西式健康法

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古典・西式健康法「無病長生 健康法」西 勝造著

約227分

拙著『西式健康法と触手療法』が実業之日本社から公にされてから、既に二十五年の歳月を経過した。その間、西式健康法は、全国津々浦々にまで普及され、また英語、中国語、独語、仏語等に翻訳されて、遠く海外にまで宣伝された。そのためわたくし自身も亦創始者の責任上、半生の土木工学の職を擲(なげう)って、斯道(しどう)のために挺身することになり、爾来、東奔西走、席温まる暇なく、また招聘されて渡米すること三回に及んでいる。

しかしまた一面に於いては西式健康法が宣伝されるに従って、その依拠する医学理論が、現代医学と対蹠的立場に立っているところから、ある時は官僚の圧迫に遇い、ある時は医界の策謀に会し、わたくしにとっては、一挙手一投足、油断のならぬ二十五年でもあった。しかし、わたくしは最後の勝利は、必ずや正しきものの頭上に輝くことを堅く信じ、また同志諸君の熱烈な後援の下に、全人類の無病生活の大理想に向って邁進して来たのである。

現代医学の信奉する血液循環の原動力が心臓にありというハーヴェーの仮説は、今や、進歩的生理学者及び臨床家によって、幾多の疑義がもたれ、批判されて来た。この仮説を妄信するかぎり、疾病は墓場に通ずるのである。わたくしは、血液循環の原動力は毛細血管網にありと主張し、この理論を展開させ、これを実践にうつすことによって、生活に健康と希望とをもたらし、多くの実践者各位に感謝されて来たのである。

今日、四半世紀を経て、ここは再び同じ出版社より『無病長生健康法』を公にするにあたり、関係者一同に感謝すると共に、二十五年の経過を回想し、感慨無量の感にうたれる次第である。

健康法の根本理念に関しては、前著と異なるところがないが、ただ構想のまとめ方に於いて、即ち欧米の最新の医学、科学の文献を網羅し、これを独特の健康理論の下に整理し系統だてた点等々、その内容は全く一新されている。

幸い本書が機縁となり、そして本法を実行するに於いては、必ずや読者諸君の生活の上に、健康と希望と平和がもたらされるであろうことを信ずるものである。

1953年:10月7日 第四次渡米渡伯の旅より帰りて  著者

 一、健康を求めて

人生七十古来稀でない

わたくしは今年七十才になった。中国の詩人杜甫は「酒債(しゅさい)尋常行く処あり、人生七十古来稀なり」と詠じた。わたくしは酒をたしなまぬから酒代の苦労は一度もなかったが、次々に展開した学問上の理論闘争のうちに、七十才になってしまった。杜甫の時代には七十才が稀であったかも知らぬが、そして今日の中共のことはよく知らぬが、アメリカの平均寿命は六十八才になっている。日本の平均寿命は男は六十四才、女は六十八才だと厚生省が発表している。日本人の平均寿命がアメリカ並とは、眉唾物(まゆつばもの)である。

元来、平均寿命の高低は、特に日本や印度では、乳幼児の死亡率によって左右されるものである。この度の第二次世界大戦によって、青壮年百五十万が兵役に服し、従ってその間の出生は激減した。乳幼児の死亡率によって、常に左右されて来た平均寿命が、出生の激減即ち乳幼児の激減によって、日本人の平均寿命が激増したのである。従って平均寿命六十四才とか六十八才とか云うことは、この場合、変体平均寿命であって、これを正直に承認することはできない。

わたくしが健康法を発表した当時、即ち昭和二年頃の平均寿命は四十四才であった。それでわたくしも、人並の四十四才になるまで、健康法の発表を控えていたのである。

それにしても、ここ半世紀間に、平均寿命の高まって来たことは事実であるが、これは国民大衆の健康に対する意識が向上したためである。

平均寿命が高まるにつれて年寄りが多くなり、どこの国でも老齢者の問題が、やかましくなって来た。日本でも、これに対する政治的施策が論議されている。

病気で医者に見放され、それがわたくしの健康法によって達者になったもの、また老衰防止のためにわたくしの健康法を実行して、老来益々元気になった年寄りたちのために、わたくしは特に「九十九才クラブ」を組織して、これ等の人々の健康指導にも当っている。

わたくしは年をとっても働ける健康生活を主眼としているから、慈善的な養老制度には反対である。人のため世のため活動して来た年寄りたちのために、新しく敬老制度を企画してあげるのが本統だと思う。

わたくしは人寿百二十才説を、二十年来唱導してきた。アメリカのヌッツァムが一九三三年に『寿命』という本を公にして、人間の寿命は心臓と腎臓と血管とによって左右されると説いている。当時の米国人の平均寿命は五十八才であった。それから二十年後の米国人の平均寿命は六十八才となったのである。

また昨年米国のハーバード大学医学部の教授達が、原子力委員会の協力の下に研究した結果によると、人間の寿命は体液に左右されると述べている。ヌッツァムの説にしてもハーバード大学の研究にしても、寿命は、血液の循環に関係するのである。この点に関しては、後ほど詳述するが、結局、血液循環の原動力は、心臓にあるのではなく毛細血管網にあること、また毛細血管にはグローミューという側路があって、これを活用すれば、人間の平均寿命は百二十才になるということを、わたくしは説いてきたのである。

百二十才が平均寿命ならば、最高二百四十才までは生きられる筈である。わたくしの方法によって生れ、わたくしの方法によって結婚し、わたくしの方法によって生活するならば、二百四十才まで当然行くものと信じている。しかし現実の社会生活に於いては、経済問題とか家庭問題とか国際関係とかが、われわれの寿命に影響してくるし、性問題もこれに関連してくる。それにしても最近二十年間に、平均寿命を十年延長させた米国は羨ましい。

これについて、アメリカのヒルサイド病院のグレン・オークスト医師が、アメリカの心理学協会の会合で、「知的な人には、年令に伴う精神の衰退がはるかに少ない」と述べ、老衰は経済的環境や性的条件によって異なるが、精神の衰えは労働者などより理知的な仕事に従事している人の方が、はるかに少ないと説いている。

「自分が年をとるにつれて、体が悪くなるのだ、衰弱するのだと考えている人は、著しく悪くなるが、迷信的にもせよ、だんだん自分の肉体がよくなって行くのだという考えをもって、夜寝ると(一種の自己暗示)、意外にも今までただれていた胃潰瘍が治ってしまう」等々と、沢山の実例と統計をあげて説明している。これは老衰ばかりでなく、健康を論ずる場合に、見逃すことのできない興味ある重要問題である。

死を宣告される

健康法を説き、百二十才説を主張するわたくしも、少年時代は極めて病弱であった。

というものの、十二、三才頃までは、これまた極めて元気で、大飯食いの餓鬼大将であった。今日の小田急沿線の下鶴間は、わたくしの生れた故郷であるが、その近在で、『日の出山』といえば、少年仲間で知らぬもののない少年相撲の関取格であった。

ところが十三才の秋頃から急に元気がなくなり、食べては下痢し、飲んでは下痢する。その上微熱が続いて下らない。一年近くも出入りの医者の薬を根気よく服用したが、一向治りそうもなかった。この子供は、生れつき体温が高いので、これは微熱ではない等といわれたことを記憶している。親の眼には、弱い子供ほど可愛いといわれるが、それはわたくしは末っ子であったから、両親の心痛は一方ならぬものがあったらしい。近くの町の原町田や厚木の評判の医者のところにも連れていかれたが、下痢と微熱は治らなかった。いや、悪化して行くのであった。そこでいっそ東京のえらいお医者に診てもらうということになり、当時最も評判の高かった神田駿河台の杏雲堂病院の佐々木政吉医学博士の診断を受けることになった。その頃、医学博士といえば、日本全国で二、三十名のもので、しかも佐々木博士は五番目とかに博士になった名医だと聞かされた。その上博士は、独逸からの洋行帰りで、東京帝国大学の医学部の教授でもあったので、病み衰えたわたくしにとっては、生き神様にでも診てもらうような興奮さえ感じられたのである。

さすがにこの名医の薬を服用したところ、下痢は止まった。ところが逆に頑固な便秘になやまされることになった。しかも博士は、「この子は二十才までは生きられないだろう」と、附添って行った父にもらしたのであった。

父は二十才まで生きられない我が子が不憫(ふびん)でならなかったのであろう。大変な期待をもって行った杏雲堂に、通うのをあまりすすめなかった。そして、今は、その街がはっきりした記憶にないが、確か浅草の方の漢方医のところに、連れて行かれた。そこで香気の強い煎じ薬を貰って来て飲んだが、これとても一向に効いたように思われなかった。

遠路わざわざ東京まで行って、得たものは死の宣告だけであった。ここまでくると、痩せ細った「日の出山」の負けじ魂は、燃え立ってきた。死んでたまるものか、自分の体は自分で生かしてみせる、という決意が全身を震わしたのである。――これはわたくしの十六才の感傷の秋の出来事であった。

真劍な求道時代

このことがあってから、両親はわたくしに、時間的にも経済的にも、自由を与えてくれたので、わたくしは精神的苦悶を解決するために、聖賢の書をひもとくことになった。わたくしの読書は今日の青少年のような試験のための勉強や立身出世のための読書でなく、自分が現実に直面している生死の問題を解決するための読書であった。一冊の本を読み終ると、それを直ちに実行に移してみるといった云わば、体を張っての真剣勝負の読書であった。白隠(はくいん)禅師の『夜船閑話(やせんかんわ)』を読んでは、菩提寺である大林寺に出かけて行って、正しい坐禅の手ほどきをして貰う。鎌倉に行って、建長寺に南天棒を訪ねて、指導を受けたこともある。神田のメソヂスト教会で海老名弾正の基督教の説教を聞き、キリストが「娘よ、心安かれ、汝の信仰なんじを救えり」といって、血漏を患っていた女を救った説話に、いたく感激もした。

いくらか無理とは思いながら、痩せ細った体で、横浜の伊勢佐木町の撃剣の道場にも通ったことがある。わたくしの生活は真剣そのものであった。しかし他人の眼には迷える羊としか見えなかったのであろう。両親は、わたくしが真剣であればあるほど不憫でならなかったらしく、この上は神仏にたよるより仕方がないと思案したのであろう。十八才の時、当時父が講中の世話役をしていた大山の阿夫利神社に、わたくしを連れて行き、病気平癒の御祈祷をしてくれた。その時、宮司であったか権田年助という方が、つくづくわたくしの顔を見て、

「わたくしの父は権田直助といって日本医学を唱導したものですが、オランダ医学いわゆる解剖医学と漢方医学の両方から攻めたてられて、遂に日本医学をやめてしまった。しかし著書は今も二十数種残っていますから、どうぞ貴方の息子さんに読まして下さい」といって、父に渡されたのが『神遺方』とか『医道百首』とかいう和綴じの著書であった。

解剖医学や漢方医学と相反する神主の医学であるというので、わたくしは非常な興味をもって開いてみると、それは万葉仮名で綴られたもので、わたくしには解読することができなかった。

西洋医学からは死の宣告をされ、漢方医学には愛想をつかし、かえって仏教や基督教に興味を持っていたわたくしの眼の前に、日本医学、神の遺した『神遺方』などという文字が現われたのであるから、それだけでもわたくしの研究心をそそるに十分であった。それらを読解するに数ヶ月を要したが、それが後年健康法を組織立てるに、非常に役立ったものである。

伝 不 習 乎

わたくしは、何事も徹底的に研究しつくさねば気のすまぬ性分である。それに生死をかけての研究であるから、本気であり真剣である。ある時は、動物の生態を真似する中国の「五禽の戯(ごきんのたわむれ)」や「熊経鳥申の術(ゆうけいちょうしんのじゅつ)」を実行して、友人から変人扱いされたこともあった。ある時は、極寒に氷を割って水浴し狂人視され、またある時は、火を通した一切の食物を排して生野菜のみで数ヶ月間暮し、世間の冷笑の的となったこともある。また断食を実行して痩せ衰え、親戚や友人の心配と叱責にあったこともあった。

わたくしは無病息災の健康体をつくるために、古今東西の健康法を片っ端から研究し、実行し、また病気や、健康に関する書物や宗教や修練に関する古典は、漢和洋にわたって読み且つ研究もした。

そのうちで、読者諸君に比較的記憶されているものを挙げると、岡田式静坐法、中井氏の自疆術、藤田式心身調和法、江間式気合術、石井氏の生気療法、坂本氏の屈伸道等々である。また欧米のものでは、ステル博士の骨柱治療法(オストオパシー)、ノックス・トーマス博士の自然療法(ナチュロパシー)、アルバム博士の脊体操作療法(スポンジロデラピー)、テスト博士の根源療法(ラデカルテクニック)、パーマー氏の脊柱整正法(カイロプラティック)、マレー博士の整体術(ソマパシー)、フィッゼラルド博士の分体療法(ゾノテラピー)等である。特に精神的療法ではクリスチャン・サイエンス・クーヱイズム、エムマヌエル・ムーブメント等である。わたくしが自分の健康法を創案するまでに自ら研究し実行した健康法の数は、実に三百六十二種に及んでいる。

これ等の健康法を実行してみた結果は、殆んどすべては、必ず、一週間後に、もしくは数ヶ月後に、副作用を現わしてくるものばかりであった。これ等の健康法は、いわば一部の真理をもっているが、全体としての人体の健康を保持し増進する真理を含んでいるとは云い得ないものばかりであった。

しかし、幸なことに、わたくしの健康はめきめき回復して行き、二十才頃には普通の青年らしい健康体をつくり上げることができた。そして二十四才の時、今日の健康法の骨組みを作り、またこれを体系的に組織だて完成したのは、三十四才の時であった。

さて、わたくしが、自分の説を発表するに際して、常に、孔子の『論語』の学問篇にある「吾日三省吾身」と、「伝不習乎」の一節を想起して自戒の銘としている。そしてまた「三省」を、わたくしは「しばしば顧みる」と読むことにしている。また「伝不習乎」も、いろいろ読み方があるようだが、わたくしはわたくしなりに「習わざるを伝えしか」と読むことにしている。

先輩の発表したもの、または自分の思いつきを、十分検討し実験もせずに発表していはしないかと、自らを戒めて、「習わざるを伝えしか」と読むことにしている。わたくしの発表する限り、自らいくども実験し、しかる後にこれなら絶対間違なしというところで、伝えることにしている。一日のうちにしばしば反省して、習わないものを伝えはしなかっただろうか。

いい加減なことを無責任に発表しなかっただろうかと、しばしば顧みるのである。それで、本書にも、少しうるさいほど文献を掲げたが、それでもわたくしとしては不満足である。実は原文も並べたいのであるが、本書の性質上、割愛することにした。

わたくしは一度口外する説なり筆にする論は、すべて数年間にわたり、自ら実行してみて、その結果、効果あるもののみを発表することにしているのである。わたくしは自粛自戒を、貴い徳目と信じている。特に大衆相手に講演したり執筆するものは、独慎(どくしん)ということを軽んじる傾向があるが、わたくしは、それでは人間として社会人として、相すまぬことと思っている。

健康法の分類

いま、わたくしの実行し研究した三百六十二種の健康法を分類すると、結局次の十七種に要約することができる。

一、筋肉主義 今日の学校の体育や自彊術などが、この類に入る。

二、骨骼主義 ステル博士のオステオパシーや姿勢矯正法等の類である。

三、皮膚主義 裸で生活する生活法、日光浴、冷水浴、冷水摩擦、乾布摩擦等の類。

四、脊髄主義 パーマーのカイロプラクチック、指圧療法の類。

五、腹部主義 メチニコフの唱えた説、断食療法、フレッチャーの咀嚼法等の類。

六、細菌主義 黴(かび)菌さえ撲滅すれば、この世は健康の天国となると説く説。

七、食養主義 食養だけで健康が保てると説く類、例えば明治時代の石塚左玄の説や戦前の食養会等。

八、呼吸主義 深呼吸や腹式呼吸等で、印度哲学から生れた健康法は、特にこの類に属するものが多い。

九、神経主義 お灸や鍼の類がこの部類に属し、主として神経の反射運動を利用している。

一〇、精神主義 暗示療法、精神療法等。

一一、宗教主義 クリスチャン・サインエンス、クーヱイズム、新興宗教の健康説等は、主としてこれに属する。

一二、薬剤主義 現代医学の大部分。

一三、飲水主義 御神水、鉱泉等を飲むと健康になると説く一派。

一四、自然主義 ノックス・トーマス博士のナチュロパシー等。

一五、眼球主義 全身の健康は眼球に現れるから、眼球に施術することによって健康が得られると云うチール博士の説。

一六、鼻主義  万病は鼻粘膜に現れるから、これに施術すれば健康になり得ると説くポニヱ博士等の説。

一七、足主義  足が健康の基礎とする説。

西式健康法と西医学

わたくしが創案の健康法を、ある会合の席で講演していたら、聴衆の中に北海道選出の東武代議士がおられた。東氏は後に農商務次官などをした方である。東氏は御自分の姓が「東」であり、わたくしの姓が「西」であるものだから、冗談まじりに、わたくしは東だから、あなたのは西式健康法としなさいというのである。それでは東式健康法はと、きくと「わしは政治家だから健康問題は……」と逃げたので、一同大笑いになった。東西両姓が一緒に会したその機会に、わたくしは中国の張子の西銘と東銘とに就いて座談し、当日の健康法の講演の補足とした。それ以来、わたくしの健康法は西式健康法と呼ばれることになってしまった。

わたくしは、昭和十九年から九州大学の医学部で、前後六回にわたって講義をしているが、聴講の医学者たちは、これはわれわれが講義している現代医学とは全く異なった学説であるとして、三回目だったか四回目からか、「西医学講習会」という看板を出すようになった。それでこれも前同様、いつの間にか、わたくしの学説が西医学と呼ばれるようになってしまった。

わたくしは元来、学説の上では随分神経質なほど真摯な態度でやっているが、その他のことでは割合に他人まかせである。西式健康法と呼ばれれば、それでもよし、また西医学と呼ばれれば、これまたそれでよしとしている。いや西医学が面白いと考えて、会の機関誌にも、それを流用している。

わたくしにとっては、呼称などはどうでもよいのである。要は全日本人が、いや全人類が病気にかからず健康で、自由な文化社会の建設のために活動できることが、最大の念願なのである。

二、六大法則の実行法

ただ実行あるのみ

わたくしの健康法は、理論と実践の上に組織されたものであって、特に実践の背後に秘められている理論は、医学的にも哲学的にも専門にわたり、理解に難渋な点も多々あるが、要は健康になるためであり、それにはただ実行あるのみである。華厳経に「法に於て多門なるも、実習なきときは煩悩を断ったこと能わざるなり」と訓えている。

一、平 牀 寝 台

敷蒲団の代りになるべく平で固い平牀を用いること。掛蒲団は寒くない程度にして、厚くないのがよい。仰臥して就寝中常用する。

平牀は厚さ三分、幅二尺五寸から三尺、長さは六尺とし、檜、シナ、ラワン等の合板がよいとされている。しかし入手できない場合は、畳の上に新聞紙数枚を敷き、その上に毛布を敷いた程度でもよい。また少し贅沢になるが、五、六分の桐板で作ると軽くて取扱いが便利で且つ肌触りがよい。汚れを避けるためにワニス又はラッカー塗りにすることもあるが、それでは冬寝る時に冷やりと冷たい憾みがある。特別の目的には大理石、磨きコンクリート等もあるが、よほど修練を積まねば、夏はよいが冬は冷たくて、一般には不向きである。

実行の第一歩としては、今まで敷蒲団を二枚敷いていた人は一枚に、一枚の人は平牀の上に毛布二つ折りにするというように心掛け、漸次毛布一枚、敷布一枚、遂に直接平牀に寝(やす)めるように努力する。

仰臥の習慣のできていない人は、先ず金魚運動をやる。金魚運動によって、身体の左右の調整と均斉とに努力すると、間もなく仰臥ができるようになる。

平牀の始めは誠に工合の悪いものであるが、だんだん努力してこれに馴れると、今度は蒲団の上に寝られないようになる。従って努力して初期の不工合を克服して、これになれることが肝要である。

寝衣(ねまき)はなるべく薄い浴衣くらいがよい。帯を用いずに臍の周囲から腹部を少し宛(ずつ)漸次露出して寝る習慣をつけると、宿便の排除に有効である。しかしあまり急に露出すると下痢したり、ちくちく痛んだりすることがあるから、徐々に露出して行く。下痢した場合は生水をコップに二、三杯から四、五杯飲めば治る。そして二食位絶食すると更に有効である。さてこの習慣がついたら、今度は寝衣もやめて、裸で寝る習慣をつくることにする。

平牀に寝て仙骨部(六章の図参照)の痛む人は、踵(かかと)の下に座蒲団を一枚置くとよい。これは腰椎部の弯曲が大きいためで、平牀に馴れるに従って痛みもとれてくる。踵の座蒲団は臨時のものだから、なるたけ早く取り去るようにせねばならぬ。

二、硬 枕 使 用

枕の大きさは、本人の薬指の長さを半径とする丸太の二つ割で、頸椎四番(六章の図参照)を中心に、丸味の方を頸部にあてて仰臥する。これも就寝中常用する。

硬い枕を初めて使用する人は、痛いのが普通である。その際はタオルの類を硬枕に載せて用い、追い追い取り除くように練習し、直接頸部に当てても心地よく寝られるように努力する。最初は十分でも二十分でも使用し、次第に就寝中常用できるように心掛けねばならぬ。終夜使用できるようになったら、頭部のどこにあてても痛くなくなるものである。硬枕を用いて、頭部の半面が麻痺することもあるが、これも頸椎のゆがみが治るための過程であるから、そのまま続けねばならぬ。

硬枕は、ある意味では、健康診断ともなるもので、硬枕使用により痛さや麻痺を感ずる人は、どこかに故障のある人であり、また痛さに堪えて馴れることは、その故障を治し、健康を築き上げる方法でもある。

硬枕に馴れると、咽喉の工合がよくなり、今まで利かなかった嗅覚が回復したり、肩が軽くなったりすることは誰でも体験することである。一度硬枕に馴れると、今まで用いていた枕では朝目が覚めた時、頭が重かったり、肩がすっきりしなかったり、いろいろ不工合なことが了解され、従来の枕の誤っていたことを痛感するであろう。即ち今までの枕は後頭部にあてるために、やや上向き加減の姿勢で寝むことになり、そのため頸椎第一番に故障を起すことになる。特に高い枕を用いる習慣の人は、その影響が大きい。

硬枕の材料としては一般に木材が好適だが、石殊に安山岩、大理石などもよろしい。瀬戸物の枕もよろしいが、市販の真中の凹んでいるのは避けねばならぬ。石枕は特に夏季常用すると、暑さをしのぐのによい。

三、金 魚 運 動

西式健康法

仰臥して、身体をなるべく一直線に伸ばし、足先を揃えて膝の方へ直角にそらし、両蹠面(りょうあしのうら)を同一平面上にあるようにし、両手を組んで首の後(うしろ)の頸椎第四番五番の辺にあて、両肘で調子を取って、魚類の泳ぐ真似を、こまかく素早く行うこと。朝夕一、二分間。

金魚運動の変った形式に、俯臥金魚、膝立金魚等がある。俯臥金魚は俯臥の体位で行う。手は、両掌重ねて前傾部の下に置く。この方法は婦人病の人に好適な運動である。

膝立金魚は、仰臥の体位で膝を左右揃えて立て、踵を揃えて臀部の方に引きよせ、そのまま膝を左右交互に畳につくまで倒して、脊柱に左右捻転の運動を与えるのである。左右往復を一回として、およそ三〇回行う。この運動は胃腸を整え、婦人病、盲腸炎等の予防に有効である。

西式健康法

  自分で金魚運動を行うことの困難な病人は他人にやって貰わねばならぬ。それには施術者は患者の足の方に坐し、患者を仰臥させ、先ず、その枕を取り去る。両手掌に患者の両踵を乗せ、少しく引き気味で足を左右にこまかく振動させるのである。その際患者の両足の高さは患者の位置と緊密な関係があり、また振動の速さと振幅は疾患の軽重に重大な関係があるから、患者が快適を感ずるように加減調節せねばならぬ。特に、重症ほどこまかく徐々に行うこと。

乳幼児に対しては、親が腰を支えてする腰金魚を行わねばならぬ。これ等他人の行う金魚運動には一つのこつがあるから、平常修練を積み、とっさの応用にまごつかぬようにせねばならぬ。

四、毛管運動

西式健康法

  先ず仰臥の姿勢となり、枕を頸部に当て、手足をなるべく垂直に高く伸ばし、足のうらをできるだけ水平にし、手指は軽く伸ばす。

この状態で手足を微振動すること、1、2分間。朝夕一回宛。毛管運動の後、足先の円運動又は馬字運動を行うことは、踝(くるぶし)と手首の関節を柔軟にし、その機能を整齊する。馬字運動とは、踝と手首の位置を固定しておいて、足先と指で馬字を空に描く運動である。但し左右の手足によって描かれる馬字は左右対蹠的になる。円運動は馬字の代りに円を描く運動である。

五、合掌合蹠法と触手療法

1、合掌四十分行

西式健康法

手の五本の指を密着させて掌を合せる。即ち左右各五本の指のうち、中指は少なくとも第二節まで、その他の指第一節までを互に離れぬように密着させる。合掌の位置は顔面の高さとし、またできるだけ合掌と前腕を垂直に真直ぐにする。継続時間は四十分で、一生に一度でよろしい。この四十分行を修行した手で、患部に触手する。但し触手する際は両手を上げて毛管運動を行ってから始め、また終ったら両手を下げて微振動し、いわゆる触手の手を封じておくこと。

 

2、合掌合蹠法

西式健康法

両手を開き 指先だけをくっつけて、互に押し合ったりゆるめたりすること数界。次に指先を着けたまま前後上下に動かすこと数回、次に指先に力を入れ互に押し合ったまま、両前腕を長軸として、手を廻転させること数回、終って合掌法の要領に移る。それと同時に蹠(あしのうら)を合せて合蹠のまま前後に七、八回から十二、三回動かすのである。前後運動の距離は、蹠の長径の一倍半とする。終ったら合掌合蹠のまま、五分から十分間静かに休止する。

  妊婦などは仰臥のまま行うこともある。合掌合蹠法(がっしょうがっせきほう)は、婦人病全般にきくもので、特に妊婦にとっては安産の秘法でもある。

六、強 健 法

1、準備運動十一種(約1分)

西式健康法

西式健康法

準備運動が終ったら、力を抜いて掌を開き、静かに膝の上に載せて次の背腹運動に移る。

(1)肩の凝りを除き、その部の血液循環を適正にする。

(2)から(5)の運動は、脊椎第七番神経の刺激にもなるもので、これには六十余の効果が算えられる。

(6)及び(7)は、頸部静脈を刺戟してその機能を促進し、眼の不当の緊張を緩和し、且つ胸の扁平を矯正する。

(8)は上肢静脈管の機能を促進する。

(9)は胸部及び腋部の筋肉の伸張により、その部を生理的にする。

(10)は手掌の線を明瞭にし、且つ握力を強くする。

(11)は鎖骨による頸部静脈の圧迫を緩和して、その血液の環流を容易にし、また甲状腺を刺激して、その機能を適正にするものである。

2、背腹運動(約10分間)

尾骶骨(びていこつ)を基点に頭の頂端までを一直線にして、あたかも一本の棒のようにして、左右に揺振すると同時に、腹部の運動を併せ行うこと、朝夕10分間宛。腹部の運動は、脊柱を左右に傾ける度毎に、下腹に軽く力を入れて押し出す気持で行う。

従って脊柱一往復に対し腹部の運動は二回となる。但しこれは腹式呼吸でないから呼吸とは呼吸とは関係なく行うのである。落ちついて行うこと。

運動の速さは、脊柱運動一往復を一回として、1分間に50回から55回、10分間に五百回から550回を標準とする。初めは、なかなかこの速度に達することが出来ないから、徐々に速度を増し、二ヶ月から三ヶ月を経て標準に達すればよい。運動の形や速さは、健康の増進に伴って、形も正しくなり、速さも増すものだから、功をあせらず、徐々に目的に向って進むように努力せねばならぬ。余り早急に速度を増すと形がくずれて身体各所に無理が生じ、腰を痛めて立てなくなったり、背骨を狂わして発熱したりすることがある。

左右揺振の正しい運動法を修練するには、鏡に映してやるか、外の暗い夜は硝子戸に向って姿をうつしてやるのも一方法である。

西式健康法

そして運動方法の不正を絶えず矯正し、正しい運動に努力することが、また健康増進に役立つのである。速度は遅くても500回振ること、そのため時間がかかっても一向差支えない。

背腹運動は裸体で行うのが正規で、寒中、屋上で運動ができるように健康を確保して行くことを心掛けねばならぬ。

3、生水飲用

常に生の清水を飲用すること。

4、よくなるの思念

運動中、よくなるよくなると思念すること。

三、健康の四大原則

皮膚、栄養、四肢、精神

さて、いよいよわたくしの健康法いわゆる西式健康法、いや西医学に就いて講ずるのであるが、その前に、わたくしは、われわれの健康は、皮膚、栄養、四肢、精神の四大条件によって、常に保たれていることを主張するものである。わたくしはこれを健康の四大原則と呼んでいる。

世間には健康を論じ、保健を講ずる医学者が多いが、彼等医学者の説く健康科学なるものは、現代医学の中から衛生に関する部分を抜粋して来て、それにいくらか運動に関する医学を加味しただけのもので、そこには学問としての統一も系統も見られない。これでは健康科学などと、おこがましくていえないだろうと思うが、世間では、いや大学の体育科では、それで通っている。

現代医学者の中にも、比較的新しい健康科学を提唱して、われわれの健康は解剖学的、生理学的、免疫学的、心理学的に適正であれば、健全だと説く学者もいるし、またこれらの各々に物理的、化学的、細菌学的、精神学的に健全ということを配して、述べている学者もいる。しかし、それでは真の健康科学の基礎概念とはならない。そこでわたくしは、わたくしの四大原則を創案したのである。

現代医学の知識で教育された人にとっては、わたくしの健康科学は、いかにも奇異に思われるであろうが、科学として統一され系統立てられている点に於いては、本書の読者には理解していただけると思う。

次にこれら四大原則の各項にわたって述べるが、この四つの健康の基礎概念は、われわれの意志によって健康にも不健康にも自由になるという共通の特徴をもっている。即ち皮膚の場合は、われわれの意志によって、厚着をして皮膚を温めることもできるし、薄着をして皮膚を鍛えることもできる。温浴も水浴も乾布摩擦も裸ばかりでおることも思うままに自由にできる。食事にしても、美食も粗食も、大食も少食も断食も、本人の意志によって自由にできる。四肢もそうである。歩くことも走ることも、乗車することも自由である。上肢もその通りで、頭を掻こうが、腕を伸ばそうが、握手をしようが、それは自由である。特に心の自由は、前三者のように物質的な有形的な制限を受けないから、最も自由である。これの成文化されたものが、言論の自由であり、信仰の自由である。何を考え何を思うと、それはわれわれにとって全く自由である。

次にこの四大原則を人類の発達史に就いて考えてみよう。われわれ人類が、初めてこの世に現れた当時の顔は、大気を十分に呼吸し山野を跋渉(ばっしょう)し、顴骨(けんこつ)が秀で、これを人相から云えば呼吸型であった。従って肺病などという呼吸器病は、この世には存在しなかった。ところが生活の必要から食物を貯蔵するようになってきて、消化型が現れてきた。次に食物の不足から、その争奪が行われるようになり、そのためには筋肉の隆々としたものが、いつも勝をしめるのである。

西式健康法

いわゆる筋肉型優勢の時代である。ところがいくら筋肉が隆々としても、栄螺(さざえ)の壺焼(つぼやき)のように外観が立派でいかめしくても、智慧のないものは、知らぬまに壺焼にされてしまう。次いで現れたのが、智慧が重要な役割をする時代で、これが脳型である。今日の時代は脳型全盛の時代である。

さてこれをわたくしの四大原則に当てはめると呼吸型は皮膚、消化型は栄養、筋肉型は四肢、脳型は精神となるのである。

今日、人々の顔貌を見ると、大体以上の四種類の型に分類することができる。そしてまた、この顔貌の型によって、その人の病気を鑑定することもできるのである。

皮、食、肢、心の連関

さて皮膚さえ健全であれば、われわれは健康生活ができるかというと、そうはいかぬ。

また、栄養さえ完全であれば健康が完全に保たれるかというと、これだけでは駄目である。四肢にしても精神にしても、またその通りである。この四者は緊密に連関されているもので、その一つ一つを分離しては、真の健康体には到達し得ないのである。酒を飲めば(栄養)赤くなり(皮膚)、足がひょろつき(四肢)、気分が悪くなったり悲観したりする(精神)。散歩すると(四肢)、腹がへり(栄養)、汗ばみ(皮膚)、心気が爽快となる(精神)。

もともとわれわれの生体は一者(いっしゃ)(ト・ヘン)であるものを、ただ健康問題を論ずるに際して、この四大原則を持ち出したまでのことであるから、そこに各々が不離連関にあることは当然である。

西式健康法

また健康問題はこの四大原則即ち四大指導概念によって左右されることを知らねばならぬ。

わたくしは、これを上図のように正三角形四面体とし、その各頂点に四大原則を配している。

皮膚の健康によいといって、冷水摩擦をして、リウマチスになった人、乾布摩擦をして肺に癌を作った例がある。また栄養だカロリーだとやかましくいって、肉食ばかりをとって動脈を硬化させたり血圧を高くして病んだ人は、世間には相当多い。食餌だけで健全な健康生活ができると思うのは、もともと間違っている。四肢も同様で、手足を運動しただけで、健康生活は保たれるものではない。

昔流行した徒手体操が、そのよい例である。精神にしてもその通りで、精神さえ健全であれば、世に病気などはないと説く新興宗教もあるが、キリストや釈迦のような聖人ならいざ知らず、普通一般人が病気になって、急に信仰生活に入ったからとて、必ずしも治るものではない。

しかし、たまにはそれで治る場合もある。それはどういう理由によるものか。

病気の原因を分類してみると、殆どの病気は皮膚の障害と、間違った栄養と、四肢の故障と、精神の過労から来るもの江ある。即ちこの四大原則の不正から、万病がおこって来るとも云い得るものである。従って、四者のうちの一つを完全にすれば、万病のうちの四分の一が治るという確率が出てくるわけである。精神的過労や心労に原因を持っている病人が、宗教によって心の平和を得、適切な精神的暗示療法を得れば、確かに治るということになるのである。それかといって、精神だけで信仰だけで万病が治ると妄信することは、迷信であることを知らねばならぬ。

(一)皮膚は健康の鏡

皮膚は呼吸している

最近アメリカの換気研究(ペンチレーション)委員会が、面白い研究を発表している。人間の辛うじて入れる

ような箱を作り、その中に人間を入れ、悪い空気を送りこむと、中の人間は苦しくて耐えられなくなる。ところが首から上だけをその箱に入れ、四体を外気にさらしておくと、悪い空気を送っても一向に苦しくならないという実験である。

普通われわれが病気で苦しくなるのは、口や鼻孔による呼吸のためだと考えているが、右の実験は、四体の皮膚の呼吸が大いに関係することを物語っている。眼には見えず、意識もされないが、確かに、皮膚は呼吸しているのである。

われわれの呼吸作用は、口や鼻孔だけで十分だと思ったら、大違いである。これもアメリカでの話であるが、ある富豪が誕生日のお祝いに、町の名士や近親の人たちを大勢劇場に招待し、世にも珍らしい生の裸体舞踊を見せるというのである。舞踊の始まる前に、主催者が開演を待つ幕の前に立って挨拶をした。どこでもある通り、きまりきった挨拶が思いのほか長く、観覧者がやれやれという間に、幕はするすると上った。

