西式健康法

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新解・西式健康法とは

約133分

 

 

西式健康法創始者 西勝造について

 西式健康法を創始した西勝造は、1884年(明治17年)神奈川県高座郡鶴見村(後に大和村と改称→現;大和市)で土屋藤吉の3男として生を受けました。土屋家は地元ではそこそこの名家であり、次々代当主の土屋利保氏は長年神奈川県会議員を務め、またその長男である現当主の土屋氏は大和市議会議員を経て、平成7年より19年まで3期に渡って大和市長を務めました。

当時は、長子が基本的には家のすべてを引き継ぐ慣習でありましたから、3男であった土屋勝造は後に九州の西家に養子として入り西勝造となりました。

土屋勝造は子供のころから体が弱く、とても二十歳までは生きられまいと言われていたこともあり、健康法・民間療法・宗教に興味を持つに至ったということなのですが、同時に職業としては土木技師を選択し、当時多くの若者の就職希望企業ナンバーワンだったであろう三井本社に、鉱山技師として就職することができました。

そしてその中でも花形でもあり、坑道が福岡県の大牟田市から熊本県の荒尾市にまで至る三池炭鉱に配属され専門技師としての経歴が始まりました。

三井三池炭鉱時代の職名は「坑長」という肩書であったそうですが、子供たちは父親が「こうちょう」と呼ばれていたので、学校の先生だとばかり思い込んでいたとのことです。

なお、この辺りのことについては新潮新書「健康の天才たち」(山崎光夫氏著)に詳しく紹介されておりますので、創始者の経歴、人柄等にも興味がおありの方は是非ご一読ください。

さて、その西勝造は当時の欧米最新鉱山学、採掘技術を熱心に研究、実験し鉱山技師として名を知られるようになり、明治専門学校(国立九州工業大学の前身)の講師を務めたりするようにもなりました。

さらには、当時の東京市が日本最初の地下鉄道建設構想を計画した時には、設計責任者として白羽の矢を立てられ、米国の地下鉄道研究視察目的で1年間の米国留学、また東京市議会で地下鉄道計画が承認されるまでの最後の2ヶ年間は東京に家を用意され、あてがい扶持までいただいて地下鉄建設にゴーサインが出されるまで待機をしておりました。

何を申し上げたいのかというと、西勝造は医学の専門家という肩書こそなかったものの、失敗が絶対許されない日本最初の地下鉄計画を成功させるため、設計責任者を任せられるのは西勝造しかいないと期待されるほどの超一流の土木技師、隧道(トンネル)設計専門家として知られた人間であった、ということをご理解いただきたいのです。

留学資金や東京で待機中の家賃、さらにはすでに子供も四人にいた西勝造のための生活費を用意してくれたのは、地下鉄建設によってメリットを受けるという経済目的もあったのでしょうが、当時の実業家や素封家の方々です。

当時は地下鉄推進派と、建設コストとしては安いモノレール推進派の真二つに分かれていたそうで、その地下鉄派(当時の後藤新平市長は地下鉄推進派)の期待を一心に背負っていたということです。

医学という学問分野は経験主義が中心ですから、長いこと師匠に師事して徒弟的に修業を積まないと一流にはなれませんが、土木の世界はほぼ100%科学ですから、一年間米国に留学してみっちりと学ぶべき内容などは存在しません。

実際の現場を視察させてもらい、基本的なこと、例えば、一見しただけではなぜそこに取り付けられているのか理由が分からない構造材等があれば質問し、なるほどと理解しメモにさえ残しておけば完了であって、師匠にお伴しながらご機嫌をとる必要もありません。条件別の計算結果をまとめたハンドブックさえもらってしまえば、それで十分です。

土木の世界、というか科学の世界では付き人をしながら盗まなければ身に付かないといったような特殊な職人技は存在しませんから、西勝造は余った時間のほとんどを当時の欧米最新医学情報収集のために費やしたようです。

図書館にも頻繁に通ったでしょうし、当時の米国の何人もの高名な医学者に面談することができたということは、記録は残ってはおりませんが、最低でも東京市長あるいはそれ以上の爵位をお持ちの方からの紹介状を持たせてもらえたからであろうと思います。

西勝造はアメリカ留学を終え、最新の欧米医学情報を携えて帰国し、本格的な地下鉄トンネル設計等の仕事を始めるにはまだ時間がありましたから、その期間に当時の最新欧米医学情報を整理して、日本の医師、医学者とも意見交換、情報交換をしながら日本の医学の進歩にも貢献できると考えていたはずですが、残念ながらそうはなりませんでした。

今日でもそうですが、医師の世界ほど権威主義が強い世界はありませんから、西勝造が最新の欧米医学情報に基づいて議論をしようとしても、その反応は「土木屋風情が何を言うか」というものであって議論にもならなかったようです。

さらにもう一つ議論にならない理由があります。それは医師、医学者のほとんどは物理学とか化学のような自然科学には疎くて、土木屋が計算式に基づいて主張する内容のほとんどが理解できないからということがあげられます。

当時の常識では、血液循環は唯一心臓のポンプ作用によって成立すると考えられていたわけですが、西勝造は心臓という臓器のポンプとしての仕事量と、血液の粘性、内部があまり滑らかとは言えない、管路抵抗が決して小さくはないであろう、しかも先端に行けば行くほど細くなる血管の中を、握りこぶし大のポンプによって循環を成立させることは不可能である、ということを、炭鉱技師の時代にポンプを取り扱った経験と計算から示すわけですが、医師、医学者はその理論、証明の意味を理解することができません。

それが、長い前書き中で展開したカンフル剤への批判であり、これは後半で説明いたしますが、心臓のポンプ作用のよってのみ血液循環は成立しているという理由で、その考えに基づいた誤った治療法を行う当時の医学に対してのアンチテーゼとして「血液循環の毛細血管原動力説」を展開するということにつながっていきます。

当初、西勝造がしたかったことは、医学という学問を通常の科学という土俵の上で見直すべきだ、ということであって、ただそれだけが目標であったと思われます。

西式健康法の基本

 四大原則

 考え方の説明というのは多くの方にとっては退屈でしょうから、簡単に要点のみを説明します。西勝造は健康を維持する秘訣と言いましょうか、病気になる要素として次の四つをあげました。

①皮膚、②栄養、③四肢、④精神の四つであり、各々が平均点以上でないと人は必ず健康を損なうと考えました。この順序は進化の過程を踏まえた順番です。

皮膚

皮膚は外界と生命体を分ける境界、接点であり、単細胞生物であってもその機能を持つ細胞壁を有します。ヒトは内部の脆弱な細胞を守るために真皮、表皮という複雑な皮膚組織を有していますが、この皮膚組織が完全でないと、細菌等による外部からの侵略を許すことになります。

最も愚かしい行為は、あか擦り等で皮膚をわざわざ削り取るような行為です。無理に皮膚を削り取りますから表皮細胞の再生ピッチは上がります。

それを称して「新陳代謝が良くなる」と称しているようですが、表皮を無理やり削り取れば真皮は必至で表皮細胞を増産しますから、新陳代謝が良くなるという表現はウソとは言えないものの、健康に良い、皮膚機能を改善向上させるかと言えば、ただ傷つけているだけという以外の何物でもありません。奴隷はムチで叩けば叩くほど良く働きます、と言っているようなものです。

西勝造の時代には、皮膚は無理に鍛えなくても自然環境における寒暖等の刺激がありましたから、ただ自然環境の中で暮してさえいればそれで良かったのですが、今日のように子供に汗をかかせたら可哀想、寒い思いをさせることも虐待になるかも、といったことになってくると、日常的に皮膚に刺激を与える療法も心がけた方が良い時代、環境になってしまったと言えるでしょう。西式健康法では温冷浴(後述)を奨励しています。

栄養

 単細胞生物にとっては栄養を選択する能力はありません。自分が浸っている環境中に溶解している成分を摂取するだけです。これが多細胞生物になると自ら積極的に移動し食物を選択することが可能となります。

また、西勝造の時代には食べ過ぎによる害ということは、ほとんどの方にとってはまったく無用な心配でした。貧しさ故に必要最低限のたんぱく摂取、ビタミン摂取が不足するといった方々に対する配慮はしておりますが、食べ過ぎによって生じる問題を心配するということはほとんどありません。

ところが今日では、糖尿病治療を受けている方、将来的には糖尿病治療が必要になるであろうとされる「糖尿病予備軍」、また、空腹時血糖値は正常値であるが、食後血糖値が正常値を上回ってしまう「隠れ糖尿病」の三者を合わせると、一説では2千7~8百万人になるとも言われており、今日では過剰栄養対策を万人が真剣に考えなくてはならなくなりました。

ご存じの方も多いかと思いますが、西式健康法をベースにした少食療法を確立した甲田光雄医博は、今日では栄養が健康に関与する割合が顕著に増大しているという視点から、栄養の問題を中心に据えて臨床的な面で大きな成果を上げました。

精神

 今日ほど精神の問題に注意を払わなければならない時代は、ここ100年以上なかったことです。大正時代から太平洋戦争が始まるまで、正確には日本本土がたびたび空襲されるに至るまでは、多くの国民にとっては努力さえすれば必ず報われる時代でした。

額に汗して一生懸命働けば必ず生活は豊かになり、年金制度などなくても子供、孫が面倒をみてくれました。

長患いで寝込んで家族に迷惑をかけるということも、今日と比較すれば大変少なかった(寝たきりのまま長生きさせるような医療技術、制度がなかったということですが)し、十分な労働はできなくても、長年の経験、知識が子や孫たちのために本当に役に立った時代です。

今日のように、爺さん婆さんに聞くよりインターネットやスマートフォンで何でも分かってしまうなどということもありませんでした。

しかし、現在はうつ病の患者数は数十年前の十倍以上、と言っても正確には抗うつ薬を処方され、服用している人の数であって、本当にうつ病という診断が適切であるかどうかは別問題なのですが。

つまり、今日と比較して精神的な面でのケアが必要な人の割合は圧倒的に少なかった、ということです。

四肢

 なぜ、順序を変えて「四肢」の説明が最後になったかというと、この「四肢」という要素こそが、西式健康法の基本であり中心である六大法則中の背腹運動が生まれた理由であるからです。

皮膚、栄養、精神という3要素は、ヒトの健康を左右する重要な要素ではありますが、大正時代から戦前くらいまでは、それが主たる原因となって健康を害していた人々はそれほど多くはなかったということでもあり、それと比較して「四肢」の問題が原因となって健康を害している人はたくさんいた、というより、ほとんどの人は「四肢」の不整によって健康問題を生じさせたから、それを正す「背腹運動」がもっとも重要であったということです。

それでは具体的な説明に入りましょう。二足直立歩行を行う人類は、大変高度な制御システムのもとにそれを達成しているのですが、物心ついた時には自然と二本の足で歩き、走ってきた普通の人にとって、その高度な制御システムについてまったくと言って良いほど関心を持つことはありません。

しかし、ホンダの技術の粋を集めたとも言える、外部からの動力エネルギー供給を必要としない、自己完結型二足歩行ロボットである「アシモ」は、確かに二本足で歩くことはできますが、仮に外観のシルエットを変更して精巧なゴムマスクを被せ、服をきちんと着せて巧みに変装させたとしても、歩かせてみればすぐにばれてしまいます。言うまでもありませんが歩き方が普通ではなく、とてもぎこちないからです。

こういったことはホンダのアシモの開発、設計担当エンジニアであれば、極端に言えば毎日こればっかり考えているようなものでしょうが、いまだに人が歩くような自然な歩行をさせることはできません。

愛着を持ってもらおうとわざとぎこちない、変則的な歩き方をさせているのではなく、現在のところあれ以上の歩き方をさせることができないからです。その理由、原因は何かということをこれからご説明します。

カメラの三脚は特にバランスを取る必要はありません。実際は三本足ではありませんが、カンガルーなどは太くて頑丈な尻尾を第三の脚として使い、安定した直立姿勢が維持することができます。

一般の哺乳類等は四足ですから、これまたバランスを保つための高度なシステムは必要がないということです。

しかし、二本脚で歩くということは、バランスを保つために相当高度な制御が必要になってくるわけで、この仕組みこそが人間の姿勢を決定するのです。

二足歩行におけるバランス制御

 生物はすぐに環境に適応しますから、環境の違いによって無意識に、瞬時に制御方法を選択し、変更します。

本来の自然環境の中ではあり得ない環境なのですが、今日我々先進国で暮らす多くの人々の生活環境は、まっ平らと言っても良いところばかりで生活しています。足元など一切見ずに、ショーウウィンドゥだけ眺めながら歩き続けても、つまずいて転倒することなど滅多にないという環境です。

そのような環境下ではどのようなバランスのとり方をしているのかというと、足を置く位置、接地させる位置を巧みに、前後左右に無意識に調整してバランスを取っています。

本当かいな?と疑う方は、平均台の上や畳の縁(へり)、カーペットタイルなどの目地を一切踏み外さないように歩いてみてください。身体は不安定となり、両手を左右に広げてバランスを取りたくなってしまいます。

足を下ろす前後左右の位置を制限されてしまうとたちまち歩き方が不安定になってしまうわけで、これが、平らなところでは足を置く位置を調整することによってバランスをとっている、ということの証拠になると思います。

それでは、人類は進化の過程の中で、常に足を置く位置を調整することによって、二足歩行時の姿勢制御してきたのかというと、決してそうではありません。

足を置く位置を自由に変えられるということは、何度も申し上げているように、ほぼ完璧な平面上を歩く場合に限ってできること、つまり現代の道路や建築物内という極めて特殊な、人工的な環境下においてのみ可能なバランス調整法であり、凸凹だらけの自然の地形の上ではほとんど行うことのできない方法です。

凸凹を無視して、出っ張った石の上や土から突き出た木の根の上に足を下ろせば、たちどころに体は不安定になって転倒しかねません。

一度転倒してしまったマラソン選手が、転倒中に追い抜かされた全員を抜き返して優勝するという話は聞いたことがないように、転倒して立ち上がるという動作は、非常に多くのエネルギーを消費すると同時に、満足な歩行、走行ができないという原始の時代であればこの一瞬、転倒が原因となって致命的な状況に陥ることにもなりかねません。

 

エネルギー節約と備蓄は

ほとんどの生物に共通するプログラム

 もう一つの重要な要素についてもお話させていただきます。今日では、多くの大都市郊外の主要駅近くにはアスレティック・ジムがあります。

食べ過ぎと運動不足の相乗効果?によって生じる肥満等が健康に悪いから、エネルギーを消費するためだけに、安いとは言えない料金を払って非生産的なエネルギー消費に明けくれています。

あのトレッドミルという、走っても進まないベルトコンベヤーのような運動器具や、自転車こぎ運動器具(自転車エルゴメーターが正式な名称のようで、エアロバイクともいう)はただ過剰エネルギーを消費するため、汗を流すために使うのではなく、発電機につないで少しはエコロジーに貢献してくれれば良いのではと思いますが…。

ほとんどの生物(海中で暮らす一部の生物はあまり気にしていないようにも思われますが)、陸棲生物における生存競争は他種生物間における食うか食われるかという争いも、もちろんありましたが、その多くは飢餓との戦いに費やされたとも言えます。

確実に食料を得られる保証などまったくなく、運よくありつける日もあるが、その後3も4日も食料を得られないことも日常的なことであったと考えられます。

やっと手に入れた食料は、無駄なくすべてをエネルギー源として取り入れたいし、できれば備蓄もしたい、備蓄と言っても倉庫に貯めておくといったことができるのは、今日でも高等生物のごく一部であって、原始時代の人間もそういった技術は持ち合わせていなかったでしょう。

例えば、という臓器は、動物性の脂質を大量に摂取した時、胆汁の供給が追い付かないことによって、せっかくの動物性脂質を便と一緒に捨ててしまうことのないように、胆嚢に貯蔵していた胆汁を放出して脂質の吸収効率を上げるための臓器です。

胆汁によって効率良く脂肪酸に変化した脂質は、液体に溶解する状態になっていますから消化管の毛細血管中に吸収され、体内でヒト用の脂肪に再組み立てされて、食料が不足した時の備蓄エネルギー源として主として皮下脂肪として蓄えられます。

食料確保の効率を上げるためには、強靭な力と俊敏な身のこなし、俊足であることが求められますが、これらすべての資質を求めようとすると、体は大きくなり、太い筋肉も必要となり、必要なエネルギー量が増えてしまうという、二律背反の関係にあります。

そこで、これは現代のテクノロジーもまったく同じですが、というより現代テクノロジーが自然から学んだということになりましょうが、あらゆる面から効率の良い生物、マシンはエンジン出力をあげていく一方で、燃料消費率の一層の向上、軽量化等によるエネルギー節約という両面からアプローチします。

生物もまったく同じで、驚くほど巧妙かつ精巧なエネルギー節約の仕組みを持っています。

二足歩行の意義、目的

二足直立歩行システムという姿勢がもたらした利点は、体重が少なくても視点を高くすることができたということが一つであろうと考えられます。

視点がヒトと同等の高さにある動物は、ほとんど体重が数百キログラムといった大型動物であり、体重がヒトと同じレベルの哺乳動物の視点は地上からせいぜい70~80cm 程度でしょう。

危険察知能力が高ければ、それほど素早い逃げ足も必要なければ、強力な顎も牙も必要がありません。

また、これは別な項目でも説明しますが、細胞が十分な能力を発揮するためには必要十分な酸素とブドウ糖、ATPが必要となるわけですが、これは血液によって各組織に供給されるわけで、つまり理想的な血液循環が達成されることによって初めて可能となります。

では、理想的な血液循環とは何かということですが、これは動脈血を組織に押し込むことではなくて、静脈血をスムーズに流し去って、動脈血が遅滞なく流れこめるような状況を作ってやることです。

 なぜ、そういうことが言えるかというと、動物の脳の位置から容易に類推することができます。我々人類は活動時には、脳が循環系の中心である心臓の真上に位置しています。

一般的な哺乳類、犬猫とか牛馬等ですが、これらの哺乳類の脳は心臓から見ると斜め上方に位置しています。それが爬虫類であるとか両生類という、明らかに我々より下等な生物は心臓と脳の間には高低差がまったくありません。

これは脳の重要度が高い生物、つまり、脳が多量の血液を必要としている高等な生物ほど、静脈血管を通じて組織から血液を効率良く流し去り、動脈血を一瞬の遅滞なく流入させるためであるとしか考えられません。

 つまり、活動時には脳の位置を少しでも高くして、脳が十分な能力を発揮できるようにするためというのがもう一つの理由であるということです。

この二つの重要課題を達成するために、ヒトは二足歩行という特殊な歩行法を選択したものだと考えられるのです。

しかし、この二足歩行のための制御システムは原始の時代にはほぼ完璧であったわけですが、人類の知恵がある面で設計者の想定を上回ってしまったために、必ずしも完璧なシステムではなくなり、健康法といったものを実践しないと健康を維持できない、野生の生物と比較すると大変厄介な問題を抱えることになってしまったのです。

二足歩行時の制御法が姿勢を作る

 話が前後してしまいましたが、具体的な二足歩行制御システムの話に戻します。二足で立つ、歩行するといっても、人類は自転車のタイヤのような回転部分を持っていませんからジャイロ効果で直立を維持している訳では無く、まるで綱渡り中のパフォーマーのように微妙に重心点を調整してバランスをとっています。

バランスはとり続けなければ転倒してしまうし、かといってバランスを取るためにエネルギー消費を増やしたくないという、二律背反の問題に対する進化の回答が、背骨の一つ一つをわずかに曲げ、ねじることによって重心点を調整するというバランスのとり方です。

原始生活ではこのシステムは何ら問題とはなりませんでした。自然の地形にはまったくといってよいほど法則性は存在しませんから、一定時間歩行すればバランスをとるための脊椎骨の前後左右の傾斜、ねじれは必ず平均化されます。

特定の椎骨を常に特定方向に曲げている状態、特定方向にねじっている状態などということはまったく心配する必要がなかったのです。

しかし、今日では生きるということは多くの場合お金を稼ぐということであり、お金を稼ぐということは狩猟、採取行動とはまったく異なって、歩き回るようなことはほとんどないどころか、座っている時間が圧倒的に長いというのが現実です。

そのような時、座りっぱなしの状態であっても、本能は最もエネルギー消費が少ない状態を選択してしまいます。好むと好まざるとにかかわらず、現代生活をしているだれもが、背骨の特定部分をいつも曲げ、ねじった状態になっていまっているということです。

ここでいう現代生活というのは定職を持って、同じ職場、同じ就業環境で働いている人はもちろんのこと、同じ間取り、配置の家、台所で家事に従事する主婦もまったく同じことがいえますし、学校で学習する子供たちにも同じことがいえます。

特にまじめな学生、生徒ほど、同じ席に座り、座らされて常に先生か黒板を注視していますから、本当に同じ背骨の曲げ方、ねじり方を毎日毎日繰り返すことになります。

こうして、その人の姿勢、つまり、決してまっすぐな状態でない背骨というものが普通になってしまうということです。

ここまでの解説は、ヒトの姿勢制御システムのソフトウェアに関することです。もし、この問題、いつも背骨の同じ部分を曲げたりねじっていることによって、好ましくない姿勢が生じるのであれば、同じ姿勢にならないように注意するように心がけるとか、伸びをするとか上体をねじったり曲げたりする運動を適宜実践すれば解決するわけで、とくに健康法などということを考えるまでもないことになります。

しかし、問題はこのようなソフトウェアの問題には留まらず、ハードウェアの問題も関係しているために事態を複雑にしています。

背骨が歪むと簡単には治らない

ハードウェア上の問題

まず、解剖学的なことから理解していただく必要があるのですが、脊骨とは33個の椎骨と呼ばれる骨が連結して柱状になったもので、連なった状態では脊柱という言い方もします。

