神経系は交感神経、副交感神経の2系統とされていましたが、最近では腸神経系も第3の自律神経系として分類するのが一般的です。

 多細胞生物の中でもっとも原始的な臓器である腸の動き、脳や心臓などの臓器を持つ以前の生物でも、腸は自律神経によってその動きをコントロールされてきたわけです。

 もっと正確に言えば、腸神経系こそが第1の自律神経系であり、ただ発見が一番遅かったというだけなのです。 

どれだけ生物として進化しても、その自律性は相当程度確保されているということが比較的最近、ここ15~20年ということになりますが、定説になったということです。

 昔から、交感神経は臓器等の活動を能動的、活発化する作用があり、副交感神経は反対に抑制的に作用する、ただし、消化器官については反対で副交感神経が有意な状態で活発になる、というたように説明されますが、この説明そのものが不適当であると思います。

 こういった考えは腸神経系の存在が知られる前の解釈であって、消化管に関しては基本的に腸神経系の支配を受けながら、進化がより進んだ段階で獲得した副交感神経の支配も併せて受けるようになったと考えられます。

 話を戻しますと、交感神経系は単に活動を活発化させるということではなく、動物的な行動を行う時により有利になるように自動制御しますし、副交感神経系は植物的、これは少し説明が必要ですが、食物を消化吸収するとか、細胞増殖、修復を行うというときに有利なように、いわば植物的状態における効率を良くするための命令を出します。

 不安を感じたり緊張したり、危険を感じると心拍数が上昇しますが、これは、その次の動作、戦うか、逃げるかという選択をした結果として、急激に何らかの動作を始める際には骨格筋の血流量が急激に増大しますが、その際に脳貧血を起こさないために絶対に必要な反応です。

 心拍数を予備的に増加させただけでは、急激な動作をした直後の血圧降下を防ぎきれませんから、さらに動脈血管を締める筋肉に力が入って、急激な骨格筋への血流増大に備えます。

これらは交感神経系の命令によって起こる反応であり、交感神経の興奮状態であるとか、緊張状態であるとか表現します。

また別な作用としては、痛覚を遮断、あるいは弱めることによって、多少の怪我を負っても戦意が喪失しないように配慮してくれます。(コラム、痛覚等の件)

 つまり、交感神経の興奮は戦うか、逃げるかという究極の状況で生存率を上げるための仕組みであるということです。

 一方、副交感神経は、食料確保に成功し、安全を確保した状態で狩猟等の結果得られた食物を食べて少しの無駄もなく消化吸収し、その、食糧獲得の時に負った怪我を修復したり、体力回復の効率を最大限にするような状態に仕向けます。

無意味な交感神経興奮が寿命を縮める

 自然な、原始の世界では、戦いに負けるということは原則的に死を意味します。明日の健康に配慮した結果、今日死んでしまっては何にもなりませんから、戦う時や逃げる時は、その他の能力は犠牲にして全能力を戦いに傾注するわけで、言い方を変えると交感神経興奮時には消化吸収能力や、病気を治す能力は著しく弱まってしまうということでもあります。

 これは、生理学的にも明らかで、交感神経興奮時、つまり、運動をしている時などは、消化管への血液供給量は著しく減じることが知られています。

 別項で解説しますが、人類は消化吸収と運動、戦いを一緒に遂行する能力も仕組みも備えていないわけであって、それが朝食は食べない方が良いという根拠でもあります。

 原始の世界で暮らすのであれば、ドキッと交感神経興奮状態になるということは生存率向上のためにとてもありがたいことであったのですが、今日では、いくら不安を感じ、緊張した状態であっても、命のやり取りになってしまうことは、まあ絶対と言っても良いほどありません。

それでも、生命を守るための仕組みは基本的には何千万年も受け継がれてきた反応ですから、我々現代人にも受け継がれてしまっており、命を取られる可能性がまったくないにもかかわらず、命がかかっているという前提の、命を守るための反応が起きてしまい、その反応が病気を治す能力を弱めてしまっているのです。

 左右搖振動作は、脊椎骨間の歪みを整正するとても優れた運動療法ではありますが、一方ではかなりの筋肉運動であり、それなりの運動をする習慣のない人にとっては、心拍数も血圧も相当上昇させてしまいます。

 前述のとおり、背骨の歪みを整正することは健康を維持回復するためにはとても重要なことではありますが、一方では病気を治りにくくする交感神経興奮を招いてしまうわけで、それを自律神経の仕組みをうまく利用して解消しくれるのが腹部運動というわけです。

 ですから、左右搖振と腹部運動は一体であり、同時に実施すべきであるから「背腹運動」と称します。

腹部運動

 腹部運動は、ただ適当に腹部を出し入れするような動作をすれば副交感神経が刺激され興奮して、拮抗的な関係にある交感神経興奮が結果的に鎮められるということを目的に行う動作です。

 腹部の出し入れの仕方はどうでも良く、と言ってもいい加減で良いという意味ではなくて、好きなようなリズムで好きなように動かせばよい、という意味です。

 それは、腹部を動かすことによってどういう状態にさせたいかということを理解していただければ、その意味が分かってもらえるでしょうし、おのずと動かし方も理解できるはずです。

 まず、腹部を出したり引っ込めたりという動作は何をさせるための動作であるのかということですが、これは腹筋を使って大小腸に動きを伝えるというか、運動による刺激を与えることが目的です。

 とにかく、腹筋を使って腸を物理的に動かしさえすれば良いのですから、好きなように動かせばよいのです。

勘違いしないでほしいのは、動かすと言っても腸の本来の動きである蠕動運動や混和運動的な動作を、自己の意思で腹筋を使って実現しろ、などと無理なことを言っているのではなくて(そんなことができるわけもありませんが)、ごくごく普通に、腹筋を使ってお腹を出っ張らせたり、引っ込めたりという動きをして、その腹筋の動きによって、他人に腹部を押したり緩めたりしてもらうように、外部から腸に動きを与えさえすれば良い、動きが伝われば良いという意味です。

 なぜ、そのようなことで副交感神経の興奮を起こすことができるかということですが、前述のとおり、腸には独立した第3の自律神経系が備わっています。

 この第3の自律神経系はナマコの時代からの自律神経ですから、最低限の消化吸収活動であれば無難にこなせますが、高度な動きをコントロールするような能力はありません。何と言ってもナマコのレベルですから。

 腸神経系は地方自治政府のようなもので、習慣どおりの普通の生活を治めていくには十分な能力を持っていますが、想定外のこと、外国から侵略されたり、内乱状態が起こったような場合には、地方自治政府だけで対応を決められるわけもありません。

 最低限の国境警備の強化、兵士、警察官の緊急招集くらいはするでしょうが、とりあえず攻撃に出るか、必要最低限の防戦をしながら増援を待つか、とにかく正式な中央政府の指令、命令が届くまでは本格的には動くことができません。

 腸神経系はまさにこの地方自治政府であって、食後の休養を取りながらゆっくりと消化吸収活動に専念できる場合には、栄養分を無駄なく余すところなく消化、吸収してくれます。何の問題も混乱も生じません。

ところが、腸神経自身よりはるかに高度な制御システムである、大脳新皮質が健康に良かろうという思考に基づいて行う、腹部の出し入れ運動については正当に評価することはできません。何が起きたのかさっぱり分からないと大混乱に陥ります。

自律神経である腸神経系が判断不能に陥ったからといって、消化吸収活動、内臓全般の働きに不調を生じてしまっては一大事ですから、それを補完するために脳は副交感神経系を通じて、絶えず補正の指示を出し続けることになります。