さて、御客が舞台の上に見たのは何であったか。真黒い幕を背景にして描き出されたものは、全身を黄金色に塗りつぶされた一人の舞踊家が、椅子に打ち倒れて悶絶した悲しい光景であった。挨拶があまりに長かったので、舞踊家は踊りのはじまる前に、まいってしまったのである。全身を金粉で塗りつぶし、全裸の皮膚の気孔をふさいで、皮膚呼吸を止めることは、時間の長短にもよるが、それは死を意味するものなのである。

重病患者に裸療法を行うと、呼吸が楽になり、皮膚の色がさえてくるのは、皮膚呼吸のためである。わたくしは、常に薄着をして外気にふれるようにと主張するのは、皮膚呼吸のためでもある。皮膚呼吸はいわば肺の役割を助けるものでもある。

皮膚は体温を調節する

われわれの身体の熱は、主として新陳代謝によって生じるものであるが、もし体内でつくられる熱が、体外に放散されずに体内に蓄積されるとすれば、体温はだんだん高くなって、遂には高い熱のために死ぬことになるであろう。ところが幸いなことに、体内には体温を調節する温熱中枢という器官があって、高まった体温を放散して、適当な体温に調節してくれる。体熱を体外に放散するに際して、皮膚はその八〇―九五%の役割を果すのである。

われわれは、体熱を放散しているなどと意識していないが、四六時中皮膚からは体熱を放散している。寒くなると体熱の放散を防ぐために、われわれは厚着をするし、暑くなると放散を促進するために薄着をする。真夏のなると裸になる。新陳代謝以外に、活動したり運動したりしても体熱は高まってくる。特にこの際は、比較的急激に体温が高まってくるので、皮膚から汗を分泌して体温を調節することは、誰でも知っている筈である。それでは発汗の量はどのくらいのものか、また発汗に含まれている成分は何か。

汗の成分表を示せば次の通りである。

西式健康法

上表でも解るように、成分から見た汗は尿と大差ないものである。尿として排泄させられるものが、体温調節のために皮膚から分泌したと解せばよい。また発汗の量と、それに含まれている食塩やビタミンCを表示すれば、次表の通りである。

西式健康法

発汗は確かに体温調節に役立つが、発汗後、失われた水分、塩分、ビタミンCを補給することを忘れると、やがてそれが疾病の原因となる。脚気、夏やせ、消化不良などがそれであり、また脚がだるくなったり、元気がなくなったり、秋になって風邪を引きやすくなったりするのも、発汗の処置を忘れるためである。

寒気が身に染みてくると、われわれは自然と体を丸めて、体の外気にふれる表面積を狭めようとしたり、また体をふるわせて、体内で熱を発生させる運動をしたりすることは、意識しなくても、誰でも反射的にとる動作である。

われわれは普通腋下で体温を計るが、その体温計には三十七度のところに赤い線が入っている。これにはわたくしに文句がある。三十七度の赤線は、北緯五十度を中心とし、その上肉色を主とする欧州人のためならそれでよいが、日本人には不適当である。日本人の場合は、三十六度五分に赤線を入れて、それ以下を日本人の健康時の体温とすべきである。ここにも独逸医学の亜流を汲んだ日本医学の盲点が現れている。

皮膚の吸収作用

われわれの体内でつくられる老廃物や毒素は、生理的に体外に排泄されるが、そのうちで気体は肺を介して呼気により、液体は腎臓を介して尿として、固体は腸から糞便となって体外に排泄される。ところが、前述したように、皮膚呼吸によって皮膚は肺の働きを助けるし、発汗によって皮膚は腎臓の働きを助けることは、前述の通りである。

この他、皮膚には皮脂腺といって、皮膚の中にある腺からは皮脂を分泌する作用をもっている。皮脂は一種の脂肪で、この分泌によって毛髪はうるおいを増し、また皮脂によって水分の皮下への侵入を防ぐことにもなる。皮脂の分泌は青春期に最も多く、それも鼻や前額、顎、頭、胸、背等に多いようである。また季節でいえば、四月から九月が最も高くなる。

以上のように、皮膚は汗や皮脂を分泌する作用をもっているが、逆に吸収する作用をもっている。ポマードを使った手を、そのまま洗わずに放っておいても、ものの十分間もすれば

ポマードの脂気は、掌から消えてゆく。これは脂気が皮膚内に吸収されるからである。水分、塩分、空気中の酸素、窒素、その他各種の薬剤をも吸収する。この吸収作用を利用したものに、化粧品があり薬剤風呂がある。

わが国に昔から伝わっている菖蒲湯や柚子湯等は、温浴によって新陳代謝の機能を高め、皮膚を清浄にしたところへ菖蒲や柚子の中に含まれているビタミンCを吸収させるのであるから、最も合理的な良俗といわねばならぬ。しかも初夏のビタミンCの最も豊富になった菖蒲を二、三日軒下に挿しこみ、日光による光合成によって含有の高まったところを、風呂に入れるのであるから、最も効果的となる。また柚子の方は、これからいよいよ寒くなり、青い野菜を食べる機会が少なくなる時に、これを風呂に入れて皮膚からビタミンCを補給するのであるから、これまた最も有効適切なわけである。

皮膚が吸収作用をもっていることは、まことに望ましい生理作用であるが、これが逆の場合もあり得ることを知らねばならぬ。即ち汗や皮脂で汚れた下着類を、洗濯せずの無精していつまでも着ていると、汗や脂の老廃毒素が再吸収されるということである。

長い間臥床している病人などは、本人や附添人は神経が麻痺して意識しないが、病人の皮膚から分泌された老廃物の臭気が、鼻を突くほどである。それに風邪でも引いては大変だと、一層病体を包のであるから自然と老廃発散ガスが再吸収されることになって、全快を長びかせる結果となる。そういう場合、わたくしはわたくしの創案した裸療法を行わせると、思わぬ奏功を得るものである。時には老廃ガス吸収の薬剤「つるうま」を床の中に入れることも効果的である。

内部疾患の現れとしての皮膚

皮膚は全身を保護していることは、常識的に知られている。即ち皮膚は外部の障害から内部の組織や器官を保護し、病原菌の侵入を防ぎ、組織の乾燥を防いでくれる。また皮膚の色素は太陽の光線から生体を保護してくれる。

以上で大体皮膚のもつ重要な生理的意義が理解されたことと思う。フランスには「皮膚は健康の鏡である」という諺もあるくらい。皮膚は全身の健康の示標となるものである。米国のカーク・ウィナー博士は『内部故障の表明である皮膚』という大著を公にして、内部疾患と皮膚との関係を詳述している。また独逸のブラウフレは「皮膚は自然療法家にとっては、最も重要な器官とされている」と述べている。ハワード・T・バールマン博士とオスガール・L・レヴィン博士は共著『皮膚とその手当』に於いて「われわれの肌色は、われわれの健康のバロメーターである。

健康は、いつ見ても魅力がある。健康こそは、人格の強力な磁石である」と述べ、更に、次のように説明を進めている。

「皮膚は一個の器官である。こういうとびっくりするかも知れぬ。何故かというと、皮膚は云わば外包のようなもので、身体の諸器官とは全く関係がなく、身体をその中に詰めこんでいる包装に過ぎないと考えている人が多いからである。

しかし皮膚は器官であることは、心臓や肝臓や腎臓や肺が器官であると、全く同じ事実である。皮膚は機能する。そればかりでなく皮膚こそはすべての器官のうち最も生産的で最も勤勉に働く器官である。皮膚は他の器官よりも多く仕事をし、また多種の仕事をする。

皮膚は、脂や汗や毛髪や爪を生産する。皮膚は吸収を行い、不用物を排泄し、又呼吸する。

皮膚は空気中のさまざまな有害な要素に対して身体を保護し、体温を調節する。皮膚は、その上表部分を冒すところの、それ自身の疾病をもっているが、身体の他の部分が病むときは、殆ど常に皮膚も病む。何かの様態で、皮膚に影響を及ばさない疾病というものは殆どないのである。

しかも皮膚は『皮膚食』というものを摂らない。皮膚は他の器官と同じく血液から栄養をとるのである。如何ほど仰々しい広告をして、皮膚を説得し、芳香入りの脂肪を摺りこんで喰べさせても、皮膚を生かすことはできない」と。

更に著者たちは次のように注意を喚起している。「銘記しておくべき重要なことは、皮膚は一個の器官であるということである。もしもこのことが理解されるならば、皮膚の健康と身体の健康とは、相互に依存するということも納得されるであろう」

また「顔は詩歌以外では魂の鏡といわれないかも知れぬ。しかし顔が身体の鏡であることは確かである。肌色は身体の健康を証明する表示板である。顔の皮膚は、それ自身の機能をもつ一個の器官であって、他の身体器官と調和して働くのである。身体の機能が正常であり、また皮膚の機能が正常であるときは、肌色も正常である」「健康な皮膚は、その栄養と健康のために必要な良い血液の供給に依存する。

不良な皮膚は、血液が不良な性質であることを示すであろう。かように皮膚は、身体内の、どれかの器官又は系統の機能不全の影響を蒙るであろう」昔から、皮膚の色を見て、その疾病を診断することは、漢方医の最も得意とするところで、『韓非使』に「良医の病を治むるや之を腠理(そうり)に攻(せ)む。此れ皆(みな)之(これ)を軽ろきに争うものなり」とあるが、これは名医は腠理即ち皮膚を目標として治するというのである。鎌倉時代の惟宗時俊の著『医家千字文』の中に「皮膚の微(び)を怠(おこた)れば骨髄(こつずい)の夭(よう)に及ぶ」と戒(いまし)めて、皮膚に現われた一寸した違和を放置すると、遂に骨の髄までも冒されて救い難くなって早死にするというのがある。漢方の方で皮膚を重要視している文献をあげると、その数は実におびただしい数にのぼるから、ここでは省略する。

日本医学の権田直助翁はその著『医道百首』に歌っている。

けあなはも、ほのけの末を泄(いだ)しつつ

つねにふさがりかごまざらしむ

右の一首の意味は、皮膚というものは、生体の生活のために老廃ガスを排泄すると同時に汗腺によって血液中の老廃物を濾過排泄する作用をもっているから、常に皮膚の毛穴や汗腺を閉塞しないように、皮膚機能を正しくしておかねばならぬと教えたものである。

皮膚の新見解

旧来の皮膚の観念によれば、皮膚は体の表面だけのもので、粘膜は皮膚ではないと考えていた。これに対して、わたくしは皮膚は粘膜をも含んでいるという新見解をもっている。旧来の考え方では口腔から咽喉、食道、胃、腸、肛門に至る消化器官のいわゆる内側の皮膚を内皮と呼び、同様に口腔から気管、肺胞等の呼吸器官の内側、尿道、膀胱、輸尿管、腎臓等の泌尿器の内側、及び生殖器の内側等をも、すべてこれを内皮とか粘膜と呼んで、皮膚と別個に考えていたのである。

ところが五、六年前に亡くなった米国の有名な生理学者キャノンが、興味ある研究を発表して、これ等に対して、特に内皮とか粘膜とか皮膜などという名称を与えるのは、おかしいと云い出したのである。

キャノンは、処刑される囚人を利用して実験したのである。「君は明日の正午絞首刑になる」といったところ、囚人の顔色は蒼白になってしまった。そこでキャノンはその囚人の胃袋の内皮はどうなっているかと、望鏡で窺ってみると、顔色と同様蒼白になっている。そこでキャノンは典獄に申し出て、法律上の手続きを経て、刑を一等減ずることにした。「君はわやくしの実験台になることを承諾してくれたから、刑が一等減じて終身刑になった。そのうちに大統領の改選の度毎に減刑されて行くから、十年も入っていたら出られるだろう」と慰めると、今度は顔面が紅潮してきたのである。そこで再び胃壁を望鏡すると、顔面と同じく紅潮しているのを見ることができた。

このような研究から、キャノンは胃の内壁も腸の内壁も、われわれの手や顔の皮膚の続きで、同じ性能を持っているものだと、いい出したのである。

わたくしはキャノンの説を読む前から、即ち十四、五年前から、人体は簪(かんざし)の玉のようなもので、中に一つの孔があるだけだ。その孔は口から肛門に通ずる孔で、その孔の壁も皮膚であると主張してきたのである。人体は玉のようなものだから、第一章皮膚、第二章栄養などと分離して論じては、本統の人体の本質を理解することはできぬ。皮膚であれ、栄養であれ、毛髪であれ、それ等はすべて人体全体につながっているのだから、一つ一つ分離して研究してはならぬと主張してきたのである。最近、米国から到着した健康に関する著書をみると、わたくしの人体簪(かんざし)説を裏づけるような説が、しかも御丁寧に左のような図解まで入れて説明されている。

西式健康法

またシレントという学者の如きは、われわれの生体を構成している四百兆の細胞は、漿液という体液の海に浮いている島であって、その漿液と細胞の境までも皮膚と呼んで、従来のコーリメンブレンという言葉を廃したのである。

更にまた、近来、皮膚は内分泌器官でもあるという説が現れてきて、皮膚に対する新しい観念は、治療上にも新しい変化を来していることを、われわれは見逃すわけにはゆかない。

従って従来の皮膚説は間違っていることが解ってくるのである。

裸療法と温冷浴

わたくしは皮膚の健康のために、次の二つの方法を創案して、治療者のため保健者のためにこれを奨励して、その効果が覿面(てきめん)であると感謝されている。それは裸療法と温冷浴であるが、これ等二つの方法は、皮膚の毛細血管の拡大と収縮を目的とし、皮膚の機能を促それとともにグローミューを活用することにある。また全身の体液を中性にすると共に、神

経を刺戟して、全体的に病弱体を健康体にし、健康生活を楽しませる治療法であり保健法である。

(一)裸 療 法

西式健康法

 特に病人の場合、初めて行う時は下記の通りにする

西式健康法

 (二)温 冷 浴

西式健康法

初めて行う時は、入水をまず手首足首までとし、次に腕と膝以下のところまで行い、次に腕の附根以下で行う。以上になれ、一週間もしてから全身に及ぶようにする。

水浴の設備のないときは、水浴の代わりに冷水をあびる。その際は、趾(あしゆび)から、足、そして足首、膝、太腿と順次下から上に冷水を浴びせるように注意すること。

温冷浴など風邪を引くではないかと、いう人がある。しかし後に述べるわたくしの中(ちゅう)の哲学を了解するならば、それが医学に於いては如何に理解され、如何にして健康を増進することになるかが、自ら明かになるであろう。『因果経』に釈迦誕生の情況が次のように述べられている。

「難陀龍王(なんだりゅうおう)、優波難陀龍王(うばなんだりゅうおう)、虚空の中に於いて清浄(しょうじょう)の水の、一は温(おん)、一は涼(りょう)なるを吐(は)きて太子(たいし)の身に灌(そそ)ぐ」釈迦は産湯ばかりを使わなかった。温と冷の両方の産湯を使ったのである。おそらく温冷浴は、釈迦生誕当時の浴場の習慣であったのであろう。

温冷浴とは関係がないが、普通一般の温浴の場合、世の母親は赤ん坊と一緒に入って、赤ん坊を泣かせている。母親は自分の体が温まらないものだから、赤ん坊も温まらぬものと思って、いつまでも湯槽に入れておこうとする。ところが赤ん坊は「出る出る」と赤くなって泣き出すのである。

赤ん坊と母親とでは、体の大きさが異なるから、温まる時間も異っている。一升徳利の酒のお燗に四十分要するとすれば、一合徳利では六分で間に合うのである。

先年渡米した時、向こうの医学者がいうのでる。元来赤ん坊は入浴を好むものだが、日本の銭湯の前を通ると、いつも子供の泣き声が聞える。赤ん坊が十分温ったから出ようとするのを、母親が抑えつけて無理に汗をかかせている。そして体内のビタミンCを破壊させたり、汗とともに体外に排泄させたりする。日本に結核の多い原因の一つに温浴に対する母親の無知があると、述べていた。進駐して来ていた医者の中には、こんな鋭い観察眼を持っている人もあったのである。

皮膚の栄養

皮膚は生体と外界の境界線を劃しているもので、生体と外界との連絡場所であり、物質の交換場所である。この内外の物質交換の機能を円滑にするためには、皮膚を健康にしておかねばならぬ。その目的のために、わたくしは裸療法と温冷浴を創案したのである。この二つの方法を実行してさえすれば、万病の基となる風邪など引きたくても、引かなくなるのである。

物質交換の連絡所としての皮膚は、体内から老廃物を分泌するが、その多くのものは酸性を帯びている。そしてまた皮膚はその酸性物質によって、健康を保たれてもいるのであるが、街頭に販売されている化粧品や石鹸の殆どすべてはアルカリ性である。酸性の分泌物に対してアルカリ性のものは中和して、一時的には皮膚をきれいにするように見えるが、本質的には皮膚の健康を害(そこな)うものであることを知らねばならぬ。化粧品を常用している人々の、化粧前の素肌を見れば、その肌の荒れているのに驚かされるであろう。

これはアルカリ性化粧品のおかした罪悪である。

次に皮膚の健康を保つための栄養を考えてみるとしよう。もちろん皮膚は、生体の代表者として外界に接しているのであるから、生体自身の健康となる栄養を必要とすることは論をまたぬが、特にわたくしは、皮膚の健康のためにビタミンCの摂取をすすめるものである。

皮膚の健康のためには、ビタミンAもBもCもPも必要であるが、これを壁塗りにたとえれば、Cは荒壁の苆(すさ)であり、Bは中塗の苆であり、Aは上塗の苆である。いかに上塗や中塗を丹念にしても、荒塗の苆が適当でなかったならば、壁は少しの震動にも亀裂を生じて落ちてしまう。それで何よりも重要なものは、ビタミンCであり、Cが欠乏すると、皮膚の根基ともなる膠原質が形成されないのである。

わたくしはいつもいうのであるが、われわれはビタミンCをとることにさえ留意しておれば、Cを含んでいる食品の中には、生体が必要とするくらいのAもBも包含されているものだから、敢えてAやBに心を配る必要がない筈である。わたくしはビタミンCの補給法として薬品による方法を排し、安価で誰にも容易に入手できる柿の葉からとることをすすめている。(柿の葉茶の項参照)。

また皮膚の健康のために忘れてならぬものに、清い生水(なまみず)の飲用がある。「コップ一杯の清水は一頓の化粧品にも優る」という諺があるくらいである。

ハワード・T・ベールマン博士とオスカール・L・レヴィン博士の前掲の『皮膚とその手当』の中に、「不正食は、消化不良や腸障害を越し、顔に腫物や発疹となって現われるばかりでなく、皮膚に必要とする栄養をも供給しないものだ」と、教えている。味読すべき至言である。

(二)全き榮養は病を防ぐ

健康と天地乾坤

昔から「食は命なり」といって、食物は生命の基であると考えられていた。確かにわれわれは食物を完全に断てば、数ヶ月後には命を失うことになる。そしてまた、食物の種類により、健康生活に異変が現れてくるところから、昔の人は経験上、どの病気には、何が悪いから食べてはならぬ、何が良いから努めて食べろ等と、注意したものである。それが発達して、今日の食餌療法ができたのである。

ところが、どこにも在り、どこに行っても自由に、ただで、得られる水に就いて、更にまた無限に存在している空気に就いて、日光に就いては、その恩沢があまりにも大き過ぎて、かえって意識されないためか、これを生活上必要だと説いた人は割合に少ないようである。

そのくせ、われわれは、数分間も空気を絶てば、死んでしまうし、日光がなければ、すべての生命、人間も動物も植物も、ありとあらゆるものの生命は失われてしまう。日光と生命とは不可分の関係にある。

中国の昔の哲学者たちは、生活そのものを哲学するという真摯な態度をもっていたから、右のような生活現象を見逃すことはなかった。今日のどこかの国の哲学者のように、月給のため、講義のための、観念遊戯の哲学者とは自ら異っていた。中国のこの思想は、『易』の中に発芽し、『中庸』に成長し、『原人論』を経て、宋の張子の『西銘(せいめい)』の中に次のように述べられている。「乾(けん)を父と称し、坤(こん)を母と称す。予(われ)茲(ここ)に藐焉(びょうえん)たり。乃(すなわ)ち混然(こんぜん)として中(ちゅう)に処(お)る」。乾は天であり日光と空気を意味するし、坤は大地を意味する。

栄養の中に空気や日光を加えることに、反対する人は多いが、敢えてわたくしは加えることにしている。わたくしは普通の食品以上に水なり空気なり日光なりが、われわれの健康生活上必要不可欠のものと思うからである。

食物と有機物と無機物

この世の中に存在するあらゆるものは、大雑把に無生物と生物に分類することができる。

これを別の言葉でいえば、無機物と有機物とである。このうちで、われわれの食品となるものは、生物である。即ち有機物である。ところが生物のうちにも、食べて害となるもの毒となるものが多々あるが、その見分け方は、われわれの祖先以来の経験が遺産としてわれわれに教えてくれているから、そのために煩わされることはない。

もちろん無機物の中にも、水や食塩のように、生活上相当量を必要とするものもあるが、カルシウムや燐、ナトリウムやカリウム、硫黄やマグネシウム、銅や鉄、マンガン、沃度、珪素等々は、極めて微量であるが、健康上必要不可欠のものであることが、今日明らかになってきた。

しかし何といっても、食品の主要となるものは生物である。有機物である。植物性食品であり動物性食品である。さて物理的に吟味してみると、無機物は静的な存在であって、常に平衡を保とうとするものであり、有機物は動的なもので常に平衡を破ろうとする性質をもっている。生物のうち植物は、生殖し、太陽の光線と大地の無機物を栄養として発芽し成長し、やがて老衰して枯死してゆく。動物は、天の太陽の光線と空気の恩沢により、また地の植物と動物を栄養として成長し、生殖し、老衰し、やがて死して大地の無機物に帰って行く。

植物にしても動物にしても、有機物の特質である動的な性質、即ち平衡を破ろうとする性質が、生から死までつきまとっている。

さて、生から死までの生命、この生命とは如何なるものであろうか。そしてまたこの生命を養う食品として、動的な特質をもっている生きた食品、例えば生の野菜等がよいか、火にかけて生命の失せた動的特質を失った調理した野菜がよいか、それ等に就いては後述するであろう。

食品の分析とカロリー説

われわれの食べる食品を、栄養学者が分析してみて、その中には、次のような成分が含まれていると教えている。即ち有機物としては、蛋白質、脂質(旧名脂肪とリポイド)、糖質(旧名炭水化物又は含水炭素)、それに微量のビタミン類等であり、無機物としては水及び前述の微量の無機物又ある。

食品のうち、どれにどの栄養分がいくら含まれているかということは、いろいろの栄養含有表が市販されているから、それを見れば一目瞭然と解るので、ここでは触れないことにする。大体に於いて、動物性の食品即ち肉類や魚類には脂質と蛋白質が多く、植物性食品には糖質が多い。さて、それでは食品を食べる側のわれわれの体の成分はどうなっているかというと次表の通りである。

西式健康法   上表には、ビタミン類は主要な成分ではあるが、パーセントから見れば極めて少量であるから省略した。また水分は六五%としたが、われわれの生体の水分は嬰児時代には豊富で、老年になると次第に減少してゆく。その比率は次の通りである。

西式健康法

また生体に含まれている化学元素は、一時は十五種だの十六種だのといわれていた。それに対してわたくしは、宇宙に九十八種の元素があるとすれば、人体にも九十八種含まれているし、宇宙に百三十種の元素がもしあるとすれば、人体にも百三十種の元素が含まれている筈だと、主張してきたのである。それは人体は大宇宙に対して小宇宙だからと、如何にも独断らしいが、わたくしはそう論じてきた。わたくしがこの説を発表した当時は、人体の元素は十六種くらいのものであったが、その後の研究の結果は二十となり、三十となり、今日では五十五種まで含まれていることが、専門家によって証明されている。

話は横道にそれたが、われわれの生体の成分も、われわれの食品となる生物も、その成分に於いては、似たり寄ったりのものである。われわれは、生きている以上、エネルギーを消耗している。夜間睡っている時でも、生活現象が行われているのであるから、エネルギーを消耗する。労働したり、特に重労働でもしようものなら、多量のエネルギーを必要とする。いや、エネルギーだけではない。生きている以上生体の組成分も補給して行かねばならぬ。この方にも栄養が必要とされるのである。

大体、われわれが食物として摂取したもののうち、各成分の行方は次のようになっている。

(一)エネルギーとなるもの……………蛋白質、脂質、糖質

(二)生体の組成分となるもの…………蛋白質、脂質、無機物

(三)生理作用の調節剤となるもの……ビタミン、ホルモン、酵素

食品の中の栄養素は次のようなカロリーをもっている。

西式健康法

そこでカロリー専門の栄養学者等はいうのである。日本人は一日2,400カロリー必要だから蛋白質をいくら、糖質をいくら、脂質をいくら食べねば、健康は保持できないと。

ここで断っておかねばならぬことは、カロリーの単位のことである。理化学の方では摂氏4度の一瓦の水を摂氏一度だけ上げるに必要な熱量を1カロリーといっているが、栄養学の方では理化学の1,000カロリーを一カロリーという習慣になっている。

事実は専門家を驚倒す

昭和二十二年、九州大学医学部に招かれて、第三回目の五日間の連続講義の最終日のことであった。研究生の倉恒医学士は、夫人が乳腺炎で片方を手術し、今また片方が化膿しているが、西医学ではどう処置されるかとの質問であった。「それは簡単ですよ。純生野菜食をおやりなさい。いっそこの機会に御夫婦揃って純生野菜食をなされては如何ですか」と、答えたのである。

九大医学部の若い医学者たちは真剣である。それでは実行しましょうということになり、御夫婦がお揃いで研究室に泊まりこみ、純生野菜食を始められたのである。

「普通の御方ならば、生野菜食一日300匁から350匁で十分ですが、奥さんは生れて三ヶ月の赤ちゃんを抱えていらっしゃるから、少なくとも400匁を摂らねばいけますまい」と附言しておいた。何せ十二月、一月、二月の一年中で最も寒い時をねらっての実験であった。ところがどうでしょう二週間経つと、化膿して手術せねばならぬと云われていた乳腺炎が治り、乳が出るようになった。また手術して乳が出なくなっていた方の乳も出るようになったのである。

倉恒夫人の摂った栄養は、三ヶ月を平均して一日1000カロリーであり、そのうち600カロリーは赤ちゃんに乳としてとられるから、残りの400カロリーで生活したことになる。しかも二週間目には乳腺炎が治ったのである。

この実験の中間報告が、指導教授の水島博士によって『日本人最低生活基準調査委員会』に発表された時、居並ぶカロリー栄養学者たちは、唖然としてその真偽を疑い、「そんなばかなことがあるか」と容易に信じようとしなかったということである。旧来の栄養学を信じているカロリー計算の技術家たちには純生野菜食の無蛋白質、無食塩の純生食、野菜食、玄米食が信じられなかったのも当然である。倉恒医学士は、指導教授の命により、更に一ヶ月の実行を続け、結局四ヶ月間の純生野菜食を身を以って実験したのである。

倉恒医学士の厚生省に於ける日本衛生学会連合総会での『植物性食による減食の実験研究』は、生食実行者の一読すべき文献であろう。倉恒医学士とは今日の九大医学部教授倉恒博士のことである。今日のカロリー栄養学者は、栄養を熱力学の第一法則によって研究しているが、わたくしは熱力学の第二法則即ちエントロピーの法則で論じなければ、その本質を理解できぬと主張するものである。

理想食の標準

今日、あやまったカロリー栄養学で教育された栄養士たちは、口を開けば、日本人の栄養は動物性蛋白質が足りないの脂質が足りないのと、いかにも先覚者ぶったことを云っている。わたくしは彼等の頭を改正しなければ、この貧乏国である日本は救われないと思う。空翔る鳥も、土の中のもぐらも、北極のエスキモーも、南洋の土人も、その身体の蛋白質の含有率はすべて同じになっているのである。

この同じであるべき蛋白質が、あり過ぎるところから、高血圧になったり脳溢血になったり、関節炎になったりするのである。脂質が多過ぎるから癌にもなるのである。

わたくしはカロリー学者のように、脂質をいくらとれの蛋白質をいくらとれのとは云わぬ。それよりも食べ過ぎるなと云いたいのである。わたくしに理想の標準を示せというならば、次のように答えるであろう。

パンならば篩(ふる)わぬ小麦粉のパンか黒パン、米ならば玄米か七分搗き、白米ならば「御飯の宝」を使用して炊いた御飯に、これとほぼ同量の副食物を摂ること。副食物は野菜30%、肉及び魚類30%、海藻30%、果物10%で結構である。できれば潰した生野菜をこれに加える。しかし、これは健康体の場合である。

栄養素は交流する

文部省で発行している『何をどれだけ食べたらいいか』という教科書を見ると、われわれは絶対的に蛋白質を摂らねば栄養にならない、そして蛋白質は体で糖質にはなるが、糖質は絶対に蛋白質にはならないと教えている。また脂質は体内で糖質にもなるし、逆に糖質が脂質にもなるが、脂質も糖質も絶対に蛋白質にはならぬと述べている。そしてこの説は現代のカロリー栄養学者の説でもあり、この学説によって栄養士なるものが養成されて、それが各団体の栄養を司ることになっている。

西式健康法

  わたくしはこれに対して、糖質は蛋白質にもなるし脂質にもなる。また脂質は蛋白質にもなり得ると説くのである。蛋白質が過剰になると、脳溢血にも関節炎にも肺病にもなりやすく、風邪も引きやすくなる。糖質が過剰になると糖尿病にもなり、腫物もできやすくなり、また脂質が過剰になると癌にかかりやすくなる。

いずれにしても、栄養素と呼ばれているこの三大質は、体内で交流するものであると主張するのである。これを証明するために、化学の方程式などを並べたいが、本書の性質上割愛させてもらうことになる。

蛋白質、脂質、糖質を体内で、適宜過不足なく交流させることが、また健康の要諦でもあった。その目的のために、わたくしは次の操作を奨励している。

第一に水分を欠乏させぬこと。

第二に脂質から糖質をつくるには、温冷浴と裸療法を行うこと。

第三に脂質から蛋白質をつくるには、裸療法に主力を注ぐこと。

第四に蛋白質から脂質を合成するには、運動を適度に行い、休養を十分とること。

しかしいずれにしても、六大法則を実行し、裸療法と温冷浴を励行することである。これを通俗的にいえば、いわゆるあやまった文化生活を廃して、自然生活を楽しむことである。自然生活、自然に順応した生活ということは、栄養の点ばかりでなく、われわれの生活全般に自然順応の精神を行きわたらせることである。

一体医学者諸君は、試験管を弄ぶことが好きであり、またモルモットや鼠を実験台にして随分無慈悲なことをしているが、そんなことをするよりも、眼を広い山野に転じて、牛や羊の生態に注意を向けては如何と云いたいのである。牛や羊は野草ばかり食べているが、まるまると肥っている。この自然の事実を眺めて、事実の真相に秘められている真事(まこと)を把握し、これを科学的に説明して貰いたいのである。そうしたら、わたくしの説が、理解されるようになるであろう。

体液の酸性と塩基性

近頃医科大学へ行っても、田舎町の一寸した病院へ行っても、㏗がどうのこうのということを、よく耳にする。そしてまた医家たちは㏗を独逸流に発音してペーハーと云っている。

これは水素イオン濃度指数のことで、いわば、体液が酸性に傾いているか塩基性に傾いているかを示す標準ともいうべきものである。即ち㏗7度が中性である。どうして7度が中性であるかという学問的な解明は「西医学健康講座」に詳述したから、ここでは省略する。

一般の社会人には、㏗7度が中性で、それより高いと塩基性であり、またそれより低いと酸性であることを、了解していさえすればこと足りると思う。われわれの体液は、健康体である限り弱塩基性で、㏗7.2から7.4となっている。さて㏗7.2以下の場合は、これを酸性体液と称して、アチドージス即ち酸中毒症にあるものとし、また㏗7.4以上のものは塩基性体液と呼び、アルカロージス即ち塩基性中毒症にあるものというのである。わたくしは先年、『アチドージスとアルカロージス』という専門家相手の著書を公にしている。

前述した通り、われわれは健康体である限り、弱塩基性の体液を保っているもので、また弱塩基性の体液である限り、疾病もなく、また多くの細菌は繁殖することはできないのである。

われわれが日光にあたったり、労働したり、また憤怒したり、悲哀不安の精神状態に陥ると、体液は酸性に傾き、これと逆に、暗い部屋に居たり、安静に休んだり、喜楽や安心の精神状態にいると、体液は塩基性に傾いてゆく。又後述する自律神経のうちで、交感神経が緊張すると体液は酸性化してジンパチコトニーとなるし、副交感神経(その代表者は迷走神経である)が緊張すると、体液は塩基性となりワゴトニーとなる。冷水浴は体液を酸性化し、温浴は塩基性化する。前述したわたくしの創案になる温冷浴は温浴と冷浴の交互浴によって体液を中性化する目的をもっている。もちろん裸療法もこの意味に於いて解釈されるわけである。また高度の関係から登山は塩基化である。下山は酸性化である。

更にわたくしの健康法の背部運動即ち左右揺振は、体液を酸性化し、腹部運動の兀々坐定(こつこつざじょう)は塩基性化するもので、左右揺振と兀々坐定とを同時に行うことによって体液は中和するのである。

さて、われわれの疾病の七割までは、酸過剰によって誘発されるもので、残りの三割は塩基過剰によって惹起される。それに、塩基過剰の場合は塩基物が自然に腸から排泄される仕組になっているから、その実害が少ないのである。

ここで栄養の問題からそれて、他愛易の㏗になってしまったが、次の栄養の問題を理解するために、一応、以上の知識を予備として持つことが必要であるから、述べたまでのことである。

植物性食品の奨励

われわれが日常摂取した食物は、体内で酸化され、燃焼されて灰分と瓦斯とに分解される。このうち灰分は可溶性のもので、血液によって組織に運搬されて行くのであるが、灰分のうちで金属類は塩基性即ちアルカリ性として、また非金属は酸性として体液の中に溶けるのである。

食物のうちで、大雑把にいうと動物性食品と、植物性食品の穀類とは酸性となるので、穀類を除いた植物性食品の大部分、特に果実類はアルカリ性となるものである。各食品のうち、どれが酸性か塩基性か等の細かいことに就いては、市販の食品分析表で容易に知ることができる。

前述したように、疾病の七割までが酸性体液によってされることを知ったならば、われわれは、毎日の食卓にのせる食品を、いかなる標準で選定したらよいか、自ら理解されるであろう。この点に就いて、諸外国の専門家の意見を次に聞くとしよう。

アメリカのウォールドは「食物の酸性と塩基性との調和を計ることは、カロリーの研究よりもむしろ必要である」と述べているし、英国のバーは「アルカリ性食品は、体内でカルシウムその他のアルカリ性物質を提供して、酸性食品から生ずる酸を中和させるから、骨格及び他の組織の保護に必要欠くことのできないもので、酸の侵略を放任することは愚の至りである。なお運動後に疲労を覚えるのは、発汗のために酸塩基平衡上最も必要な食塩を失うことが原因で、その多くは酸中毒からである。従って、疲労後の休養は即ち血液中のアルカリと内分泌とによって、酸を中和し、筋肉を平常状態に復せしめることである」と、懇切に教えている。

また独逸のベルグは次のように論じている。「われわれの保健食料は幾多の条件の他に、次の二条件を備えていなければならぬ。それは食品の中に含まれている無機酸の総量が、現存する無機塩基によってことごとく中和されるものでなければならないこと。他の一つは新陳代謝の結果、塩基性物質は微量に生ずるに反し、酸性物質はやや多量に生ずるものであるから、これを中和するに必要な無機塩基を過剰に含まなければならない」