上から7個の首の部分を頸椎、その下の12個で肋骨が出ている椎骨は胸椎と呼びます。そしてその下の5個を腰椎と呼び、そのまた下はほぼ癒着結合してしまっているようなものですが、仙骨、尾骨(尾てい骨)と連なっています。

さて、何を知っていただきたいのかというと、脊柱という連結した状態は、何によって維持、接合されているかということをご理解いただきたいのです。

一般的に、整形外科クリニックや柔道整復院等で見かける模型や背骨の模式図では、1個1個の椎骨の間に椎間板という軟骨のような組織がはさまっており、一見その軟骨が結合組織となって上下の椎骨をつないでいるように見えます。

しかし、ご承知のように椎間板は大変脆弱な組織であって、床に落ちた物を拾おうとしただけで椎間板の中身(髄核)が飛び出した結果、激痛で進退極まってしまったり、とても脊柱をしっかりと支えて結合、保持するような強度は持っていません。

背骨も関節を構成していますから、骨同士がはまっていることによって、つながっているのではないかとお考えになるかもしれませんが、生物の関節というのは建具の蝶つがいのような構造ではありません。骨同士は基本的には向かい合っているだけであって、お互いの骨が軸を共有するような構造では決してありません。

それではなぜ関節はそう簡単には外れないかというと、という組織によってつながれているからです。

スポーツ選手がよく膝や肘の靭帯を傷めて、しばらく休養したり手術を受けたという記事が出ますが、筋肉と骨を結合して関節を動かす役目を持った組織が「」であり、骨と骨をつないで関節を構成し、関節が勝手な方向に曲がったり、離れたりしないように結合、保持する役目を持った組織が「」というわけです。

背骨を結合するは、6種類ありまして、それぞれ前縦靭帯、後縦靭帯、黄色靭帯、棘上靭帯、棘間靭帯、横突起靭帯という名称がつけられています。位置関係の説明は省略しますが、この6種の靭帯がそれこそ縦横無尽に張り合って、結合して頑丈な脊柱として存在せしめているということです。

なぜ多くの方がこの脊柱を構成する靭帯について認識していないのかというと、あまりにも脊柱をがんじがらめに結合し覆っているがために、すべての靭帯を図に書き込んだり、模型を製作するときにそれらを再現してしまうと、脊柱の全体構造、すなわち、脊髄、椎骨、椎間板、椎間孔等(脊髄から分岐した脊髄神経が、脊椎外に出てくるためのスリット)と靭帯のすべてを表現することで難しいからです。

解剖学者が、背骨の全体構造を理解させるのに邪魔になるから、靭帯をそぎ落とした状態のモデルから解剖図や模型を製作させているということなのですが、それだけ靭帯群の重要度に対する認識が低いということでもあります。

さらには、手指の関節と同様、背骨も関節を構成していますから、脊椎関節にも関節包というものが存在します。

こうなると関節包ついても説明が必要になりますが、関節包とは読んで字の如く関節を包んでいる組織で、その関節包の中は「滑液」という潤滑油の役割を有する液体(ヒアルロン酸と糖タンパク質を豊富に含むリンパ液のような液体)で満たされています。

また、骨同士が直接接触する部分の表面には軟骨様の組織があって、関節に荷重がかかった状態で動かしても、摩耗したり動きがぎくしゃくすることのない構造になっています。

(椎骨と靭帯の模式図が必要)

靭帯の構造と問題

肝心な靭帯の問題点、構造の説明に進みます。骨と靭帯の結合部分は強力なタンパク結合によって結合しており、どんなに力を加えても骨表面の骨膜と靭帯との結合が剥がれることは絶対といって良いほどありません。

自動車事故のように尋常でない外力が加わった時はどうかというと、結合部分が剥がれるのではなく靭帯そのものが断裂するという形で破壊が起きます。

一方、あくまで可動するのが大前提である関節の構成要素ですから、骨と骨をつないでいる中間部分、もともと骨と接していない部分は、まったく骨膜とは結合しないようになっています。

見た目はまったく同じ線維性の組織ですが、靭帯の端部と中間部で、片や強力に骨膜と結合する性質、中間部は逆にまったく結合しないようになっていて、その性質はまったく異なるということです。

これも当然のことで、一定範囲で可動するのが関節ですから、中間部分まで骨膜と強力に結合する性質が備わっていたら、うっかり首を曲げてうたた寝しているうちに元に戻らなくなってしまう訳で、そうならないように中間部分にはまったく結合するような性質をもたない細胞で構成されているわけです。

ところが、これが生物の面白さとでもいいましょうか、これほどまでに精巧に、想像を絶するような工夫が凝らされた人体構造ですが、やはり精密機械部品とは異なる点があります。

それは、性質の異なる細胞同士の境界線は、きちんと線を引いたようにはなっていないということです。

例えば手の甲と手のひらの細胞は見かけが異なります。手の甲にはメラニン色素が存在しますが、手のひら側にはほとんど存在しないようで日焼けすることはありませんし、見た目にも異なる性質の細胞です。境界線はどこかというと相当曖昧な状態です。

唇とその周囲も同様です。DNAの設計図上は明確に区分するように指示されていると思われるのですが、実際の施工技術は完璧とは言えず、かなりギザギザというかデコボコな状態です。

唇の境界線がまっすぐでなくギザギザなままだと、個体としての完成度が低いという印象を与えますから、血色よく見せ、境界線を鮮明に描くことによって男性からの好感度が上がる、もてるようにするというのが口紅によるお化粧ということになります。(コラム②)

それと同じで、靭帯の細胞も、骨膜と強固に結合する性質を持った細胞と、まったく結合しない性質を持った細胞との境界線はギザギザでデコボコで、くっつく性質を持った細胞と、くっつかない細胞とが混在する部分がどうしても出来てしまいます。

自然の地形の中を十分に歩きまわった結果、バランスを取るために、椎骨のすべてが満遍なく、可動範囲いっぱいに動かされていれば生じない問題なのですが、標準的な現代生活をしていると、仕事や家事による体の使い方の癖、偏りによって、本当に同じ椎骨を同じように曲げたりねじったりしたままの状態が続きますから、本来結合、固着しては困る部分にも固着が生じてしまい、その結果脊柱が歪んだ状態が生じます。

ここで、申し上げている「歪んだ状態」とは、全般的に大きくS字状に湾曲した側湾症のような状態のことではなく、個々の椎骨が傾斜したり、捻じれた状態になってしまう状態のことです。

脊柱に歪みが生じると何が問題か?

 一般的に、整形外科医はこの背骨が歪んでいる状態についてはまったく問題にしていません。

もちろん側湾症は問題にしますが、個々の骨の傾斜、ズレ的な歪みに関してはまったく無関心なようで、そういう意味であるなら、逆に背骨がきれいにまっすぐな人なんて世の中にほとんど存在しないのではないか、といったスタンスです。

整形外科分野の見解は、椎骨が傾斜したりねじれたり、加齢や事故などによって椎間板が薄くなったり、変形して、椎骨が直接神経鞘を圧迫し、脊髄神経をも圧迫変形させることになれば問題ではあるが、それ以外の、ただレントゲン的に椎骨の並びに歪みが認められるというだけの状態では、痛みもしびれもないのだから、別に病気とは言えないでしょう?問題ないでしょう?という見解が一般的であるということです。

しかし、ここで脊髄周りの構造をもう一度見直さなければなりません。脳脊髄液という用語については前書きでもご説明しましたが、脳の動脈血管の変形を起こさせないためという役割の他以外にも、一般的には繊細な脳や中枢神経を衝撃などから守るために、脳を浮かせておくための体液という認識であると思います。

豆腐が輸送中に型崩れしないように、柔らかいプラスティック製容器の中を水で満たし、密閉した状態で販売するのと同じです。

ところが脳脊髄液にはもう一つ重要な役割がありまして、血管網が十分に備わっていない、脳、中枢神経、脊髄周辺に血液栄養成分を供給する役割をも担っています。

血液をたくさん必要とする臓器として有名な、脳の血管網が十分でないと聞かされてもあまりピンとは来ないでしょうが、脳の髄質という内部の豆腐様の部分にはまったくといってよいほど血管網がありません。脳内部のように見える、折り重なった脳組織の表面分には血管が存在しますが、本当の意味の脳実質内には存在しないということです。

脊髄を代表とする太い神経組織も同様で、表面と中心部にのみは動静脈血管がありますが、神経組織内に密に血液成分を供給するような、一般組織における毛細血管網のような組織は存在しません。神経が実際に白色であるということは、毛細血管網を有していないということの証拠でもあります。

神経伝達の基本は電気刺激による信号伝達ですから、神経電流発生のエネルギー源となるイオン、主としてプラスに電荷したナトリウムイオン、カリウムイオンですが、そのイオンを神経細胞に供給することも大きな役割です。

脳脊髄液は日量500cc程度産生され、その総容量は120~150cc 程度とされていますので、毎日3.5~4回入れ替わっていることになります。

脳脊髄液の循環原理については、いまだに生理学上完全な定説がなく、良く分かっていないのですが、それでも流れが生じており、毛細血管圧よりもまだ低いレベルということになっていますが、もちろん圧力もあります。

圧力と流れがある液体が通過する管路に、著しく狭い部分があるとどうなるかというのは流体力学の初歩中の初歩でして、狭くなった部分の流速は上がると同時に圧力の低下が起こります。

一般的には、ホースの先端を押しつぶすようにつまむと、その部分の水圧が上がって水が遠くへ飛ぶと思い込んでいる人が多いようですが、実はそうではなくて、物理学的には狭くなった部分の圧力が低下した代わりに流速が上がった結果として、慣性によって水は遠くへ飛ぶというのが正解です。

さて、脊髄神経にも脳脊髄液を通して血液(栄養)成分を供給していますから、脊髄神経鞘と脊髄神経の間のは大変重要な意味を持ちます。椎骨の歪みによってクリアランスの狭い部分が固定化してしまうと、その部分の脳脊髄液圧はさらに低下してしまい、神経細胞への血液成分供給に不足が生じることが懸念されるわけです。

この問題に関してはまったくと言って良いほど研究がなされていないようで、参考文献等の提示は残念ながら出来ないのですが、物理学的に考えれば間違いなく懸念すべき問題であるということになります。

それでも、つまり、歪みを抱えたままの状態であったにしても、毎日毎日それなりに不整地を歩いていれば問題はないと思われるのです。

先ほど、脳脊髄液循環のメカニズムは不明な点も多いと述べましたが、ともすると神経の圧迫を容易に生じさせるほど椎骨間のクリアランスを小さくしているのには、それなりの理由があるはずです。

それについて、私は次のような仮説を立てています。大型の四足哺乳類と人類は、頭部と脊柱、脊髄の高低差による問題、つまり脳脊髄液の循環を達成するために、わざと歩行時に脊柱をうねらせることによって、脊髄神経鞘を椎間孔の縁で圧迫させる(神経への圧迫は生じさせない)ことによって、物理的にしごくような作用によって脳脊髄液の強制循環を行わせているのではないかと考えています。

こういった仕組みになっているのだとすれば、仮に椎骨の歪みを抱えていたとしても、人類であれば不整地を歩行すること、四足動物にとっては地形に関係なく移動、歩行さえすれば脳脊髄液の循環は促進され、神経の伝達機能はつねに100%近い能力を発揮するであろうということです。

この仕組みこそが六大法則のところで説明する金魚運動の効果の一つであると考えられるのです。

(コラム③)

六大法則

背腹運動

左右搖振

こうして、日常生活によって歪んだ状態が固定化されてしまい、神経の伝達に支障が生じてしまうことを解消するために考案されたのが背腹運動です。

背腹運動とは図のような運動のことですが、背骨を1本の棒のような状態にして、メトロノームの針のように左右に扇状に往復運動させる運動法のことです。

一言で言えば、脊髄には絶対にダメージを与えずに、脊椎骨をつなぐ靭帯の余計な固着を穏やかにはがす運動ということになります。

イメージの上では、尾てい骨の先にまだ硬いまっすぐな尻尾が付いているという気持ちになって、その尻尾を畳にしっかり差し込んで、その状態のまま絶対に背骨をくねくねと曲げることなく、自分自身がメトロノームになったつもりで規則正しく左右に逆さ振り子のように振ります。この動作を左右搖振と言います。

もちろん、本当に脊柱を硬直させてしまってはいけないのであって、メトロノームの金属性の針とは異なって、脊柱には柔軟性がありますから自然にしなるのが正しいのですが、しならせた方が良いと説明すると、ぐにゃぐにゃ曲げてしまう人が必ず出てしまうので説明の上では、あたかも一本の棒のようにと表現しています。

実際問題、1分間に50~55往復という既定の速度できちんと左右に傾斜させようとすれば、本当に硬直させた状態では運動不能で、実際はわずかにしなっているのだけども、気持ちとしては、一生懸命一本の棒になったつもりで左右に搖振させると、正しくできているということです。

ところが、左右搖振は椎骨間の余計な靭帯固着が原因となる、椎骨間の歪みを除去するためには最適な運動ではありますが、一方で問題も生じます。それは、交感神経の興奮状態を招くということです。

自律神経

 腹部運動の説明に入る前に、重要な関連がある自律神経について簡単に説明します。自律神経については今日では承知している方も多いと思いますが、基本的には自身の意識ではコントロールできない自動制御による神経系統のことです。

緊張すると心拍数が勝手に上がったり、手に汗をかいたりするといったように、とくにこうしよう、ああしようと意識しなくても勝手に命令を出してくれるのが自律神経であり、その自律神経は3系統存在します。

交感神経、副交感神経、腸神経系の3系統です。従来、自律神経系は交感神経、副交感神経の2系統とされていましたが、最近では腸神経系も第3の自律神経系として分類するのが一般的です。

多細胞生物の中でもっとも原始的な臓器である腸の動き、脳や心臓などの臓器を持つ以前の生物でも、腸は自律神経によってその動きをコントロールされてきたわけです。

もっと正確に言えば、腸神経系こそが第1の自律神経系であり、ただ発見が一番遅かったというだけなのです。

どれだけ生物として進化しても、その自律性は相当程度確保されているということが比較的最近、ここ15~20年ということになりますが、定説になったということです。

昔から、交感神経は臓器等の活動を能動的、活発化する作用があり、副交感神経は反対に抑制的に作用する、ただし、消化器官については反対で副交感神経が有意な状態で活発になる、というたように説明されますが、この説明そのものが不適当であると思います。

こういった考えは腸神経系の存在が知られる前の解釈であって、消化管に関しては基本的に腸神経系の支配を受けながら、進化がより進んだ段階で獲得した副交感神経の支配も併せて受けるようになったと考えられます。

話を戻しますと、交感神経系は単に活動を活発化させるということではなく、動物的な行動を行う時により有利になるように自動制御しますし、副交感神経系は植物的、これは少し説明が必要ですが、食物を消化吸収するとか、細胞増殖、修復を行うというときに有利なように、いわば植物的状態における効率を良くするための命令を出します。

不安を感じたり緊張したり、危険を感じると心拍数が上昇しますが、これは、その次の動作、戦うか、逃げるかという選択をした結果として、急激に何らかの動作を始める際には骨格筋の血流量が急激に増大しますが、その際に脳貧血を起こさないために絶対に必要な反応です。

心拍数を予備的に増加させただけでは、急激な動作をした直後の血圧降下を防ぎきれませんから、さらに動脈血管を締める筋肉に力が入って、急激な骨格筋への血流増大に備えます。

これらは交感神経系の命令によって起こる反応であり、交感神経の興奮状態であるとか、緊張状態であるとか表現します。

また別な作用としては、痛覚を遮断、あるいは弱めることによって、多少の怪我を負っても戦意が喪失しないように配慮してくれます。(コラム、痛覚等の件)

つまり、交感神経の興奮は戦うか、逃げるかという究極の状況で生存率を上げるための仕組みであるということです。

一方、副交感神経は、食料確保に成功し、安全を確保した状態で狩猟等の結果得られた食物を食べて少しの無駄もなく消化吸収し、その、食糧獲得の時に負った怪我を修復したり、体力回復の効率を最大限にするような状態に仕向けます。

無意味な交感神経興奮が寿命を縮める

自然な、原始の世界では、戦いに負けるということは原則的に死を意味します。明日の健康に配慮した結果、今日死んでしまっては何にもなりませんから、戦う時や逃げる時は、その他の能力は犠牲にして全能力を戦いに傾注するわけで、言い方を変えると交感神経興奮時には消化吸収能力や、病気を治す能力は著しく弱まってしまうということでもあります。

これは、生理学的にも明らかで、交感神経興奮時、つまり、運動をしている時などは、消化管への血液供給量は著しく減じることが知られています。

別項で解説しますが、人類は消化吸収と運動、戦いを一緒に遂行する能力も仕組みも備えていないわけであって、それが朝食は食べない方が良いという根拠でもあります。

原始の世界で暮らすのであれば、ドキッと交感神経興奮状態になるということは生存率向上のためにとてもありがたいことであったのですが、今日では、いくら不安を感じ、緊張した状態であっても、命のやり取りになってしまうことは、まあ絶対と言っても良いほどありません。

それでも、生命を守るための仕組みは基本的には何千万年も受け継がれてきた反応ですから、我々現代人にも受け継がれてしまっており、命を取られる可能性がまったくないにもかかわらず、命がかかっているという前提の、命を守るための反応が起きてしまい、その反応が病気を治す能力を弱めてしまっているのです。

左右搖振動作は、脊椎骨間の歪みを整正するとても優れた運動療法ではありますが、一方ではかなりの筋肉運動であり、それなりの運動をする習慣のない人にとっては、心拍数も血圧も相当上昇させてしまいます。

前述のとおり、背骨の歪みを整正することは健康を維持回復するためにはとても重要なことではありますが、一方では病気を治りにくくする交感神経興奮を招いてしまうわけで、それを自律神経の仕組みをうまく利用して解消しくれるのが腹部運動というわけです。

ですから、左右搖振と腹部運動は一体であり、同時に実施すべきであるから「背腹運動」と称します。

腹部運動

 腹部運動は、ただ適当に腹部を出し入れするような動作をすれば副交感神経が刺激され興奮して、拮抗的な関係にある交感神経興奮が結果的に鎮められるということを目的に行う動作です。

腹部の出し入れの仕方はどうでも良く、と言ってもいい加減で良いという意味ではなくて、好きなようなリズムで好きなように動かせばよい、という意味です。

それは、腹部を動かすことによってどういう状態にさせたいかということを理解していただければ、その意味が分かってもらえるでしょうし、おのずと動かし方も理解できるはずです。

 まず、腹部を出したり引っ込めたりという動作は何をさせるための動作であるのかということですが、これは腹筋を使って大小腸に動きを伝えるというか、運動による刺激を与えることが目的です。

とにかく、腹筋を使って腸を物理的に動かしさえすれば良いのですから、好きなように動かせばよいのです。

勘違いしないでほしいのは、動かすと言っても腸の本来の動きである蠕動運動や混和運動的な動作を、自己の意思で腹筋を使って実現しろ、などと無理なことを言っているのではなくて(そんなことができるわけもありませんが)、ごくごく普通に、腹筋を使ってお腹を出っ張らせたり、引っ込めたりという動きをして、その腹筋の動きによって、他人に腹部を押したり緩めたりしてもらうように、外部から腸に動きを与えさえすれば良い、動きが伝われば良いという意味です。

なぜ、そのようなことで副交感神経の興奮を起こすことができるかということですが、前述のとおり、腸には独立した第3の自律神経系が備わっています。

この第3の自律神経系はナマコの時代からの自律神経ですから、最低限の消化吸収活動であれば無難にこなせますが、高度な動きをコントロールするような能力はありません。何と言ってもナマコのレベルですから。

腸神経系は地方自治政府のようなもので、習慣どおりの普通の生活を治めていくには十分な能力を持っていますが、想定外のこと、外国から侵略されたり、内乱状態が起こったような場合には、地方自治政府だけで対応を決められるわけもありません。

最低限の国境警備の強化、兵士、警察官の緊急招集くらいはするでしょうが、とりあえず攻撃に出るか、必要最低限の防戦をしながら増援を待つか、とにかく正式な中央政府の指令、命令が届くまでは本格的には動くことができません。

腸神経系はまさにこの地方自治政府であって、食後の休養を取りながらゆっくりと消化吸収活動に専念できる場合には、栄養分を無駄なく余すところなく消化、吸収してくれます。何の問題も混乱も生じません。

ところが、腸神経自身よりはるかに高度な制御システムである、大脳新皮質が健康に良かろうという思考に基づいて行う、腹部の出し入れ運動については正当に評価することはできません。何が起きたのかさっぱり分からないと大混乱に陥ります。

自律神経である腸神経系が判断不能に陥ったからといって、消化吸収活動、内臓全般の働きに不調を生じてしまっては一大事ですから、それを補完するために脳は副交感神経系を通じて、絶えず補正の指示を出し続けることになります。

これこそが意図的に起こした副交感神経の興奮ということであり、腹部運動の目的であるということになります。

ですから、お腹のどの部分を意識的にへこませたら良いか、張り出せばよいかといったようなことにまったく配慮する必要はなく、やり易いように、好きなように、リズムも自由に、ただただ、出し入れをして、お腹を出すという動作が難しいということであれば、引っ込めることと力を抜くという動作の繰り返しであっても、とにかく実行さえすれば良い、ということです。