これこそが意図的に起こした副交感神経の興奮ということであり、腹部運動の目的であるということになります。

ですから、お腹のどの部分を意識的にへこませたら良いか、張り出せばよいかといったようなことにまったく配慮する必要はなく、やり易いように、好きなように、リズムも自由に、ただただ、出し入れをして、お腹を出すという動作が難しいということであれば、引っ込めることと力を抜くという動作の繰り返しであっても、とにかく実行さえすれば良い、ということです。

背と腹を同時に動かすと何が起こる

 西勝造の原本では、左右搖振と腹部運動を同時に行いながら「良くなる、善くなる、能くなる」と唱えると、みるみる健康になるし、願望さえ叶うようになると表現しています。

 そんなことが実際に起こるのでしょうか? できるだけ科学的にアプローチしてみましょう。

 まず、下記にご紹介する文章をご一読ください。

イスラム教徒の世界を見ると、幼稚園児くらいから、コーランを教え込む。それも、体を前後に揺すりながら、コーランを読むように仕込まれる。
 この、体を揺するというのは大変に効果的で、単に読むより体を動かすから、教えが身にしみ、心にしみこむのだ。 ブログ 「雁屋哲の今日もまた」より引用

大ベストセラー漫画「美味しんぼ」の原作者として有名な、雁屋哲さんのブログ「雁屋哲の今日もまた」の2008年8月6日付「パレスティナ問題 その15」の中の一節です。

私が以前テレビのドキュメンタリー番組で視た、アフガニスタンのイスラム神学校、つまりずばり本来の「タリバン」ということなのでしょうが、その神学校の授業風景として映し出された映像では、上体を左右にかなり激しく搖振させながらコーランの暗誦学習にはげむ学生たちの姿が鮮明に記憶に残っています。

宗派、地域によって上体の揺すり方には違いはあるようですが、まさに雁屋さんが言うように、イスラム教徒は少なくとも1千年以上前から、こういった唱え方をすると、コーランが早く、深く覚えられる、ということを経験的に知っていたということでしょうし、歴史的にはもっと古いユダヤ教においてもほぼ同じような習慣があるとのことです。

西式健康法創始者である西勝造は、背腹運動を実践することによって同様な現象が起こるということを言っているのですが、その理由は、交感神経、副交感神経の興奮状態が比較的そろった状態になると出現する、その時に潜在意識にイメージが入り込み易い状況になると考え、説いています。

「良くなる、能くなる、善くなる」と唱えながら背腹運動を行うことによって、良、能、善というイメージ、言葉が潜在意識の奥深くに刷り込まれ、無用な不安から解消され、それが過剰になりがちな交感神経興奮を鎮め、健康に向かって歩み始めることができる、という信念を持つことができるようになります。

 理屈はどうあれ、世界中でかなり多くの人がその現象が存在することを信じており、今日も世界中で実践が続いているということです。

背腹運動は坐禅

 かなり複雑であったかもしれませんがご理解いただけましたでしょうか?脊柱の歪みを取り除くと同時に、交感神経の過剰興奮をも鎮める、というのが背腹運動の目的であるということです。

 ここで、背腹運動の生い立ちとでもいいましょうか、実施するにあたっての心構え、というと少し大袈裟ですが、基本的な精神を知っていただくために説明しておきたいことがあります。

まず、背腹運動は坐禅に通ずるものであること、いや、創始者西勝造はこの動作こそ道元禅師が伝えたかった坐禅そのものであると言っています。

 なにを血迷ったか!という言葉が聞こえてきそうですが、まずこれについて説明させていただきます。

 道元禅師が中国に渡って当時の最新中国仏教を学んだのは、西暦1223年から1228年の5年間とされています。

 一方、お釈迦様の生誕年には諸説があるようですが、およそ紀元前400~600年頃ではないかとされています。その仏教の教えがインド奥地のネパールに近いよう地域で広まり始めたのも、おおよそ、その頃、あるいはその後有能な弟子たちによって、インド北部の近隣地域に教えとして広まり始めたのは、たぶん、その後数十年から百年、2百年後といったところではないでしょうか。

 その仏教が中国に伝わったのは、もちろんかなり大ざっぱな話ということにはなってしまいますが、1世紀のことではないかとされています。

 インド北部(現在はネパール南中部)で発祥した仏教は、その主流は南方の海岸沿い経由で、パキスタン(現在はバングラデシュ)→ミャンマー(旧ビルマ)→タイ→ラオス→カンボジア→ベトナム、一部はラオスを経由して中国に伝わったものと思われます。道元禅師が留学した現在の中国抗州市付近は、中越国境からは1500~1600km 離れています。

また、インド北部の仏教発祥の地ルンビニー付近からの距離となると、道のりでは4500~6000km はあり、その距離を伝わるのに4~5百年は要したということになりますから、時速ならぬ年速にすると、およそ10㎞ / 年ということになります。

 一方、ユダヤ教の発祥は、どこまで正確なのか、また何をもって成立したと判断するかはとても難しいと思いますが、一応紀元前1280年頃ということになっているようです。

 ユダヤ教は戒律が厳し過ぎたのか他地域にはほとんど広まりませんでしたが、その教えの多くを生かした一部はイスラム教へと変遷していきました。

 最終的にはイスラム教と呼ばれるようになり、別な宗教と分類されるようになった原因はモハメット(最近はムハンマドと英語発音に近い表記がなされることが多いが、アラビア語の発音ではモハメッドというのが一番近いようです)がコーランという形で、追加の経典と呼ぶべきなのでしょうか、追加の戒律集を著したことによるのでしょう。

 そして、そのモハメッドは西暦570年頃に生まれ、 632年に没したとされており、その教えはかなりの速度で(ペルシア人は交易を得意としていたからでしょうか)東方へ伝えられています。

 中国におけるイスラム教は「回教」とも「回々教」とも呼ばれ、今日でも新疆・ウイグル地区では、昔から住んでいる住人のほとんどがイスラム教徒です。

その起源は、対外交易が盛んであった唐の時代(7~8世紀)から元の時代(13~14世紀)にかけて、中央アジアインド洋を経由して渡ってきたペルシャ人(現在のイラン人。余計なことですが、イラン人はアラブ人と呼ばれることを容認しません。必ず、自分らはペルシャ人であると言います)ルートが中心となって伝わったものと考えられています。

 このルートにおける中国側の中心都市は北宋の開封市付近であり、道元禅師が留学した南宋の首都である抗州市とは、距離にして7~8百 km 程度ですから、ラクダに乗らない中国社会で、しかもまだモンゴル族の全中国制覇がなされる前であれば、思想、宗教伝播の速度10km/年 の法則もほぼ適用できそうです。つまり、100年程度の時間があれば十分に伝わるのではないかと考えられます。

 道元禅師が抗州市付近で習った最新の禅宗が、イスラム文化の影響を受けていなかったとはだれも断言できないはずですし、とにかく、経典を早く覚えることができる修業法なのですから、知ってしまった以上取り入れない方が不自然であると思います。

禅宗の説明

 次に一般的な禅宗としての解釈をご紹介します。永平寺に伝わる、坐禅の実行法に関する文献は有名な「普勧坐禅儀 」という、道元禅師が当時の中国語(つまり『漢文』ということです)で著した文献を根拠としています。