更に中国の古典『傷寒論』は述べている。「およそ病は、もしくは発汗し、もしくは吐し、もしくは下し、もしくは津液(しんえき)を亡(うしな)うとも、陰陽自ら和するものは自ら愈(い)ゆ」・・・・汗、吐、下によって津液を失っても、体液が陰陽即ち酸と塩基が中和していれば、病気は治るというのである。

『傷寒論』など大時代の非科学的な古典を持ち出したと、笑う人があるかも知らぬが、彼等の天才的な叡智と経験から生れた記録は、このようにわれわれに貴い文献を残してくれている。ただこれを理解し得ないものが、大時代の、旧弊の、と笑うのである。

以上俗受けのしない理論を、くどくど述べたてたが、結局は、栄養だ滋養だといって動物性食品ばかりをありがたがる人々に対して、植物性食品の持っている重要な役割を述べ、敢えてその食用をすすめるまでのことである。

無機塩類と野菜

最近二十年来、体液の酸性とアルカリ性の問題がいろいろの人によって論じられ、健康保持のためには絶対的に体液をアルカリ性にしておくことが必要だということが解ってきた。そしてこのためには野菜や果物を沢山摂らねばならぬということになってきた。ある医家の如きは、万病はアルカリ性の食餌を摂るだけで治るとさえ述べている。しかし万病がアルカリ性食餌だけで治るということは、信仰だけで万病が治ると主張する宗教と同じで、眉唾ものである。食餌に関する著書は、沢山公にされているから、敢えてわたくしはここに蛇足を加えぬが、アルカリ性食餌療法の根本趣旨は無機塩類を豊富に摂ることである。

ここではただ日本の食餌療法家によって無視されている無機塩類と、精神その他との関係を、サムエル・アンーダーソン博士の著『神と科学の縫合する処』という著書から抜萃して参考に供したいと思う。

「マンガンなければ愛情なく、カルシウムなければ発育なし。

ナトリウムとカリウムが一定の比率を保たなければ、健康の一端がくずれる。

硫黄なければ骨格弱く、珪素なければ忍耐力なし。

マグネシウムなければ骨格の成分脆く、筋肉に締りなく、食塩なければ衰弱す。

鉄がなければ健康色なく、銅がなければ結核に冒されやすく、燐なければ智慧もなし。

沃素なければ身体各部に異常を起し、弗素なければ若さも保てず」

 

次に、最近、薬剤界や化粧界に、葉緑素の問題が、特に盛んに宣伝されてきて、葉緑素入の化粧品を使用すれば肌が美しくなるとか、葉緑素を利用した薬剤はストレプトマイシンよりもオーレオマイシンよりも、効くなどと云われてきた。この葉緑素も、結局は野菜の青い葉の中に最も豊富に含まれているのであるから、野菜を食べることは確かに望ましいことである。

野菜に就いて思い出されることは、ビタミンCの発見者として世界的に名声を博したセント・ゲオルギーが1937年に「王様だってキャベツと根本的相違がない」といって、王様だって野菜からできていると断言したのである。王様だからとて上等の肉ばかり食べているわけではなし、また肉を喰べていたとしても、その牛なり豚なりが野菜を食べてそれを肉にしたのであるから、結局王様もキャベツも同じだという説である。流石(さすが)はビタミンCの発見者の名言である。いやそれよりも以前にわが中江藤樹や滝沢馬琴なども、人間は野菜からできていると述べている。庶民だからとて王様だからとて、特別のものを喰べる必要はないのである。特別上等のものを喰べるから、血圧が高くなったり、脳溢血になるのである。

特に日本の上流階級の人ほど白砂糖を多くとり、それでも欧米の文化人の砂糖の消費量には及ばぬから、もっと甘いものを摂らねばならないと唱える人があるが、とんでもないことである。砂糖はカルシウムを破壊するもので、ブラウフレにいわせれば、白砂糖はカルシウム泥棒である。欧米人は日本人よりも白砂糖を多量に摂ってもその害の少ないのは、日頃牛乳を多量に飲んでカルシウムを豊富に摂っているからである。牛乳の飲用量を調べないで砂糖の量だけを検討するなどは、いかにも現代の似而非(エセ)文化人らしい物の見方である。カルシウムの不足は、人間を神経過敏にし、逆上しやすく、また結核性体質に追いこむものである。

わたくしはまた、老人の食餌として次のことを唱えている。隠居の生活をしている者は動物性食品を摂ってもよいが、外に出て活動する老人は、植物性食品を摂らねばならぬ。このわたくしの説は、従来の老人食餌と相反するが、活動する以上体液は酸性になるから、アルカリ性の食品を摂らねばならぬというのである。孟子は、年寄りは、肉食をして美服を纏うと述べているが、それは隠居の年寄りのことで、活動する年寄りには向かぬ教えである。

生 食 療 法

わたくしは、全然、火を通さぬ野菜や玄米粉を食べることを、生食療法として提唱しているが、これはその言葉が示す通り療法である。健康でぴんぴんしている人に、生の野菜食をしなさいとはいわぬ。しかし御本人が健康と思っていても、わたくしから見れば、一ヶ月後に、または半年後に病床に臥す人かどうかが解るので、そういう人には生食をすすめている。

また一方、体質改造を志している人、若返りたいという人にも、また生食療法をすすめている。

その方法は、生野菜だけでも結構だが、どうしても米を喰べたいという人は、生の玄米を粉にして、生の清水で喰べるのである。但し療法として実行する場合は、生野菜は五種以上選定して喰べること。これは、野菜には各々特性があるから、その五種類を混ぜて一緒に喰べると、各種の野菜の持っている特性が、各々補い合って、生食の目的に合致するようになる。二種類や三種類だと、病弱の体には各野菜のもっている特性がかえって強過ぎて、悪結果を来たすことがあるからである。若返りのためや体質改造のためならば、体も比較的健康であるから、五種類でなくても三種類で結構である。またその量は、普通生野菜だけだと一日300匁から350匁くらいで十分である。玄米粉と併食する時は、玄米粉一合五、六勺に生野菜80匁から120匁とする。

冬分になって野菜の少ない時は、根と葉を各々一種と勘定しても一向差支えない。緑の葉の部分にはビタミンCや葉緑素が豊富に含まれているし、白い根、特に毛根の部分には無機物が豊富に含まれているから、毛根だとて捨てるところがない筈である。古来、朝鮮の人蔘が万病に対して起死回生の効力を発揮するのは、朝鮮の人蔘が内地の人蔘よりも毛根が多く、それだけ大地から無機物を豊富に吸収しているからである。

生食に胃腸が慣れるまでは、常人で二、三週間、病人ならば一ヶ月半くらいまでは、擂りつぶして喰べるようにする。これに生牛乳、乾柿、甘酒等を少し加えて味をつけると、なかなか捨て難い味のあるものである。塩や醤油で味付けすることは避けねばならぬ。

生食を一ヶ月半もすれば、体液は中和し、便通がよくなり、寄生虫が孵化する時間的余裕がない程便通がよくなる。生食をすると寄生虫が湧くという人があるが、寄生虫の巣となる腸内の宿便が排除されるから、その心配は無用となる。

今日までのところ生食の奏功する病気として、次の症例が挙げられているが、これ等は現代医学に於いても実験済みの例である。わたくしは左記の他に、若返り法として体質改造法として、いや万病根治法として生食療法を推奨するのである。

A.主として水分を消し去る作用

腎臓疾患  心臓性浮腫  肝臓性及びその他の浮腫  高血圧  動脈硬化症

尿 崩 症  脂肪過多症

B.主として炎症を治す作用

化膿菌による炎症  皮膚の炎症  結核性疾患  関節リウマチス

痛風及びそれに基く神経痛  腸疾患(慢性便秘症と下痢)  慢性腸カタル

胃潰瘍  呼吸器疾患

C.その他の場合

糖尿病  神経疾患  眼疾患  偏頭痛  歯疾患  癲癇  子癇予防

以上は主として治病に関する点を述べたのであるが、生食療法の生理的効果に就いて、わたくしは次の十三個条を挙げている。

一.生野菜は太陽光線から合成された物質を多量に含んでいるから、太陽光線を間接に利用できる。

二.野菜は大地から栄養を摂って成長するから、大地の栄養分を利用できら。

三.ビタミンを損することなく摂取できる。

四.食塩の含有量は少ない。

五.アルカリ性食品であるから、体液をアルカリ化することができる。

六.蛋白質や脂質を最少限度に制限できる。

七.多量の水分を含有している。

八.触媒作用、いわば新陳代謝に役立つ酵素を摂取することができる。

九.五種類の野菜は栄養上の各野菜の欠点を補ってくれる。

一〇.生食によって細胞は一新される。

一一.健康の鍵であるグローミューを賦活できる。

一二.少量喰べても飽満した感じを得られる。

一三.適当量の線(繊)維分が含まれていて、それが腸の活動を活溌にする。

ビタミンC

ビタミンCは、壊血病を治す目的でいろいろ研究されているうちに、かえって壊血病とは関係のないところから発見されたものである。しかもその発見は一九三七年で、いわば最近の発見であるから、一般にはその効用が理解されていない。相当の知識階級を以って任じている人でも、ビタミンCといえば、壊血病の特効薬だぐらいにしか考えていないのが現状である。

わたくし自身、生食法を実行した当時はビタミンCなど発見されておらぬし、ただ旧約聖書の「神言いたまいけるは、視よ我全地の面にある実蓏(たね)のなる諸の草蔬(くさ)と核(たね)ある木果(み)の結(な)る諸の樹とを汝等に与う。これ汝等の糧となるべし」という聖句や、古代ギリシャの哲人たちの生食論や、仏教の菜食論等に暗示を得て実行したのであった。ところが実行してみると、いわゆる霊験あらたかであったので、これある哉と感激したのである。

そこで例のわたくしの癖で、生食に関する基礎的な文献を集めることにしたが、まとまったものが入手できなかった。コロンビア大学に遊学していた当時、マンチェスターの『菜食主義協会』や独逸の『自然生活友の会』等で発行したものを二、三読んだが、それは菜食ではあるが生野菜食ではなかった。わたくしの考えは、菜食から一歩進めた生野菜食、更に一歩進めて生野菜食を効果あらしめる何物かが生野菜食の中に含まれている筈だ、それが病気を治してくれるのだと考えていたのである。それが鈴木梅太郎博士によってオリザニンとして、またセント・ゲオルギーによってビタミンCとして発見されたとき、わたくしは思わず喝采の声をあげたものである。

ところが世人一般は、いや相当の栄養学者までがビタミンCを壊血病の特効薬としてのみ、その価値を認めるのである。それにはわたくしは不満である。

幸い、最近ビタミンCの研究の機運は世界的に高まってきて、今や健康生活全般とビタミンCとは切り離すことができないことが、次々に発表されてきた。そうならなくてはならぬと、わたくしは自らの体験から信じている。わたくし事実は先きだ、理論は後から学者がつけるのだと、常に口外しているが、特に生食に関してその感が深いのである。

今日までのビタミンCの効果を要約すると、次のようになる。

  1. 歯の発育に役立つ。
  2. 皮膚の内側の細胞組織を健全にする。
  3. 毛細血管を生理的に健全にする。
  4. 細菌の感染に対して抵抗力を強める。
  5. 酸素の新陳代謝に役立つ。
  6. 血球を再生するに役立つ。
  7. 血液の凝固時間を早める。
  8. 血圧を生理的に調節する。
  9. ある種のホルモンの分泌を促進する。
  10. ある種の免疫性を高める。
  11. コラーゲン(膠原質)の生成に欠くことのできぬ成分である。
  12. グローミュー(動静脈吻合)の確保に役立つ。

以上専門家らしい文句を並べたが、結局、ビタミンCは、内科の疾病にも、外科の手術に際しても、皮膚科の病気にも、呼吸器の患者にも、その他ありとあらゆる病気の治療にはもちろん、予防にも、ビタミンCが必要であるということを、医学専門用語を並べて、裏面から述べたまでのことである。

わたくしが盛んにビタミンCを高唱するので、某医大のある教授が、西は馬鹿の一つ覚えのようにビタミンCばかりをいうと冷笑したそうだが、わたくしは甘んじてその教授の冷笑を受けるだけの肝ができている。日本のビタミン学者たちは、ビタミンCの研究が難しいものだから、その機関誌『ビタミン』誌上に、Cの研究発表は殆んど見られないが、欧米の活溌な最近の研究を何と見るかである。詳細は拙著『ビタミンC』(西医学健康講座第七巻)を一読せられたい。

柿の葉のお茶

それではビタミンCを、いかにして体内に摂取するかが問題である。徳川時代の仙医甲斐の永田徳本は、野ばらの実を一日一粒宛食べて、それで百十余才まで長生きし、羽化登仙したといわれるが、野ばらの実には驚く程のビタミンCが含まれている。おそらく永田徳本はそれで長命下したものと想像される。英国では野ばらの実からビタミンCを抽出して販売している。ところが薬品として飲用したり注射したのでは、一時間やそこらで尿となって体外に出て、Cの薬効する時間は短いのである。

しかし、ここで注意をせねばならぬことは、永田徳本の真似事をして野ばらの実を食べることは止めてもらわねばならぬ。それは普通人では忽ち下痢をするからである。

北海道から裏日本方面にかけて野生しているはまなすの実にも、ビタミンCが豊富に含まれている。これが利用できれば結構だが、地域的にも季節的にも、これには制限がある。

そこでわたくしは、日本全国至るところにあり、誰でも容易に入手できる柿の葉をお茶にして飲む、即ち柿の葉茶にしてビタミンCを摂取する方法を創案して、大いに宣伝してきた。

柿の葉などという人があるが、江戸時代には凶作で食物が不足した場合に、柿の若葉を茹でて喰べたし、また柿の葉は酒毒を消し、暑熱口乾を止めるものだと、天保時代の山本安良が『救荒喰延食品』の中に述べている。また明治時代の植物学者白井光太郎博士は、柿の老葉を粉にして利用することを、その著『飢饉植物』の中に述べている。その他、柿の蔕は漢方薬として昔から利用されてきたし、柿渋は医薬として、化学工業資材として、広く使用されてきた。

もちろん、柿は酒の酔をさます果物として、熟柿臭い息をはく酩酊者にはきらわれるが、その甘い味覚は男にも女にも子供にも喜ばれる。また乾柿として長期間保存できるから飢饉対策として、封建時代には各藩競って植樹したものである。また若葉は、てんぷらとしても重宝である。俗説ではあるが、武田信玄は戦場で負傷し、薬の間に合わぬ時は、柿葉をもんで傷口にあてて繃帯せよと教えたといわれている。おそらく柿の葉のビタミンCと葉緑素を利用することを、長年の経験から体得したのであろう。

柿の木の種類は渋柿でも甘柿でもかまわぬ。六月から十月までの間が、ビタミンCの最も豊富な時期だから、その期間がよい。葉を採って(採取の時刻は午前十一時から午後一時まで。すべて野菜や果物の採取は、その色彩によって時刻を考えねばならぬ。即ち太陽スペクトルの中心体の移動は、朝から昼にかけては、紫、菫、藍、青、空、碧と変り、昼から夜にかけては、緑、黄、橙、赤、緋、茜と変って行く。そこで野菜なり果物の色と太陽のスペクトルの色と一致した時刻に採集するのが、採集物の破損を防ぐ方法である)、

晴天で二日、雨天で三日陰干しにする。

さてそれを二つ折りにして主脈を切り取り、これを横にして一分くらいの幅に刻むのである。鋏(はさみ)で切ると切口が縮むから庖丁で切る。

一方、釜に湯を沸かし、その上に蒸籠(せいろ)をのせ、充分湯気で蒸籠を温める。それから一たん温った蒸籠をおろして、それに準備した柿の葉を厚さ三糎くらいに手早く入れて、これを湯気の立っている釜にのせで、蓋(ふた)をして時計を見るのである。1分半蒸したら蓋を去り、うちわで手早く30秒間柿の葉をあおぎ、葉に溜った水滴を蒸発させ、更に蓋をして更に一分半蒸すのである。これで丁度葉を入れた蒸籠を釜にのせてから三分経ったことになる。そこで蒸籠をおろして、蒸した葉を底のすいた金属でない容器、たとえばざるなどにあけ、手早くひろげて、太陽の直射を避け、風通しのよい日陰で乾燥する。うちわで30秒間あおぐのは、ビタミンCが水滴に溶けて落下するのを防ぐためであり、また金属の容器を避けるのは、ビタミンCの酸化を防ぐためである。

柿の葉を蒸さずに保存すると、ビタミンCは無くなってしまうこと、また陰干しを四日も五日もすると、ビタミンCが無くなるのである。

さて、柿の葉茶を出すのは、普通の番茶のように、金属製以外の急須に、一摑みの柿の葉茶を入れ、これに熱湯を注いで10分か15分してから飲む。二、三度汲出してもビタミンCが出るものだから、一度で捨てないこと。お湯を注いで色の出る間は飲用して効果がある。

またお湯の代りに生水を入れて、一時間半もするとビタミンCが出るが、あまり長く放置しておくとビタミンCが水の中の酸素と酸化するから、注意が肝要である。

飲用後四、五十分間は、番茶等の強アルカリ性の飲料をとらぬこと。これはビタミンCがアルカリと中和して無効になるからである。

発熱患者はもちろん微熱でも、それが長時間続くことは、結局、熱に弱いビタミンCを低温乾溜するのと同じ理屈で、体内のビタミンCを破壊することになるから、熱のある患者には絶対にビタミンCの補給が必要である。また発熱38、9度の場合は、柿の葉茶よりも柿の葉の煮汁がより効果的である。

ビタミンCの含有量を、参考までに表示すれば、次の通りである。


朝 食 廢 止

朝食廃止の文献

わたくしが、まだ東京市の高速度鉄道の設計主任技師をしていたある日、懇意にしていた

一市会議員、今の都会議員が見えて、どうも体の調子が悪いというのである。人相や体つきから、わたくしは栄養過剰だと判定し、「朝飯を抜いてごらんなさい」と注意したら、「こんどは朝飯ですか」と微苦笑したものだ。多年わたくしの説を傾聴し、親しいままに、板に寝ろ、木枕をせよ、金魚の真似をせよ、生水を飲めなどというわたくしの説を承認しながら、動物に下落することだと日頃軽口をたたいている間柄であってみれな「こんどは朝飯ですか」と、反問するのも人情かもしれぬ。

わたくしは、その頃、昼の休み時間を利用して、日本橋の丸善に新刊の洋書をあさりに行くのを、一つの楽しみとしていたので、日本橋への道すがら市会議員と連れ立って銀座に出て昼食をともにし、朝食廃止論を一席まくしたてたのである。市会議員は「昼食抜きはよく聞くが朝食抜きは初めてだ」とも言った。

われわれの祖先が二食生活をしていたということに対しては、何人も異論がないが、その二食は朝夕の二食か昼夕の二食かの問題になると、大分議論がわいてくる。しかしわたくしは昼夕の二食であったことを断言する。その証拠には、後醍醐天皇の勅作『日中行事』の中の一節に「朝の御ものは午の刻なり」とあるところからも明らかである。この午の刻は、今日の正午の午で昼であって、文字の上では朝夕の二食であるが、実際問題としては昼夕の二食であったのだと主張した。

朝食の有害であることを、経験的に体得し、これを警世の文字に綴ったものに旧約聖書があると云って、「その王は童子(わらべ)にしてその侯伯(きみたち)は朝(あした)に食をなす国よ、汝は禍なるかな。その王は貴族(うまびと)の子またその候伯は酔楽(えいたのし)むためならず、力を補うために適宜(ほどよき)き時に食をなす国よ、汝は福(さいわい)なるかな」というと、都会議員は相変わらず博識だな、と感心したものだ。

朝食廃止の根拠

朝食廃止を提唱する理由として、三つのことが挙げられる。第一は栄養上の問題から、第二は生理上の問題から、そして第三は経済上の問題からである。

第一の栄養上の問題については、われわれの疾病をひき起こす最大の原因は、食べ過ぎ。にあるということである。この過食を防ぐ方法に、食事の量を減らすことと食事の回数を減らすことが考えられる。いま朝昼晩の三度の食事を朝抜きにして二度に回数を減らすことは、結果に於いて食事の量を減らすことになるのである。朝食を摂らずに空腹を抱えて昼食の膳に向うと、朝食の分までも食べてしまうのではないか、と反問する人もあろうが、事実は左様簡単にはいくものではない。

朝食廃止の初期の一、二ヶ月は、平生の昼食量よりも幾分か余分に食べるであろうが、三月目頃からは以前の昼食の量即ち朝食を食べていた当時の量にかえることは、実行者のひとしく体験しているところである。畳上で水泳を練習する前に、先ず事実に於いて体得することだ。第三の経済上の問題については、多弁をする必要を認めぬほど明瞭である。但し時間の経済をも考慮に入れることを忘れてはならぬ。

次に第二の生理上の問題を検討してみよう。その第一として、午前中は、生理的には排泄器官の働く時間であるから、食事は止めた方がよいとウェーバー博士は述べている。「昼前は食事をとらぬこと、少くとも一日一食か二食で満足すべきである。太陽が中天に達する、までの時間は、生体から老廃物を排泄するに適している。もしも諸君が朝食をとるならば、諸君の尿中には老廃物の痕跡を見出すことができないであろう。朝食は単なる習慣のもので、一度この習慣を破るならば、二度とこの習慣を繰り返すことがなくなるだろう。なぜならば朝の食事は生理的なものでないからである」。これと同じ意見をデューイ博士も発表している。

わたくしはこの説に暗示を得て、フランスのスーリエの尿の実験を想起して、実験にとりかかったところ、次のような結果を得たのである。

この尿中の毒素の少い分だけ、体中に残るわけである。

以上の結果から推論すると、一日一食、午後3時から4時の間に摂るのが理想的であり、また昼食抜きが朝食抜きに比較し好ましからぬことが解る。結局、これは午前中排泄のために働くべき胸椎九番以下の神経が、朝食のために阻害された結果によるものと、わたくしは解釈している。

第二は、午前中は消化器官は朝食を摂取するように準備されていない。即ち夜間の睡眠時は、われわれの消化器官の粘膜もまた休養状態になる。そこへ急に食物を摂ることは、非生理的である。英語のブレークファストは、語源的にはブレークは破る、ファストは断食の意味で、夕食から断食をしていたのを、朝になって破るという意味である。断食後の恢復は如何に慎重に取扱わねばならぬかを知っている人ならば、たとえ朝食を摂るとしても、絶対的に柔いものでなければならぬことを承知の筈である。

第三は、食事は時計による時間に支配されるものでなく、生体のエネルギーの消費を中心とすべきである。次は昼食抜きの人からの反対であるが、一日24時間を折半した時間即ち朝六時半から七時に朝食をとり、夕食もまた六時半から七時にとることは、至極合理的であるから昼食抜きが理想的だという説である。これに対してカリングトンは「この問題に関しては、夜分は全く勘定から除外し、あたかもそれが存在しなかったかのように取扱わねば

ならぬ。何故なれば、夜分は精力は消費されぬからである。仕事がされるでなし、組織もまた破壊されない。結局組織の代替が不必要であるからだ」と主張し、「さて労働の時間を勘定の基礎として採用すれば、われわれは午前11時と午後6時半に摂る食事が、一日を最も公平に分割する結論に到達する」と反駁している。

第四は、空な胃は精神を高める。天才又は芸術家の最高の努力、或は手技による真摯な技芸は、胃の空である午前中即ち頭脳に多くの精力が貯蔵されている午前中が最も能率的である。のみならず精力に満ちた午前は、趣味の優れた感覚にとって、また精神生活の優れた情操にとって役立つのである。

第五は、朝食を廃止した午前中は、疾病を治すためのエネルギーのあらわれる時である。従って朝食廢止は短期間の断食療法で、これによっていろいろの疾患が治っていく。

第六は、食事がうまく食べられる。朝食廃止者は、朝食廃止により昼食のうまくなるのは解るが、夕食のうまくなるのは、一体どういう理由だろうかという。これは朝食廃止により、消化器官が全体的に健康になり、従って夕食もうまくなるのである。

第七、胃腸病特に慢性の胃腸病が治り、便通がよくなる。

第八、不必要な発汗が減ってくる。

第九、頭脳を明快にし、精神を爽快にする。中国の朝食廃止論者呉履吉、その編著『延年益寿男女養生論』の第三編「廃止朝食」に於いて、次のように述べている。「よく頭脳を明晰に、精神を活動せしめ、兼ねてよく飢を忍び、苦に耐えて強毅種々の利益あり、筆にてことごとく述べ難し」

その他種々の利益があるが、ここでは省略する。

実 行 方 法

朝食廃止を実施するには、今までの朝の御飯の量を半分にするとか、或は少量のお粥で間に合わせるとかで、段々とその量を減少していく。そして一週間で水に取換える方針をとる。朝食を沢山食べておった方は、朝食を廃止すると一時的に眩暈(めまい)することもあるが、これは栄養不足のためでなく、腸管が空になるためであるから、その時は生水を飲んでおけばよろしい。

朝食を止めると一時体重が減るが、これはむくみが取れるのだから心配なく、一旦むくみが取れれば、又適性の体重に戻るものである。

乳幼児青少年の朝食廃止も一向差支えない。しかし精神的影響があるから、両親に於いて差支えないという確信を持ち、子供にも十分言いふくめて実行させることにする。乳児も朝十時半以前には、乳を飲ませない方針を採れば、健康に育てることが出来る。

朝食は生理的要求というよりは寧ろ習慣の問題だから、これを廃止することは容易である。重労働に従事する人も差支えなく、かの力士が、朝食抜きで猛烈な朝の稽古を励み、それから昼食と夕食の二食の生活で、あのように肥っている。農夫は食糧豊富で、かえって一日に五食もするから、早く老衰するのである。渡り鳥は最後の食事が完全に消化し尽し、空の胃袋をもって長い飛翔の旅に出発するというが、胃腸の消化によって紛らわされることがないようにするためである。

先ず、論より証拠、事実によって効験を体得することである。

双葉山敗北の予言

わたくしは一ヶ月のうち殆ど半分は旅行に費やしている。朝食廃止の朝の時間を活用しても、時間が足らぬ多忙さである。それでいて、汽車を待つ時間を利用して、ニュース専門の映画館に飛び込むことがある。

まだ双葉山の全盛時代であった。映画を見ていると、その取口から体つきから、どうも肝臓に故障があることが感得されたのである。おそらく双葉山関は、朝食をとっているのではないだろうかと、一寸感じた。もちろん真偽のほどは知らぬが、これでは次の場所には黒星の一つくらいとることになるのではないかと、その土地の西会の支部の世話人に話したのである。果せるかな次の場所では、数場所連続全勝の相撲の神様双葉山関も、安芸ノ海関に敗れたのである。

このことを、支部の世話人たちが、わたくしの神秘的な予言が的中したようにいいふらしたが、体貌観測に精進すれば、神秘でも何でもない。いわば、天気予報があたるようなものである。その理論を知らぬものには、神秘と感じられるまでのことである。

生水飲用は若返り法

水の效用と細菌

人間の体を、進化論的に吟味してみると、アミーバから発達し、水棲動物となり、次に陸に上って陸上生活をいとなむようになったことは、生物学者の教えているところである。従ってわれわれは、水とは切っても切り得ない関係をもっている。

更に個体としてみても、生体は水とは絶縁できない関係になっている。即ち生命の神秘が一度母体に宿ると、胎児は子宮内の羊水の中で発育し、月満つれば羊水とともにこの世界に押し出され、勇ましく呱々の声をあげて産湯をつかうのである。次いで最初に望むものは母乳である。また独立した生活体となっても、何らかの形で水分をとって生長し、命数つきてあの世に去るに際しても、最後に欲するものは末期の水である。クロード・ベナールは「生きとし生けるものは、ことごとく水中に生活する」と、いったのも確かに真理をうがった名言である。

生体の成分を研究してみても、その大部分は水分であることは前述した通りである。体内の水分の10分の1を失うと病的状態に陥り、精神不安や痙攣等の現象を現わし、激しい苦しみの後、20~22%までは死亡してゆく。ところが、栄養学者たちがやかましくいう蛋白質や脂質などは、10分の1どころか半分に減じても、短い期間中ならば、生理的な変化を起こさないのである。われわれは水を完全に絶てば、五日とは生きられないが、水さえ飲めば完全に断食しても数ヶ月は生きられる。

誠に水は不思議なものである。生水は普通液体として存在しているが、酷寒になると凍って個体の水となるし、高熱で熱すれば湯となり水蒸気となって気体となる。水は生水にも水蒸気にもなるし、また水蒸気を冷却した蒸留水は水にもなるが、一度熱したお湯はいかなる人工方法を以ってしても、生水に還元することはできない。そしてわれわれの生活は、この生水によって営まれているのである。

専門家の説によると、水の生理的効用として次の事項が挙げられている。

一.血液循環。二.琳巴液の活動。三.体液の調節。四.生理的葡萄糖の生成。五.細胞の新陳代謝。六.毛管作用の促進。七.内臓の洗滌。八.酸塩基の平衡。

上記のような效用を認めながら、専門家たちは水の飲用をあまりすすめない。いや、すすめないどころか、生水は毒になるから飲むならお湯を、それも一度煮沸した湯ざましにしたお湯を飲めというのである。わたくしは煮沸したお湯と生水とでは、全然その性質が異なるものだから、飲むなら生水を飲みなさいと主張して来た。一度煮沸した水では、金魚を飼っても死んでしまうし、盆栽にかけてやっても枯れてしまう。湯ざましは、全然飲まぬよりはよいが、栄養の点に於いては生水とは比較にならぬのである。

専門家たちは、生水には細菌がいるから危険だというが、わたくしとても、有毒な細菌のいる生水には反対である。それだからこそ、わたくしは清い生水を飲用せよというのである。

しかし、ここでわれわれは細菌に就いて考えてみねばならぬ。一体、地球上細菌のいない場所はあるであろうか。生水を飲まぬ衛生家の腸にも、毎食後に歯磨ブラシを使う神経質な婦人の口中にも、最近はうようよしている筈である。ただそれらの細菌は有毒でないから、問題にならぬのである。いや、ある意味では、これらの無毒無害の細菌が、地球上にも体内にもいるからこそ、われわれの生活がいとなまれているのである。この意味に於いて、わたくしは殺菌には反対である。

わたくしは細菌と共存共栄を楽しむ生活を提唱している。有毒の細菌であっても、それを殺菌することなく、その繁殖を抑えるというのがわたくしの方針である。それよりも何よりも、有毒の細菌が体内に入っても、繁殖も生育もできないような健康体を作ることが、わたくしの主眼である。

再びいうが、この世の中から細菌が絶滅したならば、おそらく生物界に一大異変が起り、人間生活も変貌するであろうことを、断言するものである。

わたくしの飲水療法

わたくしは下痢をしたら水を飲みなさいとすすめて、多くの人々から感謝がされている。ところが現代の医学者たちは、下痢に生水とは飛んでもない乱暴だと反対してきた。しかし水を飲むと熱も出ずに治ってしまうのは、どうしたことだろうか。

もともと吐いたり下したり汗をかいたりすることは、結論からいえば体内の水分を体外に排泄することになる。それが尿として排泄すれば生理的であるが、汗、吐、下では非生理的となる。医家はこれを脱水作用といっている。

さて脱水作用が行われた場合、体内にはいかなる変化が起るであろうか。それはグワニジンという毒素が血液中に多くなるのである。グワニジンは健康な人でも血液100瓦につき0.1瓱から0.2瓱含まれているもので、脱水するとその量率が高くなる。グワニジンは赤痢やチブスやコレラ等になって下痢をすると、脱水して、やはり量率が高くなる。そして1瓱から2瓱になると、死ぬのである。グワニジン毒素による代表的な死は、尿毒症である。

そこで脱水してグワニジンが多くなりそうな時、生水を飲むとグワニジンは尿素とアンモニアに分解されて、尿となって体外に排泄されることになる。事柄が極めて簡単であるが、現代医家はこれをやらず、血液中のグワニジンの量率を高め、発熱させ、そこで注射や投薬をして、どうも経過が思わしくないと頭を傾けたり、匙を投げたりすることになる。

次にむくんだ病人には、昔から水をやらぬことになっている。これにもわたくしは反対して、むくんだ病人には生水を飲ませよと主張して、かえって効を奏して来た。ところが医家の方では、そんな馬鹿なことはない、西のやつ法螺(ほら)を吹いているのだといって、わたくしの理論にも方法にも耳を傾けようとしないのである。

近着のアメリカの医学雑誌でシェムという医学博士が、心臓病や腎臓病でむくんだ病人には、水を与えねばならぬと説いている。だが日本の医家のうちで、欧米の最近のこれらの研究に眼を通している篤学者は、何人いるであろうか。大部分は西の法螺だ出鱈目だというのである。法螺でも出鱈目でも病人が治れば、それでいいのである。

もともと毛細管以外に動脈と静脈を直結しているグローミューの存在を知り、その生理解剖を理解すれば、なぜむくんだ病人に水を飲ませるか、そしてそれがどうして治るのかということが、自ずから解ってくる筈である。ところがグローミューといっても、医家でこれを知っている人は、極めて少いのであるから話にならぬ。

今一つは、夜尿症の患者に水を飲ませて治す方法である。これも医師諸君から冷笑をかったものである。夜尿症の患者をつかまえて、就寝前に、庭なり道路なりを駈足させて汗をかかせ、そして生水を飲ませて夜尿症を治すのである。医家は、水を飲まなくても尿が出るのに、生水を飲ませるとは、とんでもないインチキ療法だというが、患者の方はお陰さまで治りましたと感謝している。

わたくしの理論から行くと、飲水は一分一瓦主義となるのであるが、まあ、三十分毎に三十瓦を飲むということにして、これを一ヶ月半も継続すれば、その後は随時欲するままに飲用して一向差し支えないことになる。一日二立から三立くらい飲むのである。

理想的な飲み方は、起床して排尿後、毎食時の三十分前、それに就寝一時間から三十分前に、コップに一杯か一杯半を飲むことである。その他の時間には、三十分毎に三十瓦主義を実行する。欧米の医家は、生水の飲用だけで、今日の疾病の五割は予防し、治療することができるといっている。

英国の諺に「水を飲んでおれば、病気をせず借金もせず、また自分の女房を未亡人にすることはないし」と、水の効用をたたえている。フランスの名女優サラベルナールは、「人は花と同じで、生水を飲まねばなりません」と、生水で若々しくなった美貌を、いつも輝せていたということである。

特に飲酒家の忘れてならぬことは、酒を飲んだらその三倍量の生水を飲んで、酒による害を消すこと、また白砂糖の愛用者も、生水を飲用して白砂糖による害を消すことを算段せねばならぬ。

新鮮な空気の味

体外の一酸化炭素

栄養としての空気といえば、いかにも奇をてらうように聞えるが、空気は確かに栄養分となる。朝、雨戸をあけた時、庭の木の間から室内に流れてくる空気は新鮮で、誠に甘(うま)い。また大戦中、潜水艦に乗り込んだ勇士たちは、箪笥の抽き出しを開けて、新しい空気を吸うという話を読んだことがあるが、常に大気に恵まれている人たちには、ちょっと想像もつかない話である。

われわれの生活と空気の関係に就いては、多くの学者たちによって説かれているから、ここではわたくしの体験談を語って、参考にしたいと思う。

戦前、竹田宮大妃殿下が御病気となり、宮内省の侍医たちが寄ってたかったが、彼等の好んでつける病名どころか、その原因も解らぬというのである。そこで竹田宮邸からわたくしの方に話が合って、御殿に参上したのである。