背と腹を同時に動かすと何が起こる

西勝造の原本では、左右搖振と腹部運動を同時に行いながら「良くなる、善くなる、能くなる」と唱えると、みるみる健康になるし、願望さえ叶うようになると表現しています。

そんなことが実際に起こるのでしょうか? できるだけ科学的にアプローチしてみましょう。

まず、下記にご紹介する文章をご一読ください。

イスラム教徒の世界を見ると、幼稚園児くらいから、コーランを教え込む。それも、体を前後に揺すりながら、コーランを読むように仕込まれる。
この、体を揺するというのは大変に効果的で、単に読むより体を動かすから、教えが身にしみ、心にしみこむのだ。 ブログ 「雁屋哲の今日もまた」より引用

大ベストセラー漫画「美味しんぼ」の原作者として有名な、雁屋哲さんのブログ「雁屋哲の今日もまた」の2008年8月6日付「パレスティナ問題 その15」の中の一節です。

私が以前テレビのドキュメンタリー番組で視た、アフガニスタンのイスラム神学校、つまりずばり本来の「タリバン」ということなのでしょうが、その神学校の授業風景として映し出された映像では、上体を左右にかなり激しく搖振させながらコーランの暗誦学習にはげむ学生たちの姿が鮮明に記憶に残っています。

宗派、地域によって上体の揺すり方には違いはあるようですが、まさに雁屋さんが言うように、イスラム教徒は少なくとも1千年以上前から、こういった唱え方をすると、コーランが早く、深く覚えられる、ということを経験的に知っていたということでしょうし、歴史的にはもっと古いユダヤ教においてもほぼ同じような習慣があるとのことです。

西式健康法創始者である西勝造は、背腹運動を実践することによって同様な現象が起こるということを言っているのですが、その理由は、交感神経、副交感神経の興奮状態が比較的そろった状態になると出現する、その時に潜在意識にイメージが入り込み易い状況になると考え、説いています。

「良くなる、能くなる、善くなる」と唱えながら背腹運動を行うことによって、良、能、善というイメージ、言葉が潜在意識の奥深くに刷り込まれ、無用な不安から解消され、それが過剰になりがちな交感神経興奮を鎮め、健康に向かって歩み始めることができる、という信念を持つことができるようになります。

 理屈はどうあれ、世界中でかなり多くの人がその現象が存在することを信じており、今日も世界中で実践が続いているということです。

背腹運動は坐禅

かなり複雑であったかもしれませんがご理解いただけましたでしょうか?脊柱の歪みを取り除くと同時に、交感神経の過剰興奮をも鎮める、というのが背腹運動の目的であるということです。

ここで、背腹運動の生い立ちとでもいいましょうか、実施するにあたっての心構え、というと少し大袈裟ですが、基本的な精神を知っていただくために説明しておきたいことがあります。

まず、背腹運動は坐禅に通ずるものであること、いや、創始者西勝造はこの動作こそ道元禅師が伝えたかった坐禅そのものであると言っています。

なにを血迷ったか!という言葉が聞こえてきそうですが、まずこれについて説明させていただきます。

道元禅師が中国に渡って当時の最新中国仏教を学んだのは、西暦1223年から1228年の5年間とされています。

一方、お釈迦様の生誕年には諸説があるようですが、およそ紀元前400~600年頃ではないかとされています。その仏教の教えがインド奥地のネパールに近いよう地域で広まり始めたのも、おおよそ、その頃、あるいはその後有能な弟子たちによって、インド北部の近隣地域に教えとして広まり始めたのは、たぶん、その後数十年から百年、2百年後といったところではないでしょうか。

その仏教が中国に伝わったのは、もちろんかなり大ざっぱな話ということにはなってしまいますが、1世紀のことではないかとされています。

インド北部(現在はネパール南中部)で発祥した仏教は、その主流は南方の海岸沿い経由で、パキスタン(現在はバングラデシュ)→ミャンマー(旧ビルマ)→タイ→ラオス→カンボジア→ベトナム、一部はラオスを経由して中国に伝わったものと思われます。道元禅師が留学した現在の中国抗州市付近は、中越国境からは1500~1600km 離れています。

また、インド北部の仏教発祥の地ルンビニー付近からの距離となると、道のりでは4500~6000km はあり、その距離を伝わるのに4~5百年は要したということになりますから、時速ならぬ年速にすると、およそ10㎞ / 年ということになります。

一方、ユダヤ教の発祥は、どこまで正確なのか、また何をもって成立したと判断するかはとても難しいと思いますが、一応紀元前1280年頃ということになっているようです。

ユダヤ教は戒律が厳し過ぎたのか他地域にはほとんど広まりませんでしたが、その教えの多くを生かした一部はイスラム教へと変遷していきました。

最終的にはイスラム教と呼ばれるようになり、別な宗教と分類されるようになった原因はモハメット(最近はムハンマドと英語発音に近い表記がなされることが多いが、アラビア語の発音ではモハメッドというのが一番近いようです)がコーランという形で、追加の経典と呼ぶべきなのでしょうか、追加の戒律集を著したことによるのでしょう。

そして、そのモハメッドは西暦570年頃に生まれ、 632年に没したとされており、その教えはかなりの速度で(ペルシア人は交易を得意としていたからでしょうか)東方へ伝えられています。

中国におけるイスラム教は「回教」とも「回々教」とも呼ばれ、今日でも新疆・ウイグル地区では、昔から住んでいる住人のほとんどがイスラム教徒です。

その起源は、対外交易が盛んであった唐の時代(7~8世紀)から元の時代(13~14世紀)にかけて、中央アジアインド洋を経由して渡ってきたペルシャ人(現在のイラン人。余計なことですが、イラン人はアラブ人と呼ばれることを容認しません。必ず、自分らはペルシャ人であると言います)ルートが中心となって伝わったものと考えられています。

このルートにおける中国側の中心都市は北宋の開封市付近であり、道元禅師が留学した南宋の首都である抗州市とは、距離にして7~8百 km 程度ですから、ラクダに乗らない中国社会で、しかもまだモンゴル族の全中国制覇がなされる前であれば、思想、宗教伝播の速度10km/年 の法則もほぼ適用できそうです。つまり、100年程度の時間があれば十分に伝わるのではないかと考えられます。

道元禅師が抗州市付近で習った最新の禅宗が、イスラム文化の影響を受けていなかったとはだれも断言できないはずですし、とにかく、経典を早く覚えることができる修業法なのですから、知ってしまった以上取り入れない方が不自然であると思います。

禅宗の説明

次に一般的な禅宗としての解釈をご紹介します。永平寺に伝わる、坐禅の実行法に関する文献は有名な「普勧坐禅儀 」という、道元禅師が当時の中国語(つまり『漢文』ということです)で著した文献を根拠としています。

その漢文のうち、坐禅の動作といいましょうか作法について言及しているのは次の部分です。

乃正身端坐、不得左側右傾、前躬後仰。要令耳與肩對、鼻與臍對。舌掛上腭、脣齒相著。目須常開。鼻息微通。身相既調、欠氣一息、左右搖振。兀兀坐定、思量箇不思量底。

これを翻訳しますと、次のようになるのだそうです。

乃(すなわ)ち正身端座(しょうしんたんざ)して、左に側(そばだ)ち右に傾き、前に躬(くぐま)り後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ、耳と肩と対し鼻と臍(ほぞ)と対しめんことを要す。舌、上の顎(あぎと)に掛けて唇歯(しんし)相著(あいつ)け、目は須(すべか)らく常に開くべし、鼻息(びそく)微(かす)かに通じ身相(しんそう)既に調えて欠気一息(かんきいっそく)し、左右揺振(さゆうようしん)して兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)して箇(こ)の不思量底(ふしりょうてい)を思量(しりょう)せよ。

まだ現代人には難し過ぎますから、さらに現代口語訳に直すと次のようになります。

そして背筋を伸ばし、左に曲がったり、右に傾いたり、前にのめったり、後ろに反り返ってはいけない。耳と肩、鼻と臍がそれぞれ一直線上になるようにする。舌は上顎につけ、口は閉じて唇と歯が離れないようにする。目は必ず開いておくようにする。 呼吸は鼻から静かにする。以上で身体の姿勢が調った。そこで、口を少し開けて深く息を吸い 込み、腹の底からゆっくりと吐き出す(2、3回程度)。 そして左右にゆっくり身体を揺らし(はじめは小さく次第に大きく10回から20回程度)、坐が落ち着いたところで静止し、不動の姿勢で山のようにどっしりと坐り込む。そして見れば見たまま、聞けば聞いたまま、思えば思ったまま、ただ鏡のように、少しも選り好みせず、善悪を分別しないこと。

となるのだそうですが、具体的な動作の説明は、『左右搖振。兀兀坐定』というただの8文字だけなのです。

ところがこの8文字に、いつの間にか

「そして左右にゆっくり身体を揺らし(はじめは小さく次第に大きく10回から20回程度)、坐が落ち着いたところで静止し、不動の姿勢で山のようにどっしりと坐り込む。」

という文言が加えられた、ということになります。説明が十分でないからか、言葉を補わないと意味が通じないと思ったからか、その後、高僧と呼ばれる方々がご自分の行っている坐禅の作法、動作を正当化するために解説を加えたと解釈するしかありません。

では付け加えるべき内容について道元禅師に質問した人がいるかというと、そのような方が存在するとはとても思えません。

そうなると、肝心なことは『左右搖振。兀兀坐定』の意味をもう一度、考えてみること、永平寺の歴史の中でいろいろな事情によって付け加えられたであろう解釈ではなく、道元禅師が中国語で残した文献の正確な翻訳を試みることが一番重要ではないでしょうか。

「左右搖振」の解釈については議論の余地はないようです。実際に左右に振るという動作で、西式で言っている左右搖振動作のことですし、これを禅宗では「左右にゆっくり身体を揺らし(はじめは小さく次第に大きく10回から20回程度)」と説明が追加されています。

この動作について一般的な禅宗の解釈では、「不動の姿勢で瞑想に入る前に最も安定した姿勢を得るために、左右に振って落ち着きどころを探すため」といった解釈が一般的なようですが、それなら前後にも振ってみなければいけないはずで、左右に振るだけで良いということにはならないはずです。

また、単漢字としての「搖」という文字には、「ゆらゆらと揺れ動く」というニュアンスがあり、位置決めのためだけに数回動かすというイメージを表現したいのであれば、最適な漢字、説明であるとは思えません。

兀兀坐定

次に『兀兀坐定』の意味ですが、ここが最大の論争点になります。といっても、西勝造解釈はほとんど誰も知りませんから、正確には論争にはなっていませんが…。

インターネット上の「ニコニコ大百科」には次のような解説があります。

兀の意味成りたちは;「高して上らかなるなり。人の上に一在るにふ」とあり、の上に一を置く事で、地形のことをいうとしている。白川静(日本の漢文学者・古代漢字学で著名な東洋学者;著者注)は、髪の毛を剃り落とした頭の側面の形だとする。を組み合わせた髠という字は髪の毛を剃り落とす刑罰という意味である。また正面から見た形がであるという。刖(ゲツ、足切りの刑)と音が通じて足切りの意味も持つ。

またGoo 辞書では、

兀兀;地道に働くさま。たゆまず努め励むさま。「~と勉強をする」

という解説が載っています。ただし、この意味で使う場合には「矻矻」という文字を用いる方が一般的なようで、「兀兀」(この発音はあくまでゴツゴツということになっており、本来はコツコツではない)は発音が似ているために誤用されたものではないかとも思えます。

その他の漢字の意味などを説明しているインターネット上の辞書類には、文字は紹介されていても意味についての解説は出ていないようです。というわけで、実は定説そのものが存在しないということになります。

では、実際に中国人に訊ねてみると、どういう答えが得られるであろうかというと、「兀兀」という文言は現代中国語ではまったく使われていないのだそうで、お知り合いの中国人、または中国語に堪能な方に聞いても解らないと言われてしまうと思います。

私も娘の友人で大変教養レベルの高い中国人留学生、カナダの大学でバイオテクノロジーの博士課程を修めるために留学している中国人ですが、その方に西式のことなど一切の予備的な説明なしで『左右搖振。兀兀坐定』とはどういう意味か?どういう動作を現わしているのか?と娘を介して聞いてもらったことがあります。

その時の回答が、「現代中国語では使われていない文字なので、正確なところは分からないし、間違っているかもしれないが」という但し書きは付きますが、彼は「身体を左右に振って、不安定な状態ではありながら安定して座る」といったようなイメージを指しているのではないかと思う、という回答でした。

高級エンジニアであった西勝造にとって、静止状態で完全な安定状態を得ることはどのように修業を積んだところで絶対に不可能であり、回転する独楽のように規則正しい運動の中にこそ、動いている中にこそ真の安定は存在する、と考えたものであろうと私は解釈しています。

背腹運動実践上のコツについて

次に実践上のコツと言いましょうか、ポイントについての解説をします。基本的には本当の坐禅をするつもりの心構え、ゆったりと構え、前傾してもふんぞり返るようでもいけません。

一から十まで、本書だけの解説で正確に実行していただくということになりますと、必要な文字数が倍以上に及ぶ可能性がありますから、古典的な内容ではありますが今日でも出版されている、「原本・西式健康読本」(農山漁村文化協会発行)、「西医学健康原理実践宝典」(西会本部発行)、「西式健康法入門」(平河出版社発行)と併読していただければさらに理解度は深まるものと思われます。

座り方

そのまま30分間正座しておれと言われても、姿勢を改める必要がないような安定した正座姿勢が運動開始前の姿勢ということになります。正座は、足の親指だけを重ねた状態での正座とし、土踏まずのところまで重ねては絶対にいけません。

西式健康法の歴史も大変長いため、一部に足の親指を重ねると微妙にバランスが狂うから、足の親指を重ねてはいけない、足の親指の先端部を接触させるだけ、といった指導を西勝造から直接を受けた方もいたようですが、微妙なレベルでの脊柱のバランスを考えればそうあるべきだとも言えるし、ある程度筋力がある人でないと、足の親指を重ねないことによって運動実施中に、足の間隔が開いていってしまい尻が踵の間に落ち込んでしまうようだと、逆に正しい運動姿勢を維持できなくなってしまうことになります。

ですから、基本的には足の親指を重ねた方が現実的ではあるが、相当な筋力を有しており、足の親指を重ねずとも10分近くの運動中にいささかも、足のつま先が離れていくことがないという人であれば、重ねないことによってわずかではあるけれども、より理想に近い動作に近づくと考えていただけば良いでしょう。

手の置き方、位置

手は、膝頭を掴むようなことにならないよう、力を抜いた状態で、手掌を下向きにするのではなく、手掌の外側(小指側)を大腿部に接するように、親指を上側にして手掌を立てた形で大腿部上に置きます。手、腕には力を入れません。

また、手を置くことによって前傾、後傾姿勢となっては絶対にいけませんから、おのずと手と大腿と直接接する部分は小指と薬指の指頭ということになります。ひざなどが痛くて正座が困難な人の実践法はあとで説明します。

左右搖振動作をする時には、腕の力を使うな、前傾、後傾姿勢にならないように常に注意せよ、ということですから、本当にすべてのポイントを了解している人であれば手はぶらぶらさせていても一向に構わない、ということになります。

呼吸について

 腹部の動かし方は、出し入れするということであり、コツとしては「呼吸とは関係なく、好きなように動かせばよい」というように表現されています。

しかし、この説明だけを聞いて、すぐに正しく実行できる人はほとんどいないのではないかと思われます。

文字通り、「呼吸とは関係なく、好きなように動かせばよい」のですが、多くの方が「呼吸とは関係なく」という言葉にとらわれ過ぎて、呼吸のリズムとは別なリズムで動かさねばいけないのかと誤解してしまい、ぎくしゃくとした動きになってしまいがちです。

この言葉の意味、「呼吸とは関係なく」という言葉には歴史的な問題が絡んでいます。現在ではあまり「呼吸法」という言葉を聞くことはありませんが、明治~昭和初期は呼吸法と総称される健康法の最盛期でした。

岡田式正坐法、藤田式息心調和法、式腹式呼吸法などが今日でも名前が残っていますが(たぶん、これら呼吸法の実践者の方々からすれば、西式も今日でも一応名前は残っているなどと言われてしまうのでしょうが)、とにかく呼吸法が大ブームになっていました。

つまり、西式の背腹運動を習得しようとする多くの方々から、「なるほど、それで呼吸はどのようなリズムで行うのですか?中心にある時に鼻から吸って、左右に傾いた時に短くハッ、ハッと口から吐けば良いのですか?」というような質問が必ず出るので、わざわざ「呼吸とは関係なく」という説明がなされるようになったのです。

呼吸と左右搖振、腹部の出し入れの動作のリズムを関連させる必要はない、呼吸は自分のやり易いように、息が苦しくならないようにということだけ気を付けて、自由にやりたいように行えば良い、ということを言いたいだけですなのですが、呼吸法そのものの認知度が著しく低下した今日では、この説明のためにかえって混乱してしまう場合がある、ということです。

もっとも、呼吸と動作を同調させてはいけない、あえて別なリズムで行えということでもまったくありませんから、今日に最もふさわしい説明としては、「呼吸のことは一切意識する必要はありません」と言えば良いことになります。

左右搖振

 従来の西式健康法の解説書では、イメージの持ち方と実際の動作上の注意がごっちゃになってしまっている傾向があり、混乱する方も多いようです。

イメージとしては、脊柱をあたかも一本の棒のような状態にし、尾てい骨を支点として左右均等に、逆さ振り子(機械式メトロノームの振り子)のように交互に傾斜させる、ということです。

ここでのポイントは「あたかも、一本の棒のように」であって、「背筋に力を入れて、脊柱を硬直させて実施せよ」という意味ではないということです。

辞書によれば、「あたかも」は、「あるものが他によく似ていることを表す」という意味で、さらに「ように」ですから、似ているけれども異なる状態であって、脊柱を個直させて本当に一本の棒にしては絶対にいけない、ということです。

実際のところは、脊柱のどこかを曲げるから振り子運動ができるわけなのですが、「曲げて振りなさい」と言ってしまうと、頸椎、胸椎部分でくにゃくにゃ曲げてしまう人が出てしまうので、頸椎、胸椎部分は絶対に曲げてはいけない、腰椎のできるだけ下の部分(解剖学的には無理な注文で、ここはあくまでイメージということですが)を曲げて、逆さ振り子運動をしなさい、という意味になります。

たまに、「一本の棒」という文言に忠実であろうとするあまり、左右に傾けるたびに意図的に片尻を浮かせて「一本の棒」状態を実現しようとしてしまう人がいますが、これは完全に誤りということになります。

西勝造の初期の著作にもこれに関する注意書きがありまして、「左右に傾ける際、尻が浮いてしまうことは一向にさしつかえない」というのがあります。

その方の、これ以上傾かないという限界を超えて、必要な傾斜角まで曲げる際に、尻があとら着いていく形で浮いてしまうことは構わないが、という意味ですから、逆に尻を積極的に浮かせては絶対にいけない、という意味でもあります。

傾斜角

 傾斜角度を計測すれば垂直から○○度以上傾斜させるということになりますが、角度をお教えしたところで実践上の役にはまったく立ちませんから、現実的なガイドラインについてご説明します。

脊柱の後側、ちょうど正座している状態の脊柱の真後にイメージ上の棒を立てます。身体を傾けていっても、イメージ上の棒は残りますから、そのイメージ上の棒よりも肩がやや入る、というか肩が通り過ぎるところまで傾斜させるのが、正しい傾斜角ということになります。

実際に鏡に向かって、壁紙の垂直方向の模様であるとか、家具の縁の真前に脊柱が位置するように着座して、傾けていき、肩の角の部分と言いましょうか、先端部がイメージ上の線と重なるかやや過ぎたあたりという角度が、求められている傾斜角です。

速度

 速度は前述のとおり、一分間に50~55往復させます。ただ、1分間に何往復という速度の目安は、これまたあまり実用的な表現ではありません。1分間を計りながら1回、2回と数えていっても、途中のペースが微妙に変わってしまっても判らないし、途中のペースを管理するにはあまり有効な目安ではないということです。

そこで、現在ではメトロノームでペースを確認しながら実践することを推奨しております。メトロノームの表示は往復数での表示ではありませんから、50往復のペースを知りたければ、100のところに合わせます。

背腹運動のペースメーカーとして機械式メトロノームを使用する場合に、対象となる速度記号の目盛には、100、104、108の3種類しかありませんから、50、52、54往復の速度しか示してくれません。

一方、電子式メトロノームでは、通常100、101、102~110と1ピッチ刻みでのペース表示が可能で、数値を1ピッチずつ変えていくことができますからより好都合であると思われます。

できるだけ早く済ませようと、傾斜角を浅くしてペースだけあげるようなことは避けて、十分な角度を常に確保しつつ、できるだけ早い速度で実施するよう心がけ、練習を重ねていくという形で理想的は背腹運動ができるようにしていきましょう。

腹部の動かし方

次に腹部の動かし方について説明します。コツは腹筋に力を入れたり緩めたりして、物理的な動きで腸を動かすということです。

すでにご説明したように、動かし方はご自分が行いやすいようにすれば良いのですが、それでも平均的な実行しやすさを説明するならば、搖振動作中の真ん中地点(体が垂直状態)で腹部を引っ込め、左右傾斜の最大傾斜地点では、腹部を押し出す、ということになるのですが、多くの方は押し出すという意識を持って腹部を動かそうとすると、左右搖振運動がぎくしゃくしてしまいがちです。

ですから、腹部を押し出そうとするのではなく、中央に来たら(直立状態)きゅっと腹部を引き締めへこませて、中央を過ぎたら腹筋の力を緩める、ということから練習を始め、動作が身についてきたら、少しずつ押し出すということも意識しながら腹部運動を行うようにすると良いでしょう。