 その漢文のうち、坐禅の動作といいましょうか作法について言及しているのは次の部分です。

乃正身端坐、不得左側右傾、前躬後仰。要令耳與肩對、鼻與臍對。舌掛上腭、脣齒相著。目須常開。鼻息微通。身相既調、欠氣一息、左右搖振。兀兀坐定、思量箇不思量底。

 これを翻訳しますと、次のようになるのだそうです。

乃(すなわ)ち正身端座(しょうしんたんざ)して、左に側(そばだ)ち右に傾き、前に躬(くぐま)り後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ、耳と肩と対し鼻と臍(ほぞ)と対しめんことを要す。舌、上の顎(あぎと)に掛けて唇歯(しんし)相著(あいつ)け、目は須(すべか)らく常に開くべし、鼻息(びそく)微(かす)かに通じ身相(しんそう)既に調えて欠気一息(かんきいっそく)し、左右揺振(さゆうようしん)して兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)して箇(こ)の不思量底(ふしりょうてい)を思量(しりょう)せよ。

 まだ現代人には難し過ぎますから、さらに現代口語訳に直すと次のようになります。

そして背筋を伸ばし、左に曲がったり、右に傾いたり、前にのめったり、後ろに反り返ってはいけない。耳と肩、鼻と臍がそれぞれ一直線上になるようにする。舌は上顎につけ、口は閉じて唇と歯が離れないようにする。目は必ず開いておくようにする。 呼吸は鼻から静かにする。以上で身体の姿勢が調った。そこで、口を少し開けて深く息を吸い 込み、腹の底からゆっくりと吐き出す(2、3回程度)。 そして左右にゆっくり身体を揺らし(はじめは小さく次第に大きく10回から20回程度)、坐が落ち着いたところで静止し、不動の姿勢で山のようにどっしりと坐り込む。そして見れば見たまま、聞けば聞いたまま、思えば思ったまま、ただ鏡のように、少しも選り好みせず、善悪を分別しないこと。

となるのだそうですが、具体的な動作の説明は、『左右搖振。兀兀坐定』というただの8文字だけなのです。

ところがこの8文字に、いつの間にか

「そして左右にゆっくり身体を揺らし(はじめは小さく次第に大きく10回から20回程度)、坐が落ち着いたところで静止し、不動の姿勢で山のようにどっしりと坐り込む。」 

 

という文言が加えられた、ということになります。説明が十分でないからか、言葉を補わないと意味が通じないと思ったからか、その後、高僧と呼ばれる方々がご自分の行っている坐禅の作法、動作を正当化するために解説を加えたと解釈するしかありません。

では付け加えるべき内容について道元禅師に質問した人がいるかというと、そのような方が存在するとはとても思えません。

そうなると、肝心なことは『左右搖振。兀兀坐定』の意味をもう一度、考えてみること、永平寺の歴史の中でいろいろな事情によって付け加えられたであろう解釈ではなく、道元禅師が中国語で残した文献の正確な翻訳を試みることが一番重要ではないでしょうか。

「左右搖振」の解釈については議論の余地はないようです。実際に左右に振るという動作で、西式で言っている左右搖振動作のことですし、これを禅宗では「左右にゆっくり身体を揺らし(はじめは小さく次第に大きく10回から20回程度)」と説明が追加されています。

この動作について一般的な禅宗の解釈では、「不動の姿勢で瞑想に入る前に最も安定した姿勢を得るために、左右に振って落ち着きどころを探すため」といった解釈が一般的なようですが、それなら前後にも振ってみなければいけないはずで、左右に振るだけで良いということにはならないはずです。

また、単漢字としての「搖」という文字には、「ゆらゆらと揺れ動く」というニュアンスがあり、位置決めのためだけに数回動かすというイメージを表現したいのであれば、最適な漢字、説明であるとは思えません。

兀兀坐定

次に『兀兀坐定』の意味ですが、ここが最大の論争点になります。といっても、西勝造解釈はほとんど誰も知りませんから、正確には論争にはなっていませんが…。

インターネット上の「ニコニコ大百科」には次のような解説があります。

兀の意味成りたちは;「高して上らかなるなり。人の上に一在るにふ」とあり、の上に一を置く事で、地形のことをいうとしている。白川静(日本の漢文学者・古代漢字学で著名な東洋学者;著者注)は、髪の毛を剃り落とした頭の側面の形だとする。を組み合わせた髠という字は髪の毛を剃り落とす刑罰という意味である。また正面から見た形がであるという。刖(ゲツ、足切りの刑)と音が通じて足切りの意味も持つ。

またGoo 辞書では、

兀兀;地道に働くさま。たゆまず努め励むさま。「~と勉強をする」

という解説が載っています。ただし、この意味で使う場合には「矻矻」という文字を用いる方が一般的なようで、「兀兀」(この発音はあくまでゴツゴツということになっており、本来はコツコツではない)は発音が似ているために誤用されたものではないかとも思えます。

その他の漢字の意味などを説明しているインターネット上の辞書類には、文字は紹介されていても意味についての解説は出ていないようです。というわけで、実は定説そのものが存在しないということになります。

では、実際に中国人に訊ねてみると、どういう答えが得られるであろうかというと、「兀兀」という文言は現代中国語ではまったく使われていないのだそうで、お知り合いの中国人、または中国語に堪能な方に聞いても解らないと言われてしまうと思います。

私も娘の友人で大変教養レベルの高い中国人留学生、カナダの大学でバイオテクノロジーの博士課程を修めるために留学している中国人ですが、その方に西式のことなど一切の予備的な説明なしで『左右搖振。兀兀坐定』とはどういう意味か?どういう動作を現わしているのか?と娘を介して聞いてもらったことがあります。

その時の回答が、「現代中国語では使われていない文字なので、正確なところは分からないし、間違っているかもしれないが」という但し書きは付きますが、彼は「身体を左右に振って、不安定な状態ではありながら安定して座る」といったようなイメージを指しているのではないかと思う、という回答でした。

高級エンジニアであった西勝造にとって、静止状態で完全な安定状態を得ることはどのように修業を積んだところで絶対に不可能であり、回転する独楽のように規則正しい運動の中にこそ、動いている中にこそ真の安定は存在する、と考えたものであろうと私は解釈しています。

背腹運動実践上のコツについて

次に実践上のコツと言いましょうか、ポイントについての解説をします。基本的には本当の坐禅をするつもりの心構え、ゆったりと構え、前傾してもふんぞり返るようでもいけません。

一から十まで、本書だけの解説で正確に実行していただくということになりますと、必要な文字数が倍以上に及ぶ可能性がありますから、古典的な内容ではありますが今日でも出版されている、「原本・西式健康読本」(農山漁村文化協会発行)、「西医学健康原理実践宝典」(西会本部発行)、「西式健康法入門」(平河出版社発行)と併読していただければさらに理解度は深まるものと思われます。

座り方

そのまま30分間正座しておれと言われても、姿勢を改める必要がないような安定した正座姿勢が運動開始前の姿勢ということになります。正座は、足の親指だけを重ねた状態での正座とし、土踏まずのところまで重ねては絶対にいけません。

西式健康法の歴史も大変長いため、一部に足の親指を重ねると微妙にバランスが狂うから、足の親指を重ねてはいけない、足の親指の先端部を接触させるだけ、といった指導を西勝造から直接を受けた方もいたようですが、微妙なレベルでの脊柱のバランスを考えればそうあるべきだとも言えるし、ある程度筋力がある人でないと、足の親指を重ねないことによって運動実施中に、足の間隔が開いていってしまい尻が踵の間に落ち込んでしまうようだと、逆に正しい運動姿勢を維持できなくなってしまうことになります。

ですから、基本的には足の親指を重ねた方が現実的ではあるが、相当な筋力を有しており、足の親指を重ねずとも10分近くの運動中にいささかも、足のつま先が離れていくことがないという人であれば、重ねないことによってわずかではあるけれども、より理想に近い動作に近づくと考えていただけば良いでしょう。