案内されて控えにいると、大妃殿下は向こうから歩いて御出になる。その様子を拝見すると、どうも膝をがっくりがっくりさせてお歩きになられる。それに平生お顔の色があまりよろしくない御方でありますから、この時は頬は紅潮して、眉毛の間に皴を寄せていらっしゃる。ははぁ、これは一酸化炭素の中毒だなと思ったが、すぐ申し上げるのもちょっと軽率のようでもあるので、「そこへお掛けあそばして……ちょっとお立ち願います……向こうをお向きあそばしませ……」と、いうようなことで、「これは一酸化炭素の中毒でございます。一ヶ月以上お悩みのように承っておりますが、一ヶ月前に炭火とか何か一酸化炭素の中毒になられるようなことはございませんでしたか」と訊ねた。

そうすると殿下は「ああ、それはね、某邸の新築祝いに……」ということで、ある子爵の御邸が千駄ヶ谷に新築されて、そのお祝いに殿下が招かれた際、何せ昭和十五年十二月一日のことで、当時はガスの不自由な時だったから、火鉢を七つも八つもおいて部屋を暖めていた。その時以来、頭痛がする、安眠ができない、神経が興奮する、膝ががくがくするようになったとのことであった。

そこでわたくしは、膝には芋薬を貼り、毛管運動と温冷浴、それに蜜柑の搾り汁(当時柿の葉茶がなかった)をどんどん差し上げるように、お側の人に申し上げておいた。そうすると三日できれいにお治りになった。ことは極めて簡単である。

体内の一酸化炭素

右の例は一酸化炭素が外からきた例であるが、われわれの体の中でも、一酸化炭素がつくられると、わたくしは主張するのである。西のやつ、また妙なことをいうとお叱りになる向きもあるかも知らぬが、これは事実である。

医学の専門家たちは、われわれの食べたものは最後は炭酸ガスと水になると教えている。それにわたくしは反対しない。しかしその他に一酸化炭素もできると附け加えるのである。専門家はモルモットや猿や犬を実験台にして炭酸ガスと水になることを説明しているが、われわれ人間は動物と異なり、衣服をまとっている。このことは動物と異なり、皮膚呼吸を阻害する結果になるのである。即ち体内に酸素が十分補給されれば、即ち動物の場合では炭酸ガスと水になるが、人間は衣服を着ているから酸素の補給が不十分であり、そこに一酸化炭素が生成されるのである。このことについて方程式を書いて詳述したいが、本書の性質上ここでは割愛するであろう

そしてまたわれわれの血液中のヘモグロビンの中に、正確にはヘモグロビン一分子の中には、一原子の鉄が含まれていて、この鉄の一原子が酸素と化合して、肺から酸素を組織に運んで行くのである。ところが一酸化炭素のヘモグロビンに対する親和力は、酸素の二百倍も三百倍も強いものであるから、一酸化炭素が体内で生成されても、また外から入っても、直ちにヘモグロビンと結んで、

その毒素の魔力を発揮するのである。またその際、膝のがくがくはビタミンCの欠乏であることは、パワー博士も証明している。

「一酸化炭素が問題になったから、ついでに述べておくが、これが結局癌の原因であると、フランスのエスポリトーは述べている。またわたくしのコロンビア大学時代の恩師ヘンダーソン博士も、一酸化炭素と癌とは関係があると教えている。

そこでわたくしは癌の予防法とし、また治療法として裸療法に特に主力を注ぐように主張してきた。それによって、不治と悲しんでいた幾多の病人が救われている。ところが、わたくしの方法で治ると、医者の方では、それは癌でなかったのを癌と誤診したのであると逃げる。

アランと南洋の花粉

空気に関する最近の研究で無視できないものにアランがある。アランはアラランの略語で、シカゴ大学の病理学者ピーターゼンとスポーツ家として有名なボストンのカーリーの二人の研究になるものである。いわばアランは完全に酸素を含んだオゾンといったようなもので、オゾンと空気と結びついてつくられたものである。そしてアランは健康上非常に有益なものであるが、南風が吹くと消えてしまうというのである

ちょっとした南風なら問題にならぬが、日本特有の南風、特に初夏から梅雨期にかけて吹く南風は、南方の花粉を乗せてくるのである。丁度日本では、梅のみのる頃から吹くから梅雨といって、文字も梅雨と書くが、われわれの頭にくるのは黴(かび)である。南風は南方の花粉を乗せてきて、それが黴となるのである。外国には梅雨がないが、南風の吹く日は手術をするなといわれている。南風が持ってくる黴菌が繁殖するからである。それで欧米では、火急の手術は別として、北風の日に手術する習慣になっている。

生命の基である日光

 

日光は読んで字のように、太陽の光であるが、これを三稜鏡で分光すると七色となる。

即ち左の順序である。

七色のうち赤、橙、黄の三光線は温線で、青、藍、菫はの三光線は冷線で、緑は中庸である。そして温線は拡大を意味し、冷線は収縮を意味し、拡大と収縮の中間に緑の中庸がある。

七色を時刻に割り当てると、朝は菫、それから藍、青となって昼には緑、それから、黄、橙、ついで赤い夕日となる。これを天空と地球にとると、下図になるのである。

西式健康法

 この収縮の光線と拡大の光線、中庸として光線、ここからすばらしい哲理を発展させた学者は、フランスの哲学者であり、科学者であり、又モントペリエの医師会の医化学の教授であったベシャンである。しかし彼の説は、同時代の学者たちより、少くとも半世紀は進んでいたので、彼は世に容れられずに不遇のうちに九十三才で、一九〇八年パリーで亡くなった。従って、日本には彼の説は紹介さ

れずに、亡くなったのであるが、今日、漸く彼の説は、若いフランスの学者たちによって再吟味され出してきた。彼こそ真の哲学者であり科学者である。

今彼の説を紹介する時間を持たないが、日光と無生物の関係、日光と生物との関係、鉱物と植物と動物との関係を、日光から科学的に解明し、それを系統的な哲学に組織立てた彼の該博な知識と創造的な叡智には、ただただ驚くばかりである。

日光消毒だとか、日光浴だとか、光線療法などということは、いろいろ専門家によって述べられているから、わたくしはここで蛇足を加えようと思わぬ。ただそれだけで、われわれの健康を保ち得るとは考えられないということを、ここで断っておく。

それかといって、わたくしは日光の広大無辺の偉大さを、けなそうとは思わぬ。わたくしは日光こそ、間接的には生命の根源であると考えている。

(三)足の故障は病の基

四肢と生体

わたくしは長寿に就いて前述したが、但し社会的活動のできる健康体であることを条件とした。そのためには四肢が健康でなければならぬ。四肢が動かず、仰臥したままでの長生には反対である。いや、わたくしは極端ではあるが、四肢の活動のために、五臓六腑が存在しているのだといいたいのである。四肢が主で躯幹が従である。

しかしわれわれの体は、もともと全体として一者であって、四肢もあり、躯幹もあり、頭もあって完全なのであるが、わたくしの、四肢が主であるという考え方は、中国の古典にも現れている。即ち中国では四肢とか四支とか四体とかいう文字で、生体全体を代表させている。『礼記』に「四体既に正しく、膚革充盈せば人の肥るなり」と、四肢と皮膚とを挙げている点は、興味深いことである。また易の文言に「君子黄中理に通じ、位を正し体を居せば、美その中にあり。

四支に於いて暢び、事業に於いて発すれば、美の至なり」とある。貴中は黄中内非といって、才徳を深く蔵している義である。即ち才徳を深く蔵し、事理に通じている君子の挙措動作には、その中に美が現れている。ところがこれを四支に現し、事業の上に顕せば、それは美の極致だというのである。ここでは四支を体の上に代表として現しているのである。

こんな文献例を挙げると、際限がないから止めるとする。わたくしが特に四肢と健康の関係を論ずるのは、中でも足が、われわれの体の力学的基礎であるという点からである。これに就いて、難しく考える必要はない。進化論が教えるように、われわれ人間は四足動物として設計されたのであるが、二足で直立して歩く。そのために病気にもかかるのである。野や山の四足動物の仲間には獣医はないが、四足動物を家畜として、動物の自由を束縛し、熱を通した食物を与えると、彼等は病気をして獣医を必要とするようになる。

四足で生体を支えている分には、それは「設計通りであるから、そこには無理はないが、二足で上体を支える生活には、いろいろの無理が現れてくることは、何人も考えつく筈である。もし考えつかぬ人があれば、それは進化論を本統に理解しておらぬ人である。学問はすべてを疑い、疑いつくした上で、初めて新しい学問が生れてくるのである。そして又、現実を素直な、何事にもとらわれない心で観察する精神をもっていれば、いろいろな疑問が自ずから生まれてくる筈である。

足 の 力 学

アメリカのラスボン、ベーコン、キーンの三人の博士の共著になる『日常生活上の健康』という本の「足と姿勢」というところに、次のような一節がある。

「足は姿勢をとる上に甚だ重要である。力学的にいうと、身体は他の機械と甚だよく似た働きをする。機械の一部分が故障を起すと、他の部分が過労を起しやすい。骨骼の一部がはずれると、関節に摩擦と過労とが起るであろう。足は人が起立している時も歩く時も、全身を支える基礎である。足の根元に生ずる過労は、その上方の機械、遠く頸の辺まで転位する。足に障害のある人が、その全身にわたって不調を感ずるのは、これがためである。

西式健康法

 足の骨は二つのアーチを作っている。その一つは前面から後方に及ぶもので縦穹であり、他の一つは足の趾と横に並行するもので横穹である。これらの穹が、二本の足を揃え合せて立った時、まるでお椀をかぶせたようになるのが健康である」

この穹のないのが、いうところの偏平足である。

 今、力学的に、直立静止の場合を吟味してみると、体重は脚部では脛骨と腓骨によって支えられ、それが足の部分では踝(くるぶし)のところで分力されて、縦穹と横穹とに分けられる。そして種子骨は両方の穹の共通点となるから、各々片方の足は三点で支えられることになる。従って全体重は両足の六点で支えれるわけである。

西式健康法

 また直立の場合、最も安定した足の位置は、両足を並行にして開いた場合で、そうすると重力線が真直に垂下することになる。厳密には、両脚の重力線が、地球内の一点で交るようになるのが、最も安定した姿勢であるが、通俗的には両脚の重力線は鉛直線をなすのが、最も安定した姿勢としている。ところが、多くの青年男女は、あやまった軍事教練や徒手体操の訓練から、踵を合わせ、足先を六十度に開いたのが、安定した位置と教えこまれている。この軍隊的姿勢は生体の本統の自然の姿勢ではないとことを知らねばならぬ。

西式健康法

 前に重力が踝(くるぶし)のところで二つの穹で分力されると述べたが、これは正常の場合である。足に合わぬ靴、特に婦人のハイヒールの靴などをはくと、体の重力線が踝の線に来ないで、もっと前方に垂下することになる。これが屡々骨盤に影響して婦人病の原因となったり、内臓に影響したりすることは、容易に理解されるところである。欧米の婦人のように、外出に自家用自動車をもっている富裕階級ならば、ハイヒールの靴も比較的実害が少ないが、二本の脚でとことこ歩かねばならぬ日本婦人が、ハイヒールの靴だけを真似て歩くことは、どうしても避けてもらわねばならぬ風習である。

西式健康法

また足の甲の高さも、力学的に規定すると、それは十三度となる。これは鉄道のレールも同じで、下の台になるところの角度は十三度である。これ以上厚くしても無駄であり、これ以下だと弱体となる われわれの足の甲の高さも、十三度であることが。理想である。この理想の理想からはずれている人は、わたくしの創案した運動(二章の毛管運動の項参照)をすると、やがてこれに近づくことになる。

鼻を見て足を診断する

もう八十二、三才にもなったか、ある薬学大学の学長をした薬学博士で、そのくせ御自分は薬を妄信しないと云う方が、弟の胃潰瘍を診てくれと、大阪の高橋盛大堂の御主人と同道で、ホテルに滞在中のわたくしのところに頼みに来た。弟さんはS市の医師会長をしていた。わたくし達が病室に入ろうとすると、横合から金縁眼鏡にひげをはやしたのが、四、五人どやどややって来て、「ちょっと待って下さい」という。

「何か御用ですか」と、いってるうちに、薬学博士は金縁眼鏡の連中を無視して、さっさと病室に入ってしまった。「あなたが西さんとおっしゃるんですか」「ああ、そうですが」「あなたは会長の病気を治すために見えたのですね」「まだ判りません。私のいうことを実行なさるかどうか判らんものですから」「われわれはこの市の医師会のものだが、反対です」と一人がいうと、仲間の金縁眼鏡は、「そうだ、そうだ、反対だ」と、口を合わせる。そこでわたくしは「では、あなた方のほうで治る見込みが立つのですか」「見込みは立たない。けれどもあなたの方法で治るとしても、われわれは反対だ」という。

「見込みが立たないなら、どうです。一応やってみようではありませんか。わたくしは病気を治そうなどという考えは毛頭ない。もとの健康体に復活させるだけです」

「同じことじゃないか」こんなことをいい合っているところへ、薬学博士が出て来て、「まあまあ、そんなことはおっしゃらずに」と、とめ役に入り、わたくしはその金縁眼鏡と一緒に病室に入った。

わたくしは、さきほどのいきさつもあり、ここで一つはったりをきかせてやれという悪戯気もあった。わたくしは病人の顔を凝視してから、紙と鉛筆を借りて、左の脚はこう曲がっており、盲腸はこうなっていると、図解してみせたのである。すると附添っていたお嬢さんが、すぐ立ち上がってレントゲンの写真を持って来て、「あら同じだわ」ということである。

そうすると金縁眼鏡の一人が、つかつかと行って病人の尻にまわって、蒲団をぱっとめくり、「足が曲がっている」と、驚きの声を上げた。そこでわたくしは、本筋に入ることにした。足を治さねばならぬこと、唇がかちかちに乾いているから生水を差し上げなけれなならぬこと、足が曲がって腎臓が働かないから、胃の迷走神経も興奮して胃潰瘍になっていること等を、多少医学的に話したのである。

金縁眼鏡は治療上のことに就いては一向触れようともせず、ただ顔を見ただけで脚の曲っているのが、どうして判るかという質問であった。「鼻を見れば判ります」というと、「鼻!」と一語を発したきり、後は質問も何もなかった。

足から見た神経反射

試しに趾(あしゆび)の附根を摘んでみよ。必ず右あるいは左に痛みを感ずる人が多いだろう。両方痛いという人は、殆どないようである。これはモルトンが研究したからモルトン氏病と呼ばれている。

次に両踝(りょうくるぶし)の周囲、特に下方の部分を、内外から押してみよ。そうすると、蹠(あしうら)に、痛みを感ずる人と、反対側の踝の部分に痛みを感ずる人とがある。これはソーレルが発見したからソーレル氏病といわれている。

足を研究した学者は三十六名もあって、各々何某氏病とその研究者の名前がついているが、わたくしの研究によると、右の二つに大別される。

右足にモルトン氏病のある人は左足にソーレル氏病があり、左足にモルトン氏病のある人は右足にソーレル氏病がある。両病とも右と左に同時に現れることは滅多になく、反射的に来る。

右足のモルトン氏病の人は、右の膝に痛みを感じ、また左の結腸の便秘に陥り易く、左足のモルトン氏病の人は左の膝に痛みを感じ、右側即ち盲腸にかかりやすい人である。また右にしても左にしてもモルトン氏病の人は、腎臓病にかゝりやすい。

右足のモルトン氏病の人は、更に肝臓病におかされやすく、胆石や胆嚢炎にかかる人は、多くは右足のモルトン氏病の人である。

左足のモルトン氏病の人は、更に脾臓、膵臓などをおかされやすく、また左肺に注意せねばならぬ。それがまた転じて、右の肩の凝りとなる場合もあり、再転して左の扁桃腺炎に及ぶこともある。

次にまた右足のモルトン氏病の人は、右の肺、右の扁桃腺、左の扁頭痛におかされやすく、また心臓病にも中追いせねばならぬ

四肢と疾病の関係

足と腹部

わたくしは、十数年前乎、『足は万病の基』という研究を発表して、医家の蒙を啓こうと努力したが、日本の医家は、わたくしの説に耳をかすものは一人もなかった。

西式健康法

 それにしても、わたくしの研究も古いものである。ニュートンは、何人も経験する林檎が熟して落下する平凡な現象を見て、疑問を抱き、遂に引力の原理を発見した。若かったわたくしは、ニュートンにあやかりたく人体に対する引力に就いて、おぼろげながら研究しようとしていた折も折、丁度その頃、わたくしは汗の研究に従事し、汗に含まれている塩の研究に進み、そのため古い文献を集め中国の『本草綱目(ほんぞうこうもく)』や『塩鉄論(えんてつろん)』を読んでいた時である。この『塩鉄論』の『結和第四十三』に「故に手足の勤(はたら)きは腹腸の養(やしない)なり」の一節に出会い、わたくしはこれに明るいヒントを得たのである。それからわたくしの研究は、四肢と生体の関係、直立歩行と重心の関係等に進んだものである。そして健康の基は健全な足にあることを認識し、読者の注意を喚起してきた。

足と疾病の関係を大雑把に前述したが、特に看過できぬ重要事項の四、五を左に述べたいと思う。

足 と 腎 臓

第三次渡米の際、シムキン博士に直接会い、腎臓循環のグローミューに就き、ツルータの話を持ち出したところ、シムキン博士は、ツルータはスペイン人であるからツルーエタと発音せよと教えてくれた。そのツルーエタは、この度の第二次世界大戦に際して、ドイツ空軍のために爆撃されたロンドン市民のうちで、足に怪我した者は、ほとんど全部腎臓病になってむくんだと報告している。わたくしは以前から、腎臓の故障は足から治し、心臓や肺の故障は手を利用して治せと主張してきた。即ち下肢は特に横隔膜より下に関係し、上肢は横隔膜より上に関係するという説である。

足 と 口 臭

足は横隔膜より下即ち腸にも、極めて密接な関係をもっている。わたくしの知人に、話し込んでいると、口の臭い男がいて、社交クラブから嫌われていた。わたくしは彼に、足の運動法を教えて便通をつけさせ、柿の葉のお茶でビタミンCを補給して歯槽膿漏を治させたら、程なく口臭は消えてしまった。足の運動で腸を働かせることもできるのである。

足 と 眼

足と眼も関連している。ふくろうの足を折ると、瞳孔の周囲の光彩に傷が現われる。われわれも足が弱くなると、眼に芥がよどんでくる。足が固くなるほど眼の芥が多くなるのである。眼科の医者に通っている人は、大抵足に故障をもっているが、医者は眼と足の関係を知らないから、そして足の方を放っておいて眼の方ばかりいじくりまわしている。そのために眼病は長びくものとなるのである。

足 と 鼻

足と鼻も関連している。風邪をひき鼻を詰まらせている人は、足を温めると鼻がすうすう抜けてくることは、誰にも解りきっている筈である。ディーバイ博士は『身体検査の基礎知識』の中で、鼻の故障は足から治さねばならぬと教えている。

足 と 性

次に足と性の問題である。三度結婚して三度離縁になった器量のよいお嬢さんを知っているが、足首はぐにゃぐにゃである。畳の上に寝ると足がぺたんと畳にくっ着いてしまう。寝た時、足首は畳と六十度の角度を保つのが生理的である。そこでわたくしは毛管運動の特殊な方法で、その足首を治す方法を教えてやった。その後四回目の結婚をされたが、今度は破鏡どころか非常に幸福な結婚生活をしている。

足と性の問題で連想されるのは、足芸を職業とする連中で、あの仲間は非常に健康であり、またその方面が強いといわれる。

この他いろいろの器官に足は関係するが、殆ど全身の各器官に関連を持つもので、そのために、わたくしは、足は万病の基であると、高言したばからぬのである。

蹠型の墨摺り

足の健康を見る方法に、蹠型(あしうら)の墨摺りが使用される。

西式健康法

(1)は優良型であり、(2)は不良型であり、(3)は扁平足であり、(4)は勿論悪型であり、(5)は病人型である。

墨摺り蹠型のとり方は、先ず墨汁で濡らした雑巾と白紙とを準備する。

柱に背をつけて真直に雑巾の上に立ち、直ちに紙上に足を移して型をとるのである。そして型紙に「何年何月何日の跡」と署名しておく。温冷浴の前後に蹠型をとって、同型かどうかを比較し、浴後の方が面積が少なかったら、健康体である。浴後の型が拡がっていたら減食をする。

健康と履物

明治維新に際会して活躍した剣道の達人山岡鉄舟は、武者修行者が道場に訪ねて来たら、その穿いてきた下駄の減り方に留意して、それを報告せよと弟子たちに言いつけていた。そして下駄の減っている個所ぬよって、修行者の技量を判定し、またそれによって相手に出す弟子を指名していた。下駄が平に減っている修行者が来た場合にだけ、大先生自ら相手になるという内規をつくっていたと伝えられている。

達眼の鉄舟は多年の体験から自得したものであろう。履物の後外側の減っているのは、腎臓がよく働かぬことを物語っている。腎臓が働かぬから、動作も頭も活溌に働かぬし、剣道に於いても大先生自ら木刀をとって相手になる程の剣客ではないことになる。平均に減っている人は、身体に故障を持たぬことを物語るもので、これこそ大先生自ら相手にして足る剣客である。後外側の減る人は腎臓、後内側の減る人は膀胱、前外側は心臓、そして前内側は肝臓というわけである。また右足と左足とは腎臓の場合は右腎と左腎を表示する。

靴屋に行くと、殆ど後外側の所に金を打ち付けているが、如何に腎臓に故障のある人が多いかが解る。わたくしはいっそ踵のない下駄を履くことを奨励している。高血圧症の人などは、これを庭下駄などに用いると非常に効果的である。

疲労回復脚扭法

靴や下駄の片減りを防ぐくらいは、極めて簡単である。

仰臥して両足を一尺くらい高い台にのせ、次に一尺くらい左右に開く。そして内側へ五遍、次いで外側へ五遍、次に内側へ五遍、また外側へ五遍、都合二十遍くらい脚足を扭(ひね)るのである。そして段々回数を増して四十遍までできるように練習する。これを二週間なり三週間継続すると、靴の片減りは治るようになる。この運動は脚の薇薔静脈を扭(ひね)る運動で、わたくしはこの運動に脚扭法(きゃくちゅうほう)という名をつけている。もともと靴の片減り防止などは問題でなく、疲労回復、安眠、若返り、痔の治療のために創案したもので、靴の片減り防止が副えものになったわけである。

(四)病は気から

呪文の『尻々ソワカ』

      阿波の国名東郡国分寺村には、四国八十八箇所の第十五番の札所として薬師如来が安置されている。昔この村にひとりの老婆があった。ある時、旅の行者から痔疾の治る呪文を教わった。それは『修利(しゅり)々々、々々、々々、修摩利娑婆訶(しゅまりそわか)』というのであって、尻をまくって、この呪文を唱えると痔が治るというのである。

ところが、目に一丁字のない老婆は、この呪文を『シリ、シリ、シリ、シリ、ソワカ』と覚えこんでしまい、そう唱えて多くの痔疾患者を治していた。ある坊さんがそれを聞いて、一体それは何だと問うと、老婆はもったいらしく、これは真言秘密の言葉で、お尻の病を治す呪文だから、シリ、シリ、シリ、シリ、ソワカというのであると答えた。坊さんは大いに笑って、それは大変な間違いである、『清浄陀羅尼経(せいじょうだらにきょう)』にある言葉で、シリではなく、修利であると教えたが、老婆は平気な顔で、シュリでもシリでもかまいませぬ、自分はいままでこれで千人以上の病人を治したといった話がある。

また、四国の丸亀に、一人の老婆があった。『オオムギ、ショウヅ、二ショウ、ゴセン』という呪文を三遍唱えて、病人の患部をさすると、いかなる難病もたちどころに瘉(い)ゆるというのである。ある時、故大内青巒氏が四国に旅行し、その噂のあまりに大きいのを耳にして、わざわざその老婆を訪れて聞いてみると、永平寺の坊さんから教わった呪文であるという。だんだん聞き正してみると、それは、『金剛経』にある「応無所住(おうむしょじゅう)、而生其心(にしょうごしん)」「応に住する所無くして、而して其の心を生ず」即ち人間は「我」にさえ捉われなければ、病気が治るという意味の語であることが判った。なぜそんなに訛ったかというと、老婆は、孫に忘れぬうちに書きとめておけと命じた。孫は、百姓の子供だけに、『大麦小豆二升五銭』と書いたのであった。

それでも、老婆は真面目くさって、『オオムギ、ショウヅ、二ショウゴセン』と唱え、そして不思議にもいろんな病気を治していたのであった。

この二つの挿話は果して何を語るものか。

霊肉一致の境地

フランスに『我思うゆえに我感ず』という言葉がある。これは精神が肉体に影響することを意味したものである。今日医学界に於ても種々の精神療法が行われ、又民間においても様々の心霊療法が流行し、一部迷信者の信仰を得ているが、皆この理をとらえたものである。わたくしがわたくしの健康法において、脊柱及び腹部の運動を同時に行うと共に、生水を飲んで、「良くなると思う」心理的作用をもってしたのも、要するに霊肉一致、心身一如の境地をつくり、ここに常住不壊の理想健康を築くためである。自分は必ず健康だ、病人ではない、病気があってもだんだんと治っていく、必ず治っていくと思うことは、われわれが健康を維持する上に極めて大切なことである。

今は故人となったが、フランスにエミール・クーエという有名な薬学者があった。かれはある薬種店の跡をつぐことになったが、資本が少ないので、効能の失せた役にたたない古い薬を看板に出して並べておいた。ある日一人の田舎者が薬を買いに来た。彼は正直に、この薬はもう古くなって悪くなっているからと、ほかの薬をすすめても、客の方は何も心配しなさんな、わたくしは何十年もこの薬を用いている、この風薬が一番効くと、しつこくいうので、クーエは仕方なくその古い薬を売りわたした。

ところが、古くて無効であるべきその薬がやはり本人に効いた。クーエ自身があまり効かないという薬がすこぶる効いたというので、これを聞き伝えた多くの人たちは、われもわれもと買いにくる。クーエは気が気でない。かれはしまいに同じ袋の中に全く何もききもしない澱粉と香料を混ぜて入れ、それを売ってみても効力がある。そこでクーエは薬物療法なるものに疑いを起した。

丁度その頃、医者で文豪で、アメリカのハーヴァード大学の教授であったオリヴァー・ウェンデル・ホームズが、学生に講義をして、次のような皮肉を語ったことがある。

「われわれ人間がこれまで用いていた薬をば、一切海に投じたとしたならば、われわれ人類はたしかに今日よりも、ずっと幸福になったであろう。だが魚類はまことに有難からぬ憂目を見るであろう」

これが大評判になって欧州方面にまでも宣伝された。クーエはこれを聞き、いよいよわが意を得たりと、薬でもうけた三億円ばかりの資産をことごとく慈善団体に寄附してしまい、一文無しになって、遂にかれ自ら精神療法家になり、いわゆるクーエイズムなる一派をはじめたのである。

かれの治療法というのは、すこぶる簡単なもので、いわゆる呪文ともいうべきものを、自分で唱え、また病人自身にも唱えさせるのである。それは日本語では、

『日を追うてすべての方面に私は良くなる能くなる』

という意味である。かれはこの文句に特に『私』という語を使ったのは、意味深長で用意周到といわねばならぬ。

彼は英語を用いる国民に向っては、もったいらしくフランス語で、しかも完全に発音せず、呪文を唱えるように、唸るような調子でいって、最後に大きな気合をかけ、ぽんと痛いところを叩いてさする。そして、手をとって「俺と一緒に早く歩け」と命ずる。そうすると、今までびっこをひいていた者が歩き出すという具合である。大分人を食った山師的なやり方ではあるが、それでも不思議に治ってゆくのである。

自信の強い男

英国にすこぶる自身の強い一人の男があった。かれは、自分は生まれながらにして頑丈で病気などしたことがないと自慢していた。ある日、銀座通りのような繁華な街を歩いていると、彼の友人はかねて謀ってあった奇計を試みた。それはこうである。

一人の医者が、「もしもし、あなたの顔色は非常に悪いが、胸のあたりがどうもありませんか」と聞いた。

「いや、何ともありません」

「そうですか、私は医大の教授で、こういう者です」と名刺を渡す。

かれは「人を馬鹿にしている」とおこって、さっさと行ってしまった。五、六丁も歩くと、一軒の薬店から「もしもし」と呼ぶ一人の紳士がある。「わたしは何々病院の副院長ですが、あなたは珍らしい病気をしていなさるネ、歩き方で分かります。胸部に異状がありますネ」

「馬鹿なことをいっちゃ困る、この先でも、そんなことをいった奴があった、けしからん」

ぷんぷん怒って行ってしまった。あまりくさくさするのでバスに乗った。ところがしばらくすると、前に腰を掛けている紳士が、「もしもし、あなたはお顔の色が悪いようですが、胸部を冒されています。わたしは何々医大の内科の主任ですが、明日でも学校においでになっては如何ですか」といった。

さすがの自信の強い剛情な男も、そうかしらと少しく動揺してきた。自宅に戻るや床に入ってしまい、その夜から発熱したという、実際談である。

英国のある老婆

丸亀のような話が英国にもある。

ローマの古い諺にラテン語で『合掌は神に通ず』という語がある。英国のウェールスの片田舎の一老婆が、これを教わった。老婆はもとよりラテン語など知ろう筈はない。孫の小学生に、それを口づてに書き取らせた。子供は「幸なる哉何人も天国に行ける」と誤り書いてしまった。ラテン語の原文とは語呂が似ているだけで、意味が全く違っている。老婆はこの誤り伝えられた呪文をもって、数万の病人を治していたが、後でピーアス・プローマースという人から間違いだと聞かされて、その呪文もきかなくなったという話である。

観世音菩薩の意味

印度に、アバローキター(Avalokita)という字がある。これは、見る、眼、光る、放射、放送とでも解釈すべき語である。またイーシュバラ(Icvara)という字がある。これは、受ける、耳、音、声、世音自在などという意味をもっている。これを二字つらねると、梵語の文法で前者の語尾aと後者の頭字ⅰが加わってeに変化し、Avalokitecvaraとなる。こうなると観音、観世音、光世音、光自在等と訳され、更に近代語に訳せば、放送局と受信器とを一緒にしたものが即ち観世音であり、観自在である。

次に、ボードヒ(Bodhi)という語は菩提(ぼだい)と音訳され、智、通、覚、悟と訳される。サットバ(Sattva)は音訳して、薩埵(さった)と書き、情とか、有情とか、衆生と訳す。即ち人間のことである。両語を合せて菩提薩埵(Bodhisattva)となり、両語の頭文字をとって、菩薩とすれば覚人即ち悟った人間ということになる。これを続けて書けば、観世音菩薩(Avalokitevara-Bodhisattva)となる。即ち自ら放送し、自ら受信する人、即ち思う通りになる人即ち覚者ということになる。聖人なり、賢人なりは即ち自分の心のままになる人である。

こういう心の働きは、われわれの健康の上にも現われてくるもので、自分が健康である、自分は必ず長命する、と自ら思ったり、また、人からそういわれたりすると、その精神的作用によって肉体が影響を受けることが、すこぶる多いのである。

天桂禅師の『止啼銭(したいせん)』の中に「観自在とは異人にあらず、汝諸人是なり」とある。また中国の司空山の本浄禅師は「もしところに応じて本無心なりと会せば、始めて名づけて観自在に為すことを得たり」といっているのも、皆この意を喝破したものである。

精神の自己暗示

他人は何事かを相談する場合に、他人の意識の波長と、自分の意識の波長とが一致する時は、多くの場合成功するものである。別々の居間に同じような琴を二つ置いて、空気の具合、温度、湿度をひとしくして、二つの琴の調子を合せておいて、一方の室の琴の、二番なり三番目なりの糸をピンと鳴らすと、他室の琴同じ糸が、同様にぴんとなるであろう。これを同調といい、この原理を応用したのがラジオである。たとえばわたくしならば、わたくし自身の音声も、耳の鼓膜も、現在意識も潜在意識もすべて調子が合っている。この同じ調子の原意識の発動によってこれを音声に代え、空気の媒介で耳の鼓膜へ振動を伝えてレコードする。自分は幸福者であり、自分の病気は治る。自分は長命すると信ずれば、そのとおりになり、自分は不幸福者だ、病弱である、短命に違いないと思えば、そのとおりになるのである。「よくなるよくなる」と思うだけでも十分効果があるが、更にこれを音声に現わし、即ち言葉に現わしていうことは、一層効果的である。この言葉の効果を最もはっきりといったものが聖書のヨハネ伝の次の一節である。

「太初にことばあり、ことばは神とともにあり、ことばは神なりき」

人々の成功とか不成功とかは決して一夜造りのものでなく、それぞれ思い来ったところによってその現在を保ち、現在の思いはやがて将来の運命となって現われるのである。言葉を換えていえば、過去の思想は現在の状態を顕現し、現在の思想は将来の結果を生むのである。

現在の健康状態あるいは不健康状態は、過去の考えと行いの結果であって、現在只今の考えと意志とは、将来の結果となって現われるのである。今日に於いて、自分は長命する、自分は幸福者である、自分は健康である。自分は運がよいと固く信ずれば、その結果は将来現われてくるのである。従って根本において自分は良くなると思わなければならない。信ずるところに真理がある。信ずるが故に、自己の体内の細胞の分子の配列が、あたかも水が方円の器に従うように、変化するのである。良くなると思えば良くなるし、悪くなると思えば悪くなる。道教では「過福門なく唯自ら招く」と教えている。

二十五万ポンドの玉手箱

オランダのライデン大学の教授であった名医ブーハフェという人が死の枕頭に息子を呼んで、この玉手箱の中に不老長寿の秘法を書いた巻物が蔵してあるが、お前の代には開くことは相ならぬと、遺言して一個の箱を与えた。ところがこの話がだんだんと伝わり、英国のある富豪が、それを二十五万ポンドで買い取ることになった。ところがその中から出て来たものは、古ぼけたたった一冊の手帳だけで、その中には、何が書いてあったか、それはもちろんオランダ語であったが、『頭を冷静に、足を暖かにして、満腹するな』という意味であって、即ち古来東洋において言いならわした『頭寒、足熱、腹八分』ということであった。

精神は黴菌より強い傳染力

「一昨年であったか、近所の小学校で、給食のソーセイジから四百四十何人かの中毒小学生が現れた。

その時、読売だったか毎日だったかの記者が、区役所の吏員と一緒に見えて、「健康法の方からの御意見としては、どうお考えになりますか」というから、わたくしは即座に、「ああ、あれは精神伝染ですよ」といった。記者は「精神伝染?そんなことがあるのですか、これはビッグニュースだ」と帰って行った。社会部長に話すと、「うん、精神伝染」といって、伝染病の専門家に電話したところ「なに、西さんが、精神伝染?ワヮハハ、うまいことをいったな。しかしそんなことはないよ、黴菌がなくてなんで病気になるものか」と、一笑したそうだ。

区役所の衛生課では、早速そのソーセイジを十六、七人で試食したが、誰も中毒にならなかった。分析しても毒素が出てこなかった。

十五年くらいも以前のことであった。大牟田市で赤痢が流行し、七千何百人かの患者が出た。その時も、あさりの中毒だとかいって騒いだが、遂に黴菌が発見されなかった。これも黴菌のない赤痢として有名である。

わたくしはこれ等両事件を、精神伝染だというのである。精神だけで伝染病がおこるかと細菌学者はいうが、ニューヨークの医学会では発表している。「精神こそ実に黴菌よりも恐ろしい伝染力を持っている」と。