腹部運度のコツ

どのように動かすべきかということをいろいろ言葉を変えながら説明するより、原理を理解していただくのが一番ですから、原理を忘れてしまった方は○○○ページの「腹部運動のところを読み返してください。

動作に妙なクセがつかないようにするというのが結構重要ですから、無理に左右搖振と腹部運動を同時に実行しようとはせず、規則正しい左右搖振と腹部の出し入れを各々別に練習した方が良いのではないかと思います。

同時にやろうとしてぎくしゃくしてしまうような時には、まだしばらくは本格的に背腹運動をしようと思わない方が良いかもしれません。まず、左右搖振動作をしっかりと体に覚え込ませましょう。

椅子に腰かけての実践法

次に、膝であるとか足首、股関節を痛めている方で、正座姿勢が辛い方は椅子に腰掛けても実践が可能ですので、その方法について解説します。

椅子に腰かけて実行する際には、まず、動きが制限されないようにひじ掛けが付いてなくて、座面が平面に近い形状の椅子を選んでください。

やや浅く腰かけると同時にひざを大きく、少なくとも正座姿勢の時より大きく広げます。正座の時と比較して、両踵による安定した支えがありませんのでやや広めに広げないと、上体をうまく安定させることができません。

また、どのような状態でもエネルギー節約プログラムは作動してしまいますから、うっかり漫然と行っていると、腕の力を動員してしまったり、大腿筋を使ってしまいそうになりますから、意識して、できるだけそれらの筋肉を使わないようにします。

脊柱を支える直接的な筋肉、大腰筋、内外腹斜筋等を極力使うように意識しながら行えば、効果は正座の場合と比較してもあまり変わらないとされています。実施回数も同じで構いません。

準備運動

 説明が最後になりましたが、この背腹運動には準備運動があります。準備運動は左右搖振動作では、十分にカバーしきれない頸椎を満遍なく動かしてやる運動です。

速度は、メリハリの付いた動きの中でできるだけすばやく、という言葉が一番適切であろうと思います。

メリハリがある動きとは、肩の上げ下げであれば、肩がもっとも上にあがった時、肩が最も下がった時に一瞬停止する時間があるということです。

この表現でピンとこない方であれば、昔大流行した、と言えるのかどうか判りませんが、コメディアンの志村けんさんの「ひげダンス」の動きは一瞬も動きが止まる瞬間のない、言わばメリハリがない動作ということです。

また、古い西式の書籍には、およそ1分間程度で準備運動は終えるように、というペースの目安が書かれていますが、このおよそ1分というのは、昔、普通の家庭には秒針付き時計などない時代の目安としての1分です。

当時は、だれでもが秒針で正確に1分を計れるなどということは想定しておりませんでしたから、かなり大ざっぱな1分ということであり、勘違いして1分以内で無理に終わらせようとすると、メリハリのないやたらと忙しい動作になってしまいますから注意してください。

平牀・硬枕

次に、平牀・硬枕について説明します。平牀・硬枕は必ず用いなければならないという性質のものではありません。背腹運動が正しく、毎日実行できる方であれば本来は必要ない、と言っても差し支えはないでしょう。

ただし、背腹運動の実践が正しくできない人、正しく実行する能力はあるものの諸般の事情で実践しきれない方にとっては、大いなる助けになる道具ということになります。

平牀の目的と注意点

 腰を痛めた経験のある人は背腹運動が上手にできません。俗にいう腰痛持ちの人は、本能的に腰をかばってしまう、つまり、二度と神経に対する重大な問題が生じないように、腰椎を曲げないよう、本能が動きを制限してしまいます。

腰を痛めて歩けない、走れないというのは、考えてみれば野生の世界では致命的な要素であって、一度でもひどい腰痛を経験した方は、椎間板ヘルニアでも俗に言うぎっくり腰であっても、二度と起こすことがないように、神経を圧迫したり、神経に瞬間的な強い打撲を与えることがないよう、腰椎の曲げ可能角度を制限してしまうのです。

つまり、背腹運動のポイントである、腰椎を左右に曲げて逆さ振り子運動を行うという根本の部分ができないわけです。

それでもやってみてもらうと、腰椎部分は殆んど曲げずに、胸椎の部分を曲げて何とか似た動作をなさろうとはしますが、チマチマした動きにしかなりません。(要挿絵)

これでは、背腹運動としての効果はほとんど期待できませんから他の方法を併用する必要が出てくるわけです。

それが六大法則の平牀寝台であり、硬枕利用というわけです。平牀を用いるということは、脊柱の歪みを重力と平面を利用して矯正するということです。

オリジナルの表記は「平牀」ですが、今日では略字である「平床」という文字を当てることもあります。

脊柱のような複雑で、複数方向に稼動可能なジョイントが連係して連なった構造物は、その一要素をそろえてやると、他の部分も自然にそろってくる性質があります。

ですから、平牀の上で仰向けに寝ていると、単純に力が作用する前後方向の歪み、わずかなずれが正されるというより(というより、脊椎骨が前後にずれることはほとんどなく、もしあれば明確な症状が出ます)、左右の傾斜ねじれが矯正されてきます。

ただし、5~10分程度でも良いのかというと残念ながらそれではダメで、少なくとも平牀上で寝込んでしまう必要があります。

睡眠状態になると睡眠という状態がおよそ1時間半ごとに出現します。睡眠とは何かというと、「Rapid Eye Movement Sleep」の略語で、日本語に直訳すれば「素早く眼球が動く睡眠」という意味です。

状態を表しているだけの名称ですから、内容についての説明が必要になりますが、この眼球がまぶたの下でせわしなく動いている状態での睡眠、つまりレム睡眠時は骨格筋の力が緩み、脳の情報整理をしている睡眠状態であるとされています。

ですから、レム睡眠の時に平面上で仰臥して寝ていれば、自然と重力によって歪みが矯正されてくるということであって、歪みが少なくなってくる状態の中で日々背腹運動を練習していれば、徐々に背腹運動も正しく実行できるようになってくる、ということです。

なぜベニヤ板を使うか

よくいただく質問は、家はフローリングの部屋ばかりだから、フローリングの部屋でそのまま寝れば平牀を使わなくても良いですよね?わざわざ、ベニヤ板を買わないといけませんか?といったご質問です。

脊柱の矯正を行うということだけを目的とするなら、答えはYESということになりますが、常に平行して存在する他の要素についても配慮しないと、健康を得ることはできません。

ちょっと、考えていただきたいのですが、あなたの体温はどこが熱源となって、どうやって体温を調整しているかご存知ですか?

多くの方々が「低体温は万病の元、身体を温めれば万病が治る」といったほとんど科学性のない理論でも納得してしまうようですが、ここで一度考え直してみましょう。

死んでしまった人の体温は、およそ十数時間経過後にはほぼ室温と等しくなりますが、これは生きている人間は熱産生を行っているという証拠です。

考えてみたこともないが、言われてみれば当たり前、だから何だ?という声が聞こえてきそうですが、ではどこが熱源となって体温が維持されているのでしょうか?ということです。

正解を先に言ってしまうと、そのほとんどは筋肉によって生み出されます。正確な測定は極めて難しいようで定説はないようですが、およそ80%強は筋肉が動いた時に発生する熱であるとされています。

また肝臓内で休みなく行われる各種の化学反応によっても、15%程度の熱が発生しているとされていますし、私独自の仮説ということになりますが、少なくとも残りの2~3%は腸内細菌による分裂、発酵による発酵熱であろうと思われます。

睡眠中であっても、心臓と小腸以降の消化管、呼吸するために胸郭を広げたり、縮めたりするために筋肉は休みなく働いていますが、それら筋肉の活動レベルは睡眠中には最低水準におかれていることになります。

睡眠中は熱の発生量が下がるから体温も下がってしまい、低体温で健康に良くないから湯たんぽで温めないと、というのは変温動物である爬虫類や両生類に対する健康法であって、恒温動物である哺乳類にはまったく当てはまりません。

熱産生量の大小、発汗量や着衣による熱の放散量を調整し、常に体温を一定に保つから恒温動物と呼ばれています。もちろんここで維持するのは中心部体温であって、手足など先端部の重要な器官がない部位の温度が低下するのは珍しいことではありません。

しかし、それは手足の温度を低下させて主要内臓の温度を維持し、機能低下を起こさせないように中心部体温を維持する仕組みになっているということです。

中心部体温(左心室から出た直後の血液温度と等しい)を一定に維持する仕組みは精密であり、熟睡中でこそやや低下しますが、起きて活動している間は中心部体温低下を許すことはありません。

さて、話が横道にそれてしまいましたが、睡眠に落ちると熱産生量は低下します。低下したら熱放散量を減らさないと体温を維持できなくなります。

体温が維持できなくなるということは、中心部体温が低下して病気になるかというと、それほど情けない、お粗末な制御システムで生かされている訳ではありません。

実際に体温低下が起きそうになると覚醒させられてしまう、つまり目が覚めてしまうということになります。

脊柱をまっすぐにするということは極めて重要ですが、だからといって熟睡を妨げられてしまったら交感神経興奮が収まらず、病気を治す仕組みが作動しないということです。

ですから、張り合わせた薄板の間に空気をいっぱい含んだ、非常に断熱性の高い合板であるベニヤ板一枚を敷きましょう、ということになるわけです。

十分な断熱効果があり、温かい時期には適度に汗も吸ってくれる素材、なおかつ価格も安いということでベニヤ板を敷くということになっているわけです。

見た目も良く、もっと快適性の高い素材があればもちろんそれで良いのですが、なかなか見つかりません。

硬枕

木製のものが主流ですので、別名「木枕」とも呼ばれています。形状は丸太を半分に割ったかまぼこ状です。昔、多くの家庭で炊事、風呂焚きに薪を使っていた時代に、薪割りの過程でちょうどうまく半分に割れたものがあったらそれを使いなさい、というものでした。

今日では、まったくと言って良いほど薪割りをしませんから、それ用に製造された製品があります。中空で軽く、桐材の張り合わせですから素材がひび割れすることもほとんどありません。

なぜ、硬枕の利用を推奨しているのかというと、それは脊柱の生理的形状どおりに無理なく脊柱(頚椎部)を支えるためです。

一般的に、柔らかい寝具を使用している時、布団であったりベッドマットレスなどがありますが、それらは身体の凹凸に合わせて変形してくれるので、ある面とても快適とも言えますが、脊柱をできるだけまっすぐに保持するという面では不向きです。

脊髄周囲に不自然な力が加わらないようにするために、かえって筋肉の緊張を招くことも多々あります。

頸椎にはもともと生理的湾曲という曲がりが設定されており、運動時などに衝撃的荷重が身体に加わった際、大切な脳にその衝撃が及ばないようにクッションとして作用する構造になっており、それが生理的湾曲と呼ばれる、頸椎のカーブです。

柔らかい寝具と柔らかい枕の組み合わせは、就寝中の骨格姿勢にいろいろと問題が生じるものの、それらがそれぞれ柔軟かつ任意に変形することによって、表面的なタッチとでも言いましょうか、当たりは優しくなります。

ただし、平牀というほぼ完全な平面上で寝た場合には、寝具側は一切の変形をしてくれませんから、頸椎部分も反対にきちっと支えてあげないと無理がかかるようになってしまいます。

そのため、平牀を用いるのであれば併せて硬枕を使用した方が、脊柱はより自然な形状でいられる、ということになります。

今でもそうしているのかどうか知りませんが、和風旅館ではウレタンフォームマットレスの上に、さらに分厚い敷布団を敷いてくれたものですが、あそこまで軟らかいと硬枕はほとんど効果がないと言いますか、使用する意味がありませんが、薄い敷き布団や、今日風のかなり腰のしっかりしたベッドマットレスであれば、硬枕の使用により頸椎の歪みや、肩コリには有効である場合が多いです。

肩コリや、一部の頭痛(表面からマッサージ的に揉み、擦ると少し楽に感じる種類の頭痛)は、頭部を支える筋肉の強い疲労であることが大部分です。

万が一にも椎骨端が神経を圧迫して重大な事態に至ることがないよう、無意識にそれらを支える筋肉に力を入れ続けた結果が筋肉のコリという現象です。

ですから、硬枕を使用して頸椎を生理的な状態、姿勢を維持することができれば筋肉が力を入れ続ける必要はなくなります。つまり、硬枕の使用によって肩コリが解消する方も多いということです。

ただ、神経と頸椎の関係は大変複雑ですから、硬枕を使用することによってほとんどの方の肩コリが解消する、というわけにもいかないことはご了解ください。

金魚運動

金魚運動には二つの目的があります。一つは、脳脊髄液の循環促進であり、もう一つは消化器官を中心にした内臓に対する作用です。

一つ目に関しては、「脊柱に歪みが生じると何が問題か?」の項で概略の説明はしましたが、背腹運動の実行は始めたが、まだ上手に実行できないから、日々新たに生じる脊柱の歪みをとても解消しきれない、ことに対する対策です。

また、平牀硬枕の効果で、歪みはずいぶん解消されつつあるが、まだ完全ではないという時に、残った歪みによる害を軽減する方法として金魚運動があります。

背骨をうねらせて脳脊髄液の循環を促進し、脊椎骨の歪みよって生じる脊髄神経周辺の循環の不完全である

状態による悪影響を軽減するわけです。

第二の目的は消化管に対する効果を目的としたものです。食べた物が咀嚼され、胃に送られ、十二指腸を経て小腸(空腸)へと送られていくわけですが、小腸内を通過中の消化過程の食べ物は「」状と表現されますが、これはかなりゆるい、水分の多い粥という意味です。

小腸は2層からなる筋肉を使って消化中の食物の栄養素吸収と、先へ送る搬送を行っています。混和運動によって食物を満遍なく小腸内壁に触れるようにして吸収を促し、一定の混和運動が終了すると、その先へ蠕動運動によって搬送します。

小腸の筋層はとても薄いもので、例えば粘土のようなものを捏ねたり、先に送っていくほどの大きな力を出すことはできません。

それを補うために、各種消化液、分泌液を加え、十分に水分を蓄えた状態、内容物を緩い粥状にして搬送しやすくしています。

さらに、搬送を楽にするためにもうひとつ工夫がありまして、それは小腸自身が微妙に位置を変えたり伸び縮みして、さらに搬送を楽に行えるようにしているということです。

腸が伸び縮みするといっても、大したことはあるまいとお考えになる方もいるかもしれませんが、活発に消化吸収活動を行っている小腸の動きは想像を超えています。

一般的に大小腸合わせた長さは、人種によってもいくらか異なるが8mとか10m、本によっては11mと書いてある本もあります。しかし、きちんと但し書きが付いた書物を読むと、その数値は「死体解剖時の長さ」である旨明記されています。

それでは生きているヒトの大小腸合わせた長さはどのくらいかというと、その1/2~2/3程度であるとされています。

大腸はあまり伸び縮みしませんから、その伸縮のほとんどは小腸の消化吸収活動に起因するものであり、その小腸が自由に伸び縮みできるようにさせて、内容物の搬送を順調に行えるようにするためにはいささかの工夫が必要です。

まず、哺乳類の消化管配置は基本的には四足状態、つまり胴体が水平になっている状態で都合が良いように設計されています。

消化管は内容物の通過、搬送ができるだけ障害なく行われるよう、重力に逆らうことがないよう、腹部の表面側(腹筋側)に配置されています。

四足動物の通常姿勢であれば一番下面にホースがとぐろを巻くように配置されており、ホースが垂れ下がって、重力に逆らって登るような配置にはまったくなっていません。

緩い粥状の中身を、重力に逆らって持ちあげ、搬送するというのは大変な力、無駄な力が必要だからです。

しかし、ヒトは立っていようと座っていようと、多くの時間は胴体を垂直方向に向けていますから、いつも小腸をかけ具に引っ掛けたような状態で、重力に逆行して消化途中の内容物を送っていかなければならないこともあって、搬送効率が極めて悪いのです。ですから、ヒトは消化管内内容物を順調に送っていくのがとても下手です。

そこで、一般的な四足哺乳類が歩くたびに腹部内部に生じる動きを、いくらかでも再現してやらないと大きな支障が生じることになります。

脊髄周りの循環を促進するための運動法である金魚運動は、同時に消化管をも揺り動かすことになりますから、四足動物が小腸に対して常に行っている、歩行によって生じる消化管活動への補助動作でもあることになります。

また、小腸は自身でわずかですが位置変えをして、さらに内容物が移動しやすいように補助している訳ですが、内臓と内臓の間には一切の空間はなく、押し合いへしあいしていますから、外部からの力が加わらないとなかなか自由に活動することができません。

この金魚運動も、人が直立するようになってしまったことによって生じる問題を解消するための方法論であるということです。

金魚運動実施上のコツ

 金魚運動は、できる人はすぐできるようになるし、できない人はどうご指導してもなかなか完璧な形にならないことが多いのです。

私自身、いきなりできてしまいましたから、どうやったら、できない人をできるように指導できるのか、ということが良く分かりません。

最初はできなかったのに、努力、工夫した結果できるようになった人に教わるのが一番良いのでしょうが、自転車に乗るのと同じで、ひとたびできるようになってしまうと、あれほど苦労した失敗の記憶は飛んでしまうことが多いようで、金魚運動の指導ならあの人に任せておけばとか、あの指導法が、というような指導名人にも、指導法にも出会ったことがありません。

うまくできるようになるコツとは関係ないのですが、要点をいくつかあげますと

①一番動かしてやりたいところは胸椎部分です。ですから動きやすいところ(頸椎、腰椎)が自由に動く状態のまま実施すると、動きにくい胸椎部分がますます動きにくくなってしまいます。

そのため、手は指の股同士が密着するくらいまでしっかり組んで、首の後ろに当てます。後頭部ではなく首の後ろです。ですから、組んだ直後は肘がやや前に出た状態になりますから、その状態から肘をぐっと押し広げるように、両腕を床面と水平になるようにします。

次にやはりぐらぐらと動きやすい足首が動かないように、足のつま先を手前側に倒して(つま先を伸ばして、背伸びをする時とは反対側に反らすという意味)足首をしっかりと固めます。

②力の入れ方が分からないうちは、背筋に力が入り過ぎて背中が床面から大きく離れて、アーチ状になってしまいがちです。そうならないように、意識して背中全面を床面に付けたままで運動を行うように心がけてください。背筋に力が入って背中が反り返った状態だと、脊椎のスムーズな動きの妨げになります。

③あとは、魚が泳ぐように背骨をうねらせてやれば良いのですが、首の後ろで組んだ手指の第二関節と、足の踵は床面と接触していますから、やや浮かせ気味にして、過大な抵抗とならないように加減して下さい。多少床面と擦れていても、痛くならない程度であれば一向に構いません。大きく、完全に空中に浮かす必要はありません。

④最後にコツというかポイントですが、尻の部分の接地面と床の間で擦れて音が出ることはありません。尻と床の設置面が擦れ合うような腰振り運動ではないということです。

ちょうど縄跳びの縄で蛇の動きをさせるような感じで、脊柱をうねらせます。速度は、自分が魚だとしたら、うんとのんびり泳ぐでもなく、急いで泳ぐわけでもなく、人の走りに例えれば「小走り」といった感覚で泳ぐ感じです。

毛管運動

毛管運動も非常に重要な運動です。本書においてそれについて完全な説明をするのはスペース的に厳しいので、要点だけを説明します。

かつて、血液が全身を循環する原動力は唯一心臓のポンプ作用であると信じられていました。西勝造はポンプの専門家として、それは絶対に成立しないと考え、その考えに強く反対していたということはすでに述べました。

別項でもう少し詳しく解説しますが、古典生理学の本には唯一心臓のポンプ作用であると書いてあっても、やはりだんだんとそれでは説明がつかないと感じる医学者が増えてきて、生理学的には血液循環に関与している器官、仕組みについて、徐々に新しい説が加えられるようになってきました。

その代表的な要素が「筋ポンプ作用」であり、毛細血管床における「浸透圧作用」です。人の毛細血管内血圧は15mmHg 程度に過ぎません。15mmHgという圧力は、血液であれば重力に逆らって20cm 程度上昇させる力に過ぎませんから、足先まで行ってしまった血液は立位ではとても自力で心臓付近まで戻ることはできないということになります。

では、どうやって血液が心臓まで戻ることができるのかというと、前述の補助ポンプ機能があるからです。

一時、西勝造は血液循環の「毛細血管原動力説」という説を唱えましたが、今日、私の立場は心臓の限定的ポンプ作用、左心室のポンプ作用によって主要動脈へ血液を圧送しているということまでを否定するものではありません。

ただ、知っておいていただきたいのは、つい70~80年前までは唯一心臓のポンプ作用によってのみ血液循環は行われていると断言していた生理学ですが、その後、血液循環を行わせている補助的作用として、ある時から静脈血管と静脈弁によって生じる筋ポンプ作用を加え、それでも説明が不十分であるということになると、呼吸ポンプ作用(これは物理学的に成立するかどうか私個人ははなはだ疑問に思っていますが)、毛細血管内外の浸透圧差と次々と追加理論を加えているということです。

血液循環に対する現在時点の理論が完璧であり、未来永劫修正されることのない真理、真実であるかというと、これはまったく不明であって、気が付いてみるとまた新たな作用、理論が追加されたとしても、何の不思議もありません。いや、多分そうなる可能性の方が高いでしょう。

ここらあたりの詳しい解説、見解は別項で述べさせていただくことにして、毛管運動の解説にもどりますと、漫然と立っている人間の血液はそのままでは心臓に戻ることができなくて、組織内、つまり細胞と細胞の間の空間部に間質液という形で貯留されてきます。