手の置き方、位置

手は、膝頭を掴むようなことにならないよう、力を抜いた状態で、手掌を下向きにするのではなく、手掌の外側(小指側)を大腿部に接するように、親指を上側にして手掌を立てた形で大腿部上に置きます。手、腕には力を入れません。

また、手を置くことによって前傾、後傾姿勢となっては絶対にいけませんから、おのずと手と大腿と直接接する部分は小指と薬指の指頭ということになります。ひざなどが痛くて正座が困難な人の実践法はあとで説明します。

左右搖振動作をする時には、腕の力を使うな、前傾、後傾姿勢にならないように常に注意せよ、ということですから、本当にすべてのポイントを了解している人であれば手はぶらぶらさせていても一向に構わない、ということになります。

呼吸について

 腹部の動かし方は、出し入れするということであり、コツとしては「呼吸とは関係なく、好きなように動かせばよい」というように表現されています。

しかし、この説明だけを聞いて、すぐに正しく実行できる人はほとんどいないのではないかと思われます。

文字通り、「呼吸とは関係なく、好きなように動かせばよい」のですが、多くの方が「呼吸とは関係なく」という言葉にとらわれ過ぎて、呼吸のリズムとは別なリズムで動かさねばいけないのかと誤解してしまい、ぎくしゃくとした動きになってしまいがちです。

この言葉の意味、「呼吸とは関係なく」という言葉には歴史的な問題が絡んでいます。現在ではあまり「呼吸法」という言葉を聞くことはありませんが、明治~昭和初期は呼吸法と総称される健康法の最盛期でした。

岡田式正坐法、藤田式息心調和法、式腹式呼吸法などが今日でも名前が残っていますが(たぶん、これら呼吸法の実践者の方々からすれば、西式も今日でも一応名前は残っているなどと言われてしまうのでしょうが)、とにかく呼吸法が大ブームになっていました。

つまり、西式の背腹運動を習得しようとする多くの方々から、「なるほど、それで呼吸はどのようなリズムで行うのですか?中心にある時に鼻から吸って、左右に傾いた時に短くハッ、ハッと口から吐けば良いのですか?」というような質問が必ず出るので、わざわざ「呼吸とは関係なく」という説明がなされるようになったのです。

呼吸と左右搖振、腹部の出し入れの動作のリズムを関連させる必要はない、呼吸は自分のやり易いように、息が苦しくならないようにということだけ気を付けて、自由にやりたいように行えば良い、ということを言いたいだけですなのですが、呼吸法そのものの認知度が著しく低下した今日では、この説明のためにかえって混乱してしまう場合がある、ということです。

もっとも、呼吸と動作を同調させてはいけない、あえて別なリズムで行えということでもまったくありませんから、今日に最もふさわしい説明としては、「呼吸のことは一切意識する必要はありません」と言えば良いことになります。

左右搖振

 従来の西式健康法の解説書では、イメージの持ち方と実際の動作上の注意がごっちゃになってしまっている傾向があり、混乱する方も多いようです。

 イメージとしては、脊柱をあたかも一本の棒のような状態にし、尾てい骨を支点として左右均等に、逆さ振り子(機械式メトロノームの振り子)のように交互に傾斜させる、ということです。

 ここでのポイントは「あたかも、一本の棒のように」であって、「背筋に力を入れて、脊柱を硬直させて実施せよ」という意味ではないということです。

 辞書によれば、「あたかも」は、「あるものが他によく似ていることを表す」という意味で、さらに「ように」ですから、似ているけれども異なる状態であって、脊柱を個直させて本当に一本の棒にしては絶対にいけない、ということです。

 実際のところは、脊柱のどこかを曲げるから振り子運動ができるわけなのですが、「曲げて振りなさい」と言ってしまうと、頸椎、胸椎部分でくにゃくにゃ曲げてしまう人が出てしまうので、頸椎、胸椎部分は絶対に曲げてはいけない、腰椎のできるだけ下の部分(解剖学的には無理な注文で、ここはあくまでイメージということですが)を曲げて、逆さ振り子運動をしなさい、という意味になります。

 たまに、「一本の棒」という文言に忠実であろうとするあまり、左右に傾けるたびに意図的に片尻を浮かせて「一本の棒」状態を実現しようとしてしまう人がいますが、これは完全に誤りということになります。

 西勝造の初期の著作にもこれに関する注意書きがありまして、「左右に傾ける際、尻が浮いてしまうことは一向にさしつかえない」というのがあります。

その方の、これ以上傾かないという限界を超えて、必要な傾斜角まで曲げる際に、尻があとら着いていく形で浮いてしまうことは構わないが、という意味ですから、逆に尻を積極的に浮かせては絶対にいけない、という意味でもあります。

傾斜角

 傾斜角度を計測すれば垂直から○○度以上傾斜させるということになりますが、角度をお教えしたところで実践上の役にはまったく立ちませんから、現実的なガイドラインについてご説明します。

 脊柱の後側、ちょうど正座している状態の脊柱の真後にイメージ上の棒を立てます。身体を傾けていっても、イメージ上の棒は残りますから、そのイメージ上の棒よりも肩がやや入る、というか肩が通り過ぎるところまで傾斜させるのが、正しい傾斜角ということになります。

 実際に鏡に向かって、壁紙の垂直方向の模様であるとか、家具の縁の真前に脊柱が位置するように着座して、傾けていき、肩の角の部分と言いましょうか、先端部がイメージ上の線と重なるかやや過ぎたあたりという角度が、求められている傾斜角です。

速度

 速度は前述のとおり、一分間に50~55往復させます。ただ、1分間に何往復という速度の目安は、これまたあまり実用的な表現ではありません。1分間を計りながら1回、2回と数えていっても、途中のペースが微妙に変わってしまっても判らないし、途中のペースを管理するにはあまり有効な目安ではないということです。

 そこで、現在ではメトロノームでペースを確認しながら実践することを推奨しております。メトロノームの表示は往復数での表示ではありませんから、50往復のペースを知りたければ、100のところに合わせます。

背腹運動のペースメーカーとして機械式メトロノームを使用する場合に、対象となる速度記号の目盛には、100、104、108の3種類しかありませんから、50、52、54往復の速度しか示してくれません。

一方、電子式メトロノームでは、通常100、101、102~110と1ピッチ刻みでのペース表示が可能で、数値を1ピッチずつ変えていくことができますからより好都合であると思われます。

できるだけ早く済ませようと、傾斜角を浅くしてペースだけあげるようなことは避けて、十分な角度を常に確保しつつ、できるだけ早い速度で実施するよう心がけ、練習を重ねていくという形で理想的は背腹運動ができるようにしていきましょう。

腹部の動かし方

次に腹部の動かし方について説明します。コツは腹筋に力を入れたり緩めたりして、物理的な動きで腸を動かすということです。

すでにご説明したように、動かし方はご自分が行いやすいようにすれば良いのですが、それでも平均的な実行しやすさを説明するならば、搖振動作中の真ん中地点(体が垂直状態)で腹部を引っ込め、左右傾斜の最大傾斜地点では、腹部を押し出す、ということになるのですが、多くの方は押し出すという意識を持って腹部を動かそうとすると、左右搖振運動がぎくしゃくしてしまいがちです。

ですから、腹部を押し出そうとするのではなく、中央に来たら(直立状態)きゅっと腹部を引き締めへこませて、中央を過ぎたら腹筋の力を緩める、ということから練習を始め、動作が身についてきたら、少しずつ押し出すということも意識しながら腹部運動を行うようにすると良いでしょう。

腹部運度のコツ

どのように動かすべきかということをいろいろ言葉を変えながら説明するより、原理を理解していただくのが一番ですから、原理を忘れてしまった方は○○○ページの「腹部運動のところを読み返してください。