その原因として、疾病に対する恐怖心が体内で神秘的な化学物質をつくり、それが血液中に遊離して疾病なり中毒を起すのだと、解説している。

精神作用は何%か

以上の事例でも解るように、信ずるということは偉大な力をもっている。それでは信ずること、即ち精神力だけで病気が治るかというと、それはできない相談である。

もちろん信仰の偉大な大天才、例えばキリストとか釈迦などは別問題であるが、普通一般人にとっては、信仰だけで病気は治るものでない。どの程度まで治るかということになると、わたくしは、大体疾病のうち25%くらいの種類は治るものと思っている。25%は、どこから割り出したかというと、精神作用のない植物は、その葉の66%を失った時は生死の境といわれるし、精神生活を誇る人間は、断食に際して、その体重の40%を失った時は生死の境といわれているから、66%から40%を差し引き26%即ち約25%が、精神力によると観るのである。但しこれは平均であって具体的の場合は100%の精神作用も、あり得ることを知らねばならぬ。

精神療法に就いては、後述する精神分析学等の項を更に参照して一読されるよう、おすすめする。欧米に於いては、精神をきり離して研究する時代は既に過去の夢となり、今日では肉体と精神の関係を心身医学(サイコソマチック・メジシン)に於いて論じ、これが将来の新しい精神医学となるものと思われる。

四、官僚医閥の策謀と戦う

今日でこそ、わたくしが厚生省の局長課長連の集会に出席して講演もし、質疑に応答もしたり、また長崎県や岩手県その他の県なり都市から、正式に招かれて堂々と講演するような機運になって来たが、ここまで辿りつくまでの三十年間の径路というものは、全く言葉通りいばらの道であった。

それにつけても想起されることは、中国古代の神医扁鵲(へんじゃく)のことである。扁鵲は名もない旅館の番頭頭みたいなことをしている男であるが、どこか見所があったのであろうか、常客の長桑君という人が、彼に禁方の祕薬と祕伝を授けたのである。そして三十日間、上池(じょうち)の水でその祕薬を飲んだところ、垣を隔てて通る病人のどこが悪いかが、手にとるように解るようになった。いわゆる千里眼というか透視術というか、それのできる神医になったのである。

さて、扁鵲は晋の国に行ったところ、簡子が死んで大騒ぎをしていた。扁鵲は、なに、三日たてば生き返ると予言したところ、果せるかなそれが的中して生き返った。虢の国に行った時、太子が中風で仮死の状態になっていたが、扁鵲はこれを簡単に蘇生させた。斎の国に旅して、桓公に面接し、元気な桓公に向ってその死を予言して機嫌をそこねた。ところが結局は桓公は予言通り死んでしまったのである。それやこれやで扁鵲の評判は大変なものになった。

更に旅を続け、婦人を尊ぶ邯鄲(かんたん)に行っては、婦人科医としての腕をふるい、老人をあがめる雒陽(らくよう)に行っては、年寄りたちの耳や目の相談相手となって評判を高めた。子供を愛する咸陽(かんよう)に巡って行っては、小児科の名医として感謝されたのである。扁鵲には専門はない。いや、すべての病気に対して専門だったのである。

ところがである。扁鵲の評判が日に日に高まるにつれて、秦の太医令季●(りき)は、これをねたみ、配下に命じて扁鵲を暗殺させたのである。この扁鵲の史実は司馬遷の『史記』の列伝に記載されている。

わたくしは現代医学から圧迫される度に、扁鵲の最期を想起する。また独逸の有名な医家で、ビスマルクの鉄血政策に敢然と抗して民主主義のために戦ったフィルヒョウの次の言葉を想起して、更に勇猛心を燃やすことにしている。「どんな時代にも、医学の発展をはばむ二つの主要な障害があった。それは権威と制度である」

セメント注射法の創案

わたくしは屡々友人や知人から医家の悪口をいうなと注意されるが、悪口をいわざるを得なくしたのは医家の方である。もともとわたくしは野人だが、御殿女中式の礼儀作法は心得ようとも思わぬ。ただ自分の是なりと信じたことは、あくまでも貫く心構えでいる。自分の信念に忠実でないものは弱者である。わたくしは信念の弱者にはなりたくない。わたくしの場合、それが闘志となって現われてくるのであって、元来の叛骨隆々ではない。

わたくしが三井にいた時のことである。三菱が長崎県の松島炭鉱を、海水が湧くから掘ることができないといって手放したものだ。それを三井が買い取った。そこでわたくしは海水が湧くならセメント注射をすれば掘れるからと、三井の上層部に建言した。三菱の技師長松田武一郎工学博士が掘鑿不可能といって手放したものを、工手学校を出て明治専門学校での秀才といったところで、高の知れているわたくしの意見に、賛成するものは一人もなかった。しかしわたくしは三井の大御所男爵団琢磨工学博士を、二日間泊りこみで説得して、遂にセメント注射で掘ることに話をきめたのである。

ところが第一回目は失敗し、三名の犠牲者を出し、わたくし自身九大医学部の大西博士から失明の宣告を受けたのである。当時、わたくしは既に今日の健康法の根幹である背腹運動を創案していたので、これを機会に自分の健康法の効果を更に実践する機会が与えられたものとして、いくらか慰めはしたものの、失明の宣告には、正直なところ、衝撃を受けたのは事実であった。わたくしは九大病院前の旅館に陣取って、背腹運動以外に一週間の断食も実行することにした。

断食して、四日目には自分ながら驚くほどの沢山の宿便を出し、五日目には視力はいくらか回復してきた。これなら大丈夫だ。真にわれ世に勝てりという実感を体験したことを、今も忘れることはできない。またこれを機会に、断食回復後、三宅外科で盲腸の手術をして貰い、生の野菜食餌による手術の効果を実践したのである。この方も、当時としては破天荒の五日の入院で、万事OKとなった。

視力がいくらか回復するとともに、わたくしはセメント注射の失敗の原因を研究し、第二次掘鑿を計画したが、この度は、言葉通り三井の幹部は誰一人相手にしてくれなかった。そこでわたくしは中井工学博士の応援を得て、要所要所の人を説得して廻り、遂に第二次掘鑿を着手して成功したのである。

わたくしの創案したセメント注射法は、その後、丹奈トンネル開鑿にも、関門海底トンネル開鑿にも利用された。

地下鉄討論五十六回

わたくしは将来の都市の交通は、地下鉄を利用しなければ、頻繁に起る交通事故を防ぐことはできないという信念から、コロムビア大学で隧道工学を研究したのである。当時、政治家の中で地活に理解のあったのは、後藤新平唯一人であった。わたくしは帰朝後、東京市長後藤新平の計画の下にあった東京市高速度鉄道(今日の地下鉄の前身)の技師として働くことになった。ところが後藤さんはあんな方だから、地下鉄をやる肚(はら)であっても、市会議員連がうるさいから、交通事故防止のために何とかせねばならぬ。それには高架鉄道がよいか地下鉄道がよいかというふうに、例の狸をきめこんでいた。

大正十一年、当時斯界の権威者を網羅していた土木学会の中に、東京高速鉄道調査委員会が設けられることになり、鉄道院技監古川坂次郎工学博士が委員長となって、高架鉄道と地下鉄道との優劣論が闘わされることになった。最初二十六人の委員は全部高架鉄道論者で、地下鉄論者はわたくし一人であった。地震国の日本には地下鉄は危険この上なしという俗説が、一般市民の俗耳にも理解されやすいので、それに新聞雑誌はこの俗説の先棒をかつぐので、わたくしは地下鉄のために孤軍奮闘せねばならなかった。

討論会を重ねること五十六回目の翌日が、大正十二年九月一日の関東大震災である。天の配在は霊妙なものである。あの大震災に会って、破壊されたのは高架鉄道であって、隧道は一つもこわれなかった。にくむべき大震災ではあったが、わたくしにとってはわたくしの学説と理論を事実に於いて証明してくれた一大恩恵であった。もはや調査委員会は不必要となり、ただ実行あるのみであった。早速起工したが、その後、市は財政上の理由から、わたくしの設計した地下鉄を民間団体に払い下げることになった。わたくしは払い下げには反対であったから、それを機会に市を去ったのである。今日浅草から都心を貫き渋谷に走っている地下鉄は、わたくしが市に奉職中に設計したものである。

また大阪の地下鉄も、その根幹はわたくしの設計のなるものであり、神戸の地下鉄にも、いろいろ内部的に参与したものである。

医家の遠吠え

セメント注射法の場合も地下鉄の場合も、闘争の相手方はわたくしと専門を同じくする土木家であったが、その反対は相当猛烈であった。

それらの闘争で、わたくしは社会の裏面のいろいろな場合を見せつけられた。理論的な闘争もさることながら、闘争である以上、そこに手練手管を利用せねばならぬことを、いやというほど知らされた。それが人間の社会の本当の姿かもしれぬと、諦観したこともある。しかしわたくしは良心の命ずるままに進んできたのである。

わたくしが健康法を発表するに際して、特にわたくしの健康法は現行の医学とは対蹠的な医学理論に基いているので、その方面からの反対があることは、十分予期していた。しかも、闘争の相手はわたくしと専門を異にする医学者であり、その上、間接的には、それが医家としての評判にも拘わってくるし、やがて医家としての生活問題にもつながってくるので、相当の反撃のあるものと予想された。

それに、今日の薬剤界の流行薬ビタミンBの発見者鈴木梅太郎農学博士のことなども、想起されたのである。鈴木博士が、ビタミンBをオリザニンとして発見し、その薬効を学界に発表した当時、一部の医学者たちは、百姓の農学博士に何がわかるか、しかも薬効などと云うことは、医学者でない農学者にわからぬと、感情的な悪口雑言を浴せたものである。当時、医学者たちのとった態度を、つぶさに見せつけられたわたくしではあった。

しかしわたくし自身も感ずるところがあって、最初は医学の理論はあまり説かず、健康法だけを述べることにしていた。それで医家諸君も、健康になる方法なら結構ですといったふうであった。そのうちに、保健から治病と、小出しにちょいちょい独得の医学理論を持ち出したところ、慶大医学部のH医学博士、M医学博士、Y女医、それに新興宗教のTまで加わって、わたくしの悪口をいい始めた。しかも理論的に何うのこうのというのでなく、わたくしの説を、ただ素人の俗説だと、それも犬の遠吠えのように吠え出したのである。

H博士は交詢社のクラブで、相当長い悪口をいったので、当時わたくしを招いて毎月研究会を開いていた連中が、H博士とわたくしとの立会演説会を開かせようというので、世話人がH博士に交渉に行った。返事は暫らく待ってくれといったきり、梨の礫となった。

警視庁に呼び出される

昭和八年のある初夏の日、白の制服に帯剣の警官が玄関に現れ、療術行為に関して取調べることがあるから、明日警視庁に出頭せよとの命令である。わたくしには何のことか解らなかった。わたくしは恩給と会社重役で生活は楽であったので、一切無報酬で健康指導をしているが、何のために警視庁に呼び出されて調べられねばならないのか、とんと見当がつかなかった。自分自身には何のやましい後ろ暗いところがないから平気とはいえ、いくらか不安のうちに夕刊を見ると、出ている。西はインチキ療術行為によって蜂須賀候を死に到らしめ、更に警視庁の鈴木工場課長夫人に断食療法を実行させて、これまた死にみちびいた、という記事が三段抜きの大活字で掲載されている。わたくしは覚悟した。事実がこうも誤報されるとは、何たることであろう。

蜂須賀候の場合は、高血圧者の参考になることだから、当時の経過を次に発表することにしよう。それより前「侯爵が血圧が高く、取り巻きの医者が来てもどうにもならぬそうだから、一度みてやれ」という、さる宮様からの命によって、わたくしは侯爵邸に参り、先ず掌の相を見た。そしてわたくしは、この高血圧は食物からのみきたものでなく、家庭の内部にある複雑な事情からきていると判断したのである。当時、わたくしは東京市の公吏であり、侯爵の財政整理委員長は永田秀次郎市長であった関係から、市長にもそのことを話した。しばらくして侯爵家の複雑な事情も漸く善処され、血圧も次第に正常に復してきた。

ところが、その後に再び血圧が高くなり、永田市長から至急蜂須賀邸に行ってくれとのことであった。出入の医師は死の宣告をした後ではあるが、わたくしは、まず治療方針を次のように提案した。「面会謝絶、やむを得ない人は一日三人以内、それも面会時間一人五分以内」と厳命しておいた。それにもかかわらず、面会一時間半、しかもその面談の内容は他言をはばかる事件がもちあがったのである。それで遂に本格的な脳溢血をおこして、あらたに医者が四人来たが手のつけようがない。そこで三度わたくしがよばれて、漸く快方に向くようになった。

それから一週間ばかりして、また倒れてしまった。それはある伯爵家に嫁(とつ)がれていた長女が六人の子供さんを連れて帰って来て、枕頭でいろいろ複雑な家庭問題が起きたからである。その時も医者が四人呼ばれ、ここを先途と注射薬の口を切り、忽ちにして二十何本の注射をして、永遠に息を引きとらせたのである。事実はわたくしの指示をしりずけて、死に到ったのである。

また警視庁の工事課長夫人の場合は、断食を行う人の参考になることだから、これを発表するとしよう。主人がまだ兵庫県の商工課長時代に、夫人は腎臓結核で七ヶ年も寝たきりで、医師から死の宣告が下されていた。それがわたくしの創案した断食療法によって軽快となった。わたくしの断食療法は、婦人の場合は五回の断食で終了するのである。工場課長夫人は、兵庫県で二回まで実行され、その後主人が東京の警視庁の工場課長に栄転されたので、一緒に東京に移って来られ、わたくしの指導の下に東京で二回の断食を実行されたのである。そして悠々最後の第五回目の断食という時に、御主人が洋行ということになった。そこで、わたくしは御主人の不在中は断食は止める方がよろしいと、書き送って、安心していたのである。

ところが夫人は、主人の実母にいうには、西先生はあんなにやかましくいうが、わたくしは今まで四回の断食を無事終了した経験があるから、西先生の塩津がなくても大丈夫だといって始めたというのである。第五回目の断食即ち七日間の断食を御自分が勝手に実行して、しかもこともあろうに、終了後鰻丼を食べたのであった。これでは死ぬのも当然である。

右二事件に関する警視庁の訊問調査は峻烈であったが、事実は事実で、白を黒と強制するわけにはいかぬ。天下の公器である新聞紙に、特大記事として発表し、しかも泰山鳴動鼠

一匹も出ぬでは、上げた拳の手前もあり、無罪放免というわけにもいかぬものか、一、金拾五円也の科料で話がうやむやになってしまった。

その時、医学的な点で調べに当ったのはK医学博士(当時は医学士)であった。わたくしがわたくしの理論を述べたてるのを、側で見ていたある警部の方が、K博士が席を外した時、「西さん、警視庁の医者をやりこめては、結局あなたの損になりますよ。精神異常という最後の切札を警視庁の医者は握っているんですから」と、注意してくれたのである。それでわたくしは、した手した手に出ることにした。ところが後に参考人として呼ばれたわたくしの信奉者である高田医学士は、東大でK氏の先輩でもあり、またK氏の人物を知り抜いており、しかも一片の権力を盾に高圧的に出てくるK氏の態度に対して、極度に憤慨し、「あいつをやっつけよう」と、いきまくのであった。そこでこんどは、親切な警部から忠告された言葉を、そのままわたくしが高田医学士に呈上する番になった。

それやこれやで、警視庁事件が終ったが、K医学博士は、今以って、わたくしや高田医学士が、理論的に降伏したものと思っているらしい。警視庁の精神異常の切札をおそれて、われわれは屈服をよそおったまでのことである。

その後、この事件に関して、わたくしのところにもたらされた情報によれば、この芝居は、医界の大御所貴族院議員K医学博士と日本医師会長O医学博士の書いた筋書によったものだ、と云われる。これにはさすがのわたくしも、敵の策謀の妙なるに驚き入った。

思い出す事ども

山川菊栄の告訴

山川均夫人即ち山川菊栄の実姉佐々城夫人が、日頃胃腸が弱いので断食をやられた。何日目か知らないが、苦しいから頼むといってきたから、わたくしはわたくしの医学に理解のある高田医学士に行ってもらった。わたくしも見舞に一回行った。夫人の妹等は、医者でもない西の創案した断食などやるからいけないのだといって、当時評判の高かった東大医学部のM教授の来診を乞い、十二日間抱水クロラールの注射を続けたのである。断食直後に抱水クロラールを注射することは、死を意味することである。

それをわたくしが殺したと山川菊栄が告訴したのである。もとより勝てる筈はない。一年も経ってから、実母森田某の名義で再び告訴したが、鷺を鳥という材料であるから、問題にはならなかった。しかしわたくしは迷惑した。

山崎今朝彌代理弁護士が法曹西会の世話人新開弁護士に、「山川も西からとうとう取れなかった。やっぱり不正は勝てないんだね」と、つぶやいたということである。

西は絞首刑じゃ

昭和十六年の正月のことである。

元海軍中将斎藤半六氏夫人が、「先生が竹田宮大妃殿下のことで失敗なさったので、大変なことにおなりになるそうで」と、あたふたと、注進に見えられた。わたくしは何が何だか見当がつかず。例の一酸化炭素の中毒で大妃殿下を御助け申し上げたのを、医者の方で逆宣伝しているのだろうと、気にもとめないでいた。数日後、関西旅行の途次、元衆議院議長岡田忠彦氏が「あんたは竹田宮大妃殿下をやっつけたそうだなァ」というのである。「とんでもない、そんなことありません」と、例の通り医者の逆宣伝だろうと、詳しい弁解もしなかった。

そのうちに、西会の評議員をしていた田昌氏が、本庄繁大将に会ったら、本庄大将は、「君も今のうちに西会と縁を切った方がよい。西はいづれ弑逆罪(しいぎゃくざい)で絞首刑になるんだから」と、注意された。正直な田氏は驚いた。田氏は早朝わたくしのところに注進に来られて、「先生、そんなことがあったら、わたくしたち評議員に秘密にしておいては困る……今となっては……」と困却と不平で、口をもぐもぐさせるのである。これにはわたくしも驚いた。しかし知らないことは知らないという他なかった。

そこで田氏は本庄大将の話の出所を確かめることになった。本庄大将は鈴木孝雄大将から聞いたという。鈴木大将はH待医頭から直々聞いたから間違いがないというのである。幸い西会の理事をしていた新開弁護士の女婿が医学博士で、H待医の部下であったところから、事情を伺うと、確かに「西の手当」でどうにもならなくなっていたところへ、陛下の御命令でわたくしが行って注射したが駄目だったというのである。ところが段々調べてみるとH待医頭は、宮家の係の言葉を即ち慶大医学部内科部長西野博士の「西野の手当て」を「西の手当て」と早合点したことが、解かってきたのである。

それに待医頭ともあろうものが、「西の奴また竹田宮大妃殿下を殺した。西の尻拭いをさせられたが、どうしても奴を処分せねばならぬ」と、放言したものだから、こちらにとっては厄介な問題となった。皇室の事件は喪の後一年たたねば取りあげぬとかで、それから一年後、警視庁の役人が調べにきたが、事情を話すと「おそらくそんなことでしょう」と、云わぬなばかりに帰って行った。

軍医局長の暴挙

戦争中、運輸部長松田陸軍中将の希望により、西医学のエキスパート三十余名が宇品上海間の病院船に乗船し、傷病兵の治療に当った。西医学の成績は頗る好評であった。軍医が手や足を切断せねばならぬという重傷も、西医学では、毛管運動でなおってしまう。ところが、傷病兵から悪評をかった軍医側から、苦情が持ち上がり、当時の小泉軍医局長が宇品に出張して現場を視察し、遂に西医学三十余名を下船させてしまったのである。

その時の小泉軍医局長の言葉として次のことが伝えられている。「医者でないものが傷病兵に当たることは相成らん。治るも治らぬもこっちの勝手だ。腕を切り落すのも医者の天職だ。一体西式で治るということがけしからん」

小泉軍医局長は終戦に際して自殺した小泉厚生大臣である。

進駐軍の調査

終戦となり平和になったというものの、敗戦の日本は物情騒然、将来、どうなるものやら見当もつかぬ混沌情態が続いていた。しかしわたくしは、この際、この時、国民の健康のため、そして又それが、再建日本の捷径であるという信念から、敢然と起ったのである。昭和二十一年の六月全国五十七の医科大学長と医学専門学校長にあてて、日頃抱懐している信念を申し送り、西医学の研究を勧告したのである。もちろん、占領治下であったから進駐軍にも、日本文のまま一通送っておいた。

そうすると、九月になって、進駐軍からJ大佐が、自ら調査の目的でお宅を訪問するという通知があった。何の調査かわたくしには判断がつかなかったが、来るもの拒まず去るもの追わぬのが、わたくしの主義であるから「承知しました」とあっさり返事をしておいた。

いよいよ二十四日に来るということになり、わたくしは念のため立教大学の中川教授に通訳の労を頼んでおいた。厚生省から二人の通訳が派遣されてきたが、事が事だからわたくしはその方の通訳は断った。

長身の大佐は玄関に立ったまま「お上がりください」といっても、じっと家の中を眺めているだけである。そこへわたくしが出て行くと、中川教授は「西です」と紹介した。靴をぬいで応接間に通って、わたくしと向かい合っても、大佐は一言も云わずに、わたくしの顔ばかり見ている。ものの三分もしてから、

「ご機嫌如何ですか」と第一声を発しながら、温い手でわたくしの手を固く握った。それから笑い、うちとけて会談に入った。インチキではないか、それにしてもコロンビヤ大学の出身だという。ともかく出かけて会ってみようというので、十分間の予定できたというのが、三時間半になってしまった。

書斎を見たいというから、欧米文献六万三千、東洋文献一万で、床の落ちた書斎に案内したらワンダフルと驚歎した。年をきくから六十三才だというと、またワンダフルといった。

会談中「六十三才!」と四回もつぶやきながら、その度ごとに頭をふってワンダフルとつけ加えるのである。文献のうち、アンダーラインのところと紙の貼ってあるところとあるが、どういうわけかと訊ねるから、紙の貼ってあるところはすべて暗記しているところだといったら、またワンダフルが出た。

J大佐の本国への報告によって、雑誌「西医学」と米国の医学雑誌との交換の話が、米国の国立図書館長から直接交渉されることになった。

このことがあってから数ヶ月後に、在米邦人の観光団が来朝し、その中の西会の会員の一人が訪ねてきての話である。その会員の息子さんの二世がJ大佐の下で働いているが、J大佐の訪問は、厚生省から、西医学を禁止して貰いたい、あれは日本の保健界の癌だ、あれさえ禁止すれば他の有象無象の療術家は自滅してしまうということを、その筋に頼みこんだ結果の訪問であったと、事のいきさつを話してくれた。それで初めて、訪問でなく「自ら調査する」という最初の意味が解った。

それにしても、J大佐がわたくしを役所に呼びつけることもせず、自ら足を運んで三時間半も懇談する民主的な態度は、大いに学びたいものである。呼びつけて権力で威すことは、もはや民主国家にはあり得ない公僕道徳である。

神戸新聞とUP通信

神戸新聞の西式討伐

昭和二十三年初秋のことであった。神戸新聞は『インチキ西医学打倒』と銘打って、神戸の医師会、兵庫県の医師会、兵庫県立医大、それに県と市の厚生関係のお歴々を集めて、西医学打倒の座談会を開催し、その速記録を数日にわたり連載し始めた。神戸の支部から報告があったので、江戸の仇を神戸で討つつもりかな……と、いつものことだから、別段気にもとめなかった。次いで、兵庫県の衛生部長が、わたくしの関係している兵庫県の健康会館の樫尾医学士に「医師でなければ医療類似行為をしてはならない。また西式は医学でないから、西医学と云えば違反だ。よく西に言っておけ。」と、いわれたという注進がきた。

支部から送ってきた新聞を見て、座談会が出鱈目を話し合っているのには、驚きもしあきれもした。堀とかいう防疫課長の話など、話というものはこうも間違われて伝わるものかという標本になるので、次に要点を摘記しよう。

掘氏は慶大のH教授の後輩であるが、Hの話によると、二十年前に西氏と同席し、血液循環論を論争したが、残念ながらHが負けた形となった。そこでHは残念でたまらぬから、動物実験を立会でやり、その結果を数学的に証明し、更にそれを医学雑誌に公表しようと云いだしたが、その後がいけなかった。数日後、西氏一派の暴力団に襲われてひどい迷惑したそうだと、話している。話がここまでくると、全く正反対になる。わたくしは今以ってHとは一面識もない間柄である。

また、堀氏はいっている。満州にいた頃、満鉄十万の社員の健康をあずかっていたが、結核患者がその一割もおり、なかなか減らない。よく調べてみたら西式の影響であるとわかった。御自分のやり方が悪いと、西式に責任を転嫁する流儀は、今までにも随分沢山見せつけられている。結核治療に対して西医学が悪影響を及ぼすか否かは、福岡郊外の清光園結核療養所や国立京都療養所の成績を見れば、解かる筈である。厚生行政者は、いま少し眼界を拡めてもらいたいものである。

その筋を僣称

わたくしは二十余年来、毎月下旬関西遊説に出かけることになっている。神戸新聞が打倒記事を出そうが、神戸の医師会が騒ぎ出そうが、それは向う様のことである。わたくしは定例の通り大阪に行った。ところが到着早々大阪府庁に呼び出された。医務課長が明日の講演会はその筋の命により禁止するというのである。占領下であるから、その筋の命令とあれば仕方ない。しかし明日の講演会は新聞広告もしてあることだから、わたくしは講師として折角集まった方々に、禁止の理由を話さねばこちらの筋が通らぬから、禁止の命令書を見せてくれと申し出た。すると課長は狼狽して、部長室に行ったり知事室に入ったり出たりしていた。その時、わたくしの坐っている机の上に、一枚の紙片を放り出して一言も云わずに立ち去った一婦人があった。

矢文でも拾う気持で、紙片を取り上げて見ると、その筋で禁止した覚えなしと言明している、と書かれていたのである。読み終わって、ひょっと頭を上げると、いつの間に帰って来たのか課長が、わたくしの手の紙片を射るような眼光で見ていた。そしてきまり悪そうに「今は出せません」と小声になった。わたくしは「新憲法によって保証されている言論の自由は、たかが大阪府の一知事の命令で奪われるには、あまりに保証され過ぎている」と、禁止命令を一蹴したのである。

翌日、堂々と、わたくしは一席ぶったことはもちろんである。

その筋を利用

その年の十一月になると、西会の編集者が、内閣の新聞出版用紙割当委員会事務局から呼び出されて、次のようなことを申し渡された。

  1. 爾今「西医学」の紙の配給を禁止する。
  2. 「西医学」の名称を変えよ。
  3. 「西医学」は世に害毒を流すものであるから、編集方針を変えられたい。

わたくしはこのことを耳にして、敵ながら味なことをやるわいと思った。こんどは関西の仇を江戸で討つつもりらしい。本舞台での真剣勝負なら、何時でも受けて立つ用意があるが、一種の策動には、身をかわすより仕方ないとも考えた。味方の損害を最少限度に止めて、明哲保身の策に限ると心にきめた。

そこで大人気ないことではあるが、敵はその筋を僣称したのだが、こちらはその筋を利用することにした。

「わたくしの機関紙『西医学』は日本政府によって禁止された。米国の国立図書館より雑誌の交換を申込まれているばかりでなく、米国民にも相当数の会員があるから、禁止による日本国民の不幸は日本政府のやることであるからやむを得ぬとしても、米国への迷惑は避けたい。できればせめて米国へ発送する分なりとも印刷できるように御高配を賜りたい」という意味のことを、その筋の担当者に申し出たのである。

その後、その筋と日本政府当局との交渉は、どういう経過をたどったか知らぬ。数日後に割当委員の係主任から電話があり、「考慮するから意義申立書を出せ」ということになり、事態は円満に、いや西会にとっては円満に解決することになった。結局最初の申渡の三ヶ条は取消されたのである。

日本人同士のごたごたに、その筋を利用したことを、わたくしは恥かしく思っている。しかし当時としては余儀ないことであった。それにしても、学問は学問の上で論争することにしたら、こんなことにはならなかったろうし、マッカーサーに十二才の少年ともいわれずにすんだだろうにと、残念でもある。

UP通信により五十六ヶ国へ

日本政府の処置が、その筋によって取り消されたとなると、時を移さずUPの記者がやって来た。そしてわたくしの学説やら事業やらをインタビューして、全世界五十六ヶ国の通信網に放送したのである。記事の取り扱い方と云い、内容のまとめ方と云い、さすがは世界的通信社である米国のUPの記者だと感心させられた。

内地の外字新聞も、これを取扱ったが、日刊の邦字新聞は、わたくしの宣伝になり終るとでも思ったのか、一行もこれに触れなかった。

しかしわたくしの宣伝よりも、政府の無茶な断圧政策の見本として、日頃民主主義精神を唱えている新聞が、これを看過したのはどういうわけであろう。同業神戸新聞に端を発した事件だけに、同業者に対する義理立てでもあったろうか。

それにしても一田舎新聞が悪口を書き立ててくれたのがもとで、世界的大通信社によって全世界に宣伝されることになったとは、何が幸になるか解からぬものである。だが、地球のあっちこっちから、いろいろの問い合わせやら質疑が、毎日わたくしの机上に積み重ねられるのには閉口している。

五、生体と疾病

生体一者観

 わたくしは健康法を発表してからというのは、前述したように、常に医家との鬪争に終始して来たようなものだ。先ず普通一般の人であったら、とっくに神経衰弱にでもなっているところである。わたくしは空(くう)の宗教を信じ、無(む)の哲学を体得しているから、それらの圧迫にもへこたれずにいるのである。

わたくしの学説と現代医家のそれと根本的に対立する点は、いろいろあるが、一つは生体を一者(いっしゃ)と見る生体一者観の立場をわたくしが堅持することであり、今一つは症状を療法と見る症状即療法の疾病観を主張することにある。

生体一者ということは、われわれの体全体を一者と観る哲学で、従来のように体を全体的に見るとか、一単位として見るとかいうことよりも、更に徹底した見方である。現代医学は独逸医学に、即ち分析医学に毒されて、一者でなく多者の観点に立っている。従って、医科大学でも病院でも、大きくなればなる程多者観に堕落してきている。眼科は眼ばかりを見て眼と生体全体との関係を忘れている。外科は手術を主眼として、栄養関係や精神関係を見逃している。そして各科とも投薬と注射にのみ主力を注ぎ、投薬が生体に及ぼす副作用や注射の招来する副作用に就いては、殆んど看過している現状である。

これは京都にあった実例であるが、呼吸器を患っていた一少女に対して、ビタミンAが効くというので、ビタミンAの含んでいる食餌をどしどし与え、一方ではその注射をしたのである。その結果、呼吸器の方は快方に向ったが、副作用として胃癌となり、呼吸器病棟から消化器病棟に移され、遂に不幸な最期をとげたのである。

また、終戦後、ペニシリンが効くというので、一にも二にもペニシリンを与える傾向がある。ところがそのためにモニリヤ菌を繁殖させて、鵞口瘡になった例が、相当多いのである。これなどは呼吸器官を一者として、生体の一者を忘れた結果によるのである。よく木を見る杣人は森を見ず、森を見る樵人は山を見ないというが、われわれの生命は生体一者として保たれているのであるから、木も森も山も、そしてまたそれ等の相互関係も見ねばならぬ。

真の医家たるものは、宇宙一者観の哲学者でなければならぬと、わたくしは信じている。それは、病人に接したならば、その疾病そのものを診定する前に、人間の生物的なつながり、即ち進化論上に於ける人間の位置、地球物理学的な影響、宇宙的陰陽の関係等を吟味する必要がある。宇宙的一者観を一般医家に求めぬにしても、社会的一者観即ち患者の政治的関心、社会的環境、経済的条件、家庭的事情等をも吟味する必要がある。もちろん、今日の医家でも、伝染病などの場合は、社会的環境がどうのこうのというが、伝染病以外の場合も、社会的一者観が診断上役立つことを知らねばならぬ。

このような理論は別としても、少くとも生体一者観の哲学だけは体得して貰いたいのである。

汗吐下は一者を破る

ギリシャ時代の哲学者でエジプト生まれのプロチノスは「健康とは、齊整せる一者として働く身体の状態である。美が現出するのは、四肢と様相とが、この原理即ち一者によって統御されるときである。精神の秀徳とは、一者とされた整合が全体として働く霊魂のことである」と述べている。確かに生体が一者の状態にある時、われわれは健康ある。

ところが何かの原因で発汗したり、下痢したり、嘔吐したりした場合、一者が障害されたことになる。その原因が何であろうとも、汗吐下は一者に違和を来たすことになる。

特に発汗した場合、生体一者から失われるものは、水分であり、塩分であり、ビタミンCである。生体一者観の哲学を知っているものは、それらの一者から失われたものを補給することを忘れないであろう。失われたものを補給する考えのないものは、やがて疾病の原因を体内に培うものと考えねばならぬ。

徳川時代の医家舟山寛は、その著『医論』に述べている。「故に一を以て之に居らざれば至道ありといえども益なきなり。」またウィーナー博士は『内部故障の表明である皮膚病』

という大著の中に「自然は皮膚でもなければ骨髄でもない、それは一者としての全体である。」と語っているが、含蓄のある至言である。

徳川時代の儒医東民は、文政十二年にその著『医経千文』を公にし、「一を守って万を御(ぎょ)せば医事おわれり」と巻末を結んでいるが、わたくしもまた、この先輩の言葉を常々繰り返して味得しているのである。

一と多の問題は哲学上では全体と部分の問題であり、前述したプロチノスの後継者プロクレスが、その著『神学綱要』に一と多の関係を詳論して以来、多くの哲学者によって論じられてきた。多は現象であり疾病であり、一は真理であり健康である。そして現象から真理を発見するのが科学であり、真理から現象を解明するのが哲学であって、両者は鳥の両翼の関係にあるものと考えられる。

以上、難しい思索の遊戯にふけったが、前述した通り一者を破壊する汗吐下の中の吐方に就いて、実生活に役立つ方法を述べて、理論の遊戯を償うことにしよう。

今は平民になられたある宮様の妃殿下が、病後軽井沢に御出になるについて、お供を仰せつかったことがある。途中、殿下は汽車に酔われて、おつきの連中は大騒ぎして御介抱申し上げている。そこでわたくしは、殿下の列車に参り、新聞紙を丸めた筒を作り、それを窓の外に出し、背中を真直ぐにし、腹部を抑え、頸部の付根の頸椎一番を、とんとんとんとお叩き申し上げたところ、ぱーっと新聞紙の筒を通って窓外に出てしまった。あとは車中で左右揺振をしていただいた。軽井沢に下りられる時には、平生とお変りなく、県知事や出迎えの人に迎えられたのである。

吐くにも技術がる。第二次渡米の際、ある証券会社の社長が船酔いされたので風下の船側に連れて行き、右の要領で、海の方へぱーっと吐き出させたことがある。

吐き出させるだけなら、まくわうりの蔕(へた)を陰干にしてから粉にし、それを一匁の十分の一の一分と、同量の小豆の粉とを、麦藁の先の孔に入れ、ぷっと咽喉の中に吹きこむと、直ちに吐き出すものである。

また鳥の羽の先に、砂糖蜜でもつけて、咽喉の奥を突っつくと吐くようになる。有害物や有毒物を食べた場合、吐くことを知っていれば、ことは簡単にすむことになる。

病気はない、それは症狀である

あるひまな医学者の研究によると、病気の種類は十七万六千余種だということである。とてつもなく沢山あるものだ。これに対して、わたくしは病気などというものは、この世の中にはないというのである。それは、医家の方で病気だと騒ぐのを、わたくしは、それは病気ではなく症状で、しかもそれは治るための過程に現れる療法だというのである。医家は健康を害する病気だというのに対して、それは健康になるための療法だと主張するのであるから、氷炭相容れない説となる