この間質液が生理的な状態(生理学用語で、数値的に規定はできないが自然であり、良好であるという意味)より増加してしまった状態がむくみ(浮腫)という状態です。

間質液の増加は、血液成分が毛細血管から一般組織細胞間に出る際の抵抗となりますし、抵抗になるということは動脈圧を測定すれば上昇傾向を示すということになります。末梢の正常な循環、灌流を阻害する原因の一つになるということです。

本来のヒトは、立っていても歩きまわってさえいれば、つまり、生物としてごく通常の行動さえしていれば、足の筋肉(主としてふくらはぎ)と静脈弁との共同作業による、前述の筋ポンプ作用が旺盛に生じ、その結果静脈血管自体がポンプ作用を起こすことになります。

そうなれば、毛細血管床における血液の滞りなど起こりようもなく、それに伴う血圧上昇の心配もまったく不要なのですが、残念ながら現代人はそういった行動様式はほとんど捨ててしまいました。

ですから、なんらかの方法を使って、全身の毛細血管で仕事を終えた後の血液を、速やかに心臓へ戻すために補助的な運動で補ってやらないと、必ず循環上の問題が生じることになる、ということです。

このことを確実に教えてくれているのが、ウォーキングや散歩は健康に良いということなのです。

しかしここで考えていただきたいのは、重力が原因で四肢の組織内に貯留した浮腫みの体液なら、重力を逆向きに利用して、さらに微振動でも加えてやれば短時間のうちに戻してやれる、流してやれるのではないか?という発想の元に生まれたのが毛管運動です。

毛管運動実施上のコツ

手足をできるだけ垂直近い角度で挙上し、あたかも痙攣しているような微振動を起こさせます。

その際に手の動かし方として、細かく空手チョップ(手刀)の方向に動かすのですか?手を振って否定する時の方向に動かすのですか?あるいは、指先で突いたり、引っ込めたりする方向に細かく動かすのですか?をという質問を受けることがしばしばあるのですが、そういった質問が出るということは、「痙攣の動き、振動」が再現できない人です。

正確に言えば、非常に細かく手刀を切るような方向の動きではありますが、意識してそのように動かすということではなく、痙攣させるように微振動させた状態では手先はその方向に動いてしまう、ということです。

はっきりしたデータは存在しないのですが、振動周波数も効果には関係していて、電動マッサージ器のような毎分数千回という振動数では、振り落とすという意味ではかえって効率が落ちてしまい、人力でも可能な振動数である数百回というレベルが最適であるようです。

西式健康法実践用に専用に設計された運動器具も市販されていますので、それらの器械をお使いになるのが良いでしょう。

多くの運動は自力でできるならそれに越したことはない、自力でする体力がないから、やむを得ず機械を利用するというのが相場ですが、この毛管運動だけは、自力で行うより機械にやってもらった方が、はるかに楽で有効です。

次の注意点ですが、運動実施の際にはできるだけ垂直に近い角度に四肢を挙上すべきなのですが、一方で四肢から心臓に血液が戻ってくるルートの95%は静脈血管経由(5%はリンパ管経由)です。

ですから、垂直にこだわるあまり、足の筋肉をがちがちに固めた状態で足を垂直にしても、静脈血管は締めつけられた状態になってしまい、かえって血液を戻す効率を低下させてしまいます。

重力を利用しますから、単純に考えれば垂直に近ければ近いほど効率はよいには違いないのですが、力が入り過ぎて筋肉を固めてしまうと静脈血管断面積を著しく減少させることになり、せっかく運動をしても思ったほどには血液を戻してやれない、ということになってしまいます。

ですから、足の筋肉に過大な力を入れないで範囲で、できるだけ垂直に近い角度に挙上する、というのが正解ということになります。

なお、毛管運動と次に解説する合掌合蹠法を実施する際は、頸部に硬枕をあてがいます。実際は硬枕でなくても構いません。頭部を脊柱より高い位置に置いて実施することが必要という意味ですから、硬枕がなければ座布団の二つ折りでも、普通の枕でも構いません。

下肢から体液が急激に上体に戻る運動をする時には、頭部を少しだけ高くしていないと脳が体液が多過ぎると誤解(脳脊髄圧が上昇することによって)してしまいますから、必ず頭部を少し高くしてやる必要があるのです。

合掌合蹠法

 西式健康法発表当初から昭和20年代半ばまで、六大法則の第五法則は「触手療法」となっておりました。いわゆる「手かざし療法」のことです。

西式健康法の六大法則から「触手療法」が外された理由については、不明です。諸説ありますが、いずれも西勝造自身が文献で残したものではありませんから、創始者本人の意図は分からないのです。

手かざし療法を前面に打ち出した宗教団体の勢力拡大ということもあったでしょう。時代が変わって交通網が発達し、また米軍占領下で椅子・テーブル文化が急速に普及するであろうことを見越して、日々生じる循環上の問題を解消するのに、毛管運動を朝夕1~2分程度実施しただけでは、到底足りないということもあったものと思われます。

また、自力で行う毛管運動の実施は体力的な負担が大きく、1~2分の実施を5~10分にしなさいといったところで、病弱者や高齢者にはとても無理ですし、ある程度の年齢に達していた西勝造自身もそれを体感していたと思われますから、他の同様な効果を期待する運動法、つまり「合掌合蹠」と交代させたのではないかと思われます。

名称の由来は、手のひらのことを「掌」と言い、足の裏のことを「蹠」と言いますので、手足の裏を各々合わせて行う運動ですから「合掌合蹠法」という名称が付いています。

他の運動療法が「背腹運動」等と「運動」という名称が付いていますが、この合掌合蹠法だけは合掌合蹠運動とは呼ばずに「合掌合蹠法」と称します。途中交代であるがゆえの単純な問題であるのか、何か深い意味があってのことなのかは不明です。

正しく実行した際の筋肉の動きは、ほぼ完璧と言えるくらいの動きであり、脚部の筋肉に強力な「筋ポンプ作用」が生じると同時に、股関節の柔軟性、左右のアンバランスを整える効果もあります。

本来の合掌合蹠法では、手は胸の上で指先を天に向けた状態で合掌したまま動かさず、足の屈伸のみを行う運動ですが、晩年、西勝造が講義、講演の際に「合掌合蹠したまま手足をあらゆる方向に動かす練習を合わせ行うと、左右の神経をそろえる効果もある」ということをたびたび言ったことから、現在では手足を共にスライドさせる運動法が標準となりました。

実施上のコツ

 まず、足の裏は絶対に離さない、ということです。また、人は手と足を同時に動かすと意識の相当部分が手に行ってしまい、脚がきちんとできていないということの認識ができなくなります。

足裏が離れてしまったり、足を伸ばしきってしまう人(足裏は絶対に離さないのですから、脚がまっすぐ伸びることは絶対にありません)に対して「足の裏は絶対に離さないでください」とご注意申し上げても、なかなか改めないのです。ご本人は意識が手に行ってしまっていますから、足裏が離れてしまっていることに気付かないのです。

そこで、「手は動かさずに、脚だけに意識を集中して屈伸させてください。足裏は絶対に離さないで屈伸するのですよ」といったようなことを申し上げると、あっ、本当だと言って、初めて脚を伸ばした時に足裏が離れてしまっていることに気付いてくれます。

つまり、手も足も同時に動かすことが理想ではありますが、肝心な脚の屈伸が正しくできていなければ、効果は著しく低下してしまいますから、もったいないのです。

正しいペースを文字で表現するのはなかなか難しいのですが、延ばす時はややゆっくり目に延ばします。

ややゆっくり目と言っても、本当にゆっくりと延ばすのではなく、それなりに素早く伸ばすのですが、足裏が絶対に離れることがない範囲の素早さです。そして、縮める時はかなり素早く、股間に両踵をぶつけるつもりで勢いよく縮めます。

実施回数は十数回となっています。運動を実施した後は、そのままの姿勢、手は胸の上で指先を天に向けて合掌したまま、脚は足裏を合わせたまま、脚を縮めた状態のまま数分間安静にしています。

この安静にしているべき時間も諸説ありまして、多くの文献は5~10分と表現されていますが、これは妊婦に対する安産のための運動法としての合掌合蹠法の注意がそのまま踏襲されてしまった表現であり、妊婦以外であれば5~10分安静にしている必要はありません。1~2分で十分でしょう。

また、毛管運動のところでも説明しましたように、必ず頭部をやや高い位置に置いて実施してください。

その他の重要なこと

個々の療法等について解説をしていくとキリがないということになってしまうのですが、主な療法等について、とくに誤解を生じやすい内容や西式健康法の古典的な書籍の中の解説だけでは不十分なことがらについていくつか解説します。

朝食廃止について

西式健康法の中で主要な主張として「朝食廃止」を提唱していますが、習慣的に朝食を召しあがったからといって、寿命をうんと縮めてしまうであろうとか、そういった極論を主張している訳ではありません。

ましてや、概ね健康な方であればたまに召しあがったくらいではそれこそまったく関係ない、と申し上げても良いでしょう。

しかし、最近では、朝食こそが一番重要な食事であるということになってしまい、「何はなくても朝食」という風潮になってしまいました。

はたして本当に、純粋に科学的な立場から考えてもそれが妥当であるのかということについて再検証しましょう、ということです。

 

朝食を摂らねばならぬとする根拠

 多くの一般の方々は、朝食を抜くのが一番悪い、朝食を食べないと午前中にエネルギー切れを起こして、学習でも仕事でも、意欲、能力が低下するからこの激しい競争社会の中では朝食だけは絶対に欠かしてはならない、という認識を持たされていると思います。

 それも無理のないことで、一部の栄養学者や教育関係者、なかには一部の体育系運動生理学者や医師までがそういう発言をします。

そして、そういった内容はしばしばテレビ番組でも取り上げられ紹介されますから、それを信じない人は

よほどの変り者ということになります。

それに反論するのは、太平洋戦争中に「日本は負けるだろう」とか、「人間天皇」、「お国のためだろうがなんだろうが死ぬのは嫌だ」と公言するのと同じくらいの勇気が必要です。

さて、それら多くの主張の中で最も皆さんの印象に残っている内容は、「エネルギー切れ」の話であろうと思われます。

ますます学歴が重視されるであろう可能性が高い将来に対して、子供の成績は母親にとっての最大関心事の一つです。

そこに「体内ブドウ糖枯渇」、「グリコーゲン最大備蓄量」、そして「脳はブドウ糖しかエネルギーにできない」といった断片的な知識が一気に脳内で湧きあがって、なるほど仮にまったく子供さんに食欲なんかなくたって無理にでも食べさせなければいけないし、だいたい先生に自分が厳しく叱責される。

あらゆる情報、外部環境が朝食を食べさせろ、自分も食べなければいけない、という愛国少年ならぬ、朝食至上主義家庭を作り上げています。

グリコーゲン

過剰な糖分、食事をして小腸から血中に吸収されたブドウ糖のうち、血中飽和量(完全健康者であれば140mg/dl)に達した後すぐに使いきれないブドウ糖余剰分は、肝臓内でグリコーゲンという糖質(多糖類)に化学合成、変換されて肝臓に備蓄されます。

そのグリコーゲンの肝臓による最大備蓄量は、平均的な大人で100g~120g (一部文献では90~150g)とされているのですが、ごく一部の文献では60gと記述した文献もあります。

欧米の生理学書も2冊見てみましたが、その貯蔵量は具体的な数値としては明示されておりません。貯蔵量の測定法が確立されておらず、ブドウ糖消費量と後述の糖新生開始のタイミングから推定した貯蔵量であるため記述を控えているのではないかと思います。

なお、筋肉に貯蔵できるグリコーゲンが300g 前後ありますから、体内の総グリコーゲン貯蔵量としては400g前後ということになるのですが、骨格筋中のグリコーゲンはブドウ糖に分解して血中に放出、再利用することができません。

骨格筋中のグリコーゲンは筋肉活動のための備蓄エネルギーとして限定して貯蔵されたものだからです。

ですから、脳が使用可能なグリコーゲン備蓄量は全部で100g程度しかないということです。

次に、グリコーゲン100g がブドウ糖では何gに相当するかというと、分子量から推定するとおよそ10%増しということになり、110g程度 ということになります。

もともと各々の備蓄量、消費量を正確に積算した上での計算結果というわけではありませんから、あまり細かく配慮する必要もないかとは思いますが。

一方で単位当たりのブドウ糖消費量はどうかというと、全体量としては筋肉の使用程度によって大きく異なります。脳に関して言えばあまり大きな変化はなく、多くの文献で5g/毎時(120g/日)程度とされています。

ですから、激しい筋肉運動をして筋肉中のグリコーゲンが著しく減少し、肝臓中のグリコーゲンに手を付ける必要が出てしまった場合でもない限り、肝臓のグリコーゲン備蓄分だけでもおよそ24時間近くカバーされることになっています。

ですから、次の夕食も絶食しない限り、何が何でも朝ごはんを食べないとブドウ糖不足に陥る可能性が大きいなどという計算は成立しないはずなのですが、ここで効いてくるのがグリコーゲン備蓄量60gというまったく主流とは言えないない説です。

この主流ではない説がどういった文献に引用されているかと言うと、朝食は絶対に食べないといけないという主張をしている文献の中だけです。朝食を食べさせるためだけの適当な数値と言ったら言い過ぎでしょうか?

60gのグリコ-ゲンを毎時5g ずつ消費するとなると12時間で使い切ってしまう計算になります。

前日の夕飯を午後7時頃に食べた人であれば、翌朝7時にはグリコーゲンが枯渇してしまう可能性が出てくることになり、頭が悪くなるどころか理論的には死に直面した、重篤な低血糖寸前状態ということになります。

しかし、朝ごはんを食べそこなったからという理由だけで低血糖症状を起こした人が世の中に居るでしょうか?正確には居るのですが、これについてはのちほど説明します。

普段は朝食を食べる習慣のある方でも、災害時や遅刻寸前の寝坊で、朝食を食べそこなったということは日常茶飯でしょう。

それでも、本当に生命にかかわることでもあるなら、「遅刻なんかしたって良い、とにもかくにも朝ごはん優先」という社会的な合意ができそうなものですが、まったくそうはなっていません。

誰も、朝ご飯を抜いただけ、どころかそのまま昼食を抜いたところで低血糖症状など起こすことがないことを知っているからです。

ここで忘れないうちに、朝ごはんを食べないと本当に低血糖症状を起こす人について説明しておきましょう。ペットボトル症候群の人?いえ、違います。

ペットボトル症候群は急性のⅡ型糖尿病による異常高血糖症状であって、一部で言われているような低血糖症状ではありません。

朝ごはんを食べないと低血糖になってしまう人の説明に戻りますと、それはインスリンもしくはインスリン分泌を促進する糖尿病薬を服用している人が、それら薬剤は服用したにもかかわらず食事を摂り損なった場合にのみ起こる現象です。

ですから、糖尿病の人は医師から「絶対に朝ごはんは食べないといけない」と注意されますが、それはインスリン分泌促進薬(スルフォニル尿素剤系=オイグルコン等)を食事毎に服用するように処方されているからです。

朝食を食べずに薬だけ服用したら、本当に低血糖を起こして生命の危険まであるから絶対に食べなければいけない、と言っているのであって、最初から昼夕の2食生活に合わせた処方をしてもらっていれば、実は何の問題もないのです。

また、今日では軽度の糖尿病患者に対して、でんぷんの吸収阻害を主作用とした糖尿病治療薬(α―グルコシターゼ阻害薬=グルコバイ等)も広範に処方されていますが、その場合には食事せずに服用したところでまったく問題は起こりません。

一般的に、ご自分が長期連用している薬の種類、薬理作用など、まったく知らないまま長期間服用している方が大変多いようですが、ご自分の薬くらい正確な名称、薬理作用等についても正確に理解しておく必要があると思います。

24時間絶食したら低血糖を起こすか?

  朝ごはんを食べないと低血糖を起こすということについては、普通に計算しただけでもかなり無理がある、ということがまずはご理解いただけたかと思います。

それでは次に、甘い計算をした場合に絶食時間が24時間以上経過してしまったら、さすがに低血糖を起こす可能性があるかどうかついて考えてみましょう。

人類の歴史の中で、何日か絶食しなければならない状況に、不本意ながら陥った経験というものは何億例もあったことでしょう。

実際はそんなわずかな頻度ではなく、時代、地域によってはほぼ毎週のように食料を得られずにひもじい思いをした、というのが平均的な生活であったでしょう。

しかし、人類が絶滅することはありませんでした。何食か抜いたからといって、低血糖で頭の働きが著しく鈍くなって、筋力も十分に出せないままやがて意識を失って死んでいった、などということはまったくありませんでした。であるからこそ今日まで人類の歴史は続いています。

進化の知恵には到底及ばない我々の思考力でも、金銭的に余裕ができれば、一部は現金、一部は預金、保険、株式、さらには、不動産、金地金、人によってはクラシックカーとか美術品であるとか、分散して貯蓄することを考えます。いろいろな可能性を予測するからです。

肝臓の備蓄を使い切ったら低血糖を起こして死んでしまう、などと考えること自体、生命や神に対する冒涜であるとしか言いようのない浅はかな思想です。

我々よりはるかに賢明な存在は、何重にも及ぶ延命対策、安全装置を用意しています。脳がエネルギー源として優先的にブドウ糖を使用する仕組みであることは間違いのないことですが、我々はそういった構造であるがゆえに、次のような仕組みを獲得しました。

糖新生

 これは、大人向きの生理学に類する本であれば、索引にも必ず掲載されている用語です。糖新生とは何かというと、体内備蓄物質からブドウ糖を再生産、合成する能力のことです。

糖新生には二つのルートがあり、一つは脂肪から、もう一つのルートはたんぱく質からブドウ糖を再合成します。

考えても見てください、食事量を減らす、俗に言うダイエットですが、ダイエットをすると何が起きますか?低血糖になって死んでしまうのではなくて、皮下脂肪等が減って痩せていきますよね?

摂取カロリー量が消費エネルギー量を下回ると、日常活動に必要なエネルギーやブドウ糖が不足しますから、脂肪を分解してエネルギーもブドウ糖も作る仕組みを備えているということなのです。

食事量を減じたり一食、二食抜いたくらいでは(空腹感はつらいですが)、低血糖などまったく起こすことなしに、ただ痩せていけるということでもあります。

糖新生で誤解されているのは、たんぱくも脂肪も同時に分解していくので食事量を著しく減じるようなダイエット、断食や極端な少食ということなのでしょうが、そういった無理なダイエットをすると、優先的にたんぱくの分解が進んでしまうので、健康によろしくないという主張をする方もいますが、これも、まったくのデタラメであるとしか言いようがありません。

ちょっと考えてみていただければ判ることですが、あなたが今災害に遭遇し、手持ちの食料をやりくりして何日か、数週間か生きていかなければならないとします。

買ったばかりの刺身と、缶詰、干し肉等の日持ちする食材とがあった場合に、まず缶詰から食べ始めるバカはいないでしょう?ということです。

日保ちの悪いものから先に食べるという選択は、へーっと感心されるような類の選択ではなくて、常識としか言いようのない選択です。理由の説明も不要です。

食料を得るため、生存を維持するための筋肉中のたんぱく質と、もともとそういう事態に備えて備蓄している脂肪と、どちらを優先的に使用するかというような選択を、神様が間違えるわきゃないだろう?ということです。

がん末期の方の病状推移でも明らかですが、まず脂肪を消費しつつ、活動性も低下していますから主要骨格筋量も減少してきます。ただ、これは、糖新生のために積極的にたんぱくを分解しいったというよりは、単なる運動量低下による自然の反応、つまり無用な筋量は維持しないということのために、筋量低下が起きていると考える方が妥当であると思われます。

体脂肪がほとんど無くなってくるときには、多くの場合たんぱく質消費も進んで骨格筋等の筋量も著しく減少してくるわけですが、それでも呼吸とか心拍、嚥下に必要な筋肉などは、最後の最後まで極力維持しようとします。1分、1秒でも生命を永らえようと、残酷とも思える仕組みが機能し続けるのです。

にもかかわらず、朝ごはんを抜くと低血糖になるとか、断食や少食がたんぱく分解が優先されるから、非常に健康に悪い、基礎代謝が落ちるとか、訳のわからない主張をされる方は、ウソつきであるか、余りにも勉強をしていないかのどちらかであって、どちらにしろ学者であるなら完全に失格であると言わざるを得ません。

空腹時血糖値

江部康二先生(糖質制限食提唱者)の実践、ご研究でも明らかなように、ヒトは脂肪、たんぱくの備蓄があるうちは、その方が遺伝的に持っていると思われる要素である、空腹時血糖値は死守されます。

完全に糖質摂取を止めてしまっても、糖新生を行って最低限の血糖値を維持しているのです。糖質を制限したからといって、血糖値がどんどん低下してしまうといったような事実はありません。

ただし、糖尿病の傾向があって、空腹時血糖値が遺伝的な資質よりも高めであった人は、本来の遺伝的設定空腹時血糖値に落ち着いてきます。

そういった事実からも、1食抜いた程度で血糖値が下がり過ぎるなどということはまったくあり得ないことです。

さて、ここまでは「朝食を抜いたらえらいことになる」ということがまったく事実ではない、ということの説明であって、朝食は摂らない方が良いということの説明ではありません。次に摂らない方が良いのだという根拠をお示しします。

自律神経の面から朝食を考える

 自律神経の面から朝食について検討すると、朝食を摂ることがかなりの人にとって大きなマイナスになるということが理解できます。

ヒトは交感神経興奮時と副交感神経興奮時では血液の流れるルートを切り替えて、言いかえれば血液の使い分けをすることによって効率の良い生き方ができるように設計されています。

戦い(捕食、防衛)と消化吸収を同時に行わなければいけない状態というのは、確率的に高くないので、それを同時に遂行するための用意、態勢は備えておらず、多くの場合には交互に使い分けるということによって対処する設計になっています。

突飛な例えかもしれませんが、例えば、容積が極めて限られている潜水艦は三段ベッドで、しかも乗員数のおよそ1/3のベッド数しか用意されていないのだそうです。もちろん上級士官用は別のようですが。

軍用艦船における任務は原則三交代制による24時間勤務で、非常時には全員が起きていることになりますから、その数で十分足りるのだそうです。

個人用の専用ベッドスペースを各々確保するくらいなら、少しでも多くの兵装、弾薬を搭載したいわけで、軍用艦船であれば当然ということになるでしょう。

ヒトも同じで、この程度の身体で適当な戦闘力、耐久性、持久性をバランスよく備えて、総合的な生残率を上げるためには、かなり高度なレベルの妥協が必要になってきます。

ですから、交感神経、副交感神経の優位な状況を同時にではなく、交互に興奮させて上手に使い分けているということです。

生理学上もこれは明らかなことで、一部の生理学書には『交感神経興奮時には消化管への血流は著しく減少する』と明記されています。

捕食活動、闘争、逃走などの行為を行う際に、同時に栄養を確保、貯蔵する、あるいは身体の修復を同時進行で行おうとすることによって戦闘能力が低下し、結果的に死亡率を上げるようなことがあっては何の意味もありません。

闘争、逃走時には交感神経系の能力を最大限発揮できるように、副交感神経系を休止状態にしてしまうということです。

一方、夜間熟睡時は副交感神経優位の頂点とも言える状態です。消化・吸収能力は最大限に発揮され、身体の修理や成長もこの状態で促進されるようになっています。

寝る子は育つ、病人は基本的には寝ていなければいけない、ということはこの点からも明らかなことです。

そして、朝、目が覚めます。本能は何をさせようとするでしょうか?睡眠の続きである消化吸収ではなく、交感神経を十分に働かせて命がけの捕食活動を始めようとします。

つまり、自律神経が副交感神経優位状態から交感神経優位状態に切り替わるということです。

前日に食べた食物の栄養を余すところなく消化、吸収し、使いきれなかった分は備蓄するため、就寝中には消化管に十分な血液供給をしていた副交感神経優位状態から、骨格筋への血流量を劇的に増大させることができる状態、交感神経優位状態に切り替えるようになっているということです。

今日では、起床直後から命がけの活動というようなことは少なくとも日本の一般人にはあり得ないことですが、そういった神経の作用は原始時代から受け継がれた仕組みですから、命のやり取りではない堅気の仕事?であっても、学習であっても、競争心理が働くような状況では、自動的に交感神経興奮状態という戦闘モードに切り替わろうとします。

自律神経を混乱させる愚

自動的に交感神経興奮モードにスウィッチされようとする時に、食事をしたらどういうことが起こるでしょうか?脳や骨格筋に血液を優先的に回す準備をし始めたところに、消化管へ食物を入れてしまうわけですから、不本意ながら血液を両系統に再配分し直さなければければなりません。

しかし、再三申し上げているように両系統に十分に供給するだけの余裕はありませんから、どちらかが不十分になるか、両系統ともに不十分になるしかありません。

(コラム;やや太り気味のほうが健康?)