動作に妙なクセがつかないようにするというのが結構重要ですから、無理に左右搖振と腹部運動を同時に実行しようとはせず、規則正しい左右搖振と腹部の出し入れを各々別に練習した方が良いのではないかと思います。

同時にやろうとしてぎくしゃくしてしまうような時には、まだしばらくは本格的に背腹運動をしようと思わない方が良いかもしれません。まず、左右搖振動作をしっかりと体に覚え込ませましょう。

椅子に腰かけての実践法

次に、膝であるとか足首、股関節を痛めている方で、正座姿勢が辛い方は椅子に腰掛けても実践が可能ですので、その方法について解説します。

椅子に腰かけて実行する際には、まず、動きが制限されないようにひじ掛けが付いてなくて、座面が平面に近い形状の椅子を選んでください。

やや浅く腰かけると同時にひざを大きく、少なくとも正座姿勢の時より大きく広げます。正座の時と比較して、両踵による安定した支えがありませんのでやや広めに広げないと、上体をうまく安定させることができません。

また、どのような状態でもエネルギー節約プログラムは作動してしまいますから、うっかり漫然と行っていると、腕の力を動員してしまったり、大腿筋を使ってしまいそうになりますから、意識して、できるだけそれらの筋肉を使わないようにします。

脊柱を支える直接的な筋肉、大腰筋、内外腹斜筋等を極力使うように意識しながら行えば、効果は正座の場合と比較してもあまり変わらないとされています。実施回数も同じで構いません。

準備運動

 説明が最後になりましたが、この背腹運動には準備運動があります。準備運動は左右搖振動作では、十分にカバーしきれない頸椎を満遍なく動かしてやる運動です。

 速度は、メリハリの付いた動きの中でできるだけすばやく、という言葉が一番適切であろうと思います。

 メリハリがある動きとは、肩の上げ下げであれば、肩がもっとも上にあがった時、肩が最も下がった時に一瞬停止する時間があるということです。

 この表現でピンとこない方であれば、昔大流行した、と言えるのかどうか判りませんが、コメディアンの志村けんさんの「ひげダンス」の動きは一瞬も動きが止まる瞬間のない、言わばメリハリがない動作ということです。

 また、古い西式の書籍には、およそ1分間程度で準備運動は終えるように、というペースの目安が書かれていますが、このおよそ1分というのは、昔、普通の家庭には秒針付き時計などない時代の目安としての1分です。

当時は、だれでもが秒針で正確に1分を計れるなどということは想定しておりませんでしたから、かなり大ざっぱな1分ということであり、勘違いして1分以内で無理に終わらせようとすると、メリハリのないやたらと忙しい動作になってしまいますから注意してください。

平牀・硬枕

 次に、平牀・硬枕について説明します。平牀・硬枕は必ず用いなければならないという性質のものではありません。背腹運動が正しく、毎日実行できる方であれば本来は必要ない、と言っても差し支えはないでしょう。

 ただし、背腹運動の実践が正しくできない人、正しく実行する能力はあるものの諸般の事情で実践しきれない方にとっては、大いなる助けになる道具ということになります。

平牀の目的と注意点

 腰を痛めた経験のある人は背腹運動が上手にできません。俗にいう腰痛持ちの人は、本能的に腰をかばってしまう、つまり、二度と神経に対する重大な問題が生じないように、腰椎を曲げないよう、本能が動きを制限してしまいます。

 腰を痛めて歩けない、走れないというのは、考えてみれば野生の世界では致命的な要素であって、一度でもひどい腰痛を経験した方は、椎間板ヘルニアでも俗に言うぎっくり腰であっても、二度と起こすことがないように、神経を圧迫したり、神経に瞬間的な強い打撲を与えることがないよう、腰椎の曲げ可能角度を制限してしまうのです。

 つまり、背腹運動のポイントである、腰椎を左右に曲げて逆さ振り子運動を行うという根本の部分ができないわけです。

 それでもやってみてもらうと、腰椎部分は殆んど曲げずに、胸椎の部分を曲げて何とか似た動作をなさろうとはしますが、チマチマした動きにしかなりません。(要挿絵)

 これでは、背腹運動としての効果はほとんど期待できませんから他の方法を併用する必要が出てくるわけです。

 それが六大法則の平牀寝台であり、硬枕利用というわけです。平牀を用いるということは、脊柱の歪みを重力と平面を利用して矯正するということです。

 オリジナルの表記は「平牀」ですが、今日では略字である「平床」という文字を当てることもあります。

脊柱のような複雑で、複数方向に稼動可能なジョイントが連係して連なった構造物は、その一要素をそろえてやると、他の部分も自然にそろってくる性質があります。

ですから、平牀の上で仰向けに寝ていると、単純に力が作用する前後方向の歪み、わずかなずれが正されるというより(というより、脊椎骨が前後にずれることはほとんどなく、もしあれば明確な症状が出ます)、左右の傾斜ねじれが矯正されてきます。

ただし、5~10分程度でも良いのかというと残念ながらそれではダメで、少なくとも平牀上で寝込んでしまう必要があります。

睡眠状態になると睡眠という状態がおよそ1時間半ごとに出現します。睡眠とは何かというと、「Rapid Eye Movement Sleep」の略語で、日本語に直訳すれば「素早く眼球が動く睡眠」という意味です。

状態を表しているだけの名称ですから、内容についての説明が必要になりますが、この眼球がまぶたの下でせわしなく動いている状態での睡眠、つまりレム睡眠時は骨格筋の力が緩み、脳の情報整理をしている睡眠状態であるとされています。

ですから、レム睡眠の時に平面上で仰臥して寝ていれば、自然と重力によって歪みが矯正されてくるということであって、歪みが少なくなってくる状態の中で日々背腹運動を練習していれば、徐々に背腹運動も正しく実行できるようになってくる、ということです。

なぜベニヤ板を使うか

よくいただく質問は、家はフローリングの部屋ばかりだから、フローリングの部屋でそのまま寝れば平牀を使わなくても良いですよね?わざわざ、ベニヤ板を買わないといけませんか?といったご質問です。

脊柱の矯正を行うということだけを目的とするなら、答えはYESということになりますが、常に平行して存在する他の要素についても配慮しないと、健康を得ることはできません。

ちょっと、考えていただきたいのですが、あなたの体温はどこが熱源となって、どうやって体温を調整しているかご存知ですか?

多くの方々が「低体温は万病の元、身体を温めれば万病が治る」といったほとんど科学性のない理論でも納得してしまうようですが、ここで一度考え直してみましょう。

死んでしまった人の体温は、およそ十数時間経過後にはほぼ室温と等しくなりますが、これは生きている人間は熱産生を行っているという証拠です。

考えてみたこともないが、言われてみれば当たり前、だから何だ?という声が聞こえてきそうですが、ではどこが熱源となって体温が維持されているのでしょうか?ということです。

 正解を先に言ってしまうと、そのほとんどは筋肉によって生み出されます。正確な測定は極めて難しいようで定説はないようですが、およそ80%強は筋肉が動いた時に発生する熱であるとされています。

 また肝臓内で休みなく行われる各種の化学反応によっても、15%程度の熱が発生しているとされていますし、私独自の仮説ということになりますが、少なくとも残りの2~3%は腸内細菌による分裂、発酵による発酵熱であろうと思われます。

 睡眠中であっても、心臓と小腸以降の消化管、呼吸するために胸郭を広げたり、縮めたりするために筋肉は休みなく働いていますが、それら筋肉の活動レベルは睡眠中には最低水準におかれていることになります。

 睡眠中は熱の発生量が下がるから体温も下がってしまい、低体温で健康に良くないから湯たんぽで温めないと、というのは変温動物である爬虫類や両生類に対する健康法であって、恒温動物である哺乳類にはまったく当てはまりません。