例えば医家の方では、赤痢だ、猛烈な下痢だと騒ぐが、わたくしの方では、赤痢の下痢は赤痢菌を体外に排出してよくなろうとする症状であり、従って下痢は一種の療法であると見るのである。また結核患者の熱発(ねっぱつ)は、結核菌を撲滅するために、生体の良能作用の現れであり、盗汗(ねあせ)は結核菌による体内の毒素を、体外に排泄する作用である。喀啖は結核菌が白血球により撲殺された集団であって、従ってこれを吐くことも喜ぶべきことである。さてまた喀血は、四肢が厥冷のために十分に血液が循環することができないから、あまった血液が傷ついた空洞から捨てられる現象であると見るのである。

風邪を引いた時、悪寒をすることがあるが、これもまた悪寒によって、静脈内にひそんでいる各種の黴菌をはたき出す機転であり、またその熱発は体液を酸性からアルカリ性に転じて黴菌を掃滅するための作用である。

中毒物を食べた場合に、吐いたり下したりするのは、中毒物を体外に放出するために吐いたり下したりするのである。この際吐いたり下したりすることを病気だとして、これを止めようと注射をしたり薬を飲ませたりするのが、現今の医家である。わたくしは、大いに吐かせたり下すことを算段するのである。

脳貧血をおこして倒れたとする。倒れて横臥していることが療法である。

赤痢の場合は、水を与えてかえって下痢をたすけ、また体内にできるグワニジンの毒を、水を飲んで解消し、また脳粘膜の障害を予防する。風邪の場合、悪寒のときはかえって薄着して悪寒をたすけ、熱発の時は厚着をする。そして脚湯をして外部から熱を与えて発汗させるのである。但しこの際、水分と塩分とビタミンCの補給をすることを忘れてはならぬ。

結核の時は、ビタミンCを補給すること。盗汗によって失った水分の補給として生水をちびちび飲むこと、また四肢の厥冷には温冷浴を行うこと、及び喀血には減食を以って処理すること等を忘れてはならぬ。

症状即療法

今、結核菌がわれわれの体内に入り、不幸にして、体の抵抗力が弱く黴菌が体内で繁殖したとする。そうすると、体内には先天的に自然良能作用がそなわっていて、繁殖する結核菌と戦うことになる。即ち健康体であった場合の体内の平衡関係は、結核菌に対する鬪争のために、次のような反応様式に変ってくる。即ち熱発したり盗汗したり喀啖したり喀血したりするようになる。これが即ちいうところの症状である。現代の医家はこれを疾病だといって、熱発には下熱剤を、盗汗にはそれを防ぐ薬剤を、喀啖には袪痰剤をというように、これらの症状を止めることを療法と心得ている。

わたくしは、これに反してこれらの諸症状を療法の一過程とみるのである。従ってこれらの個々の症状に対して、これを敢えて防止しようとする処置を講ぜずに、生体一者としての健康増進に主力を注ぐことにしている。

自然良能作用が治癒過程として発現する症状即療法には自ら限度がある。もし自然良能作用が絶対的のものであれば、病気になった場合、われわれは薬もいらないし注射もいらないし、医者なども不用の筈である。おそらく野生の動物は、このような境涯にあるものと思われる。

わたくしは自然良能作用を高めることによって、疾病は自ら治癒するものという立場に立ち。従ってまた自然良能作用を高める方法として六大法則を創案したのである。

ここで自然良能に就いてのわたくしの認識を述べておこう。今日の医家でも、名医と称えられるような老大家になると、自らの体験から得るのであろうか、自然良能を口にするようになる。ところが医者の老大家や民間療法家などのいう自然良能なるものは、頗る観念的で目的論的で無批判的で、その背後には非科学的な神の摂理とか玄妙な自然力といったものが、多分に秘められていて、厳正な科学的立場を堅持するものには承認できない場合が多い。わたくしは自然良能なるものも、生体の一種の反応作用であって、その反応様式が生物学的適者生存の法則に適合した場合、それが自然良能と認識されるものと考えている。更にこの問題を掘り下げて行けば、自然良能は生体の内外分泌に関係するものであることを述べておく。

症状即療法の先達者

症状即療法観は、その端緒を、西洋医学の祖といわれるヒポクラテスに見ることができる。彼は「自然が治癒し医師が処置す。」と唱え、また「医とは自然の治療機転を模倣する術なり。」ともいっている。更に医家に対して教えていうのである。診断に際して自分の経験が浅く有効な処理法を取り得ない時は、むしろ自然のなりゆきにまかせて「先ず害するなかれ」と。ヒポクラテスのこの思想の流れは、不思議なことに、前述したように、欧米に於いても老大家になるに従って、初めてこの真意が体得されるものか、老大家の体験談等に屢々自然良能と云う文字が見られるのである。

十七世紀の英国にあって、「英国のヒポクラテス」と呼ばれたシデネムは、「疾病とは、疾病を惹起する物資を除去することによって、患者の健康を恢復させる自然の努力に外ならない」と述べている。

また症状即療法説を、はっきり唱えぬまでも、フィルヒョウの細菌病理説、コーンハイムの説くところの伝染病の発熱は病菌破壊のためであると説く疾病観。更にメチニコフの白血球の食菌作用説等は、自然療法に繫る症状即療法に近いものである。更に近頃では、独逸の医学雑誌『ヒポテラクス』誌は、自然療法の研究を重要視し、わたくしの主張する症状即療法の説に近づいて来ている。

外国の医学金言に「病院自身の体の中には、常に一人の医者が住んでいる。彼はドクトル・V・M・Nと呼ばれる。彼は人間の作った医科大学を卒業していないが、あらゆる病気や疵を治し得る神のような力をもっている」と、云うのである。このV・M・Nは「自然良能」を意味する略語である。

東洋に於いて孔子の『書経』に「薬瞑眩(めんけん)せざれば厥(そ)の疾瘳(い)えず」とあるが、その意味は、薬を飲んで、薬が症状を現わさなければ即ち症状を誘発しなければ、病気が治らぬと云うのである。云わば薬を飲むと、当然発すべき症状を誘発させるのである。これが瞑眩である。地方の温泉場などに行くと、昔から湯治と云う習俗があって、三週間なら三週間湯治することになっている。この三週間のうちで、最初の一週間は内部に秘められていた病源を誘発する、従って中の一週間は瞑眩の期間であるから、湯治前よりも体の調子が悪くなる。そして最後の一週間は、病源を根治する期間であって、この期間でしっかり病気を治して健康になる。こんなことが昔から習俗として伝来されているから、湯治客は瞑眩を喜んでいる。

わが徳川時代の儒医吉益東洞は、その名著『医事或問』の中に「瞑眩して病治す。」とか、「薬病に的中する時は、おおいに瞑眩するなり。その瞑眩を恐れては病治せぬものなり。」と、述べている。

また『医学千支』の著者石井彰信は「痰を見て痰を治すことをやめよ。血を見て血を治すことをやめよ。汗なければ汗発せず、熱あるとき、熱を攻むることなかれ、……方(まさ)に是医中の傑なり」と述べている。実に石井彰信こそ達観せる医中の傑である。痰が出たからといって痰を止めてはならぬ、喀血しようが吐血しようが、それを止めようと大騒ぎする必要はない。もともと汗となる素材があるから汗が出るのである。また熱が出たとて下熱剤で熱を下げてはならぬというのである。

何人も熱が出たといっては騒ぐが、熱発も症状即療法であって、喜ぶべき現象である。

ドイツの自然療法家ブラウフレは「われに熱を誘発する力をあたえよ、さらば、余は如何なる疾病をも快癒せん。」と豪語しているが、これまた独逸医中の傑である。

神医扁鵲は、はたのものの目には再起不能と見られる病人を治してやり、「自ら生くべき者をして我これを起たしむるのみ」と述べ、生きる力を本人がもっていたから生きられたのだ。何も扁鵲の力ではないと、謙遜している。キリストの多くの病人を治したが、その生きる力を神の力に帰している。神の力が病人の中に現れたと観るのである。注射や高価薬で治ったとは云わないのである。

六、脊柱の不正と病気

ラジオ体操批判

わたくしは健康法の実行方法を述べておきながら、それが如何にして無病健康体をつくることになるかについての医学的説明をせずに、余談に多くの頁を費やしてしまった。しかし余談とはいえ、わたくしの健康法を真に理解するためには、予備知識として必要な解説であって、健康法と全く関係のない贅談ではない筈である。

最近、終戦後廃止されていたラジオ体操が復活して、そっちこっちの職場で流行している。戦前あれほど、殆ど半強制的に行われたラジオ体操なるものの効果は、一体どんなものだったろうか。ラジオ体操の実行者数が、殖えたとか減ったとかいうもっともらしい統計は発表されるが、その体育としての効果に就いて発表されたことを、わたくしは寡聞にしてきいたことがない。有名人を会長に祭り上げ、実行者数の統計をとるくらいなら、その効果の有無も発表してよい筈だと思う。

もうひとつ不思議に思われることは、全国的に施行させる体操であり、しかもその創案には厚生省の体育専門家や、医学の専門家が参画しているのであるから、ラジオ体操の一挙手一投足に就いての医学的説明がなければならぬ筈だと思うが、今までのところ、わたくしたちを納得させるような説明に接したことがない。封建時代ならばいざしらず、民主主義時代の今日であるから、合理的な説明を知らしめず、ただスピーカーの周囲に寄らしめることは、時代逆行ではないだろうか。

もし大衆を納得させるような説明のないものであるならば、早朝から金切り声を張り上げて、呶鳴って貰いたくないものである。何もわたくしの健康法を電波にのせてくれなどと、虫のいいことはいわぬ。ラジオ体操と銘打ってやるなら、今少し医学的にも合理的な、そして健康生活にも適切なものにして貰いたいまでのことである。

何ごとにも合理的説明がつかなければ、納得のできないわたくしの性格は、ここでもまた不平を漏らしたくなったのである。先ず、「自らの頭の蠅を追え」という言葉があるから、八つ当たりはこのくらいにして、健康法に入ろう。

アミーバから人間まで

あらゆる生物の根源であるアミーバが、初めてこの地球上に現われてから今日に至るまで、実に七千万年、造化の神が一たび単細胞アミーバに偉大な生命の力を与えてから、時々刻々に分裂し始め、また種々様々の形態に集合変化し、その間、絶えず泡沫のように生じては消え、消えては生じつゝ、しかも驚くべき増加率をもって、もろもろの生物が繁殖して全地球を蔽うに至った。米国の昆蟲学者フォルサムの説によれば、この世界に、現在棲息している生物と、化石となってのこされ、かつて過去において生存したとおもわれる生物の種類は、実に175万種、そのうち植物が50万種、昆蟲が100万種、残り25万種がわれわれ脊椎動物その他である

われわれ人類は、四足動物から進化したものであるが、人間の形態を備えるようになってから、約百万年の歴史を有っている。かつて最古の化石としてジャヴァから発見され、約四十七万年前に棲息したものと推算されるピテカントロプス(猿人類)の時代を経て、今日に至ったものである。その百万年間はほとんど四這いにはったり直立して歩いたりしていたものである。

それは今日発掘される種々の類人化石によって証明することができる、たとえばドイツのハイデルべルヒ市附近から発掘され、ショヱーテンサックがハイデルべルヒ人と命名したものが、今から25万年前の人類であると推定されるし、またおなじくドイツのネアンデルタールからでた人骨が約1万5000年前のものであるといわれる。又、フランスのヴェシールその他で発見されたクロマニヨン人の骨が約10000年前のものであるといわれるように、あらゆる地質年代と化石とによってこれらを証明することができるのである。

しかし、われわれ人間が完全に直立して歩行のできるようになったのは、とにかく一万年来のことである。われわれの僅か50年前の人生から考えれば、10000年という年数ははなはだしく悠久なものに思われるが、人類の発生100万年の歴史に比較すれば、人間の直立歩行時代は現代に極めて近く、また短いものといわねばならぬ。

脊椎骨と脊髄神経の構造

さて、上述のように、人間はもと他の動物とおなじく、四足で這って歩いたもので、われわれの骨格の主要部分である背骨は、もともと他の動物のそれとおなじく粱として設計されたものである。従って背骨を粱として使用する場合は極めて理想的であって、縦の方向に引張っても、またこれを横にしても、なかなか丈夫なものであるが、われわれ人類が、この背骨を直立させて、これを柱として使用するに至ってからは、そこに力学的に種々の無理が生じ、故障が起りやすくなってきたのである。

脊柱は33個の椎骨が連絡して一本の棒状をなし、上の七個は頚椎、次の12個は胸椎、その次の五個は腰椎、更に次の五個は癒着して三角形をなし、これを仙椎といい、最後の四個を尾閭骨或いは尾骶骨と呼んでいる。第一、第二の頸椎骨は廻旋できるから廻旋椎骨と呼び、第三頸椎骨以下腰椎までは主として屈伸するだけだから、これを総称して屈伸椎骨と呼んでいる。

各椎骨と椎骨との間は、軟骨と靭帯とを以って、各骨の軋轢と衝戟とを避けるような仕組みになっている。脊柱には縦に大きな椎孔が一貫し、中には太い脊髄が通っている。各椎骨には背骨の中央部に棘状突起があり、その左右に一本ずつの横突起がある。これは急激な外界からの障害をふせぎ、脊髄を保護するためである。

各椎骨の左右両側には一個ずつ推間孔がうがたれ、そこから各脊髄神経を包んだ莢管が出て、またその中に神経と血管とが入っている。

西式健康法

 更に脊髄神経が脊髄から射出している状態を説明すると、腹の方から見て、前の方から左右に射出しているのを前根といい、これが即ち運動神経であって、筋肉につながって運動の機能を司る。後の方から左右に射出したているものを後根といい、これが即ち知覚神経であって、皮膚及び粘膜に行きわたって知覚の機能を司る。このようにして射出した左右31対の脊髄神経が全身に分布されているのである。

西式健康法 西式健康法

 脊椎の副脱臼と病気

さて、前にも述べたように、われわれ人間は、上部に比較的重い頭脳を支えながら直立して歩行したり、或いは活動したりするようになり、背骨を柱として使用するようになったために、特に胸椎には抛物線(ほうぶつせん)形を描き、腰椎には双曲線形を与え、仙骨及び尾骶骨には抛物線形をつくり、歩行や活動によって受ける衝撃を全身的に緩和するようになっている。もし脊柱が棒のように真直ぐになっていたら、頗る不安定となり、少しの衝撃にも倒れてしまうようになる。

しかしまた曲がっているために個々の推骨は力学的影響を受けて、いろいろの故障を起すようになり、或いはねじれたり、或いは傾いたりしやすくなったのである。推骨がねじれたり傾いたりすることを副脱臼(サブラクセーション)という。骨が全然外れてしまうことを脱臼というが、椎骨は脱臼することなく、副脱臼といって、ちょっと傾いたり、ねじれたりするだけである。

椎骨が副脱臼を起せば、そこから出ている神経はひしがれ圧迫されて、神経の末梢が十分の働きをなすことができなくなる。そのために、われわれの体に種々の病気や故障が起るようになるのである。

椎骨のうちで最も力学的影響を受けやすいものは、頸椎では一番と四番である。一番の頸椎骨が副脱臼を起せば、眼、顔面、頸部、肺臓、横隔膜、胃、腎臓、副腎、心臓、脾臓、大小腸等が冒されやすい。四番の頸椎骨が副脱臼すれば、おなじく眼、顔面、頸部、肺、横隔膜、肝臓、心臓、脾臓、副腎、鼻、歯、咽頭等に異常を起しやすい。

次に胸椎では、二番、五番及び十番が副脱臼を起しやすい。二番が副脱臼すれば、肺や肋膜が冒されやすく、五番が副脱臼すれば、咽喉、眼、胃、甲状腺等の病気になり、また十番が副脱臼すると、眼、心臓、大小腸、鼻等の病気になる。

腰椎では、二番と五番が故障を起しやすく、二番が副脱臼すれば、膀胱炎、蟲様突起炎、男女生殖器の機能障害を起しやすく、五番が副脱臼すれば肛門病即ち痔疾等にかかりやすい。

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以上は、ただ直立歩行のために力学的に最も影響を受けやすいもののみを挙げたのであって、その他職業の関係、外傷などいろいろの原因で、各椎骨が副脱臼を起すことはいうまでもない。

 職業やスポーツと疾病

会社などで執務卓子の関係から、上役が左手にいて常に体を左に捻ることが多い人は、胸椎十番が旋回の中心となり腎臓障害を起しやすく、タイピストや製図工等は胸椎一、二、三、五、六、十一、十二番の前後屈により、呼吸器、胃、子宮等が冒されやすく、手縫の靴工その他の手工業者は胸椎十番の前後屈を起し、それが力学的に他の胸椎にも影響して腎臓、心臓、肺等の疾患にかかりやすくなる。また文筆業者は書痉、あるいはロイマチスにかかりやすい。この書痉は職業性痉攣の一種で、熟練によって行われる作業、例えば奏楽家、裁縫師、理髪師、時計修繕工などにも起る痉攣の部類である。

次にスポーツもまた、脊柱の弯曲に関係をもつものである。ゴルフは体の回旋運動が激しく、常に胸椎十番を中心としているから、椎骨の片方が磨滅してきて椎間孔をゆがませる。ゴルファーが腎臓を冒されるのはこのためである。野球は、頸椎と胸椎との故障によって関節炎を、乗馬は胸椎と腰椎の故障によって性能減退、腎臓障害や痔疾などを、胸椎四番の故障によって耳疾を起しやすい。またテニスは、ある筋肉の異常発達から、肋膜炎を起す危険があり、柔道は猫背となるおそれがある。

スポーツは、適度に行う場合は別として、専門的に相当過激に行う人は、一般に左心室の肥大を起すものである。それで、スポーツマンは運動を永続している間は、別に故障を起さないが、何かの事情で急激に止めると、今まで肥大していた心室は、急に仕事が減らされるので、心嚢との間に違和を来し、肺と心臓との相反的な収縮拡大がしっくり行かなくなって、多くは胸膜炎に冒される。

また子供が遠足や運動会などで、一日戸外で遊んで帰った時、その身長を計ってみると一、二糎低くなっている。これは終日立ちとうして働いている労働者と同じく、椎骨と椎骨とを繋いでいる軟骨と靭帯が、体重のため圧縮されるからである。

一日あばれ廻った子供が就寝すると、輾転反側(てんてんはんそく)して、蒲団からはみ出てくる。これは日中のあばれ廻ることによって起こされた脊椎の故障を、就寝してから整正しているのであって、いわば一種の脊柱矯正運動をしているものと見られる。

ミーラと病気、社会史と疾病

脊柱の狂いによって病気が起るということは、歴史的にも証明することができる。

エヂプトやその他から発掘されたミーラには、大抵、何の病気で亡くなったかが記されている。そこでエリオット・スミス等が、ミーラの脊柱を詳細に調べてみると、頸椎、胸椎、腰椎などの第何番目が副脱臼しているかが明かとなり、次いでこれらの副脱臼によって起る病気と、ミーラに記録されている病気とを調べてみると、ぴったり符合するのである。

W、Jコルビルは「脊柱の不正は病気の基である。」という事実を、既に紀元前四百二十年にエスキュラプアス族が発見していたと報告している。J・アトキンソン博士は、三千年前にエヂプトに於いて、脊椎を整正することによって病気を治療していたと発表している。D・D・パーマーはまた、古代ボヘミア民族は脊椎の不正から病気が起るということを、知っていたと述べている。

更に脊柱と疾病の関係を社会学的に検討してみると、われわれの先祖が農耕生活時代に進む前、即ち狩猟時代や遊牧時代に於いては、人間は一定の住居を営むことができず、樹の葉や蔦などで雨露をしのぎ、葛や藤を編んでハンモック様のベッドを作って、そこに仮寝の夢を結んでいた。このような不安定な凸凹のあるベッドは、当然脊柱に狂いを招来することは、何人にも理解されるところである。そしてこのような生活から、背骨を狂わし。病気を招いたのである。

それがやがて農耕時代となり、住居を一定の場所に構えるようになった。釈迦や基督の時代になると、不安なベッドが健康上よろしくないことを経験的に知るようになって、木板や岩盤がベッドとして使用されるようになった。釈迦入寂の時や孔子の歿した時の記録を見ても、板上に薄い敷物を敷いていたことが明かとなっている。釈迦や孔子の時代には、治病保健の方法として、静座法や呼吸法が、重視されて、背骨の狂いからは解放されていた。

近代の脊柱療法

さて近世になって、系統的に背骨による疾病療法を案出したのは、ステル博士のオステオパシーである。オステオはギリシャ語の骨であり、パシーは療法の意味で、骨を正しくすればどんな病気でも治るというのである。

次に現れたのはアルパムス博士のスポンディロテラピィで、スポンディロは脊髄であり、

テラピィは操作の意味で、脊髄を操作すれば一切の病気が治るというのである。ところが、単に脊髄を操作するだけでは面白くない、人間は太古の時代には匍匐していたのだからといって四つ這いで歩く健康法も現れた。これがノックス・トーマス博士のナチュロパシーである。

確かに人間は四つ這いで歩けば大抵の病気は治る。しかし人間は直立して歩くようになって、智慧が発達し、万物の霊長となったのである。四つ這いで歩くと病気が治るが、頭が垂れ下がるから馬鹿になることを覚悟せねばならぬ。

その次に現れたのがラスト博士のラヂカル・テクニックで、即ち根源療法である。四足動物の生活法に則とった背骨の操作を旨とする療法である。

最後に現れたのはパーマーのカイロプラクテックである。カイロは手で、プラクテックは技術である。手の技術という意味で、それで背骨を操作して病気を治す方法である。

以上いずれも名称は異っているが、全部が全部背骨の矯正を主眼とした療法である。

四つ這いと動物の脊柱療法

動物は、粱として設計された背骨を、設計通りに使用しながら、更に四つ這いによって背骨を適当に矯正している。

試みに動物の歩行を注意しよう。

動物が歩くときには、図のように右前肢が前に出ると同時に、左後肢が前に出る。その時に脊椎骨の前半は左へ弯曲し、後半は右へ弯曲する。次に左前肢と右後肢とが同時に前進するときは、脊椎骨は前とは反対に弯曲する。

もっとも四足動物の前進する仕方には四通りあるが、いずれにしても脊椎が左右にS字状の屈伸運動をしながら、同時に腹部に於いては上下の波動運動をするものである。動物は四つ這いに這い歩くことによって、常に脊椎が矯正され、また同時に腹部の運動が行われるのである。

西式健康法

動物は四つ這いによって常に脊椎と腹部の運動をすると共に、何かの衝撃によって突然脊椎骨に副脱臼を起すことがあっても、すぐにこれを矯正する術を知っている。試みに、やや慘酷な実験ではあるが、猫の四足に布をまきつけ引掻かれないようにし、口を手拭でしばって噛みつかれないように十分に注意し、頭をなでながら腰のあたりを急激に一撃する。猫の脊椎はたちまち副脱臼する。猫は驚いて猛然として跳び出す。そしてすこぶる険悪な眼つきで恨めしそうにこちらを眺める。

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やがて猫は、頭を二、三回振って、地上で引っくり返り、四足で空を掻くような、極めて奇妙な運動を四、五回やる。その後に静かに起き上り、最後に背中をぶるぶると振わせ、背伸びしてから盛んに歩き出す。このようにして、副脱臼を起した椎骨を自ら矯正してしまうのである。こういうことは四足動物に限って、本能的にできることであって、われわれ人間には到底できる芸当ではない。

以上のことから、四つ這いが、如何に重要であるかを理解されたならば、我が子可愛さから、一日も早く歩かせようと、両親が両手でささえて「アンヨは上手」をさせることは、絶対にさけねばならぬことが、解るであろう。愛児は、自ら歩くまで四つ這い生活をさせねばならぬ。歩くことを親が指導するから、足に故障を起して、それが大きくなってから、万病の原因ともなるのである。

平牀と金魚運動

以上の論旨を要約すれば、われわれは梁として設計された背骨を、柱として使用している。従って脊柱に力学的にいろいろの故障が起りやすくなっている。また梁としても、柱としても、真直ぐであることが効果的であるが、直立して歩行したり活動するには、脊柱に曲線を持たせることが力学的に必須な条件である。

歩行したり価値動したりするには曲線が必要であるが、臥牀して休養する場合には、脊柱が一直線に真直ぐであることが、解剖学的にも正しいのである。そして脊柱を真直ぐに一直線にするために、わたくしは硬い平牀に寝て前後の狂いを整えよ、金魚運動によって左右の狂いを正しく整えよというのである。

ところが現代の医家たちは、歩行のためにまた活動のために描かれた脊柱の曲線を、固有な先天的のものと考え違いしている。そのために脊髄カリエス患者に、直立歩行の場合と同じ曲線をもったコルセットを着せて臥牀させるのである。こんな見当違いの療法はない。わたくしは脊髄カリエス患者こそ、平牀に安臥させねばならぬと主張し、この方法で多くの病人を救ってきた。

早大教授としてまた人格者として評判の高かった中島半次郎氏の一族の某女は、二十年近くもカリエスで寝て動けなかったのを、わたくしは、平牀によって治したのである。また某工学博士夫人が、東大病院で脊椎カリエスだから今のうち手術せねばならぬとおどかされて、「どうしたものでしょう」と、相談に来られた。わたくしは、「なーに、平牀に寝て生食をおやりなさい。治ってしまいますよ。」と、忠告してやった。

脊髄の手術となれば大変なことである。それが一月やそこらで、平牀と生食で治ってしまった。疾病の本質や生体の真相を理解していれば、病気などは、案外簡単に治るものである。それを、なまはんかの知識を振り廻して、手術したり注射したりするから、かえって自然の良能作用をさまたげることになるのである。

硬枕を使用せよ

脊柱のうちでも、頸部の弯曲は、解剖学的にも発生学的にも先天的なものであるから、その弯曲部に適合した硬枕をして、その弯曲を解剖学的に正しい配置に保つようにせねばならぬ。特に頸部に就いて、スミレー並びにグールドの両教授は「頭と胴体との連絡部である頸部が最も大切である。頸部を弱くしては連絡の道は絶たれるだろう。」と指摘している。

最近、欧米に於いては、硬い平牀ということが一般に認められてきたが、枕となると銘々勝手で、そこには一つの合理性もなく、ただ単に気分がよいとか寝心地がよいというだけで、いろいろの枕が使用されている。わたくしは、本人の薬指の長さを半径とした丸太の二つ割の大きさの枕を、頸椎四番のところにあてて、仰臥せよと主張するのである。それによって頸部を強化するのである。

わたくしの創案になる枕の高さは、一般の市販の枕よりも低くなっている。それでよいのである。古来、首を一時的にちょっと曲げることは、愛嬌を示すものといわれるが、高い枕を常用する習慣から、遂に首が前方に習慣的に曲ってる人が多い。しかしそういう人は早死するといわれる。早死の文字「夭」を辞典で調べると「夭は屈なり、大より形を象る。」とあり、大の字を調べると「大は人の形を象る古文の人なり。」と記載されている。

そこで夭は人間の首の曲がった形で、それが早死となるのである。

それでは首の曲がっている人は、なぜ短命となるかというに、首の曲がっていることは頸椎に故障をもっていることを意味するのである。頸椎に故障のある人は、咽喉が悪い、風邪をひきやすい、咳が出る。腸が弱いという結果を招くからである。

ドイツの歯科医パルマ博士、その著『歯科レントゲン診断学』の中で、歯痛患者は頸椎第三、第四に副脱臼をもっているし、上下門歯、上下小臼歯等の歯痛、顳顬上下間節の故障などは、ほとんど頸椎第三、第四の異常によると述べている。

ケルカーは歯痛は多く肩の凝りから起り、肩の凝りは頸椎第三、第四の副脱臼から起ると云っている。

頭と胴体の連絡所であり、脳神経と脊髄神経の中継所である頸部を、硬枕によって解剖学的位置に整正することは、耳、鼻、咽喉、歯等の健康はもちろん、頭部の血液循環を適正にするものであることを、断言するものである。

背部運動即ち左右搖振

脊柱の前後の狂いは睡眠時の平牀利用により、また左右の狂いは金魚運動によって整正するのであるが、更に脊柱を整正し副脱臼を防止する方法として、わたくしは背部運動即ち左右搖振運動を創案したのである。

尾骶骨を中心として脊柱を左右に揺振する運動が、如何なる理由で脊柱を整正するかに就いての説明は、通俗的には後述するが、左右揺振の物理学的及び解剖学的解説は、厄介な数学的説明を要するから、本書では割愛するであろう。

ただ、左右揺振と関係のある実験として、次の方法が何人にも興味をもたれるであろう。即ち細い深いガラスの円壔(えんとう)の中に、沢山の同形の木片を無造作に積み重ねておき、さて円壔の底辺の中心を固定しておいて、これを左右揺振していると、中の木片は次第に整然と一直線の棒のように整頓されるのである。

もちろん、単なる木片と各椎骨とはその性質を異にしているが、その整頓される力学作用を受ける点に於いては、大同小異である。

七、腸の清いものは長生す

直立歩行と腹部

前章で四足動物と人間との脊柱ノ関係を研究してみたが、ここでは、四足動物と直立歩行とが、内臓に如何なる関係をもつかを研究してみよう。

西式健康法

動物は歩行の際、脊柱が左右に屈伸運動することは前述した。さてそれでは、腹部は、その際どうなるか。脊柱が左右屈伸運動をするとともに、動物の腹部は上下波動運動をすることは、何人も容易に観察できるであろう。そしてまた、野生の動物はいずれも、胸部に比較して腹部が小さく引きしまっていることに注意せねばならぬ。

また、家畜以外の動物には便秘も下痢もなく、その糞便は完全に消化吸収されているから臭気がなく、従って排泄後容易に腐敗して蛆の湧くようなことはない。

これに反して直立歩行するわれわれ人間は、骨盤部に於いて内臓諸器官を支えるような仕組みになっているが、それでも力学的に内臓は下垂してくる傾向を示している。下垂の傾向を示さぬまでも、大腸なり小腸なりが重畳し屈曲し、その結果そこに沢山の皺ができるようになった。またそのため、大腸に糞便が滞りやすくなり、小腸の内壁にもいろいろの物質がこびりつきやすくなって、腸の機能を妨げるようになった。従ってここでもまた、われわれの大小腸は四足動物から直立歩行に進化したために、いろいろ疾病を起すようになったといわねばならぬ。

複式呼吸法の起源

人類が、狩猟生活時代や遊牧生活時代の葛葛をもって作ったハンモック様のベッドの上に眠る風習から脱して、農耕生活時代に入り、木板乃至岩盤の上に横わるに至って、人智が漸くにたけ、文化も進んだが、一方早くも余弊が現れてきた。それは人間があまりに小悧巧になり、常に小智小策を弄することを好み、人間生活の大道を忘れるに至ったことである。

その原因は何かというに、人間が他の動物のように腹部で呼吸した時代は、その性情は粗暴ながらも極めて純朴なものであったが、板上に眠り、やや人間的生活をするようになって、彼らの呼吸運動は腹部から胸部に移るようになった。そしてこのことは、われわれの精神生活にも影響してきた。他人の秘密などをさぐることを好み、常にせこせこしている人物は、腹の運動を忘れている人で、腹部の運動が十分にできている人は、そういう小策秘事にかかわることを欲しないものである。

さて、このような腹部の運動を忘れた板上生活の人類は、ようやくその非をさとり、ここに一種の修養法を兼ねた腹部中心主義の運動法が勃興してきた。即ち坐禅や腹式呼吸法などが、それである。

ところが、後代あまりに腹部の運動にのみとらわれて、いわゆる複式呼吸の技巧玩弄時代が起ってきた。二段式呼吸だの三段式呼吸などというのは、みなその当時の産物である。

このように、かれ等は複式呼吸のみにとらわれて、少しも脊柱につて考えなかったために、再び脊椎骨が狂い出し、椎骨の疼通を感ずるようになった。その疼通をふせぐために。だんだん敷物を厚くした。この風習が日本にも伝わり、今日日本人が敷蒲団の厚いのを好み、しかもこれを重ねることを好む習慣となったのである。

腹部運動の思い出

わたくしは動物の腹部の上下運動を観察し、更にまた仏教や儒教の気海丹田の腹部運動を知るに至って。腹部運動と疾病との関係に研究の手をつけてみたが、脊柱と疾病の関係のように合理的な説明が得られなかった。そこでいろいろ文献を集めて吟味してみたが、その多くは宗教上の信仰に基礎を置くものであったり、あるいはまた科学的洗礼を受けない漢方の説明であったりするので、幾度か研究上の暗礁に乗り上げた。

それにしても東洋の聖賢の金口の遺訓ともいわれるのであるから。わたくしはそれらの遺訓に完全に魅せられていた。そして研究が遅々としながらも進むに従って、やはりこれら先達の言葉に、あやまりのなかったことを知ったのである。

気海丹田に精気を充満させるという、そして気海は臍下一寸五分の所、丹田は臍下一寸の所と詿されている。腹部運動に於いては確かに気海丹田が中心となり、そしてそこに精気が集まる時、われわれの生活が充実するというのである。わたくしは気海丹田の生理学的並びに解剖学的意義を把握しようとして、真剣に取り組んだ。

幸い江戸時代の拓善居桜寧の『養生訣』を読むに及んで、気海丹田が今日の生体の重心点であることを解し得たのである。これはもちろん入営前の青春時代であった。

その後、生体の重心点がわれわれの生活に於いて如何に重要なものであるかを、わたくしは力学的にも解説して、拙著『動的姿勢の研究とスポーツ』の中に述べたのである。われわれが精神の置き場を、常に生体の重心と一致させることは、結局はわれわれの生活を充実させることになるのであって、かかる意味から気海丹田と重心、精神の中心と生体の重心等に就いても述べたいが、本書では割愛するとしよう。

大腸内の醱酵と腐敗

腹部運動のことから、腹部の内臓の諸器管と疾病との関係を、わたくしは着々と研究して行った。そうすると、鳥類には大腸がなく、しかも比較的長命であること、哺乳動物は大腸を持っていて、しかも短命であることを知ったのである。そこでこの大腸こそ曲者とにらんだ。

しかも大腸は消化作用も吸収作用も殆んど行わない。ツェルニーの研究によれば、大腸が二十四時間内に吸収する液体は、僅かに六瓦くらいで、栄養上からいって微々たるもので、ただ粘液を分泌して固体の排泄物を潤すくらいが、大腸の仕事だというのである。

大腸は食物の残滓即ち糞便の貯溜所であって、そこには無数の黴菌がおってさかんに腐敗作用をいとなんでいる。健全な人の胃や小腸には黴菌はほとんどいないものだが、大腸にはシュトラスブルガーの研究によると、二十四時間に百二十八兆という、われわれがほとんど創造もできないくらい多数の菌が繁殖するというのである。

ロシヤ生まれで後フランスに帰化したメチニコフの説によれば、われわれが老養を早める最も大きな原因は、大腸におけるこのおびただしい黴菌のためであって、これらの黴菌は大腸内で常に分解作用をいとなみ、有害な化学的物質を形成している。その有害な化学的物質が絶えず、自然に体液内に吸収されて自家中毒を起し、いちぢるしい全身症状を現わしてくる。従って大腸内に存在する黴菌の数が多ければ多いほど、その動物の生命は短縮されるから、大腸の最も発達している哺乳動物は、勢いその有毒作用を受けることも大であり、従って他の動物に比較して短命であるというのである。

大腸と動物の壽命

それでは無用の長物、いや有害無益の器管である大腸が、なぜわれわれ人類をはじめ、すべての哺乳動物に存在しているのであろうか。

メチニコフはこれに答えていうのである。「野生の動物にあっては、適を追いあるいは敵に襲われた場合、その運動も敏速を要する。その運動の遅速は直ちにかれらの生命に関するから、運動中に排泄するひまがない。それで運動中の排泄物を体内に溜めておかねばならぬ。大腸はかかる必要から発達したもので、人間の大腸もその昔野生動物であった時代の遺物に過ぎない。