頭が十分に働かず、骨格筋に血液を十分に供給できないか、あるいは十分な消化吸収活動ができないか、さらには両方とも満足な働きができなくなってしまうかです。

ここで日常生活のうえでの常識を思い出していただきたいのですが、食後に目が冴えて仕方ないという方がいらっしゃいますか?

食後は自然と眠くなってしまうというのが普通ですね?私も月に3~4回は講習会、講演会で皆様にお話をさせていただく機会がありますが、午前~午後に及ぶ終日講習会ですと、昼食休憩後に睡魔と必死に闘って聞いてくださっている様子を演壇から観察させていただいております。

これは私の個人的な感想ということになってしまいますので、客観的なデータからそれをお示ししたいと思います。

データで示すと

平成16年6月に報道された内容ですが、大阪府赤十字血液センターが献血者約33万人について、献血時点での食後経過時間と献血後の意識喪失、めまいなどの発生率についてまとめた調査結果です。

この症状は「血管迷走神経反射=VVR」というのだそうですが、献血後にこの症状を起こした人が調査期間中に1,055人出て、そのうち、食後二時間未満の人の発生率が際立って高かったという報告です。

それ以前の常識では、欠食状態で献血をすると貧血を起こしやすいから、午前中に献血するなら絶対に朝食を欠かしてはならないと考えられていましたが、献血直前に食事を摂るとかえって貧血症状が起こしやすい、ということが権威はあるが作為のない準公的機関によって、統計的に証明されたということです。

さらに注目すべきは、食後8時間以上経過している場合でも、食後4時間未満と比較した場合にその発生率が明らかに低いということです。

朝食を抜くのがベストという結論は絶対に困るということであるのか、そのようなことは考えるだけで恐ろしいと考えていたのかは判りませんが、14~15時間以上の長時間欠食(単に朝食を摂らないということですが)については、残念ながらデータを取っていないことが惜しまれます。

一般的な献血量としては、1回400ccが標準ですから、肉体的には400㏄の出血が生じたのと同じ状態です。少なくともこのような特殊条件下では、直近の食事後の経過時間による血糖値低下(といっても空腹時血糖値に戻っただけです)と比較しても、ヒトにとってより深刻な問題であるはずの脳貧血症状が、食後の経過時間が短いほど起こりやすいということです。

この事実について、統計結果をまとめた大阪府赤十字血液センターの担当者は、消化器官が消化吸収のために血液を集めてしまい、そのために頭部の血流量を十分に確保できなくなることが原因ではないかと推察していますが、まさにその通りでしょう。

血糖値を一時的に高くしてやったとしても、脳貧血を起こしてしまえば脳の機能はそれ以上に低下してしまう訳で、やる気が出ない、学習能力が低下するといったような次元の問題ではありません。

自律神経の混乱は重大な問題を起こす原因になり得るが、欠食時間が長くなったとしてもそれを十分に補うシステムが完備しているから何も心配することはない、ということです。

もっと突っ込んだ言い方をさせてもらうならば、そういった機能の使い分け訓練は日常的にやっておいた方が良いのではないか、ということでもあります。

それでも朝食が重要とする根拠になった実験

 ヒトは精神的要素が強すぎて、環境の違いによる知能、頭脳の能力の高低の判定が困難で、朝食を抜いた場合と、摂取した場合の同一人物による能力差についての信頼に足るような実験は存在しません。

学会で発表されたものも数例はあるようですが、簡易朝食を開発、販売している会社の実験データ(その会社の製品を食べたグループが最も能力が高かったとするような)などで、とても客観性があるとは言えないものです。

しかも、それらの実験の多くは、もともと朝食を食べる習慣を持った人々に、複数種の朝食を摂らせるか、まったく摂らせないかという条件の違いを比較したもので、もともと朝食を摂る習慣のない人に食べさせた場合、いつも通り食べなかった場合という条件での比較実験は実施されておりませんから、不十分であると言うしかありません。

それでもなお、朝食は絶対に食べるべきだとするグループのなかで、比較的科学的な思考ができる方々の根拠となっているのは、マウスの実験のようです。

空腹時血糖状態のマウスと十分に血糖値をあげさせた状態のマウスに、迷路を覚えるまでの時間を競わせる実験で、血糖値が高いマウスの方が早く迷路の脱出ルートを覚えるという結果が出たとされます。

この実験に関する文献を新ためて探しているのですが、発見できず以前調べた時の私自身の記述と、記憶に基づいて論述しておりますことをご了承ください。

まず、これらの実験の客観性を確保するためには、健康で正常なマウスのデータ、健康なマウスの空腹時血糖値の正常範囲であるとか、同じく食後血糖値の正常範囲を確定させる必要があると思われますが、マウスにはそれが存在しません。

ヒトの寿命は平均して80年くらいはあることになっていて、糖尿病による高血糖が原因となる重篤な合併症が現れるまでの期間は10~20年、場合によっては30年近くかかる場合もありますから、ヒトは血糖値コントロ-ルを精密に行う仕組みを備えています。

一方で、マウスの寿命はどのくらいかというと平均して2年程度とされていますから、マウスは血糖値を精密にコントロールする仕組みをもともと持ち合わせていません。無駄な、意味のない能力を持つような余裕は、進化の競争の中では絶対に許されないからでしょう。

判明しているのは、正常と思われるマウスであっても食後血糖値の上昇度はヒトよりかなり高い(正常な人の上限値140mg/dl に対して、正常マウスであっても170mg/dl という数値をあげている研究者がいます)ということ、また、に属するマウスは絶食と呼べるような時間が存在しない食性であり、絶食に備える仕組みも十分ではないようで、絶食時間が長いと空腹時血糖値が徐々に低下してくる傾向があると述べている研究者もいます。

つまり、絶食によって血糖値が低下しているマウスはヒトにおける空腹時血糖値ではなく、人であれば軽度の低血糖症状に陥っているマウスである可能性が高いということです。

低血糖症状を起こしかけているヒトとそうでないヒトを比較したら、知能程度に大きな差異が現れるのが当然であって、これは朝食を抜いたヒトの昼近くにおける知能の程度を類推する実験としては、まったく不適当なものであると申し上げたいと思います。

仮に百歩譲って、血糖値が高い方がいくらか知能レベルは上がるという事実があるのだとしても、長期的には他の細胞にダメージを与えながら、わずかばかり脳の能力をあげることにどれだけの価値、意味があるかということです。

この薬を使うと睡眠時間がうんと短くて済んで、期間あたりの学習能力がうんと向上するからといって、受験生である自身の子供に覚せい剤を使わせようとする親は絶対にいないでしょう?

覚せい剤の場合には、短期的に学習能力が向上する(疲労感を感じなくなるということ)ということは確実でしょうが、中長期的な影響を考えれば、トータルとしては十台長いがあることが明白であるからです。

糖尿病を治療するとバカになる?

もう一つ矛盾する事実があります。高血糖によって知能が向上するという事実があるのだとすれば…、という程度では前提条件が不十分ですから、もう少し細かく設定してみます。

空腹時血糖値が70~110mg/dlくらいのレベルより、130~140mg/dlくらいのレベルであった方が、同一人物の知能レベルが向上するという事実があるのだとすれば、あるいは、食後血糖値が140mg/dlという正常な血糖値コントロールができる人と、食後血糖値が240~250mg/dlにまで上がる人のほうが知能が向上するのだとしたら、あることに気付かなければなりません。

マウスの実験から類推すれば、血糖値レベルが高すぎることによって知能の低下が生じるとはされていませんから、ヒトもマウスの食後血糖値170mg/dl 程度あれば、知能レベルを向上させられるという可能性が出てきます。

次に、食後血糖値の高い状態はどの程度の時間継続されるものであるのかを知る必要があります。

各種報告によって、食事内容等によって相当なバラツキがあるのですが、(要;血糖値グラフ等)正常者が安静状態もしくは軽度の労作程度の状態を維持しているときであれば、血糖値は食後すぐに上昇を始め、ほぼ1時間後にはピークに達して、およそ3時間で空腹時血糖値レベルに戻るとされていま。

無条件で糖尿病と診断されるヒトの場合はどうかというと、かなり個人差はあるのですが、あるデータによれば食後すぐに上昇を始め、およそ2時間半後にピークに達します。その状態からその人の空腹時血糖値レベルに戻るためには、さらに3時間~5時間程度要することになっています。

つまり正常者であれば、食後血糖値を高く維持できる時間はおよそ2時間程度であり、そのピークも低いし、一方、糖尿病の人はそれが5時間程度続くと思われ、しかもピークは正常者の値をはるかに上回ります。

次に、糖尿病が発覚するまでの状況を振り返ってみましょう。多くの方が承知しているように、糖尿病には一部の例外的な発症状況(Ⅰ型糖尿病、劇症Ⅱ型糖尿病)や長期間糖尿病であった結果として顕著な尿糖が出るといったことを除けば、まったく自覚症状はありません。だからこそ怖いと言われるわけです。

それではどうして糖尿病であることが判明するのかというと、少なくとも毎年欠かさず健康診断(血液検査)を受けていたか、あるいは他の病気、怪我で入院等をした時に偶然発覚するという以外にはありません。

つまり、実際は何時から糖尿病を発症していたのかということは、欠かさず定期健診を受けていた人以外ははっきりしないわけです。

そうするとどういうことが言えるかというと、多くの糖尿病患者の高血糖は相当期間見逃されていたということであり、その方の能力は病的な高血糖のおかげであったということになってしまうわけです。

ですから、空腹時血糖値状態で知能程度が明らかに低下するなどということが、万々一にも起こるのだとすれば、言葉を変えれば糖尿病の人は高血糖状態を病気のおかげで維持できていたから、高めの知能程度でいられたということになります。

もしそうであれば、糖尿病治療として血糖値コントロールを始めたとたんに、その方の能力は低下してしまうはずで、人によっては使いものにならない状態になってしまう可能性があることになりますが、私はそのような事例を耳にしたことはただの一度もありません。

「あの人、糖尿病治療始めてからダメ人間になっちゃたよね。彼のキャリアもこれまでだな」とか、「受験が終わるまでは、お子さんのインスリン治療は延期しましょう。受験に失敗したら大変だから」という事例も聞いたことがありません。

本当の意味での専門家は、そのようなことはまったく心配していないからです。薬剤によって血糖値をコントロールしたからといって、知能レベルが低下することなどまったくあり得ないことだし、これらが非科学的な都市伝説に過ぎないということがお解りいただけたのではないかと思います。

糖尿病発症のリスク上昇と低血糖の恐ろしさ

 糖尿病は、予備群、隠れ糖尿病(食後血糖値のみ正常値を超える群)を含めて確実に増加し続けています。

50~60年前には決して一般的な病気ではなかったのですが、今日では日本人の5人に1人近くがこのいずれかの状態になっているとされています。

糖尿病には大きく分けて、ウイルス感染が原因とされるⅠ型と、栄養過剰等が原因となるとされるⅡ型糖尿病があります。これから解説するのはⅡ型糖尿病についての解説であるということをまずお断りしておきたいと思います。

このⅡ型糖尿病の原因にはいくつかの仮説があり、必ずしも定説にはなっていないことになりますが、摂取エネルギー量の増加、とくに摂取エネルギー総量が充足されているという状況下における糖質過剰とエネルギー消費量の減少、これによってもともと遺伝的にもっているインスリン分泌能力が追い付かなくなってしまった結果であろうと考えられています。

発症がインスリン要求量の大小と遺伝的分泌能力の引き算で起こる、というほど単純な問題ではなさそうですが、血糖値ピークが大きいほど、上昇している時間が長いほど、インスリン要求量は増加するはずである、ということは確実に言えます。

そして、細胞がダメージを受ける可能性のある血糖値レベルである、例えば170mg/dl(この数値に裏付けのある根拠はありません。私が設定した適当な値です)の状態が毎日6時間生じるのと、340mg/dl まで上昇する状態が毎日3時間ある場合とで、HbA1c(ヘモグロビン・エー・ワン・シー=直近2カ月間の血糖値平均値を表す指標検査数値)の値はほぼ同じになるはずです。

つまり、グラフで説明すれば血糖値が一定以上になっている部分の面積の大小によって、Ⅱ型糖尿病の発症率も影響を受けるはずであるということになります。

そして、この面積を減らすには三つのアプローチ法があり、糖質制限食のように血糖値が上がらない、あるいは上がりにくい食材を選ぶか、食事総量を減らすか、食事回数を減らすかという方法です。

それでも、遺伝的にインスリン分泌能力にいささかの異常のない人であれば、どのような食材、食事量、食事回数であっても糖尿病を発症することはないということになっていまして、例えば、あんこ型のお相撲さんの多くが糖尿病である、または引退後ほとんどが糖尿病になるというような事実はありません。

力士の糖尿病発症率は、引退後ということになると明らかに高いのですが、それは、食事習慣(量と質)があまり変わらないのに、運動量が激減するからであろうとされています。

つまり、現役時代よりエネルギー消費量が激減するのに、摂取エネルギーは見合った量としては減らないために、ブドウ糖を処理するためのインスリン要求量が相当増大してしまう、いうことであると思われます。

それでも、単に食べすぎたら、肥満したらそのほとんどが糖尿病になる、といった性質ではないことがお分かりいただけると思います。

何を申し上げたいかというと、遺伝的に糖尿病を発症する可能性が少しでもある人であれば、過食、つまり血糖値が高い状態、前述の「血糖値が一定以上になっている部分の面積」を大きくすると、糖尿病発症率は確実に上昇する、ということです。

生徒、学生全員に糖負荷試験を実施して、糖尿病の発症確率を確認してから朝食を勧めるならともかく、一切そういったことは調査せずに、科学的な根拠すらなく、それ食わせろ、やれ食わせろと朝食を推奨するということは、犯罪的ですらあると申し上げたいのです。

さらに申し上げたいことは、過去に糖尿病で恐れられていたのは糖尿病性昏睡であって、糖尿病性腎症でも糖尿病性網膜症でも、糖尿病性壊疽でもなかったということです。

高血糖を放置しておくと、いずれ異常高血糖状態に陥って意識を失い、そのまま絶命してしまうという糖尿病性昏睡に陥ることを恐れていたのであって、そのために血糖値コントロールが必要であるということになっていました。

ところが、今日では薬剤の過剰投与による低血糖状態の積み重ねが原因となって、腎症、網膜症、壊疽が起きている、つまり糖尿病合併症の多くはむしろ医原病ではないか、という見解が増加しつつあるというのが現実です。

これは私が実際に聞かせていただいた体験談ですが、来週にも糖尿病性壊疽で足指の切断手術を受けることが決まっていた方から聞かせていただいた内容です。

その方はかなり以前からインスリン自己注射をしている重度のⅡ型糖尿病の方で、注射後たびたび、冷や汗が出たりやや意識が遠のくような感覚を感じていて、主治医にそれを受診のたびに訴えてきたのだが、まったく聞き入れてもらえなかった、とのことでした。

データ的には適切に血糖値はコントロールされているということで、同じ単位のインスリンを処方され続け、注射し続けて、結局切断することになってしまいました、という内容です。

高血圧治療でもまったく同じことが起きているのですが、十分な科学的、医学的根拠もなく、ただただ呪文のように、「高血糖は悪」、「高血圧は悪」ということが医師の頭に擦り込まれており、多くの医師は上の値が期待値レベルにさえなっていれば良しと考えています。

その治療、薬物過剰投与の結果生じる低血糖、低血圧の恐ろしさに対しては、まったくと言って良いほど配慮されていないという現実があるのです。

過剰投与によって生じた低血糖、低血圧による一過性脳虚血によってどれだけの犠牲者を出してきたことでしょうか?