 熱産生量の大小、発汗量や着衣による熱の放散量を調整し、常に体温を一定に保つから恒温動物と呼ばれています。もちろんここで維持するのは中心部体温であって、手足など先端部の重要な器官がない部位の温度が低下するのは珍しいことではありません。

しかし、それは手足の温度を低下させて主要内臓の温度を維持し、機能低下を起こさせないように中心部体温を維持する仕組みになっているということです。

中心部体温(左心室から出た直後の血液温度と等しい)を一定に維持する仕組みは精密であり、熟睡中でこそやや低下しますが、起きて活動している間は中心部体温低下を許すことはありません。

 さて、話が横道にそれてしまいましたが、睡眠に落ちると熱産生量は低下します。低下したら熱放散量を減らさないと体温を維持できなくなります。

 体温が維持できなくなるということは、中心部体温が低下して病気になるかというと、それほど情けない、お粗末な制御システムで生かされている訳ではありません。

実際に体温低下が起きそうになると覚醒させられてしまう、つまり目が覚めてしまうということになります。

脊柱をまっすぐにするということは極めて重要ですが、だからといって熟睡を妨げられてしまったら交感神経興奮が収まらず、病気を治す仕組みが作動しないということです。

ですから、張り合わせた薄板の間に空気をいっぱい含んだ、非常に断熱性の高い合板であるベニヤ板一枚を敷きましょう、ということになるわけです。

十分な断熱効果があり、温かい時期には適度に汗も吸ってくれる素材、なおかつ価格も安いということでベニヤ板を敷くということになっているわけです。

見た目も良く、もっと快適性の高い素材があればもちろんそれで良いのですが、なかなか見つかりません。

硬枕

木製のものが主流ですので、別名「木枕」とも呼ばれています。形状は丸太を半分に割ったかまぼこ状です。昔、多くの家庭で炊事、風呂焚きに薪を使っていた時代に、薪割りの過程でちょうどうまく半分に割れたものがあったらそれを使いなさい、というものでした。

今日では、まったくと言って良いほど薪割りをしませんから、それ用に製造された製品があります。中空で軽く、桐材の張り合わせですから素材がひび割れすることもほとんどありません。

なぜ、硬枕の利用を推奨しているのかというと、それは脊柱の生理的形状どおりに無理なく脊柱(頚椎部)を支えるためです。

一般的に、柔らかい寝具を使用している時、布団であったりベッドマットレスなどがありますが、それらは身体の凹凸に合わせて変形してくれるので、ある面とても快適とも言えますが、脊柱をできるだけまっすぐに保持するという面では不向きです。

脊髄周囲に不自然な力が加わらないようにするために、かえって筋肉の緊張を招くことも多々あります。

頸椎にはもともと生理的湾曲という曲がりが設定されており、運動時などに衝撃的荷重が身体に加わった際、大切な脳にその衝撃が及ばないようにクッションとして作用する構造になっており、それが生理的湾曲と呼ばれる、頸椎のカーブです。

柔らかい寝具と柔らかい枕の組み合わせは、就寝中の骨格姿勢にいろいろと問題が生じるものの、それらがそれぞれ柔軟かつ任意に変形することによって、表面的なタッチとでも言いましょうか、当たりは優しくなります。

ただし、平牀というほぼ完全な平面上で寝た場合には、寝具側は一切の変形をしてくれませんから、頸椎部分も反対にきちっと支えてあげないと無理がかかるようになってしまいます。

そのため、平牀を用いるのであれば併せて硬枕を使用した方が、脊柱はより自然な形状でいられる、ということになります。

今でもそうしているのかどうか知りませんが、和風旅館ではウレタンフォームマットレスの上に、さらに分厚い敷布団を敷いてくれたものですが、あそこまで軟らかいと硬枕はほとんど効果がないと言いますか、使用する意味がありませんが、薄い敷き布団や、今日風のかなり腰のしっかりしたベッドマットレスであれば、硬枕の使用により頸椎の歪みや、肩コリには有効である場合が多いです。

肩コリや、一部の頭痛(表面からマッサージ的に揉み、擦ると少し楽に感じる種類の頭痛)は、頭部を支える筋肉の強い疲労であることが大部分です。

万が一にも椎骨端が神経を圧迫して重大な事態に至ることがないよう、無意識にそれらを支える筋肉に力を入れ続けた結果が筋肉のコリという現象です。

ですから、硬枕を使用して頸椎を生理的な状態、姿勢を維持することができれば筋肉が力を入れ続ける必要はなくなります。つまり、硬枕の使用によって肩コリが解消する方も多いということです。

ただ、神経と頸椎の関係は大変複雑ですから、硬枕を使用することによってほとんどの方の肩コリが解消する、というわけにもいかないことはご了解ください。

金魚運動 

 金魚運動には二つの目的があります。一つは、脳脊髄液の循環促進であり、もう一つは消化器官を中心にした内臓に対する作用です。

 一つ目に関しては、「脊柱に歪みが生じると何が問題か?」の項で概略の説明はしましたが、背腹運動の実行は始めたが、まだ上手に実行できないから、日々新たに生じる脊柱の歪みをとても解消しきれない、ことに対する対策です。

 また、平牀硬枕の効果で、歪みはずいぶん解消されつつあるが、まだ完全ではないという時に、残った歪みによる害を軽減する方法として金魚運動があります。

 背骨をうねらせて脳脊髄液の循環を促進し、脊椎骨の歪みよって生じる脊髄神経周辺の循環の不完全である

状態による悪影響を軽減するわけです。

 第二の目的は消化管に対する効果を目的としたものです。食べた物が咀嚼され、胃に送られ、十二指腸を経て小腸(空腸)へと送られていくわけですが、小腸内を通過中の消化過程の食べ物は「」状と表現されますが、これはかなりゆるい、水分の多い粥という意味です。

 小腸は2層からなる筋肉を使って消化中の食物の栄養素吸収と、先へ送る搬送を行っています。混和運動によって食物を満遍なく小腸内壁に触れるようにして吸収を促し、一定の混和運動が終了すると、その先へ蠕動運動によって搬送します。

 小腸の筋層はとても薄いもので、例えば粘土のようなものを捏ねたり、先に送っていくほどの大きな力を出すことはできません。

 それを補うために、各種消化液、分泌液を加え、十分に水分を蓄えた状態、内容物を緩い粥状にして搬送しやすくしています。

 さらに、搬送を楽にするためにもうひとつ工夫がありまして、それは小腸自身が微妙に位置を変えたり伸び縮みして、さらに搬送を楽に行えるようにしているということです。

 腸が伸び縮みするといっても、大したことはあるまいとお考えになる方もいるかもしれませんが、活発に消化吸収活動を行っている小腸の動きは想像を超えています。

 一般的に大小腸合わせた長さは、人種によってもいくらか異なるが8mとか10m、本によっては11mと書いてある本もあります。しかし、きちんと但し書きが付いた書物を読むと、その数値は「死体解剖時の長さ」である旨明記されています。  

それでは生きているヒトの大小腸合わせた長さはどのくらいかというと、その1/2~2/3程度であるとされています。

大腸はあまり伸び縮みしませんから、その伸縮のほとんどは小腸の消化吸収活動に起因するものであり、その小腸が自由に伸び縮みできるようにさせて、内容物の搬送を順調に行えるようにするためにはいささかの工夫が必要です。