要するに現代人にとって大腸は無用の長物である」と。しかしわたくしにいわせれば野生生活から脱したわれわれ人間は、更に社会的文化生活をいとなむに至って、糞便の貯溜所である大腸の必要がますます生じてきたのである。ただ大腸内のこの有害な腐敗醱酵作用を如何にすべきかが問題である。

上述のように哺乳動物は発達した大腸をもっているが、飛翔中自由に排泄を行い得る鳥類は、大腸をもっていない。そして大腸をもっていない鳥類の方が。哺乳動物に比較して遥かに長命である。即ち寿命からいえば鷹(たか)百八十歳、金鷲(いぬわし)百十歳、鸚鵡(おうむ)百歳、金絲雀(かなりや)や雲雀(ひばり)ののような小鳥でさえ二十年も生きるのに、哺乳動物である馬は十五歳乃至三十歳、牛三十歳、羊、犬、猫は十五歳、兎十歳、鼠五、六歳、稀には象のように長命のものがあるが、概して哺乳動物は鳥類よりも短命である。

駝鳥(だちょう)は鳥類に属するが、獣類と同じく地上生活をなすので、大腸は発達し、その結果すこぶる短命であって、あの大躯を有するにかかわらず、通例二十年くらいしか生きられない。これに反して蝙蝠(こうもり)は獣類に属しているが、鳥類と同じく飛翔生活をしているので、大腸は発達の必要がなく、従ってあの小躯をもってよく十五歳以上の長命を保ち得るのである。

以上述べたところで解かるように、人間は大腸が発達しておって、そこに発生する黴菌によって生成される毒素のために、自家中毒を起して短命となるのであるから、われわれはどうしても大腸内を掃除しなければならぬとメチニコフは力説した。

大腸内の掃除

その結論として、彼は、古来世界の不老長寿国といわれているバルカン半島のブルガリヤ人は、常に乳酸菌(ブルガリヤ菌ともいう)を含んだ酸性乳を飲用する習慣があるので、長命することを知り、牛乳を腐らして乳酸菌を繁殖させたヨーグルトを飲用すれば、大腸菌を殺滅して長寿を保ち得ると唱導した。そのために当時ヨーグルトの飲用が盛んに流行し、あたかも秦の始皇帝が除福をして蓬萊に求めしめた不老不死の霊薬であるかのような観があったが、近来はとみにその声価を失った。

それは胃から腸に蠕動機能によって送られる間に、乳酸菌は大部分死滅してしまうから、メチニコフの信ずるような不老不死の効果を挙げることが甚だ疑問となったからである。

それはとにかく、腸が健康に密接の関係のあることは、幾多の学者が唱導したところであって、独逸のミュンヘンの開業医ヴァレンチン・リガウェル博士は、その『開業五十年間に於ける一開業医の経験と知識』の中で、人間のいろいろの疾患は、糞便の停滞から起るもので、便通さえよくすれば、健康になれると述べているのである。

ここまで研究が進んで来た時、わたくしは懸案の腹部運動成れりと叫んだのである。中国の道書『抱朴子』の中に「長生を得んと欲せば、当(まさ)に腸中を清くすべし、不死を得んと欲せば、腸中滓無かるべし。」とある一節が、唐人の夢でなかったことが証明されてきたのである。

そうなってくると、われわれが元旦に祝うお屠蘇(とそ)も、その大部分は通じ薬である。通じがつけば一家万福となるのである。腸の機能を促進するための腹部運動……といえば合理的説明のように聞えるが、如何なる生理作用によって、腸の機能が促進されるのであろうか。ここでわたくしは第二の難関に出会したのである。

腹部運動と腹腔神経叢

わたくしの研究が、内臓の神経に及んで行った時、そこには腹腔神経叢のあることを知ったのである。これは一名太陽叢ともいわれる神経叢である。腹部運動を行う時、太陽神経叢は当然刺戟されるわけである。そこで太陽神経叢即ち腹腔神経叢に注意を分けて研究しているうちに、太陽神経叢こそは『腹腔の脳』であって、この神経叢の機能が内臓及び骨盤部の健不健に関することが明らかになってきた。

腹腔神経叢の位置は、膵臓の後方、腹大動脈の前方にあって腹腔動脈と上腸間膜動脈との起始部を囲んでいる。そしてそこには大内臓神経、小内臓神経、上位腰神経、更に迷走神経が入り込んできていて、それがまた横隔膜神経叢、副腎神経叢、腎神経叢、精系神経叢、脾神経叢、肝神経叢、上腸間膜神経叢、腹大動脈神経叢、下腸間膜神経叢、上胃神経叢、下胃神経叢、上腹神経叢、下腹神経叢、腸骨神経叢、股神経叢、膝(膕)神経叢等々に連結をもっていて、それらに影響するということが明らかとなってきた。

このうち上腸間膜神経叢は、腸壁に穿入して筋層神経叢を作り、更に内壁に進んで粘膜下神経叢を作っていること、また下腸間膜神経叢は横行結腸や下行結腸にまでのびて、いわゆる大腸の神経支配をすることも明らかになってきた。

柔道の方では、胸骨の剣状突起の下を拳で突くことを。水月の当身といって急所としているが、そこには胃もあるが、それよりも腹腔神経が叢をなしているところだからである。

そこで、わたくしは、腹部運動は腸全体に物理的刺戟を与えて、その機能を高めることにもなるが、要は腹腔の脳である腹腔神経叢を刺戟することであり、更にそれに連なる膀胱や生殖器等の骨盤部の神経を刺戟して、やがて保精とも強精ともなるものであることが解かった。

わたくしは腹部運動は腸の機能を高めるとともに精力強壮法ともなるものと信じている。綴って文章にすれば、数枚に縮まるが、ここへ到達するまでの努力は、わたくしの青春時代の一時期を劃したものであった。

便秘、宿便、黒便

さて腸の機能が障害されると、下痢になったり、あるいはまた反対に便秘になる。下痢に対する処置は前に述べたから、ここでは省略するとして、問題は便秘である。わたくしは、先年医学専門家を教育するために『便秘』という医学書を公にしている。

多くの人々は、毎日の便通があるから腹の中に糞など溜めていないという人がある。しかしこのような素人考えを主張する人には、I・F・ヘルツの「便通の度数は、腸内糞便堆積の存否の確実な証拠にはならぬ。」という説を、参考までに呈上することにしよう。先年、有名な関取某が医大で開腹手術をしたが、その際腸内に堆積していた糞便が、あまりにも多量であったので「なるほど糞力とはよくいったものだ。」と、一同は驚き合ったと伝えられている。しかもその力士は生前、便秘の不快感を感じたことがないといわれている。

次に宿便が如何に保健治病上有害有毒であるかを、古今東西の代表的権威者にきこう。

吉益東洞の『医事古言』に「夫れ飲食は口に入り咽喉より肛門に至りて一路なり。糟粕滞らず二陰より出ずれば則ち百歳を度て病なし。滞らば則ち一身に変満して四肢百骸を病ましむるなり」と述べている。

英国のアーバスナット・レーン卿は言っている。「わたくしは腸内糞便堆積は、非常に多くの疾病状態の主要要因であると信ずるものである。この宿便は極めて重要であって、これから生ずる多くの問題の解決には、如何に多くの時間と思索とを傾けても足りないほどである。」云々。

米国のR・H・ファーグソン博士は『腸麻痺と便祕』の中にシカゴのオックスナーの言葉を引用して、次のように述べている。「ヒポクラテスから今日に至るまで、医学の論文を書いた著名の士は、すべて大腸内に於ける便の異常堆積(宿便)を防止することが、将来の疾病に対する予防策として、また既存の疾病の治療策として、重要であることを主張している。」云々。

宿便が殆ど万病の基といっても過言ではないほど、これについての文献が、わたくしの手もとに堆積しているが、最後に日本の医書として最も古い『神道方』からの文献を掲げるとしよう。

「曾能那訶美爾万通比弖(ソノナカミニマツヒテ)倭邪奈須母乃乎耶満比土以布(ワザナスモノヲヤマヒトイフ)」・・・・その体中(なかみ)に纒(まつ)いて、禍(わざ)なすものを病という・・・・体中のはらわた即ち腸中に糞便が滞って、禍なすものを病と断じているのである。

殆ど万病の基といわれる宿便も最初は全く「何等関心をひくに足らぬ」ものであるが、しかし暗夜の泥棒と同じく、人知れず忍びよってくるものであることを注意し、宿便が誘因となる種々の疾病については、敢えて万病といっても差し支えないことをことわっておく。

また宿便と区別して黒便の文字を用いるのは、黒便も便には相違ないが、血の塊であるところから区別するのである。腸に傷がついて、その穴に物が入り込む、そして血がにじんでは治り、にじんでは治りするうちに、とうとう癌を形成することになる。これが黒便であって、断食時に排泄されて、時々医家を惑わす代物である。

さて宿便問題の解決には、断食療法を推唱したいのであるが、適当な指導者の下に厳行しないと危険を伴う惧れがあるので、わたくしは次善の方法として生食療法を提唱している。また最近では『人体旋転儀』を利用して断食療法以上の効果をあげている。

腸と他の器官との関係

脳と腸

戦前、慶大医学部の川上漸博士の教室で、腸の障害を研究し、それを『老衰の原因』という冊子にして発表したことがある。

今、その要点を摘記すれば、次のようになる。死者百人を解剖したところ、その中九七・七人までは脳に出血していた。そのうち九三人までは、本人はもちろん医師も、生前脳に出血していることは知らなかった。

そこで川上博士は、動物実験に取りかかったのである。動物の腹を開き、腸にラミナリヤという海草を入れたコンドームを結びつけて、切開したところを縫っておく。コンドームには針でところどころ穴を穿っておく。そうすると、ラミナリヤは穴から腹水を吸収して膨張し、膨張したコンドームは腸を締め付ける。腸は溢れて閉塞を起して動物は死んでしまう。そこで脳を解剖してみると、脳出血を起しているのである。しかも脳の出血の場所は、腸の閉塞の場所によって異り、腸の閉塞した位置と脳出血を起す位置とは、相違関係をもっているのを知ることができた。

次にこの装置で閉塞した腸の部分の粘膜を、他の健康な動物に注射すると、やはりその動物は死んでしまうし、しかもこれを解剖してみると脳に出血をしているのである。

そこで川上博士は次のように結論を下したのである。「腸閉塞が起った際、一種の毒素が生成され、これが脳に伝わって脳の血管を破るか、膨張するか、麻痺するかする。そして腸閉塞に陥らしめるものは便祕であり、便停滞である。」

右の他に博士はいろいろ研究の結果を述べ、老衰の原因は便祕であり、それが脳に直接的に影響すると訓えている。

宿便と四肢

最初米国のアボット博士によって唱えられた学説であるが、宿便の停滞者は手足が冷えるというのである。これは宿便のために起される脳の出血は、主として四肢を司る運動中枢神経の部位に現れるためだと考えられる。わたくしは好んで手相を見るが、腹は掌に描かれているからである。わたくしは帯を解いてもらって腹を見なくても、掌を見ただけで宿便がどこに停滞しているかを診定するのである。

宿便と血圧

便祕が高血圧の原因であることを後述するが、結局は便祕による宿便が、その真の原因であることを知らねばならぬ。

痔と便祕

痔もまた便祕による宿便から起る。ロックハルト・ママリー博士はいっている。「便祕さえなかったら、たとい他に原因があっても、それは痔疾を起すに足りない。」

眼と腸

眼もまた消化器官に関係をもっている。有名なS・H・ブラウニング博士は「ある種の眼疾は消化器官の病的状態を治せば、眼の方もよくなり、次第に根治する。」と延べ。またクラーク博士は「早くから眼鏡をかけるということは、腸の活動は鈍いからだ。」と教えている。

口腔と腸

歯もまた腸と関係をもっている。舌が白くなっていたり黒ずんでいたりする人の唾液を検査してみると、腸のバクテリアを発見できる。口腔内のこのバクテリアは、歯、歯齦等を腐蝕させて、遂にバクテリアの巣窟と化せしめる。リウマチス、神経痛、耳鼻、咽喉等の疾病の原因が、歯齦の腐敗から発生するということも報告されている。

化粧と便祕

ケロッグ博士は、その著『腹の衛生』の中で、「清潔な腸は化粧品一噸にまさる。」と言う。いい得て妙ともいうべきであろう。元来、美は皮膚以上のもので、美は皮膚だけでは表現できぬ。

身体の各器官、特に排泄器官が完全にその機能を発揮してこそ、初めて美が完成されるのである。吹き出物、しみのある顔、青ざめた黒い皮膚等は、大抵の場合、宿便の滞溜者に見られる現象である。真の美しさを発揮しようとするものは、先ず宿便を排除して腸を清くせねばならぬ。

口臭と腸

顔の美もさることながら、一尺離れて話し合っていて口臭の感じられる人は、まず便通をつけねばならぬ。ハリウッドの俳優仲間では。息の臭いものは相役を忌避することになっている。便通さえつけば口臭は大抵消えるものである。

理想的な腹

腹は、先ず宿便を出して、全体が搗(つ)きたての餅のように、柔かくしておかねばならぬ。但し一度腹部に力を入れたら腹全体が同じように一様に硬くなり、一寸やそっと突っついても弾き返すくらいの弾力を持たねばならぬ。そしてこのような腸なり腹なりは、断食療法、生食療法、『人体旋転儀』等によって容易に作られるものである。

八、新血液循環論及びグローミュー

ハーヴェーの血液循環論

 欧米医学では、ギリシャのヒポクラテスを医学の祖と崇(あが)め、また中世のヴェザリュゥスを解剖学の祖、同じく中世紀のハーヴェーを生理学の祖と称(たた)えている。しかし、その後顕微鏡が発明されるに及んで、解剖学にも生理学にも新発見が招来されて、各方面に改定が行われた。

ところが、ハーヴェーの血液循環論だけは、今日に於いても真理として一般に信じられている。顕微鏡も発明されず、動脈と静脈とを繋ぐ毛細血管も発見されていない時代の、ハーヴェーの血液循環論が、今日でも真理として信じられていることは、ハーヴェーの学説の偉大さを物語るものか、それともその後の生理学者たちの不明を意味するものか、この判断は誠に興味ある問題である。これは一つには問題が科学的に実証し得ない題材だからでもあろう。

ハーヴェーは一六二八年に『動物に於ける心臓及び血液の運動に関する解剖学的実験』という著書を、フランクフルトで印刷し、特に十二年後に公にした。ハーヴェーの説は次の三点に要約される。

一.血液は心臓から動脈に流れ出されること、

二.血液は静脈を通って、心臓に向かって流れること、

三.推理に行って、身体の全血液は、絶えず一つの循環系統内を動いていること。

ハーヴェーは、血液は絶えず一つの循環系統内を動いているとは推論したものの、動脈と静脈を結ぶ毛細血管を知らなかった。しかし静脈に瓣(べん)のあることは、当時既に発見されていた。

さて、問題は、特にわたくしが問題にするのは、血液循環の原動力を心臓にありとするハーヴェーの説である。わたくしは血液循環の原動力は毛細血管網にあるもので、心臓は血液循環の一種の調整器官だと主張するのである。

参考までに附記するが、わたくしは右のハーヴェーのラテン語の論文を、昭和五年七月から十九回にわたって、当時の西会の機関誌『テトラパシー』に訳載した。二、三の疑問の点はウォリスの英訳、リークの英訳、バースの独訳、リシェの仏訳を参考にしたことはもちろんである。またノーベル賞を得たクローの『毛細血管の解剖学及び生理学論』をも、二十八回にわたって訳載したし、『血液循環の歴史』『心臓病に就いて』『静脈に就いて』等の拙文をも同誌に連載したものである。

新血液循環論を提唱する理由

わたくしは血液循環の毛細血管原動力説を、あまりに屡々公表しているので、本書ではわたくしが提唱する理由十ヶ条くらいを掲げて、参考にしたいと思う。

一、水の四、五倍の粘着力のある血液が、握拳大の心臓、しかもその四分の一の左心室の収縮力によって、一粍の千分の五・五即ち五・五ミクロンの直径の毛細血管五十一億本を、二十二秒半で一循環するなどということは、常識あるものの考えられぬことである。

スウェーデンの女王クリスチナの侍医ボレリは、一六八一年、その著『動物の運動』の中で、心臓の力は十八万封度(ポンド)(重量トンで表せば八十一トン)の圧力をもっていると発表したが、心臓原動力説を信じて計算すれば、そういう数字が出てくるのも当然であろうが、これは常識ある人なら信じられぬ説である。

それから三十年たって、スコットランドの医家ジェームスキールは『動物と人間との体内に於ける血液量及び筋肉運動に就いて』という著書を公にし、心臓の力は十六オンスつまり一封度(ポンド)を出ないと算出したが、これなどは真実に近づいてきている説だと思う。

二、現代の医学者は、心臓をポンプだという。元来ポンプは、貯水池から水を吸い上げる吸入菅と、水を吐き出す吐出管との二つの菅を備えている。この二つの菅の構造を調べてみると、吸入菅は吐出菅よりも頑丈な構造になっていて、厚い布に針金を巻きつけている。これは、水を吸入するのであるから、頑丈でないと真空力のために管が破裂するおそれがあるからである。

さて、心臓をポンプとすれば、動脈管は吐出管で、静脈管は吸入管である。ところがその構造を見ると、動脈管は静脈管よりも厚く、また左心の壁は右心の壁の三倍から四倍の厚さをもっている。これは、吸入管よりも吐出管が頑丈であるということで、ポンプ本来の構造に反することになる。ところが毛細管をポンプとすれば、(実際に毛細管はポンプ作用をもっているが)静脈管よりも動脈管が厚く丈夫だということも、ポンプ本来の構造と一致することになる。

西式健康法

  1. 大動脈から小動脈が分岐するところの型は、A型でなくB型となっている。 これは専門家なら何人も知っていることだが、血流は心臓から送り出される型でなく、毛細管によって引っ張られる型である。
  1. 右心房と右心室との間の瓣は三尖瓣であるが、三尖瓣は押して行く場合に使われる。

二尖瓣は引っ張られる場合に使われるものである。そして左心房と左心室の間の瓣は、この二尖瓣となっている。これは即ち左心臓の血液が毛細管により引っ張られることを意味する。

  1. 心臓をポンプとすると、動脈管即ち吐出管はだんだん小さく細くなって別れて行く

が、静脈管即ち吸入管は末広がりになっている。これは、ポンプの構造上あり得ない不合理である。

  1. アショッフが、ジフテリーやチフス等の患者の死体を解剖してみると、左心室に血液が充満しておるが、戦死者の場合は、左心室や動脈が空になっていると報告している。これはジフテリーやチフスの場合は、患者の細胞が血液を拒否するために、血液は動脈から活発に吸引されないから、左心室に血液が充満している。戦死者の場合は、身体の細胞が心臓の鼓動終止後も生きのびて、毛細血管に血液を要求し吸引するから、左心室や動脈は空となっているのである。
  1. 消化器、門静脈、肝臓の血液循環は、二個所で毛細管網を通過するが、左心室の単なる博動(はくどう)だけで、それが通過できるとは考えられぬ。
  1. 胎児の心臓博動は受胎後二ヶ月目から始まる。胎児の血液循環が母親の心臓によって動かされるとすれば、胎児の成長とともに母親の博動は増大せねばならぬ。しかしかかる現象は妊婦には見られぬ。
  1. 現代医学では、左心房の第二心音に対する意見は一致しているが、左心室の第一心音に就いての説明は一致していないばかりか、実にその異名四十以上の数に及んでいる。これは心臓原動力では説明がつかず、心臓の各専門家たちが勝手に自説を主張する結果である。

10. 迷走神経は器官の機能を促進し、交感神経はそれを抑制するものである。ところが、現代の医学では、心臓だけに於いては、迷走神経は抑制し、交感神経は促進するので、心臓だけは例外で、これは不思議なことだと現代の医家たちはいっている。ところが毛細管網原動力説を採用すると、動脈の固有の性格は拡大であり、静脈は収縮するのが本性と考えるから、心臓だけは例外などということがなくなる。

以上十ヶ条を挙げたが、わたくしは血液循環の毛細管網原動力を主張する理由として五十余ケ条をもっているが、ここでは省略するであろう。多くの人々は、ハーヴェーの説を、科学的な学説と思いこんでいるが、それは学説でなく仮説である。仮説は科学的真理を統一的に説明し得ない場合、退場するか変換されるのがその性格である。

もしわたくしの質問に科学的解明をなし得ないならば、心臓原動力説は退位して毛細管網原動力説に、その王座を譲らねばならぬのである。それが仮説の性格である。いや、心臓原動力説では病気は治らぬのである。

新血液循環論の理論

生体の五十一億本の毛細血管は、全身四百兆の細胞に栄養を送っているが、これは一本の毛細管が八万個の細胞に栄養を配給することになる。そして各細胞は生命力をもっているから、栄養を要求するのである。ところが細胞が障害状態にある時は、細胞は栄養を拒否するし、また血液が不純の場合も、細胞はこれを拒否する。

細胞は毛細血管の関門(スルース)を通じて栄養を吸い取り、その代わりに老廃物質を毛細血管に送るのである。さて、毛細管の小静脈部寄りに老廃物質の一部がふれると、小静脈は物におびえたように、その本性を発揮して収縮し、それで静脈血の輸送が始まるのである。そこで毛細管と小静脈の接合部毛細管側に真空ができる。ここに毛細管原理の作用が発現するのである。物理学的に毛細管作用の条件を吟味すれば、固体、液体、気体の三者を必要とするが、即ち毛細血管は固体、血液は液体、毛細管内にできた真空は気体である。ここでいう気体は、血液を真空にさらすと、その百容積に対し六十容積の気体を放出することを附言せねばならぬ。

さて、全身に分布する五十一億本の毛細血管に、真空を発現させる方法は、結局わたくしの創案した毛管作用発現法即ち毛管運動に組み込まれているのである。

毛管作用によって毛管網から血液が吸いあげられると、動脈は管腔内にできた真空力によって収縮するが、その瞬間にはその本来の性能によって拡大し、小動脈から血液を吸い出す。そして結局左心室から血液を吸出すことになる。左心室が空になって収縮するが、その本性によって拡大し、左心房から血液を吸引する。また空になり収縮した左心房も、その本性に従って拡大し、肺動脈から血液を吸引する。肺内の毛細管も、その他の毛細管と同じく吸引力を発揮することはもちろんである。

毛細管から小静脈に送られた静脈血は、血管の収縮作用と肺静脈の逆流防止作用によって、順次送られて、上、下行大静脈から右心房に流入する。右心房に入ると、右心房は物におびえたように収縮して、これを右心室に送る。

右心房と右心室とは、上、下行大静脈と肺動脈との間に介在し、また上、下行大静脈も肺動脈も同様の脈管構造をもち、収縮を本性とし、静脈の一部と考えられる。

つまり、心臓は収縮と拡大の機能をもっているが、収縮の機能は右心臓に、拡大の機能は左心臓に属している。

心臓より毛管へ、帝王より国民へ

わたくしは思想なり学説を研究する時は、いつもその時代の政治制度や経済機構とにらみ合わせて、研究することにしている。ハーヴェーの心臓原動力説は、十七世紀の教権と主権を一手におさめて帝王神権説を唱えた英国のチャールズ一世の時代の所産であった。いやハーヴェーは、その著書の冒頭に、次のように述べている。

「類(たぐい)なき、英邁不撓(えいまいふとう)におわします大英国、フランス及びアイルランドを統治遊ばさるる信仰の擁護者たるわがチャールズ陛下に奉る。

世に類なき英邁の君主よ。

そもそも動物の心臓はその生命の礎石にして、その体内に於けるすべてを司るものにして、これを譬(たと)うるに、あたかも宇宙に於ける太陽の如く、万(よろず)諸々の成長は、これに所依(しょえ)し、万諸々の力は、これにより創生するなり。これと同じく陛下は英帝国の礎石にして、皇帝の統治遊ばさるる世界の太陽にもたとえ得べく、また社会の心臓にも譬え得べし。帝は誠に諸般の権能と諸般の恩寵(おんちょう)の始発する源泉とこそいうべけれ・・・・・

おお陛下よ、陛下こそ実に当代の新らしき御稜威(みいつ)にして、誠に国家の心臓とも称すべけれ・・・・・・・・・」

ハーヴェーは独裁主権と心臓原動力説を提唱し、政治制度と医学思想とを交歓したのである。ところがハーヴェーがその著書を陛下に献じて丁度二十一年目に、チャールズ一世は暴君として、また国民の虐殺者として、議会軍の手に斬刑されたのである。わたくしは心臓原動力説の不思議な運命に、感慨無量の言を発せざるを得ない。

わたくしはハーヴェーの説に反して毛細管網原動力説を唱え、これこそ民主主義時代の学説を代表するものだと自負している。

四百兆の細胞は民草である。民草の要望が国民の総意となって、毛細管現象をいとなませるのである。心臓が細胞に栄養を与えるのでなく、毛細管が栄養を要求するのである。そして、老廃物を血流に送りこむ。いわば、細胞は生活の必要から毛細管制度を作り、栄養を左心室から吸引し、老廃物を右心房に送付するのが、わたくしの毛細管網原動力説で、主権細胞説である。「なんじ臣民」から「われわれ国民」への転換である。「上からの支配でなく」「下からの権威」である。また細胞は被給与者でなく、不浄な血液に対しては、彼等は拒否権を発動する。

わたくしは民主主義時代の学説として、声を大にして血液循環の原動力は毛細血管網にありと叫ぶものである。いや、いや、思想や学説は二の次として、心臓原動力説では当然助かる病人も死んで行く。心臓原動力説の仮説を妄信し、ビタカンファーやジギタリスのような強心剤の注射によって、日々、如何に多くの人命は失われて行くことであろうか。

自らの先見を誇る

手を怪我したとする。その際、わたくしは次のように処置することをすすめる。即ち、先ず血液がとばないように患部を繃帯し、次いで手を心臓以上の高さに上げて、振動する。この方法によれば、消毒の必要もなく縫合も必要なく、それで完全に治るのである。

この医学的説明はまた極めて簡単である。怪我した手を心臓以上に上げることは、清浄な血液を患部に送り、患部の知覚神経を鋭敏にするためである。次に振動を与えるのは、患部の毛細管のマルキビー氏小体に刺激を与えて、患部の毛細管を収縮させるためである。毛細管が収縮すると、患部への血流が遮断ことになる。即ち患部が断食状態になるから、黴菌が繁殖することができず、従って化膿することもなくなる。そして全治することになるのである。

それでは、遮断された血流はどうなるか。毛細管に遮断された血液は、小動脈からグローミュー(同静脈吻合)を通って直接小静脈に流れて行く。グローミューは皮膜で覆われているから、細胞に栄養を与えることはしないのである。

今まで数回グローミューに就いて触れたが、グローミューは一七〇七年フランスの解剖学者レアリ・レアリースによって、精系の動静脈の吻合部に於て発見されたもので、それ以来多くの学者によって、諸器官や皮膚内にも所在することが証明されてきた。

わたくしは、血液循環の原動力は毛細管網にありと主張し、特に毛細血管に就いて研究を進めてきたが、動脈から静脈に血液が流入する際に、その通路と考えられている毛細血管を通らずに、別の通路があることを知ったのである。そしてこれが血液循環に重要な役割をもっていることはもちろんであるが、それ以上に、われわれの健康上看過できぬものであることを知り、昭和六年(一九三一)に、機関誌『テトラパシー』に於てこれに触れ、更に昭和十一年(一九三六)に公(おおやけ)にした『心臓原動力説は謬説なり』にも述べてきたのであるが、日本の医学界は、この重要問題を看過している。

わたくしは、健康法を系統的に組織だてる際、このグローミューをいわゆる健康への近道として、また秘鍵(ひけん)として重要視したことはもちろんである。

小動脈管と小静脈管をつなぐ毛細管の少し手前に、即ち小動脈管よりに一つの側路(バイパス)があって、毛細血管がふさがった時は、血液はこの「側路」を通って直接小静脈管に流れるのである。この側路を称してグローミューというのである。英語流に発音すればグローマスであるが、わたくしは発見したフランス人に敬意を表して、フランス流にグローミューといっている。これがいうところの動静脈吻合管である。

この血管には、わたくしの調べただけでも四十有余異った名称があり、最近の英米独仏の医書に、ちょいちょい載っているだけでも三十二~三種の異名が使われている。

わたくしはアプトン・シンクレアの書いた『断食療法』(一九一一)を最初に手にした四十年前(九州、戸畑の明治専門学校に研究中)から、このグローミューを研究しているが、最もまとまった研究は、一九三七年フランスのピエール・マッソンによって公にされた『神経・血管グローミュー』であり、また最近に於ける注目すべき研究は、一九四八年に公表された米国のシムキン博士等三人の共同研究である『家兎、犬及び人間に於ける腎臓動静脈の吻合(ふんごう)』である。

シムキン博士たちは、白金の網の上にガラスをとかした液体を流して、微細なガラスの玉を作った。ガラスの玉といっても直径四十ミクロンというから、かろうじて肉眼に見えるくらいの大きさで、従って一立方糎(センチメートル)に六百万個も入るのである。この玉を動脈に注射したところ、小静脈の方から玉が出てきたのである。毛細血管は最も太いところでも十二ミクロンであるから、ガラスの玉は毛細血管を通れる筈がないのに、小静脈に流れ出てきたのである。そこでシムキン博士たちは、小動脈と小静脈を連結するものに、毛細管以外のものがある。即ちグローミューがあるということを実験したのである。

右の他に、グローミューの研究は、欧米に於いては、最近特に盛んになってきて、顕微鏡的解剖学の寵児となっている。またこのグローミューを動静脈吻合(アーテリオヴェナス・アナストモーゼズ)とも呼び、AVAの略字で言い現わすこともある。

わたくしは、先般、第三次の渡米の際、シムキン博士に直接面会し、研究上のいろいろな意見を交換し、「貴方の研究発表により、わたくしの全世界に向って宣伝してきた健康法が、誤りでなかったことが証明されたので、衷心より感謝する。」といったら、四十四、五歳の博士は、「わたくしの実験が、世界の医学をゆすぶるような学説に便乗するのですか。」とびっくりしていた。

放水路、洪水調節池、グローミュー

 わたくしは土木工学の技術屋であるから、グローミューの機能を知った時、これは河川学(ポタモロジー)の放水路(分水路)の役割を持っているわい・・・・、と驚いた。丁度三井から選抜されて、明治専門学校に研究生として在学していた当時のことであるから、熊沢蕃山の「川を治むるものは山を治むるにあり。」などという金言を味い、洪水を防止するためには植林を奨励せねばならぬ、植林の処置をとり得ないときは、放水路を開くか、洪水調節池堀らねばならぬなどと、土木工学から国土計画に英気を発揚させていた時である。確かに放水路はグローミューの役割を、また貯水池は動脈瘤の役割を持っている。

東京都を隅田川の洪水から救うために、新荒川放水路が掘られ、利根川の氾濫からまぬかれるために、江戸川放水路と中川放水路が開かれたのである。

西式健康法

大阪市は淀川の洪水に備えて新淀川を、新潟市は信濃川の洪水を防ぐために、新信濃川放水路を掘ったのである。アメリカのサクラメント放水路、ミシシッピー河の数多の分水路などは、生体のグローミューの役割を持っているのである。

動脈瘤の洪水調節池の例は淀川に於ける琵琶湖で、その他鬼怒川、岩木川等にも好例がある。TVAで有名なテネシー河流域に設けられた二十六個の堰堤(えんてい)も洪水調節池であるし、オハイオ州のデートン市はマイアミ河の氾濫に備えて、その上流に四個所の堰堤を設けている。フランスのルワー河の洪水調節池などは、既に九十余年前に構築されたものである。

わたくしは河川学に於いても生体の循環に於いても、心理に二つはないものと思っている。

グローミューの生理

 グローミューは微細な動静脈の集合体であり、分化した動静脈の吻合であり、脈管(アンギオ)と神経(ニューロ)筋(メヨー)の集合体であるところからアンギオニューロミヨーと呼ばれることもある。グローミューは諸器官、皮膚、特に四肢の皮下に多く見られ、指の爪床のさき、第一、第二、第三指骨の掌の面に特に多数分布している。

グローミューは胎児期にもいくらか見られるが、生後間もなく数多く形成し、年をとるに従って増加し、そして四十才ぐらいから減少し始め、老衰とともに萎縮したり硬化したり、また消滅してしまうこともある。

一九三六年にポポフは、毛細管とグローミューとの数の比は六十対一であり、グローミューの総数は八千万本だといった。ところがシムキン博士は毛細管一本につきグローミューは一本の割合であるといっている。

さて、四肢を上げていわゆるわたくしの毛管運動をすれば、毛細管はふさがり、グローミューは開口して機能を発揮する。温冷浴をしても裸療法をしても、生食しても、グローミューは開口して働くのである。

急激に寒さにさらされたり、恐怖に襲われたりすると、顔色は蒼白となる。それは、その部位の毛細管が急激に収縮して、そのために血液が遮断されるからである。その際遮断された血液はどうなるかというと、グローミューを通って、小動脈から小静脈に直通することになる。このような場合、グローミューが消滅していたり、硬化していたりすると、右の生理的作用が円滑に行われぬことになり、血液は行き場を失って、繊細な毛細管壁にぶつかったり、毛細管を破裂させたり、または皮下出血をおこさせたりする。

次に毛細管とグローミューとの支配神経を吟味してみよう。毛細管にきている交感神経と迷走神経とは、また同時にグローミューにもきている。いわば同じところから出た同じ神経が毛細管にもグローミューにもきている。寒さにあって毛細血管が収縮すると、グローミューは拡大し、温さにあうと毛細管は拡大して、グローミューは収縮する。

同じところから同じ部位にきている神経が、グローミューと毛細管とで全くの反対の作用をおこさせるのは、神経には自動力がなく、慣性で働いているということである。そしてまたこの事実から、われわれの神経の奥には精神の働きが存在すると想像せざるを得ないことにもなる。

毛細管には関門(スルース)という穴があって、そこから細胞へ栄養を与え、またそこから細胞からの老廃物を受けることになっている。ところがグローミューは薄い膜に被われているので、細胞との直接の交渉がなく、栄養や老廃物の授受には関係がないことになっている。

グローミューの形状は千差万別で、球状のものや管状のものや螺旋状のものなどあって、全く複雑怪奇を極めている。

グローミューの数とその機能は、生体の環境に対する適応力によるもので、即ちその減少、消失又は変質は、環境に対する適応力の減衰、つまり健康の減退を意味するものである。そこでグローミューに強靭性をもたせ、正常且つ健全に保つことが、いわゆる無病健康の秘法となるのである。しかし真の健康、絶対に健全な一者の哲理を把握した人には、グローミューの数は極めて少ないのである。わたくしには今のところグローミューは、他の人より多くは見あたらぬ。

これはまた一生病気にかからぬという意味でもある。しかし一般人にとっては、年をとるとともに減少し消失してゆくグローミューを、存続補強させておき、血流の放水路がふさがらぬようにしておくことが、不老長命法であり、健全無病法である。かかる観点から組織立てられたものがわたくしの健康法であり、特にこの点に関しては生野菜食、温冷浴、裸療法、毛管運動等の励行をおすすめする次第である。

グローミューと体液

健康と不健康ということを、生化学の立場から研究してみると、体内に於てつくられるアルコールと砂糖によって決定されることが多く、また実際問題として両者が交流して砂糖の方へ行ったりアルコールの方へ行ったりして、健康が保たれるのである。それには食塩と水とが必要であり、またこれを調節するものとして、酵素とビタミンとホルモンが作用する。

アルコールが過剰になると、動脈硬化症型となり、グローミューは硬化したり変質したり開放しっぱなしとなる。糖分が過剰になると、糖尿病型となり、グローミューは消失したり軟化したり萎縮したりする。