生食療法について

古い話で恐縮ですが、西式のおかげで命を救われたと言ってくださった方々のうちの相当数の方が、まだ日本に抗生物質系の抗結核薬が入ってくる前の重症結核の方々でした。

とても命は助からないであろうと半ばあきらめつつ、「座して死を待つくらいなら、あの西式とやらをやってみようか」という方が大勢いらしたようです。

最初に始めたグループの方々のなかから、回復傾向を現す方が出始めれば多くの方々が試してみたはずです。

不幸にして回復なさらなかった方々は結果について語ることはありませんから、有効率であるとかのデータはまったくないのですが、まだ私が若い頃に何人もの方々から、「私はあなたのおじいさんに命を助けていただきました」という形で代わりにお礼を言われたことがあって、その中の多くが戦後の重症結核の方々だったのです。

そして、不治の病であった結核に対して有効とされる西式健康法の各種療法の中で、欠かせないとされていたのがこの「生食療法」です。

西勝造自身、経験的にはその有効性に絶対の自信をもっていた「生食療法」ですが、なぜ有効なのかということについてはほとんど解明できませんでした。

欧米でビタミンCの研究が飛躍的に進み、各種論文を入手したときには「生食療法」の効果はビタミンCによるものであると考えたこともありました。

それ以前はどうにも説明ができず、そのレシピ内容から地のエネルギーと太陽のエネルギーのいずれも摂ることができるから、といたような説明もしています。

科学的には意味不明と言われてしまいますが、その不思議な効果を説明するために蓚酸には有機蓚酸と無機蓚酸があり、加熱していない野菜類には有機蓚酸の形で含まれているが、加熱をしてしまうと無機蓚酸に変化してしまい効力を失う、といった説も展開しました。

もちろん詳しい方からすれば蓚酸は有機物に決まっていますから、「無機蓚酸?」ということになってしまうのですが、そういった質疑に関する文献も残されています。

これが苦しい説明である、ということは西勝造自身承知しており、その質問に対して「私は、加熱して生命力を失った状態の蓚酸を無機蓚酸と呼んでおり、生の状態で生命力があるもののことを有機蓚酸と呼んでいる」と回答しています。

卓越した科学的センスの持ち主である西勝造が、明らかに非科学的な説明をしてでも多くの人に実践してもらいたい、なぜ有効であるのかは説明しきれないけれども、重病、難病の人はぜったいに試してみるべきだ、という熱意から生じた勇み足的なものなのではなかったかと私は解釈しています。

今日ではかなり説明が可能になった生食療法

科学者であるから、きちんと説明できないことは主張したくない、しかし、これほど有効な療法を、説明が充分にできないからというだけの理由で書物などでは紹介しない、人には薦めないということでは、いくらか学者といえでもあまりに不誠実ということで苦しい説明をすることになったのでしょう。

ところが、今日、腸内細菌の研究が著しく、しかも急速に進歩してきたおかげで、生食療法の絶大なる効果の説明がほぼつくようになってきました。

ご存知の方も多いことと思いますが、カテーテルを用いて他人の大便水溶液を腸内に注入移植したり、最近の実験では便を冷凍してカプセルに入れて経口摂取させることによって、一部の抗菌薬関連腸炎を劇的に治癒させられるということが分かりました。「大便移植術」と言います。

実験的にも間違いなく効果が確認されていると、学会でも完全に認めていると思われるのはCDIと称される腸炎です。同種腸炎の20~30%はこれであるとされています。

CDIとはClostoridium difficile infection(クロストリジウム・ディフィシル・感染症)の略語で、習慣的に感染症とは呼ばれていますが、赤痢やコレラのように菌が食物等に潜んで口から入って腸管で増殖するのではなく、抗菌薬(抗生物質等)によって他の特定腸内細菌を殺しすぎたために、腸内で このクロストリジウム・ディフィシル菌が異常繁殖してしまった結果引き起こされる腸炎であるとされています。

日本国内でも、最近、海外における研究を受けて、従来の治療法では完治が困難とされる「潰瘍性大腸炎」や、その他の腸炎等に対する臨床試験も始められており、よい結果が出つつあるといった状況であるとされています。

がんの原因も腸内細菌叢の悪化によるという見解もありますし、ほぼすべての疾病の一因として「ストレス」が挙げられているように、まもなくすべての疾患の原因の一つとして「腸内細菌叢の悪化」が加えられることになるのは、ほぼ確実であると思われます。

これでピンと来た方も相当おられるのではないかと思いますが、「生食療法」は、太陽と大地のエネルギーを摂るためでなく、空気中(地上と言うべきかもしれません)、大気中に生息する細菌群と、地中、土壌中の細菌群を満遍なく充分に摂取、補充する方法であると解釈すると、すべての筋が通ってきます。

細菌類は無性生殖ですから、有性生殖生物のようにDNAの数限りない組み合わせによって、新たな可能性を求めるということができません。

細胞分裂による増殖は突然変異以外には変化が生じませんから、よい結果が出る確率は決して高くはないのですが、世代交代時間が極端に短いということ、DNA構造があまり複雑でないということを利用して、それなりに変異していきます。

一人の人間の大腸内というきわめて限られた環境下においては、その突然変異の可能性もかなり限定的になってくるのではないかと思われますが、野菜の根に付着している土壌菌類と、空気中を漂っている細菌類の種類、変異の可能性は無限大であるといえます。

そういった細菌類をとにかく多種多量に、一般的にヒトにとって好ましい腸内細菌類を育てると考えられている野菜等の植物、しかもそれを擂り潰すことによってより細菌類が繁殖しやすい状況を作ってやって摂取する、ということであろうと考えられるのです。

コラム「なぜ自己培養ヨーグルトはダメになる?」を入れる

生食療法の基本的な実行法

詳しくは「ベジタブルジュース・西式健康法生野菜汁」(㈱平河出版社発行)をご参照いただきたいのですが、ごく簡単に解説しますと、野菜類の根の部分と葉の部分をおおよそ等量用意します。重量でも、見かけのカサにおける等量であっても、その辺りはあまり神経質になる必要はないものと考えられます。

それらを、できるだけ細かく磨りつぶしてどろどろの泥状汁にして、その全量を摂取するというのが基本的な方法です。

繊維分まで全部摂るとどうしても胃がもたれて負担になる、という方は、布などで繊維分を濾して液体成分だけ摂取しても構いませんが、腸内細菌類の中にはヒトには消化吸収ができない、植物の主要構成成分であるセルロースを分解して自らの栄養分とする細菌もいますので、胃に過度の負担にならない範囲であれば繊維分も摂取したほうがなお良いことは間違いありません。

使用する野菜は健康な人、つまりこれといった病気があるわけではないけれども、健康維持、保健というようなことが目的である方は3種類、一応診断名がつくような病気をお持ちの方は5種類以上の野菜を使用します。

根菜類と葉物野菜の割合、例えば全部で7種類の野菜を使いたいとしたら根菜類は無理してでも3種類は用意するべきかと言えば、とくにそういった気の使い方をする必要はありません。根菜類はニンジンだけでも別にかまいません。全体量として根と葉がおおよそ等量であれば。

また、一方で断食療法に次ぐ、超低カロリー療法、超少食効果も期待していますので、もともと動物に食べさせることを目的としたナスやキュウリなどの実野菜(俗にいう”生りもの”果物も同じ扱いです)や芋類も原則として用いません。

別な視点から検討しますと、人が容易にエネルギーとして吸収できる食材を多く摂ってしまったら、従来の腸内細菌にとってもエネルギーとして十分に利用できることになってしまいます。

人がエネルギー源として利用が難しい成分ばかりを摂れば、これまで充分に育っていなかった腸内細菌の勢力を伸ばしてやれる可能性が高くなる、ということであると考えられます。

完全生食療法を実践する場合の一日総摂取量は、古典的な本では300匁~350匁となっていまして、これをグラム表示に換算すると1,125g~1,312gということになりますが、当時の平均的体格を考えるならば、最大量は1,500~1,600g程度と考えてよろしいでしょう。

なぜ病人は野菜の種類を増やすのか

 一般の人が考えるのは、食養生的な発想ということになるのかもしれませんが、病人であればこそまんべんなく、できるだけ多くの栄養素を摂るべきだから、とお考えになるかもしれませんが、残念ながらそれは誤りです。

体力の弱った病人ほど野菜の種類を増やさなければならない理由は「植物のほとんどは毒を持っているから」です。

病人は体に入る毒素の種類をできるだけ分散して、その影響を少しでも減らすために5種類以上ということになり、可能なら10種類でも15種類でも多ければ多いほど良いということになるのですが、入手が困難でしょうからあまり無理しなくても良いように「5種類以上」であれば実質上問題はないであろう、という意味です。

ほとんどの植物には毒がある、という言葉は多くの方にとって衝撃的であるかもしれませんが、実際にはほとんどの方がよく承知している事実です。

桜の葉には「アメリカシロヒトリ」ですし、桑の葉には「カイコ」だけです。キャベツ、ハクサイ、ダイコンなど、野菜類の多くを占めるアブラナ科の野菜類には、モンシロ蝶等(俗に言うアオムシ)やヨトウガ類など多数の昆虫が食用とします。

人が抵抗なく、美味しいと感じて食べる野菜類は毒素成分がもともと少ないからと言えますし、有名な話としては、桑の葉にはカイコ以外は食用にはできない強い毒素が含まれています。

もっとも、毒素といっても、桑の葉に含まれる成分は昆虫が栄養にできないようにする成分であって、葉を食べたらたちどころにもだえ苦しんで死んでしまうというような種類の毒素ではありません。

桑の葉には糖類の吸収阻害成分が多量に含まれているため、食べてもまったく栄養とすることができずに毛虫、アオムシは死んでしまうのだそうです。

桑の葉毒素に対する適応をしていないけれども、賢い昆虫はそのようなところには産卵しないし、その幼虫もそういった栄養にならないものを食べまくっている暇はありませんから、結局は「桑の葉は食べない」ということになります。

蚕(成長すると「カイコガ」という蛾になる)は他の昆虫類が適応することのできなかった、桑の葉に含まれる糖の加水分解妨害酵素(つまり、桑の葉をいくら食べて糖類を吸収できないことになる)の働きを受けない分子構造の糖加水分解消化酵素を持っているのだそうです。

この桑の葉に含まれる、糖加水分解酵素阻害作用を有する成分(αグルコシターゼ阻害作用)の研究もずいぶん進んでおり、天然のブドウ糖吸収阻害作用を期待して健康食品として利用されており、その有効性は学問的にもかなり高く評価されています。

また、アブラナ科の植物にも「イソチオシアネート類」の辛み成分が含まれていることが知られており、これらには抗菌・殺菌作用があることが知られています。

植物が、昆虫による食害を防ぐ目的で備えた自己防衛のための毒ですから、もちろん人を殺すような強力な毒性があるわけではありませんが、それでも体力の弱った病人が、例えば「完全生食療法」を実践して野菜類ばかり尋常でない量を摂るとなると、その害は無視できない可能性もある、ということです。

であるから、病人は野菜の種類をできるだけ増やすべきであるし、俗に言う「アクの強い野菜」は少量にするか、避けるようにという注意が添えられるわけです。

「アクが強い」ということは、食べられるけども多少の問題はあるという本能の感覚であると思われます。

人が食べてもそれなりのクセがあるような野菜類(例えばごぼう、春菊等)は、健康者でも少量とし、病人の場合は極力避けるべきです。

乳酸菌等の効果

 多くの方が、同じ乳酸菌といっても、腸内の乳酸菌とヨーグルトを作る常在菌としての乳酸菌はタイプが違うからいくらヨーグルトをいくら食べても無駄、という話を聞いたことがあるでしょう。

もちろんまったく無駄であるなどということはなく、ヨーグルトの乳酸菌等がせっせと産生した乳酸、酢酸等の酸類によって、多くの有害菌の生育を相当抑制してくれますし、もともとのビフィズス菌を含む腸内乳酸菌群にとって乳酸、酢酸類は毒物ではありませんから、その生育が妨げられることはありません。

ですから、それなりに有効ではあるのですが、絶対量が少ないとほとんど効果が現れないであろう、ということも一方の事実です。乳酸菌そのものであろうが、乳酸菌生成物であろうがです。

「なんと乳酸菌が100億個」等といったフレーズを売りにしたサプリメントが宣伝されています。「100」億という数値だけを聞くと「とにかくすごい数」という印象を受けますが、問題は比率です。もともとの腸内細菌数に対してどの程度の割合で入れてやるかということです。

一般的に腸内細菌数の総数は100兆個とされていますから、100兆個に対して100億個がどの程度の比率になるのかを確認しないと意味がありません。

100兆というと「1」のあとに「0」が14個続きます。一方100億ということになると「1」の後に続く「0」は10個です。

両方の数値の末尾から同じ数だけゼロを消していきますと、1万個対1個という比率になります。いくら、あなたが望む武器はすべて与えられて完全武装をしていたとしても、1人で10,000人のゾンビの中に入って戦う勇気、気力が出るでしょうか?精一杯がんばるとしても、相手は数十人まででしょう。

100人いたら、弾薬を再装填している間にやられてしまいそうで、どんなに訓練を受けていたとしても、たぶんアウトです。

100人の最新装備で完全武装した歩兵中隊であっても、単独で100万の軍に攻撃を仕掛けるというのは自殺行為です。何百人、ひょっとしたら1,000人くらいは倒せるかもしれませんが、全滅必至です。

それでも毎日、こつこつと確実に1個中隊を送り続けていれば、やがて100万人の軍に対して勝利できるか?

結論から言えば完全に間違っており、軍事用語でいうところの『兵力の逐次投入』という最悪の戦術です。

既存の細菌類も毎日増殖して補充され続けますから、まったく効果が期待できないということになります。

戦略というものがわかる人であれば、まず、敵の勢力地域に核爆弾か、徹底的な空襲を加えてから乗り込むのであれば、希望的観測として必ずしも勝機がないわけではない、と考えるかと思いますが、それでも全滅の可能性の方がはるかに高いと考えるはずです。

もちろん、乳酸菌をこの方法で摂ったとからといって、それによって国家間の戦争のように事態がより悪化するということもないとは思います。

ですが、ちょっと前に述べましたように、ヨーグルトであれば多量の乳酸菌生成物が含まれていますから、相当量を摂取すれば他の菌に対する抑制効果は十分に期待できるわけですが、その程度のドライ状態のビフィズス菌群、乳酸菌群をサプリメントとして摂ったとしても、ほとんど役に立たない可能性のほうが高いのではないか、ということを申し上げています。

腸内細菌の由来

 ヒトの腸内細菌の由来は、正確な意味では完全には解明されていません。母体の中にいるとき、つまり胎児の時にはヒトの大腸内は事実上無菌状態であるとされています。

ところが生まれてから数日~数週間経過すると新生児の大腸内はビフィズス菌、乳酸菌でいっぱいになります。

新生児は出生後1週間程度経過すると、それらの菌が99%以上、つまりほぼすべてがビフィズス菌、乳酸菌で占められるようになるとのことなのですが、出生直後はビフィズス菌、乳酸菌は逆に少数派であり、最初の主力菌群はむしろ大腸菌や腸球菌であるとされています。

新生児は原則として母乳しか摂取しませんから、母乳を栄養源とすることが前提のビフィズス菌、乳酸菌群が勢力を拡大してきた結果として、それらの分泌物である乳酸、酢酸等を好まないその他の菌は徐々に駆逐されていくということのようです。

ただ、これらの見解は将来的には変化する可能性がまだあります。というのは、乳児の腸内環境を完全に再現した培養法が確立されているという保証はありませんし、ついこの間まで、100種100兆個といわれていた腸内細菌が、今日では1000種100兆個といわれるようになったのも、培養技術の進歩がかなり貢献しているからです。

なお、多くのヒトの大腸内に1000種類の腸内細菌が存在するわけではなく、一人あたりでは3~400種類であるとのことです。

また、乳児の胃内のpHは5.0 程度であるとされていまして、胃液による殺菌力が非常に弱いから、口鼻等から入ってきた繁殖力の強い菌がまず大腸内で生育を始めるが、すぐに選手交代が起こって問題は生じないという設計コンセプトのようです。

ただし、母乳と人口栄養、俗に言う粉ミルク栄養との比較でも、乳児の腸内細菌叢はかなり異なってくるとされています。

人工栄養児は、母乳で育てている乳児と比較してビフィズス菌、乳酸菌の比率がやや低く、大腸菌、腸球菌の比率がやや高くなり、また、母乳だけを栄養としている乳児には見られることのない、大人にしか居ないはずの菌種が観察されるとのことです。

母乳を完璧に分析して、その構成成分、比率を徹底的に解明して作られているはずの粉ミルクでこういった差異が出るということは、まだ、哺乳類の母乳に対しての研究には見落としている要素があるということになります。

さて、話を本題に戻しますと、そのヒトの腸内細菌の由来ですが、帝王切開児と自然分娩時では新生児の数日間の菌叢はかなり異なるし、その影響はその後も相当期間影響するといわれています。

これは女性の膣内を酸性に保って、他の菌の繁殖を防いでいてくれているデーデルライン桿菌群(乳酸菌)が、出産時産道を通るときに強制的に胎児の口鼻に入り込むことによって、それが種菌となって育つから、という説が主流となっています。

そのことが知られるようになってから、欧米といっても実施例が圧倒的に多いのはオーストラリアなのだそうですが、帝王正解で出産した直後の新生児の口や顔や皮膚に、産道をぬぐったガーゼ等で産道内の液を塗って、帝王切開児であっても通常分娩と同じ腸内細菌叢、免疫能等を獲得させようとする試みがなされるようになりました。「膣液塗布」等と呼ばれています。

本当の意味での有効性、つまり、生育、成長後の優位性を証明するようなデータはまだ存在しないようですが、それでも乳児の腸内細菌叢構成が、自然分娩による新生児に極めて近くなるということは確認されているのだそうです。

こういった事実から、普通分娩児の種菌の主流は母親の産道から、帝王切開児は医療関係者や母親、親族等が持ち込んだ常在菌(大腸菌も含まれているということは、どれほど綿密に消毒を行ったとしても、ヒトの糞便由来の細菌である大腸菌群でさえ防ぎきれるものではないということが解ります)が新生児の口鼻から入って、種菌の最初のグループになるということです。

腸内乳酸菌と常在乳酸菌は別物

先ほども簡単に触れましたが、腸内の乳酸菌とヨーグルトを自然に作ってくれた常在の乳酸菌は別物というのが常識になっています。

いくら生きた乳酸菌入りヨーグルトを食べ続けたとしても、その効果はかなり限定的で、腸内細菌叢で暮らす100万の微生物類をすべて従わせるか、すべてをお気に入りに入れ替えるというようなことができるのなら、とっくに健康問題の8割は解決しているでしょう。

膣内に生息するデーデルライン桿菌群と呼ばれる乳酸菌群は、文献によるとグリコーゲンを食料にして生息し、代謝物として乳酸を分泌するそうなのですが、腸内のビフィズス菌、乳酸菌群でグリコーゲンを主たるエネルギー源にするという菌種は見当たりません。

一方大腸内のビフィズス均等の場合、腸壁からグリコーゲンが漏出するということは考えにくいですし、ヒトが常食する食品類でグリコーゲンの形で糖類が存在する食品はあまり多くはありませんから、一般的に言われているようにオリゴ糖などのその他多糖類が主たるエネルギー源であると思われます。

もっとも、牛の場合でもトータルとしては失敗でしたが、動物性の原料を混ぜた合成飼料の方が生育だけは良かったという事実もありますから、グリコーゲンしかなければグリコーゲン、本当はオリゴ糖の方が好きだけどね、ということがあるのかもしれません。

先ほども述べましたように、乳児の胃酸pHの酸性度は高くありませんから、鼻、口から侵入してきた、誕生時に周囲にいた方々の手先や体表、それらから遊離して室内空気中を漂っていた細菌類は容易に胃、小腸を通過して大腸に達し、そこに存在する大腸内のたんぱく質(おそらく、成長過程で小大腸絨毛から剥がれ落ちた絨毛細胞=胎便)を栄養として早速繁殖を始めるということなのでしょう。

通常分娩であれば、乳酸菌群(デーデルライン桿菌群)も相当数が先に侵入済みですから、その他の菌の影響はあまり受けない可能性が高いですし、帝王切開出産であれば、とりあえずは悪党ばかりが先に侵入することになってしまうから、いささか問題が生じる場合もある、ということになるかと思われます。

ただ、説明がつかないことはまだあって、新生児も数週間、数ヶ月経過して立派な?乳児に成長すると、ビフィズス菌や乳酸菌の種類も増えて、安定した乳児腸内細菌叢を形成すると考えられているのですが、それら、あとから増える腸内細菌の種菌はどこから入ってくるのか、どこかで新たに発生でもするのかということが問題となってきます。

現代最新医療機関の産婦人科分娩室内において、どこからサンプリングしても必ず大腸菌が検出されるというほど、衛生管理がお粗末ということはあり得ないと思われますが、 一般的な培養法では存在を確認できないほどの、ごくごく微量の大腸菌であればそれこそ完全滅菌室でもない限り、多少は存在するということなのでしょうか。

一方、産道にビフィズス菌が常在しているかどうかについては、今のところ定説はないようです。新生児においては、通常分娩直後からビフィズス菌が繁殖を始めるから、産道内にはもともとビフィズス菌も常在しているようだ、という消去法による推定ではないかと思われます。

腸内細菌についてはここ数十年の間にかなり研究が進み、本当に盛んに研究が行われるようになったのは、とくに医学を専門分野とする方々が本格的に研究するようになってからは、まだ十数年~数年のことですから、まだまだ判っていないことの方がはるかに多いのだよ、と言われてしまえばそれまでなのですが、何か、どこかに正解があるはずです。

ちょっと専門的な話ですが、産婦人科分野では各種膣炎の病態研究として、膣内細菌数を指標にすることがあるのですが、その際には、やはり、デーデルライン乳酸菌群として乳酸桿菌数の減少を指標にすることが多いようで、ビフィズス菌群を指標とすることはないようです。

乳酸菌と比較して、大腸内では圧倒的に優勢(とくに乳児では)であるビフィズス菌が指標として選ばれないということは、やはり膣内においては存在するかもしれないけれども少数派であろう、ということがいえるかと思います。

次にヤクルト中央研究所の研究ですが、出産前の母親の便中のビフィズス菌を培養し菌株を遺伝子解析により分類したところ、多くの菌株が新生児に引き継がれていることが分かった、という研究があります。

もっとも、逆に興味深いのは、被験者である8組の母子から見つかった総株種数は207種であり、そのうち6組の母子から43種の同一菌株伝播が確認された、となっているのですが、そうなると、2組の母子間では同一菌株伝播は起こっていなかったということですし、中には母親の便中には見られなかった、菌株を持っている乳児も存在したことをうかがわせます。

さらにいえば、母親の大腸内には棲息していなかったビフィズス菌も、その子供には多数繁殖していた可能性があるということを示唆するものと思われます。

そうなると、話は完全に振り出しに戻って、それならその他の菌はいったいどこから来たの?ということになるわけです。

乳酸菌であるなら、いろいろなタイプの菌株がいろいろな経路から人の消化管内に入ってきて、変異、繁殖したものと推定されますが、人の大腸内でしか棲息しないとされるビフィズス菌はどこから来たのか?帝王切開で生まれて、もちろん膣液塗布もしていない幼児、成人のビフィズス菌は?

ビフィズス菌、乳酸菌の侵入経路 

 ビフィズス菌の消化管内への侵入経路に関する文献はまったく見つかりません。たぶん、多くの研究者らが同じ疑問を抱いているのでしょうが、何の証拠もなしに学会で主張するわけにもいきませんから、誰も発表できないのでしょう。

大胆な仮説を述べさせていただくなら、基本的には他人の糞便経由でということになりそうです。そんなバカな、と多くの方は反論するでしょうが、大腸菌群の検査をするとかなりの場所から検出されます。食品を調理、管理する場所でも検出されることが多いですから、その他の衛生には気を使っていない場所で、ヒトや動物が生活しているところであれば、検出されるのが当たり前というくらいのものです。

一般的に大腸菌の検査というものは、全般的な衛生管理状態を示す指標として行われます。大腸菌群の多くは食中毒の原因菌ではないのですが、大腸菌群が検出されるということは極微量の糞便が実際にそこに付着したという証拠であり、人の糞便が極微量とはいえ付着した痕跡があるということは、手洗い等も不十分であったし、他の食中毒菌等もついている可能性が否定できない、という根拠になります。

その場合の細菌類は液体に浸されているわけではない乾燥状態ですが、今日ビフィズス菌を主原料とした医薬品(ビオフェルミン錠等)や健康食品で顆粒状のものが多種販売されているように、ビフィズス菌は乾燥状態でも生存可能です。増殖はできませんが、冬眠したような状態で生き延び、死滅はしないのでしょう。ただし、納豆菌のように芽胞を形成する能力はもっていないとされていますから、どのようにして生き延びて結果的に他人の大腸に寄生するのかは分かっていません。

俗に、排便された便の、見かけのカサの半分以上は腸内細菌の死菌といわれますが、一定割合で生菌も含まれているからこそ培養検査が可能であるということになります。

つまり、大腸菌が検出されるところには、必ず待機状態のビフィズス菌も存在するはずです。

中途半端な衛生管理、偏った殺菌を行い始める前は、いろいろなタイプ(株種)のビフィズス菌種菌を、それこそ毎日欠かさず補充することができたのでしょうが、その補充経路を自ら断ってしまったがために、腸内細菌叢の悪化が起こるようになってしまったとも考えられます。

であるからこそ生食療法が効く!!