まず、哺乳類の消化管配置は基本的には四足状態、つまり胴体が水平になっている状態で都合が良いように設計されています。

消化管は内容物の通過、搬送ができるだけ障害なく行われるよう、重力に逆らうことがないよう、腹部の表面側(腹筋側)に配置されています。

四足動物の通常姿勢であれば一番下面にホースがとぐろを巻くように配置されており、ホースが垂れ下がって、重力に逆らって登るような配置にはまったくなっていません。

緩い粥状の中身を、重力に逆らって持ちあげ、搬送するというのは大変な力、無駄な力が必要だからです。

しかし、ヒトは立っていようと座っていようと、多くの時間は胴体を垂直方向に向けていますから、いつも小腸をかけ具に引っ掛けたような状態で、重力に逆行して消化途中の内容物を送っていかなければならないこともあって、搬送効率が極めて悪いのです。ですから、ヒトは消化管内内容物を順調に送っていくのがとても下手です。

そこで、一般的な四足哺乳類が歩くたびに腹部内部に生じる動きを、いくらかでも再現してやらないと大きな支障が生じることになります。

脊髄周りの循環を促進するための運動法である金魚運動は、同時に消化管をも揺り動かすことになりますから、四足動物が小腸に対して常に行っている、歩行によって生じる消化管活動への補助動作でもあることになります。

また、小腸は自身でわずかですが位置変えをして、さらに内容物が移動しやすいように補助している訳ですが、内臓と内臓の間には一切の空間はなく、押し合いへしあいしていますから、外部からの力が加わらないとなかなか自由に活動することができません。

 この金魚運動も、人が直立するようになってしまったことによって生じる問題を解消するための方法論であるということです。

金魚運動実施上のコツ

 金魚運動は、できる人はすぐできるようになるし、できない人はどうご指導してもなかなか完璧な形にならないことが多いのです。

 私自身、いきなりできてしまいましたから、どうやったら、できない人をできるように指導できるのか、ということが良く分かりません。

 最初はできなかったのに、努力、工夫した結果できるようになった人に教わるのが一番良いのでしょうが、自転車に乗るのと同じで、ひとたびできるようになってしまうと、あれほど苦労した失敗の記憶は飛んでしまうことが多いようで、金魚運動の指導ならあの人に任せておけばとか、あの指導法が、というような指導名人にも、指導法にも出会ったことがありません。

 うまくできるようになるコツとは関係ないのですが、要点をいくつかあげますと

①一番動かしてやりたいところは胸椎部分です。ですから動きやすいところ(頸椎、腰椎)が自由に動く状態のまま実施すると、動きにくい胸椎部分がますます動きにくくなってしまいます。

そのため、手は指の股同士が密着するくらいまでしっかり組んで、首の後ろに当てます。後頭部ではなく首の後ろです。ですから、組んだ直後は肘がやや前に出た状態になりますから、その状態から肘をぐっと押し広げるように、両腕を床面と水平になるようにします。

次にやはりぐらぐらと動きやすい足首が動かないように、足のつま先を手前側に倒して(つま先を伸ばして、背伸びをする時とは反対側に反らすという意味)足首をしっかりと固めます。

②力の入れ方が分からないうちは、背筋に力が入り過ぎて背中が床面から大きく離れて、アーチ状になってしまいがちです。そうならないように、意識して背中全面を床面に付けたままで運動を行うように心がけてください。背筋に力が入って背中が反り返った状態だと、脊椎のスムーズな動きの妨げになります。

③あとは、魚が泳ぐように背骨をうねらせてやれば良いのですが、首の後ろで組んだ手指の第二関節と、足の踵は床面と接触していますから、やや浮かせ気味にして、過大な抵抗とならないように加減して下さい。多少床面と擦れていても、痛くならない程度であれば一向に構いません。大きく、完全に空中に浮かす必要はありません。

④最後にコツというかポイントですが、尻の部分の接地面と床の間で擦れて音が出ることはありません。尻と床の設置面が擦れ合うような腰振り運動ではないということです。

ちょうど縄跳びの縄で蛇の動きをさせるような感じで、脊柱をうねらせます。速度は、自分が魚だとしたら、うんとのんびり泳ぐでもなく、急いで泳ぐわけでもなく、人の走りに例えれば「小走り」といった感覚で泳ぐ感じです。

 

毛管運動

 毛管運動も非常に重要な運動です。本書においてそれについて完全な説明をするのはスペース的に厳しいので、要点だけを説明します。

 かつて、血液が全身を循環する原動力は唯一心臓のポンプ作用であると信じられていました。西勝造はポンプの専門家として、それは絶対に成立しないと考え、その考えに強く反対していたということはすでに述べました。

別項でもう少し詳しく解説しますが、古典生理学の本には唯一心臓のポンプ作用であると書いてあっても、やはりだんだんとそれでは説明がつかないと感じる医学者が増えてきて、生理学的には血液循環に関与している器官、仕組みについて、徐々に新しい説が加えられるようになってきました。

その代表的な要素が「筋ポンプ作用」であり、毛細血管床における「浸透圧作用」です。人の毛細血管内血圧は15mmHg 程度に過ぎません。15mmHgという圧力は、血液であれば重力に逆らって20cm 程度上昇させる力に過ぎませんから、足先まで行ってしまった血液は立位ではとても自力で心臓付近まで戻ることはできないということになります。

では、どうやって血液が心臓まで戻ることができるのかというと、前述の補助ポンプ機能があるからです。

一時、西勝造は血液循環の「毛細血管原動力説」という説を唱えましたが、今日、私の立場は心臓の限定的ポンプ作用、左心室のポンプ作用によって主要動脈へ血液を圧送しているということまでを否定するものではありません。

ただ、知っておいていただきたいのは、つい70~80年前までは唯一心臓のポンプ作用によってのみ血液循環は行われていると断言していた生理学ですが、その後、血液循環を行わせている補助的作用として、ある時から静脈血管と静脈弁によって生じる筋ポンプ作用を加え、それでも説明が不十分であるということになると、呼吸ポンプ作用(これは物理学的に成立するかどうか私個人ははなはだ疑問に思っていますが)、毛細血管内外の浸透圧差と次々と追加理論を加えているということです。

血液循環に対する現在時点の理論が完璧であり、未来永劫修正されることのない真理、真実であるかというと、これはまったく不明であって、気が付いてみるとまた新たな作用、理論が追加されたとしても、何の不思議もありません。いや、多分そうなる可能性の方が高いでしょう。

ここらあたりの詳しい解説、見解は別項で述べさせていただくことにして、毛管運動の解説にもどりますと、漫然と立っている人間の血液はそのままでは心臓に戻ることができなくて、組織内、つまり細胞と細胞の間の空間部に間質液という形で貯留されてきます。

この間質液が生理的な状態(生理学用語で、数値的に規定はできないが自然であり、良好であるという意味)より増加してしまった状態がむくみ(浮腫)という状態です。

間質液の増加は、血液成分が毛細血管から一般組織細胞間に出る際の抵抗となりますし、抵抗になるということは動脈圧を測定すれば上昇傾向を示すということになります。末梢の正常な循環、灌流を阻害する原因の一つになるということです。

本来のヒトは、立っていても歩きまわってさえいれば、つまり、生物としてごく通常の行動さえしていれば、足の筋肉(主としてふくらはぎ)と静脈弁との共同作業による、前述の筋ポンプ作用が旺盛に生じ、その結果静脈血管自体がポンプ作用を起こすことになります。

そうなれば、毛細血管床における血液の滞りなど起こりようもなく、それに伴う血圧上昇の心配もまったく不要なのですが、残念ながら現代人はそういった行動様式はほとんど捨ててしまいました。

ですから、なんらかの方法を使って、全身の毛細血管で仕事を終えた後の血液を、速やかに心臓へ戻すために補助的な運動で補ってやらないと、必ず循環上の問題が生じることになる、ということです。