ヒトの大便中の細菌を最新の技術で培養すると、一人当たり300~400種が検出されるということはすでに述べました。

そのすべての細菌に名前がついているかというと、もちろんすでに既知の細菌の方が多いことは多いのですが、それでもまだ名前がついていない菌、つまり細分類上(菌株まで分類しようと思えばという意味ですが)分類不能な菌株、大げさに言えば未知の菌株、新種の菌株ということになりますが、そういった細菌株が各人に何種類も発見されるのだそうです。

乳業メーカーが、特定の菌株をスターにして自社培養菌株の特性、優秀さを宣伝しているように、それぞれの菌株の生命活動、分泌代謝特性には各々特性があるはずで(通常は欠点もあるということになります)、われわれ哺乳類は常に最も有利な相手との提携、共生をもくろんでいます。

新生児の時には母親からもらった種菌を原料として、母乳しか飲まないという哺乳類独特の特殊な食餌内容で、ビフィズス菌、乳酸菌ほぼ100%の状態を維持し、他の細菌の繁殖による害をほぼ完全に防ぎます。

乳児期から離乳食の時期になると、母親が噛んで柔らかくしてくれた食材を口移しで食べさせてもらい、母親が口腔内で培養した乳酸菌群を日々補給してもらいます。

こういったことが期待できない離乳後以降は、新たな菌種、菌株をそれこそ死ぬまで補充し続けない限り、腸内細菌叢を健全な状態に維持することは困難であると考えられます。

同一菌株だけを純粋培養することは菌株そのものの好ましくない変異を惹起しますし、たとえ同じ菌株であっても大自然(明確に説明できなくて申し訳ないのですが)にもまれて耐えてきた菌、あるいは新種の菌を補充し続けない限り、腸内細菌叢は衰退してしまい、宿主であるヒトも同じ運命をたどる可能性が極めて高いということが言えるかと思います。

よく講習会でお話させていただく例え話なのですが、社員10人の会社で補充社員を1名募集した場合、応募者が1名しか来なかった場合に、その応募者が大変優秀である可能性は残念ながらあまり高くはありません。

なんと言っても零細企業の欠員募集で、学歴経験不問という条件ですから現実はそんなものでしょう。

しかし、何を間違ったのかそのたった1名の募集に対して1000人の応募者があったとしたらどうでしょう。

ここだけはお金をかけて、充分な経験、実績を有する経営コンサルタント会社に人選を委託して、そこから選ばれた1名であるとするなら、社長を即刻交代してその新人に会社経営を任せるのがベストな選択です。

細菌に対して入腸試験をおこなうことはできませんし、何を基準に選ぶかもまったく不明ですから、とにかくできるだけ数多くの候補生を現場に送り込んで、現場で生き残ったやつに任せる以外に方法はないでしょう。

そんな乱暴な方法で良いのか?とお考えになる方もいらっしゃるかもしれませんが、そういったことを続けてきた結果として今日の人類の繁栄があることを忘れてはならないと思います。

ヨーグルトのコラムでお話させていただいたように、母親からもらった菌だけの純粋培養ではどうにもやっていけないということは、とっくの昔に結論が出ています。

明らかな病原菌を除いて、ありとあらゆるタイプの菌類を彼らの理想とする食材とともに多量に摂る、そのための理想的な方法論が「生食療法」です。

さすがにそこまでは辛いという方は、暴飲暴食はしない、あまり動物性のものが多くなりすぎないようにする、という条件の元に、おかずの一品としてどろどろの泥状汁を加える、という方法でも相当な効果が期待できます。

人づくりは環境整備から

 菌づくりも環境整備から

 内容的には重複も多いのですがこの項の結論を申し上げますと、良い腸内細菌叢を作りたければ工業的に大量生産された菌株をいくら補充してもあまり効果は期待できないと思われますし、仮に大量に送り込んだとしても環境が整っていなければ定着率は著しく低いであろう、ということです。

失業率が高く低所得者層が圧倒的に多い地域では、日本は特異的に異なるようですが、一般的には治安が非常に悪くなるというのは世界的には常識です。

もともとは治安も良く、誰でもが住みたがる地域であったのに、空き家率が上がり始めたりすると、町はごみであふれるようになり、落書きが描かれ始めて、いずれは元々の住人も転居するようになって、その先は不法占拠される建物が徐々に増えてきます。

そういう地域以外では暮らす術がない人たちがますます集まってきて、全体の雰囲気もますます悪くなってきます。

ここでのポイントは、別に警察官の数を減らしたから治安が悪化したわけではなく、仕事がない、収入が非常に少ない、だから普通に暮らすといっても、どうすることもできない人の率が高いからというのが真相です。

腸内環境も全く同じで、見事に社会の縮図になっています。善玉菌の数を少し増やしたからといって、環境そのものが改善するわけではありません。一般市民、善良な人々が普通に暮らせる社会環境を作ってやりさえすれば良いのです。

 これは社会、政治問題としてはもっとも困難なテーマの一つです。そのようなことを実現する方法があれば教えてほしいと、世界中のまじめな政治家は切望していることでしょう。

でも、腸内環境であれば簡単なことです。食べるものに気をつけて、次々と無限の可能性を秘めた細菌類を補充してやることです。

くどいようですが、わずかな善人を町に強制移住させたところで、問題の解決にならないことは誰もが知っています。逆に昨日までの善人も生まれて初めて銃を所持するしかないかもしれません。

毎日、確実に良い環境作りの助けとなる植物類(野菜類)を食べ、新しい菌を外部から補充してやって初めて、環境と人づくりを同時に実現することが可能となります。

旧勢力を追放しようなどと思わず、ある程度共存しつつ腸内細菌叢を徐々に改善にしていこうという穏健派は、この生食療法、もしくは少食プラスおかずとしての泥状汁。

ただし、穏健派が最も留意しなければならないのが「便秘」です。便秘は大腸内の細菌繁殖を旺盛にしますから、うっかり便秘を見過ごしていると、いつの間にか悪い連中が勢力を盛り返してしまうこともあります。

なぜ、便秘が大腸内細菌繁殖を旺盛にするかというと、細菌たちにとって理想的培養器としての性質を完備しているからで、新たな菌は補充されない、古参の菌は居座って大繁殖ということでは良い結果になるわけがありません。

そんな甘い政策を採用するつもりはない、一気にけりをつけてやるといった方針の方にお勧めなのが「断食療法」です。

断食療法における最終段階では、腸内細菌叢もエネルギー不足で全滅し、といっても本当に全滅させられるかどうかは疑わしいのですが、腸内細菌を善玉も悪玉も、共に激減させることができます。

つまり、帝王切開時の新生児と同じレベルの菌叢にはできるということで、そこまでもっていけば、あとは食物の選び方で、一から新たな腸内細菌叢を構築することができますし、いかようにもコントロール可能ということです。

ただし、やはり過激な政策というものは抵抗も大きいですから、うっかりすると政権崩壊、ヒトの場合で言えば、命にかかわることも十分にあるという認識は持っていただく必要があります。

断食療法に関しては、別途専門書が発行されていますので、興味のある方そちらをご一読ください。

最後にひとつ、抗生物質の多剤療法で体内の細菌を一度根絶やしにして断食療法と同じ効果を手軽に得る、という方法論も考えたくなってしまいますが、これはやめた方が無難なようです。

というのは、大腸粘膜内に潜んでいる菌に対しては、抗生物質の経口服用や血管内投与(点滴)では成分が細菌まで非常に届きにくいのだそうで、うっかりすると、最悪の悪玉菌集団だけが生き残るという可能性もないとはいえません。

実際の話ですが、ピロリ菌除去術を行った結果、一時的に胃潰瘍の傾向は改善したものの、結局ピロリ菌を完全には駆逐できなかったうえに、腸内細菌叢が大きなダメージを受けて、便秘傾向がひどくなる等によってトータルでは体調がかなり悪化してしまった、という報告があります。

ビタミンCについて

「アスコルビナーゼ」については別項でも述べましたが、西式健康法創始者西勝造がとりわけ重要視したビタミンである「ビタミンC」についても少し解説をいたします。

まず、有名な話ですがほとんどの動物は自らビタミンCを合成する能力を有しています。多くの生物にとって、ビタミンCはそれほど重要かつ不可欠な栄養素であるということです。

そして、ヒト他哺乳類の一部は、どういうわけか非常に重要であるはずのビタミンC合成能力を失ってしまったわけですが、それでも生存競争を生き抜いてきました。

その能力を失った種で有名なところでは、フルーツバット(果物類を食する大型コウモリの俗称、総称)、一部高等猿類、ギニーピッグ(和名;天竺ネズミ、モルモット)が知られていますが、何分ともお金につながる研究ではありませんから、フルーツバットと呼ばれるコウモリは全種であるのか(たぶん違うのではないかと思いますが)、一部高等猿類とはどの種のことなのかということを、きちんと確認し分類した学者はいないかも知れません。

どうして、これほど重要な物質の合成能力を失ったにもかかわらず生存できたのか、不思議と言えば不思議なのですが、もともとビタミンCを豊富に含む食物を常食していたので、生きのびることができたという解釈が一般的なようです。

フルーツバットしかり、アフリカで発生したと思われる類人猿しかり、ギニーピッグは南米で食用家畜として飼育されていましたから、合成能力を失っても種として残ることができたのかもしれません。野生のギニーピッグは絶滅したことになっています。

ヒトも高等猿類の一種として立派に?合成能力を失っているのですが、アフリカ出身ということもあって生き延びることができたのではないかと考えられているようです。イヌイット(この呼称についても本来は説明が必要ですが省略させていただきます)がカナダ北部の北極圏に渡ってきたのは最終氷期の頃とされていますから、2万年以上昔のことになります。

果物や食用可能な植物をいつでも食べられるような環境でもなく、彼らが主食とするアザラシも草食動物ではありませんから、その消化管内に植物性のものがあるわけでもなく、どうして壊血病で絶滅しなかったのは不思議であるとしか言いようがありません。

キビヤックという、多数の小鳥をアザラシの皮に詰め込んだ発酵食品を食べているからという説もありますが、そのキビヤックの栄養成分についてはビタミン・ミネラルが豊富という表現しかなく、成分分析データもインターネットでは見つかりません。

ただ、原料・製法から考えるとビタミンCが豊富であるとはとても考えにくいですし、すべてのモンゴロイド系北方民族が食べているわけでもないようで、貴重な食材だから祝い事のときに食べるという記述もあって、どうも日常的に常食しているわけでもありませんから怪しい伝説ということになりそうです。

何を申し上げたいかというと、ビタミンCは研究対象としては手垢だらけの古過ぎるテーマであって、何も新しいことは出てこない面白くもなんともない研究対象ですから、最近ではだれも基礎的な研究はしていないようだということです。

ビタミンCの主たる作用

 ビタミンCについては、西式健康法でも特別な効能を標榜しているわけではなく、これからご紹介するのは一般的に言われていること、プラス比較的新しい内容ということでご紹介します。

コラーゲン生成にかかわる補酵素

ビタミンCは、ヒト体内の繊維状タンパク質の1種でありタンパク質全体の半分以上を締めるとされる「コラーゲン」を合成する際に欠かすことのできない補酵素です。

すでにご存じの方にとっては余計な説明ですが、他の動物のコラーゲンがヒトの体内にそのままの形で入ってくることは絶対にありません。

ヒト血中に取り込めるようにするため、消化という過程で他生物のタンパク質はバラバラにして、また、一部たんぱく質は酵素としての働きをしてしまいますから、そういった勝手な作用をさせないためにも他生物のタンパク質はバラバラにして、原則としてはアミノ酸という単位に、また、一部進化の過程で安全が確認されている組み合わせであれば、アミノ酸の重合体である「ペプチド」という状態で血中に取り込みます。

そのアミノ酸、あるいはペプチドを体内で組み立て直して、ヒト専用というよりその人専用のタンパク質を組み立てます。そして、そのアミノ酸を再組み立てして、ヒト用コラーゲンを作るために不可欠な補酵素がビタミンCというわけです。

ここでいう補酵素とは、酵素(物質としては球状タンパク質)ではないものの(分子量の少ない有機物ということになる)酵素反応によってアミノ酸結合、分子結合を行わせてタンパク質を合成する際に、例えば一時的に結合して預かってもらうような働き(一時的な受け手が存在しないと、目的とするアミノ酸結合、分子結合そのものを起こせない)をするのが補酵素です。

タンパク質ではないし、直接的な分子結合を行わせる(接着剤の働きをする)酵素としての働きをするわけではないので、補酵素という名前が与えられています。

だからといって、この補酵素が介在しないと成立しない酵素反応が多々あるわけで、それらの補酵素が不足すると、タンパク質(コラーゲン等)を合成することもできなくなってしまうということです。

完全かつ十分なコラーゲンが生成できなくなると、毛細血管を構成する細胞も不完全となって皮下出血がおこりやすくなり、その結果として濃過ぎる酸素に弱い組織細胞のDNAがダメージを受けることになり、がん細胞も生じやすくなると考えられます。

そういった微出血は、表皮の皮下のみで生じるだけではなくすべての器官、臓器で同じ現象が起きますから、ビタミンC欠乏あるいはビタミンの不足気味の状態は、常に軽度の多臓器不全を起こしかけた状態と表現しても過言ではありません。

抗酸化作用

 また、ビタミンCのもう一つの重要な役割として、酸化還元反応を容易に起こすという特性があり、体内の活性酸素を直接除去する働きがあるとされています。今日では、むしろこの抗酸化作用の方が重視されているようです。

ただ、この抗酸化作用というのも、サプリメントメーカーが都合のよいように解釈しているような面もあり、実際はなかなか難しい内容です。

ビタミンCさえ多量に摂っていれば、がんも怖くないというほど明確な効能、効果を期待するのは、ひいきの引き倒しということになりましょうが、だからといって慢性的な不足状態がかなり深刻な影響をもたらすということは言えるかと思います。

理想的なビタミンC摂取法

 ビタミンC摂取で最も重要なことは、常に血中濃度を一定以上に保てるようにすることです。

そのために、高名な化学者でありノーベル賞受賞者であるライナス・ポーリング博士の提唱した「メガビタミンC療法」には今日でも多くの支持者が存在します。

ポーリング博士の主張は、ビタミンCの役割・作用からすると常時その血中濃度を高く維持する必要があるが、容易に尿中に排泄されてしまい血中濃度を高く維持することは困難である。しかし、4~5グラムといった単位(4,000~5,000mg)で大量に摂取すると、ビタミンCの吸収が始まった後、血中飽和濃度に達すると同時に血中への吸収も一時停止して、その後は尿で排泄された分だけが徐々に血中に吸収されていく。つまり、大量に摂取すれば相当長時間血中ビタミンC濃度を血中飽和濃度に維持できる。これこそ理想的なビタミンC摂取法である、と提唱しました。

ポーリング博士の主張は、確かに、血中ビタミンC濃度を高いレベルで維持するという目的は達せられるのですが、非常に重要な視点が欠落しています。

それは、消化途中の食物のpHに関する視点です。基本的には胃の中はpHが2.0程度、小・大腸内はほぼ中性とされています。

pH1.5程度の強酸性の胃液と、中性に近いであろう胃粘液とが混合されてpHは2.0程度になるのですが、小腸以降の組織はこの強酸性には耐えられませんから、十二指腸で分泌される弱アルカリ性の消化液である胆汁、膵液によって中和され、それ以降はほぼ中性の状態で小腸の中を流れていきます。

例えば、胃から分泌されるたんぱく分解酵素である、ペプシンの効率を最も高めるpHは2.0とされておりますし、膵液に含まれるペプシンというたんぱく分解消化酵素の至適pHは8~9となっています。

小腸内はほぼ中性、文献によってはpH7.0~8.0程度の中性~微アルカリ性という記述がありますが、完全な生体からのサンプル抽出は極めて困難ですから多少記述に差異はあります。

各々の消化酵素にとって、最も活性が上がる理想的なpH環境があることは間違いのない事実ですから、消化管内のpH調整もかなり精密かつ綿密に行われているはずです。

各々の分泌液等を巧みに混合した結果として、理想的なpH 環境になるように調整しているわけですから、極端に酸性度の高いものを大量に胃の中に入れるということは大きな問題を引き起こします。

しかも、ビタミンCの純粋粉末のように、本来なら強烈な酸味があるからとても飲みきれないような分量をオブラートで包んで、味覚(舌)という大変重要な番人をわざわざだましてまで胃の中に入れて、それで良しとするということなどとても信じられないことです。

何とか血中ビタミンC濃度の高い状態を維持したいという、ポーリング博士の気持ちは解らないではありませんが、何も消化管内pH に大きな影響を与えなくても血中ビタミンC濃度を比較的高い状態に保つ方法は存在します。

一つは野菜、果物で摂ることです。野菜などに含まれているビタミンCは多量の不純物に囲まれていますから、とても吸収が遅いのです。

消化の過程で不純物が順次外れて、ビタミンCとして露出した形になってから初めて吸収されますから、自然のタイムリリース処方というべき状態になっています。

であるからこそ、自然の食物の形で取るならば100~150mg 程度でも充分とされるビタミンCが、錠剤や純粋体のビタミンCで摂ると最低でも数百mg あるいは1000mg 単位で摂取しないと有効性が感じられないということになるものと思われます。

逆な言い方をすれば、自然物、食物の形でのビタミンCを一切摂らない場合には、仮にビタミンC1000mg 含有のサプリメントを毎日欠かさず摂取していても、血中ビタミンC濃度がかえって低くなってしまう可能性も否定できません。

なお、いまだに、合成ビタミンCは石油から作っているから有害であるという、大昔からのデマを信じている方もおられるようですが、これは完全な誤り、都市伝説というやつです。

原油のように分子構造が不均一な物質から、特定の分子構造を持つ物質を合成するのはものすごく効率が悪いですから、そのようなことはわざわざしません。

しかも、石油類には原料となるべき糖類の分子構造を持つ物質が含まれていませんから、仮に作ることができるとしても採算性の問題から、誰もやってみようとは思わないでしょう。仮に原油価格がバレル5ドルくらいになったとしてもです。

でんぷんに数種類の酵素を作用させ、特定分子を分離することによって簡単にビタミンCは合成が可能です。

合成ビタミンCの作り方は、馬鈴薯でんぷんやコーンスターチ等のでんぷんからグルコース(ブドウ糖)を作成し、そのグルコースから2段階の発酵過程でL-アスコルビン酸(ビタミンCno正式な物質名)が合成できるのだそうです。

同じように「味の素」の主原料であるグルタミン酸ナトリウムも、石油から作られるから有害という都市伝説がありましたが、これも同じ理由で完全なデマです。

柿の葉茶について

西勝造は、たぶん、ビタミンCの重要性と、ポーリング博士ほど極端な主張ではありませんが、できるだけ大量に摂るように主張した世界で始めての研究者であると思われます。

ビタミンCは諸環境、事情によって想定外の消耗が起こることがあるから、常に多めに摂ることを心がけて、一瞬たりとも不足状態を招かないようにするべきであるという主張を、1950年代当初には文献の中で主張しています。

当時、合成ビタミンC自体が存在しない時点では、みかんが出回っている時期など以外では多量のビタミンCを摂取する方法がなく、その時代に考案したのが「柿の葉茶」です。

今日では、1回あたりのビタミンC摂取量としては、錠剤型サプリメントなどと比較すると、1ティーバッグ当たり30~40mg 程度の含有量ですから、単純な量だけで比較するれば比べるまでもないのですが、タンニン分に包まれた形のビタミンCですから、野菜に含まれるビタミンCと同様、小腸起始部であっという間に全量吸収されるというわけではありませんから、野菜中に含まれるビタミンCと同様なゆっくりとして吸収が期待できます。

また、今日では柿の葉に含まれるポリフェノール類による、抗がん作用、血圧効果作用等々の数多くの研究が発表されるようになりました。祖父の先見の明に対しては驚くばかりです。

結語

目先死なせないという技術では現代医学に逆立ちしても敵いません。数十年前であればなすすべもなく命を落としていった人々が、抗生物質の発見、普及で若くして肺炎で亡くなる方は激減しましたし、新たな外科術式によって生活に不自由は多々あるものの、命は落とさずに済むという事例も数えきれません。

命が危うい状態で現代医学に依存し、手術を受け薬剤を使用することは当然のことです。ただし、薬剤は永久に使い続けるようなものではなく、バランスが崩れ過ぎて命にかかわるような状態を、一時的に補正、是正するためのものだという認識を常に持つことが重要であるという認識は必要でしょう。

死んでしまっては健康法を実践することもできませんから。

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