このことを確実に教えてくれているのが、ウォーキングや散歩は健康に良いということなのです。

しかしここで考えていただきたいのは、重力が原因で四肢の組織内に貯留した浮腫みの体液なら、重力を逆向きに利用して、さらに微振動でも加えてやれば短時間のうちに戻してやれる、流してやれるのではないか?という発想の元に生まれたのが毛管運動です。

毛管運動実施上のコツ

 手足をできるだけ垂直近い角度で挙上し、あたかも痙攣しているような微振動を起こさせます。

その際に手の動かし方として、細かく空手チョップ(手刀)の方向に動かすのですか?手を振って否定する時の方向に動かすのですか?あるいは、指先で突いたり、引っ込めたりする方向に細かく動かすのですか?をという質問を受けることがしばしばあるのですが、そういった質問が出るということは、「痙攣の動き、振動」が再現できない人です。

正確に言えば、非常に細かく手刀を切るような方向の動きではありますが、意識してそのように動かすということではなく、痙攣させるように微振動させた状態では手先はその方向に動いてしまう、ということです。

 はっきりしたデータは存在しないのですが、振動周波数も効果には関係していて、電動マッサージ器のような毎分数千回という振動数では、振り落とすという意味ではかえって効率が落ちてしまい、人力でも可能な振動数である数百回というレベルが最適であるようです。

 西式健康法実践用に専用に設計された運動器具も市販されていますので、それらの器械をお使いになるのが良いでしょう。

 多くの運動は自力でできるならそれに越したことはない、自力でする体力がないから、やむを得ず機械を利用するというのが相場ですが、この毛管運動だけは、自力で行うより機械にやってもらった方が、はるかに楽で有効です。

 次の注意点ですが、運動実施の際にはできるだけ垂直に近い角度に四肢を挙上すべきなのですが、一方で四肢から心臓に血液が戻ってくるルートの95%は静脈血管経由(5%はリンパ管経由)です。

 ですから、垂直にこだわるあまり、足の筋肉をがちがちに固めた状態で足を垂直にしても、静脈血管は締めつけられた状態になってしまい、かえって血液を戻す効率を低下させてしまいます。

 重力を利用しますから、単純に考えれば垂直に近ければ近いほど効率はよいには違いないのですが、力が入り過ぎて筋肉を固めてしまうと静脈血管断面積を著しく減少させることになり、せっかく運動をしても思ったほどには血液を戻してやれない、ということになってしまいます。

 ですから、足の筋肉に過大な力を入れないで範囲で、できるだけ垂直に近い角度に挙上する、というのが正解ということになります。

なお、毛管運動と次に解説する合掌合蹠法を実施する際は、頸部に硬枕をあてがいます。実際は硬枕でなくても構いません。頭部を脊柱より高い位置に置いて実施することが必要という意味ですから、硬枕がなければ座布団の二つ折りでも、普通の枕でも構いません。

下肢から体液が急激に上体に戻る運動をする時には、頭部を少しだけ高くしていないと脳が体液が多過ぎると誤解(脳脊髄圧が上昇することによって)してしまいますから、必ず頭部を少し高くしてやる必要があるのです。

 

合掌合蹠法

 西式健康法発表当初から昭和20年代半ばまで、六大法則の第五法則は「触手療法」となっておりました。いわゆる「手かざし療法」のことです。

 西式健康法の六大法則から「触手療法」が外された理由については、不明です。諸説ありますが、いずれも西勝造自身が文献で残したものではありませんから、創始者本人の意図は分からないのです。

 手かざし療法を前面に打ち出した宗教団体の勢力拡大ということもあったでしょう。時代が変わって交通網が発達し、また米軍占領下で椅子・テーブル文化が急速に普及するであろうことを見越して、日々生じる循環上の問題を解消するのに、毛管運動を朝夕1~2分程度実施しただけでは、到底足りないということもあったものと思われます。

 また、自力で行う毛管運動の実施は体力的な負担が大きく、1~2分の実施を5~10分にしなさいといったところで、病弱者や高齢者にはとても無理ですし、ある程度の年齢に達していた西勝造自身もそれを体感していたと思われますから、他の同様な効果を期待する運動法、つまり「合掌合蹠」と交代させたのではないかと思われます。

 名称の由来は、手のひらのことを「掌」と言い、足の裏のことを「蹠」と言いますので、手足の裏を各々合わせて行う運動ですから「合掌合蹠法」という名称が付いています。

 他の運動療法が「背腹運動」等と「運動」という名称が付いていますが、この合掌合蹠法だけは合掌合蹠運動とは呼ばずに「合掌合蹠法」と称します。途中交代であるがゆえの単純な問題であるのか、何か深い意味があってのことなのかは不明です。

 正しく実行した際の筋肉の動きは、ほぼ完璧と言えるくらいの動きであり、脚部の筋肉に強力な「筋ポンプ作用」が生じると同時に、股関節の柔軟性、左右のアンバランスを整える効果もあります。

 本来の合掌合蹠法では、手は胸の上で指先を天に向けた状態で合掌したまま動かさず、足の屈伸のみを行う運動ですが、晩年、西勝造が講義、講演の際に「合掌合蹠したまま手足をあらゆる方向に動かす練習を合わせ行うと、左右の神経をそろえる効果もある」ということをたびたび言ったことから、現在では手足を共にスライドさせる運動法が標準となりました。

実施上のコツ

 まず、足の裏は絶対に離さない、ということです。また、人は手と足を同時に動かすと意識の相当部分が手に行ってしまい、脚がきちんとできていないということの認識ができなくなります。

 足裏が離れてしまったり、足を伸ばしきってしまう人(足裏は絶対に離さないのですから、脚がまっすぐ伸びることは絶対にありません)に対して「足の裏は絶対に離さないでください」とご注意申し上げても、なかなか改めないのです。ご本人は意識が手に行ってしまっていますから、足裏が離れてしまっていることに気付かないのです。

 そこで、「手は動かさずに、脚だけに意識を集中して屈伸させてください。足裏は絶対に離さないで屈伸するのですよ」といったようなことを申し上げると、あっ、本当だと言って、初めて脚を伸ばした時に足裏が離れてしまっていることに気付いてくれます。

 つまり、手も足も同時に動かすことが理想ではありますが、肝心な脚の屈伸が正しくできていなければ、効果は著しく低下してしまいますから、もったいないのです。

 正しいペースを文字で表現するのはなかなか難しいのですが、延ばす時はややゆっくり目に延ばします。

ややゆっくり目と言っても、本当にゆっくりと延ばすのではなく、それなりに素早く伸ばすのですが、足裏が絶対に離れることがない範囲の素早さです。そして、縮める時はかなり素早く、股間に両踵をぶつけるつもりで勢いよく縮めます。

実施回数は十数回となっています。運動を実施した後は、そのままの姿勢、手は胸の上で指先を天に向けて合掌したまま、脚は足裏を合わせたまま、脚を縮めた状態のまま数分間安静にしています。

この安静にしているべき時間も諸説ありまして、多くの文献は5~10分と表現されていますが、これは妊婦に対する安産のための運動法としての合掌合蹠法の注意がそのまま踏襲されてしまった表現であり、妊婦以外であれば5~10分安静にしている必要はありません。1~2分で十分でしょう。

また、毛管運動のところでも説明しましたように、必ず頭部をやや高い位置に置いて実施してください。

その他の重要なこと

 個々の療法等について解説をしていくとキリがないということになってしまうのですが、主な療法等について、とくに誤解を生じやすい内容や西式健康法の古典的な書籍の中の解説だけでは不十分なことがらについていくつか解説します。

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