生体はアルコール過剰になってもまた糖分過剰になっても、過剰そのものにはかわりなく、ともに不健康の基となるのである。健康は常に両者の中庸にあり、しかも中にして和している状態である。その極致は無であり空である。これを表示すれば次のようになる。

西式健康法

 友を海外に得る

 わたしは第三回目の渡米の途次、某所に於いて、十数年間弁護士を開業しているイタリア系の某氏と懇談したことを得(とく)としている。氏は弁護士を開業する以前は二十年間も医者として活躍していた変った経歴の持主である。先年、その息子が日本に進駐しており、当時日本国内の某所でアメリカの二世が間違って日本の女を殺し、直ちに銃殺の刑に処せられるところを、この二世が弁護して無罪にしたというので、アメリカのそこでは有名な一族となっている。

「いったいあなたは、どういう点から、現代医学を否定するのか。」と、質問の矢を向けてきた。わたくしはフランスのマッソンの書いた『神経血管グローミュー』即ち動静脈吻合管の著書を示して応答に代えた。「わたしはドイツ語やイタリー語は読めるが、フランス語は読めぬから説明してくれ。」というのである。その時立ち会ったのは日本人二世の栗崎ドクターであった。

そこで、原著の内容を説明し、これを応用したわたくしの実験談を述べ、「指を切り落としても、すぐにそれを拾ってくっつけ、離れないように用心して、手を上にあげて微振動すれば完全に元通りにくっついてしまいます。」といったら、彼はわたくしの顔を睨(にら)みつけ、「精神異常だっ!、自分は医者をやって、今の医学では病気を治すことはできないということがわかったので弁護士になったのだ。自分は人を見る眼識がある。精神異常だ!」と叫びだした。わたくしも負けないで彼の顔をみていた。別段時間を計らなかったが、わたくしには二分間くらいに思われた。

すると、今度は、「精神異常ではない。・・・・眼を三十秒にらんでいて、眼をはるか彼方の天の一角に向ける者は精神異常、下に向けるのは心にやましいところのある人、西教授の眼は事実を訴えようとする眼だ。精神異常ではない!」と、いって、「その科学的説明をしてくれ、そうすれば私も納得しよう。」ということになった。

わたくしは語りだした。「東洋の禅を御存知ですか。東洋には悟(さと)りをひらくということがある。かりに貴方がドアに手をはさまれたとき、痛いといって手を上にあげて振る。その振っているうちに手が悟りをひらく。」

「手が悟りをひらく?」

「それは痛いのを上にあげて振っていると痛みがとれる。それは手の毛細血管が収縮し、血液は毛細血管を通らずにグローミューを抜けて静脈管に行ってしまう。血液が毛細管に行かぬということは、栄養が送られないということであり、従って黴菌が繁殖しないということである。繁殖しなければ脳髄にそれを訴える必要がなくなるから、痛みも感じない。痛みがとれれば悟りをひらいたことになる。この働きがあるから、指を切っても、すぐにそれを洗ってくっつけ、上にあげて振れば完全に元の通りにくっつくのです。」

「血管とか神経はつながなくてもいいのか。」

「その必要はありません。」

「それはおかしいぞ。自分は医者をやったが、動脈は動脈、静脈は静脈というように血管をつなぎ合わせたものだ。それをせんでもいいのか。」

「それをしなくてもよろしい。裏返しにつけても、くっついた例があります。」

「どうも、それは信じられない。」

わたくしは毛細血管とグローミューの絵を描き、説明するが、どうも解ったような解らぬような顔をしている。そこでわたくしは、「貴方の庭には沢山の樹木があるが、あの樹木の杉なら杉でもいいし、同質のものなら何の樹木でもいいが、切って摺り合せて、そこへ泥をつけておくと接木(つぎき)のできるのをどうお考えですか。・・・・樹木というものは地面に根を張っているから動くことはできない。

嵐になろうが火事になろうが逃げることはできない。火事があればあれ、風吹かば吹け、自分の場所を動かない。ですから立木は悟っている。神経がない。痛いとか何かという感じがない。そこで接木が完全意できるのであるが、これに就いてはどう考えますか。」

氏はいくらか興奮した面持で、「グッド・アイディア」と手を拍った。そして、「あとは経験だ。私には経験がないから、一度経験してみよう。」ということになり、再会を約して別れた。

九、新血圧理論

わたくしの血圧論

今日では、血圧に就いてくどくど述べ立てる必要がないほど、血圧の問題は一般に理解されている。いや、間違って理解されて、血圧の実害よりも恐怖心の方が高まっている現状である。

わたくしは血圧の理論に就いても、今日の医家諸君と異った見解をもっている。普通、血圧は上膊動脈上の一点で、その圧力を水銀の高さで測定する。わたくしは、正しい血圧の生理的な考え方は、最高血圧、最低血圧、及び脈圧の三者の比を求めて、それによって血圧のもっている性格を知らねばならぬと主張するのである。ところが今までの医家は、血圧といえば、最高血圧のみを測って、それによって疾病を判断する。これはとんでもないことである。わたくしは、血圧の正しい性格を知る上には、どうしても最高血圧と最低血圧と脈圧を知ることが必要だと、説き廻っているのであるが、なかなか一般人はおろか、専門の医家にも理解されないのが現状である。

これくらいの血圧ならば大丈夫という病人が、翌日死亡したり、またこれは大変だ、こんなに血圧が高くては油断できぬとおどかして、精神的に患者の死を早めたりすることがある、甚だもってなげかわしい次第である。これらはみな、医家が血圧に対する正しい知識をもっていないところからくる結果にほかならない。

東大の心臓病の大家で、しかも自分が心臓病で倒れた医学者の『心臓病』という著書に、最低血圧は測定の必要なしと述べておったが、わたくしはこれを盛んに難詰した。その理由とするところは、多くの開業医たちが、東大の心臓病の大家の説だから、この方が正しい、西の説は間違っているというものだから、わたくしは止むを得ず攻撃したのであった。幸い、その後『心臓病』の重版には、最低血圧測定の必要なしの語句を削って訂正したので、わたくしは世の人のため安心した。

わたくしは、微積分法によって、最高、最低並びに脈圧との間には、一定の比率の存在していることを見出し、これを健康の鍵として左の係数を発表している。

よって最高血圧の最低血圧に対する比は、次の方程式からたやすく見出すことができる。

西式健康法

 このXの値が、最低血圧の分子7に近似であるかどうかによって、その人の健康が決定される。Xの平均値は、多くの日本人の場合は6.5だが、米国人の場合は7.5となっている。このことは、日本人は胃腸病や結核病にかかりやすく、アメリカ人は高血圧や脳溢血や心臓病、関節炎、糖尿病、癌などにかかりやすいことを示している。

下にその実例を示せば、六十六歳の男子の最高血圧の正常水準は、次の公式によって算定することができる。

西式健康法

計算の結果、138ミリ であることが知られる。この最高138に対する理想の最低血圧は、

西式健康法

八七ミリとなる。(この公式は二十歳以上のものに適用される)。

  最高血圧と最低血圧の間に於て、比率7/11が恒常である限り、最高並びに最低血圧が正常値の二倍に達するまでは、さしたる危険がないのであるが、これに反して7/11が離れているときは、最高がいかに低くても危険が切迫していると見ねばならぬ。

わたくしは、血圧の異常のある人、又は常に病気がちの人を正常に整える処置法として、次の方法を推奨している。

一、生水を常に少しずつ、一日少くとも1リットルから2リットル飲むこと。

二、生野菜五種類以上を摺り潰して、大人一日300匁乃至350匁《1,100瓦(グラム)から1,300瓦》程度を食べること。

三、西医学の科学的哲学的断食法の励行

四.毛管運動を行うこと。

五、以上の四方法を二週間乃至三週間実行し、次いで裸療法を実践する。

六、温冷浴いの実施。

七、『美容機』並びに『人体旋転儀』の利用。

ウエスト氏の血圧理論

この度の大戦が始まろうとする前であった。わたくしの医学理論を、医家としては一番最初に全面的に承認し、前述したわたくしの警視庁事件には参考人として呼び出された高田鄰徳医学士が、来訪していうのである。

「北大の医学部に行ってる長男が、冬休みで帰京していうには、西医学の血圧理論は英国のドクトル・ウェストの説で、何も西の説ではないと教授がいったそうですが、先生、そんな内幕があるのでしたら、前以ってわたくしたちに耳打ちしてもらわねば、わたくしたち会員はとんだ恥をかきますよ。」と、注意するのである。これにはわたくしも驚いた。

「そのドクトル・ウェストはわたくしですよ」というと、高田医学士は、あのきかん気の眼差をし、とんだことをいうものだといった顔で、「なんですって。」と畳みかけてきた。

「高田先生、ウェストは西じゃありませんか。」というと、初めて、なーるほどという顔になって、「ドクトル・ウェスト、なーるほど」と、大笑いしたものである。

ことの起こりは、昭和八年に実業之日本社から『西式血圧病療法』を発行し、その中に前述の血圧論を展開したものである。そうすると、進歩的な一部の医家たちは、最高、最低、脈圧を簡単に測定できる血圧計を作ってくれとの注文があり、それにわたくし自身一種の発明狂でもあるので、血圧計を創案して特許を得たのである。すると会員の某氏が、ぜひ市販させてくれというので、承諾したが、当時は医家の攻撃が激しい時であったので、西をウェストとそして、『ウェスト血圧計』と命名し、その中に血圧の標準指数を印刷して挿入しておいたのである。それが廻り廻って、この度の喜劇を演ずることになったものであろう。

血圧も脈搏も自由に変えられる

 わたくしは昭和十九年から九州大学医学部に招かれて、前後六回連続講義をしている。気鋭の新進教授陣を前にして、「諸君の信奉している現代医学は科学の仮面を被れる迷信だ。」と放言したり、「本統の医の達人ならば、血圧や脈搏を自由に変えられるくらいでなければならぬ。」などと公言するものだから、若い研究員たちは憤慨する。それでも研究精神の旺盛な九大の教授たちは、宏量にもわたくしに研究の発表を自由にさせてくれた。

昭和二十二年九月の第三回目の講義の時、心臓問題が中心となったので、水島教授や原博士等は、わたくしの両手を握り、脈搏を自由に止める実験をしたりしたものだ。そろそろ止めますよといって、脈搏を止めるものだから、医学者たちは驚きの眼を見張っていた。

ところが後に耳にしたのであるが、自分の意思で脈を止めたりするなどということは、医学上あり得ないことだ。おそらく水島教授も原博士も、西の催眠術にかかったのだろう、ということになったとのことである。

この催眠術の噂が動機となったかどうか知らぬが、昭和二十四年五月の第四回目の講義の時、わたくしの心臓の実験測定をさせてくれとのことである。もちろんOKである。

講義の第三回目の午後、第一内科教室のE・K・G(新注:心電図)実験室に案内された。三階の六畳間くらいの部屋には、黒い幕が引かれている。わたくしが半裸となり、鋼鉄製の実験台の上に横になると、金久教授、吉富博士、その他研究員達は、ついでにわたくしの血圧を測定したいというのである。これももちろんOKである。

左腕にマンセットが巻かれ、バルブの空気が注入され、最高154、最低92と標示された。第二回目は最高168と示したものだから、実験者たちは、

「これはおかしい、機械の故障か・・・・」とつぶやく始末である。傍観していた角園医学士は「西先生は血圧を自由に変えられますから、そのつもりで正確に測定して下さい。」と助言していた。そこでわたくしも目を開き、「脳溢血になっても大丈夫ですから。しかしその際の処置は角園医学士に・・・・」と、開口したとたんに最低血圧が測定された。

それは94であった。開口して注意が血圧からそれたので、わたくしの予定の数字が出なかった。第三回目の測定は、最高140、最低86.5であった。

実をいうと、わたくしは次の係数を示すつもりであったが、第二回目の最低の際、注意をそらして、少し誤差を出したのは残念であった。その他の誤差は極めて微少であること は次表の通りである。

西式健康法

 以上で、脈搏も血圧も、自分の意志で自由になることが理解されたであろう。

これらの事柄は、現代医学より知らぬ講壇医学者たちには、不可解でり不思議であるかもしれぬが、印度古代のヨギ哲学即ち仏教以前の古代印度哲学を研究したものには平凡なことである。特に軍茶利経(ぐんだりきょう)を研究すれば、これらの精通者となり、現代医学でいう不可解力の体得者となるのである。軍茶利経は、日本でも中国でも、仏教によっていろいろ自分たちの都合のよいように解説されているが、実は今日の迷走神経を説いたものである。わたくしは仏教もさることながら、仏教以前の古代印度哲学を、今少し研究する人があってよいものだと願っている。

眼前の脳溢血の事例

昭和二十六年の七月のことである。大阪のホテルで多勢の人々を前にして話し合っていた。その時、沖縄から引揚げてきて、戦前大きな貿易商だったKさんが、「先生、実は沖縄に持っている地所に、非常に高値の買手がついたのですが、今売ったものでしょうか。」という病気以外の相談である。「ちょっと待ってください。こちらから済ませて行きますから。」と、関西のある大学の課長など他に沢山おったから、順次に話していると、Kさんは「うーん」と言って倒れてしまった。そこでわたくしは、

「皆さん、ご覧下さい。これが理想的な脳溢血です。眼は吊り上げて、瞳孔は開いている。どなたかカメラの持ち合せがありませんか。撮っておくといいのですが。これで口からあぶくを出せば癲癇(てんかん)です。これが死の相貌ですよ。」と、一座の人々に説明した。そしてまた、「今のうちなら何を言っても暗示はかかりません。

しかし、この瞳孔が小さくなってくると暗示がかかるようになります。Kさんは借金があろうが貸金がなかろうが今のところ絶対に世の中から絶縁しております。神の世界に入っているのです。今顔色が白いでしょう。こめかみのところに血管がみみず腫れのように膨らんでいるでしょう。これがとうとう堪えられなくなって脳溢血を起したのです。十分もしたら顔色が赤くなってきますから、そうしたら枕をさせてください。」といって、わたくしはその晩の八時まで帰京することになっていたから、Kさんを取りあえずわたくしの寝室に寝かせることにした。

十分もしたら顔色が赤くなったので枕をさせた。そのうちに又顔色がさめてきたので枕をはずさせた。これを四回繰り返している間に、顔色はKさんの持ち前の色となってきた。そこでわたくしは、「さあ、これからは生きることばかり言わねばだめですよ。ここで死ぬというと、暗示で本統にあの世に行ってしまいます。」と、一座の人々に注意を与えたのである。開いて大きくなっていた瞳孔が、だんだん小さくなって、大ならず小ならずという状態になったからである。この状態の時、暗示は一番効くものである。

それでもまだ眼は上ずっていた。それから静かに金魚運動をしてやったところ、手も柔らかになり、真直ぐにのびるようになった。

「さあ、皆さん、眼をごらんなさい、瞳孔は小さくなってきました。これがいよいよ小さくなると、痙攣が起きてきます。」

そうしているうちに、「もういいでしょう。口をきくと判りますよ。Kさん・・・・」と呼ぶと、Kさんは口をゆがめ出した。「心配いりませんよ。大丈夫です。」と先ず安心を与えておいた。

Kさんの最初の言葉は、「お騒がせしてすみませんでした。」であった。「すみませんも何もない。電車の中や階段で倒れたら大変だったね。」と、Kさんに話し出した。そして、そばに附いていた人々に、「さあ、股の釦(ぼたん)を開けておいて下さい。腹圧が減ってくると、ちょっとすると水が飛び出しますから。」と注意した。

わたくしの眼の前で脳溢血を起した人は、Kさんで四人目である。

そこから二時間ほど安静にしておいて、空気の流通をつけるために、再び前の部屋に移した。そこでまた二時間くらい寝ておったが、帰りは歩いて帰られた。

 Kさんのことを最初から最後まで、わたくしのそばで見ていた会員の一人が、「先生はいつも、脳溢血で倒れたら、腹には味噌湿布を貼れ。肛門にはびんつけ油を詰めろ。口と肛門は別々の布で、三十分おきに濡らしてやれ。部屋をいくらか暗くして、風通しをよくしろと、繰り返して言われますのに、こん度のKさんの場合はどういうわけで、それをおやりにならなかったのですか。」との質問である。「それはね。Kさんはわたくしの前で起こされたものだから、しなくともよいのです。」というと、「先生の前だから。」と腑に落ちぬ顔である。

「そうです。倒れた時から、わたくしの話を聞いていたでしょう。もしあの時、周囲のものが、脳溢血だ、大変だと騒ぐと、それが暗示されて働き、肛門はきゅっと収縮して、何も出すのがいやだということになる。私の前で倒れて、わたくしが、ああよかったよかった、というものだから皆さんが安心している。Kさんも安心していて肛門など収縮させない。

びんつけ油も味噌湿布も不用というわけです。大変なことになったと思うと、本統に大変になるものです。命旦夕(めいたんせき)にせまったなどといって、親類縁者が集まったりすると、病人は俺は駄目だから皆集まってきたんだな・・・・・と暗示されて、本当に駄目になる。特に人事不省の場合などは、絶対に死ぬとか駄目だとかいうことを、口外してはならない。よくなるよくなるの一手で押して行かねばならんのです。」

十、合掌は神に通ず

触手療法の現況

わたくしは少年時代、腹痛に襲われた時、何気なく掌で腹部を押さえていると痛みがとまる。夜寝てから腹痛に見舞われた時など、静かに掌を腹部にあてていると、何ともいうにいわれぬ和やかな快感を覚え、腹痛は次第に去って、すやすやと眠りに入るのであった。わたくしは、これは掌の温かさが痛みを止めるのだろうくらいに、最初は考えていたが、次々に掌の霊験とでもいうか、それを体験するにつれて、掌には何か病を治す不思議な力が具わっているのではないかと考えるようになった。その後仏教の経典や基督教(キリストきょう)の聖書を繙(ひもと)くにつれて、聖者たちが掌で信者の疾病を治した尊い記録に接し、これある哉と賛嘆したのである。

しかし掌が如何なる生理的理由によって、疾病を治すのであるかは、解明し得なかった。その後米国に遊学し、米国の治療界を見ると、掌で疾病を治している専門家が各地に多数散在し、それ相当の成績をあげている現状を見て、少なからぬ驚異を覚えたのである。

わたくしが一番最初に接する機会を得たのはドゥヰーイズムである。祖師ドゥヰーには直接面接しなかったが、彼の弟子たちと懇意になった。

アレキサンダー・ドゥヰーという人は今から五十年ばかり前に、自分こそは戦車にこそ乗ってこないが、地上に再来した預言者エリヤに他ならぬと宣言し、ローマの神呪である『合掌は神に通ず』という格言を深く信じ、キリスト教の前にひざまずき、礼拝合掌しては、掌で病者を治療していた。彼は、ただ、治ると信じ、治し得ると信じて多くの門弟を養い、かれ自身は一種の信仰療法であると思っていたのである。

かれは信仰療法の第一人者であり、クリスチャン・サイエンスの創設者であるエディー夫人に次いでの手腕をそなえた男であった。ドゥヰーはまたその教会の戒律と儀式とを制定して、その信徒の心を固く掴んで離さなかったほど、その方法を秘密にしていた。

ドゥヰーイズム一派にディヴィン・サイエンスといって、同じく無薬で触手療法をするものがある。彼らは病人に対し、神は善である、病気は、人間の痴愚からくる結果である、それ故、神にその心さえあれば人間の病気を治して下さるものである、云々、と説き聞かせるのである。しかしながら、この極めて簡単な教理は、不自然極まる冗漫な言葉で飾りたてられ、いかにも荘重らしく装われるのが常である。われわれが神に病気を治してもらうには、信仰をもたねばならぬ、信仰は合掌、按手、祈祷等の形式的なものばかりでなく、真の信仰を持たねば病気を治す力は現われないと説いていた。

こういう療法をやった人々は、創始者のドゥヰーを始めとして、シラッター、ニューエル、ヒックソン、ヴォリヴァ、ジョン・マレーおよびそれらの門弟等である。

このほかに、触手療法に属するものには、パシアトリーとか、ポロパシーというものがある。又ハウディニという男はスピリチュアリズムというものを極めて巧みに宣伝して、無知蒙昧の徒をひき入れていた。その説くところによれば、不健康は悪霊の毒によって起るのである、そして霊媒者を通じて故人となった著名な医師たちの霊に、処方箋を書いてもらうと、病気はたやすく治る。そうしなければ治るものでないといっている。その馬鹿馬鹿しさ加減に至っては、全く驚くのほかはないが、かれのいうところによると、そのいわゆる悪霊の毒を取り除くには、自分のような神に捧げた掌のほかにないというのである。

またニューヨークのティタス・ブル博士は、自分は聖徒のように聖浄なるものである。自分の合掌祈禱によるこの手掌をもって触手すれば、直ちに悪霊を駆逐することができると称し、また実際行っていたが、必ずしも万病が治るとも信ぜられない。

またテオソフィーという療法がある。これはテレパシーとハウディニやブル博士の創案になるスピリチュアリズムとを組み合せたものである。スピリチュアリズムは触手療法であり、テレパシーは精神伝達法であるところから、テオソフィーは熱烈なる祈禱、即ちいわばスピリチュアル アネステチック(精神麻痺)によって、苦痛の緩解と軽減とを行うようになっている。

ニューヨーク市にこの療法を行う教会があった。この教会はトーマス・カルヴァート牧師によって支配されており、同牧師は自分自身の工夫になる一療法、即ちサイコアナリシス複合療法を四十五分間で五弗(ドル)、九十分間で十弗、二時間十五弗の料金を取って行っていた。

また、ジョン・ディー・クウェッケンボス博士という人は、二万人からの病人を、しかも薬ばかり飲んでいて一向治らなかった病人を、触手療法と精神操作法に形而上的療法を加味した独特の方法で治したと称していた。

合掌と体位

 触手療法を行って、特にその効験を現わしている彼等の生活を見ると、いずれも常に信仰と合掌の生活に精進していることがわかる。また、たまには生まれつき病気を治す掌を恵まれている霊人もいるが、多くは信仰と合掌の生活から、病気を治す手を作るようである。そこでわたくしは、合掌と信仰の生理的作用を研究し、触手療法の霊験をあらわす手の修行法を研究し、遂に合掌法と触手療法の理論を創案したのである。

わたくしの創案した合掌法は、仏家や基督教の合掌法とは異っている。

  第一に、合掌の位置を、顔面の高さに保つのである。これは肘を心臓以上に上げる姿勢となる。血液の調節器官である心臓よりも高く上げることは、知覚神経を完全に働かせることになるのである。

西式健康法

われわれ人間が、直立歩行の生活に進化し、頭を心臓より高い位置に保つようになったから、いわゆる人智が発達し、万物の霊長となったのである。人間が四つ這いになって、従って頭を心臓の位置よりも低くして、廊下の雑巾掛けばかりしていれば、健康にはなるが、人間が馬鹿に近づいていく。

試みに、一方の手を頭上高く上げて振り、一方の手は下にたらして降ること二、三分、そして予め用意した温湯をいれたコップを両手で握って見給え。上にあげた手は湯の温度を敏速に感じるが、下げた手は極めて鈍感である。

この知覚神経の理論は、毛細血管ともグローミューとも関係して、むずかしい理論になるから詳述は割愛する。合掌の場合の位置は、一度定めた位置から順次高くなることは差支えないが、低く下ることは禁物である。低下したら再びやり直さねばならぬ。

また時間を四十分としたのは、われわれの血液循環は大体19秒から23秒の間である。そこで百回の循環を目途として、1,900秒から2,300秒で、約四十分ということになる。また何故に百回の循環にしたかに就いては、これにもいろいろむずかしい生理的並びに生化学的理論があるが、ここではこれも割愛することにする。

合掌は人間にのみ許された誠心の表現で、動物は合掌しようとしても、それは不可能である。また人間でも、自然の摂理に反した生活をして、脳溢血にでもなれば、誠心を神仏に通じさせようとしても、手が自由にならぬから、合掌することはできない。

仏教では印を結ぶといって、いろいろの合掌法が行われているが、しかしいずれにしても両手を前で合わせることには変りがない。横腹で合掌した絵など見たことがない。

合掌することは、生体力学から検討すれば、人体を左右対蹠的均衡状態にすることである。そしてまた特に顔面の高さに保つことは、生体の各器官を左右対蹠的均衡状態に保つように強制することでもある。試みにわたくしの合掌法を実行してみ給え。自ら姿勢は正しくなるのが解るであろう。そうなると、交感神経と迷走神経とが自ら拮抗状態となり、体液も酸性塩基性の生理的中庸状態となる。そしてここに心身一如、中(ちゅう)であり、空(くう)であり、無(む)である境地が、自らひらかれてくる。

学問的に解明すると、右のように難解になってくるが、真理は極めて平凡なもので、心を虚(きょ)にして合掌すれば、何人も体得できる境地である。われわれは古来、合掌して神仏に参じ、合掌して神仏と霊交してきたのである。

わたくしの方法によって合掌すれば、何人もギリシャの神文(しんもん)が教えるように「合掌して触手すれば万病を癒すべし」という手を創り得ることにもなり、ローマの神咒(しんじゅ)のように「合掌は神に通ず」ることにもなる。仏家の「隻手音声」の持ち主ともなり得るのである。

ただ漫然と、座禅し、合掌の指頭を鼻の頭にくっつけるなり、隣席の法友に悪戯したりしているから、二十年三十年合掌生活をしても、隻手音声の持ち主になることができず、白隠禅師をして『室内秘書』で、数多の弟子の中で隻手音声の持主は僅かに百八十人と嘆かせる結果となるのである。わたくしの方法によって四十分間の合掌行を勤修すれば、唐の独孤及の「雲に攀じて金界に到り、掌を合わせて禅扃(ぜんけい)を開く」ことにもなり、禅門は自ら開けてくるのである。

合掌の生理

 合掌することは、物理学的には、生体の生物電気の回路をつくることである。従って合掌することによって、自分自らの生物電気機能を高めることになる。わたくしが、二十年前に、この生物電気の話を持ち出すと、それは迷信だと非難されたものである。そこでイタリーのガルバーニの話をすると、イタリー人の学説などといって、相手にしてくれなかった。

学問には国籍も学閥もない筈だが、悲しいかな現実は全く異った状態であった。ところがその後、心臓が収縮したり拡大したりする度に、電気が発生することが証明されることになった。今日では、生きているという生命現象の物理的な特徴は、電気を発していることで、一度死にいたると、電気の発生は止むというところまで進歩してきた。否、生物電気の研究は、その後著しく発達し、欧米では医学界はもちろん、一般の知識階級の人々でも、生物電気のことは常識となっている。わたくしは、合掌は生物電気の回路をつくることだと、ここで再び主張するのである。

英国のカイロの『手相学』に次のように書かれている。

  「一八五三年マイスネルはいわゆるマイスネル小氏体なるものを発見したが、これは特殊の形式を以って手全体に分布され、指の末端に於いては第一関節内に108個の割合で秘められ、またその1個には約400の小乳頭状突起を有している。これらの微分子体は、一種のぱちぱちという爆音、又は微動を起しているもので、これは掌の諸線に最も多く分布されている。ここに奇妙なことは、掌の諸線に於いて、これが各々孤立した直線をなしていることである。これらの微分子の起す微動について、実験を重ね、これを研究した結果、その爆音が、各個人々々でそれぞれ相異っていることが明確になったのである。これらの微分子体は健康、思想、興奮の度合の変化につれて増減し、死の転帰と共に消滅するものである。

西式健康法

今からおよそ二十年前、巴里(パリ)に非常に鋭敏な聴覚を持った一人の盲人がいた。かれは練習を重ねた結果、遂に微分子体の爆音に生ずる極微の変化、即ち変異を識別し得るに到り、これらの変化を通してその人の年齢が何歳であるとか、あるいは又その人

が近く病気に襲われそうだとか、あるいは死にそうだとかいうことを、驚くほどの正確さを以て言いあて得るに至ったということである。これらの微分子体の研究は、その後チャールス・ベルによって更に一歩を進めるに至った。云々」。

さてマイスネル氏小体とはどんなものかというと、微細なもので、その長径は一吋(インチ)の290分の1で、またその短径は一吋の800分の1の楕円体をなしている。そしてここに神経が入ってくると、神経はシュワン氏鞘が失われて、螺旋状になってぐるぐるとマイスネル氏小体の細胞に巻きついて連絡し、次いで小繊維に分れ、その末端は結節状に膨れて、マイスネル氏小体の細胞の皮に終るのである。これは皮膚の表面に近い真皮の乳頭中に位するもので、掌、蹠、殊に指に多いのである。またマイスネル氏小体には突起物が400個もあって、その突起端からは振動(ヴァイブレーション)と爆音(クレピテーション)を起しながら、酵素を噴出させている。

さて合掌して生物電気の回路をつくり、合掌の位置を顔面の高さに保つと、知覚神経の機能は完全に働くことになり、爪廓(そうかく)と掌の毛細管蹄係の捻転が整正され、又ルージェ氏細胞の活動は旺盛となる。従ってまた小体の小突起物から、酵素の噴出が高まってくる。

さてこの酵素は、生物以外に求めることのできないものであり、生物はまたこれが無くては生活できないものである。生物の生活は、一つは生活細胞によって行われ、一つは酵素によって行われている。そしてまた酵素は細胞を分裂させる機能をも持っている。

触手療法の理論

 何かの原因によって病気をしているということは、身体の各細胞が内生的酵素(エンドエンチム)を補給し、あるいは外生的酵素(エキゾエンチム)を求めている状態とも見られる。この時、酵素の発生の旺盛な掌即ち四十分の合掌行を修した掌を、患部に触手すると、そこには細胞の分化と合成の作用が行われて、病気は快癒に向かっていくことになる。

特にその病気が独立した局所的なものである場合は、触手療法は特別に奏効するものである。もしまた病原が他にある場合は、その原因を順次に追究して行き、それ等の原因に対して対処せねばならぬ。

以上、わたくしは特に酵素を中心として触手療法を解説したが、わたくしは触手療法は、今日の生物学でいう酵素以外の力がこれに加わって、病気に奏効するものと考えている。それはなんであるか、わたくしにも今のところ断言できない。生物電気か?、イオンか?、将又(はたまた)生命光線か?いずれにしても、一言でこれをいい現わすことはできない。そこでわたくしは、酵素に加えるに気力または気合という意味から、「酵気」と呼んでいる。今日の酵素説で触手療法を説明するとなると、触手療法全体を説明することはできないのである。なぜなれば、触手療法には多分に精神的要素が伏在しているからである。

アメリカでは心身医学(サイコソマチック・メジシン)により、心身の関係や治療上に於ける精神作用を研究しているし、一方同位元素や放射能性元素による新しい研究が、着々と進められている。わたくしはわたくしの酵気説による触手療法の理論を、それらによって展開する日の近いことを楽しみにしている。しかし事実としての触手療法の奏効は、理論の如何によって左右されるものではない。それは理論は事実の裏づけに過ぎないからである。。

玉葱の不思議な実験

 一九二三年、デンマルクのコペンハーゲンでヘヴェシーが同位元素を使って、生体の新陳代謝の有様を明かす端緒を得ることに成功した。奇しく同じく一九二三年、モスコーの有名な細胞学者アレキサンダー・グールウィッチ博士が、二つの玉葱を両方から向い合せると、向き合った最短距離の処の細胞の分裂作用が旺盛に行われたと発表した。その分裂増加の程度は他の部分の殆んど五割以上七割五分の増殖を呈したのである。これは不思議な現象だと興味を覚え、段々研究を進めた結果、向い合う面から波長190ミリクロンから230ミリクロンの紫外線が、放射されることを博士は報告している。

これに刺激されて、独逸ではライター、ガボールなどの技師たちが研究を進め、フランスではノドンが研究に着手した。その結果、玉葱のある面へおたまじゃくしの頭を持って行くと、おたまじゃくしの頭の細胞が分裂を起すことが明かになった。この研究をみた科学者たちは、この方法を治療に応用したら、癌などに役立つのではないか、ということになった。

これに就いて、ステンペルは、単なる紫外線ではないと考え、生命光線という名前をつけたのである。つまりわれわれには、生命を助けるヴァイタルフォース、即ち生活力とでもいうべき力が与えられているのである。独逸では生命力、即ち「レーベンス クラフト」という言葉を使っている。

わたくしはこの光線が出るということを、早くから認めていたので、触手療法を三十年前から説き出したのである。それは手の表面に直角をなして、放射形に射出されているのである。横から見て五本の指をくっ着けて合掌した時には余計にでる。母親が慈愛に富んだ精神に満ちて愛児に乳を与えると、乳のぐるりが明るくなる。ところが、母として形式的に乳を赤ん坊に飲まさなければならぬというような場合は、明るくならぬのである。放射は心の態度によって変更されるものである。

王様の悩みとるいれき

クロフォードの書いた『キングズ・イーヴル』の中に、王様の触手療法の絵が沢山揚げられている。イーヴルとは、病気、悩み、悪、害、禍という意であるが、なぜこれが国王の悩みとなっているか、またなぜそれがるいれきであるか。上記の著書によれば、王様の触手療法によって癒された病人は、ほとんどるいれき患者ばかりである。

初めは神学者で、後に法王即ちインノセント第十一世、十二世及びクレモン第十一世王の侍医となったランシジは、既に十七世紀に右心室拡大症の徴候として、頸部静脈が腫れるということを記述している。言い換えると、右心室に故障を起すと頸部が太ってくるというのである。

「私は昼過ぎになると頸が太ってくる。だから昼食後になるとカラーを取替える。」という人は、心臓が膨張してくる一種の心臓病である。元来心臓の右半は空になって弛緩しているのが本性であるが、血液が入ってくると同時に直ちに収縮して、肺動脈から肺へ血液を送る。ところが姿勢が悪いと、肺臓の容積が縮まっているから、これが円滑に行かぬ。肺胞は片方が三億五千万個、左右両肺胞で七億個、肺胞の直径は八分の一粍(ミリメートル)から十分の一粍あるが、姿勢の悪い人は肺の機能を二、三割は割引して使っている。それで折角空気を呼吸しても、酸素と炭酸瓦斯との入替え十分できず、また血液が右心室に溜ってしまう結果になる。そしてこれが溜ると、遂には右心房に頸部の静脈血が降りてくることができなくなり、従って頸部が腫れてくる。こういうことはランシジが二百五十年前に既に発表している。

さて静脈が腫れると、静脈血にはバクテリアがいるから、そこで繁殖する。ところがそれ以上繁殖しないように琳巴(りんぱ)がそれを取りまいて、そこにグリグリをつくる。それがちょうど雌豚の結節腫に似ているところから、これにスクロフェラ即ちるいれきという名称を付したのである。

それがどうして「国王の悩み」とか「王の病気」とか呼ばれるのであろうか。英国のチャールズ第二世皇帝が触手療法をしている光景とか、フランスの皇帝アンリー第四世が触手療法をやっている絵を見てもわかるが、みな非常に丈が高くて、その上触手療法をする時は立ったままでやるか、または椅子に腰掛けてやっている。そしていうのである。

「朕は汝等臣民に国王として君臨するのではない。神が幸いして、朕のこの掌に神が御力を授けてくれたから、この手を汝臣民に貸し与えるのである。朕は汝等の前に国王としてあるが、朕が与えるものは病気を治す神の御力であるぞ。」

元来るいれきにでもなろうという人は、姿勢が悪いから、王様のこの言葉に、前屈みに背中を円くし、頣(あご)を前方に突き出した格好で感激する。王様はまた、おもむろに主イエスキリストに礼拝する。旧教の方ではみな合掌したものであるから、チャールズ王にしても、アンリー皇帝にしても、すべて触手する前には必ず神に合掌して礼拝し、祈願をこめ、それから患者に向って触手するのである。

昔からるいれきだけは皇帝の力でなければ治らないといわれ、その理由が長い間疑問にされていたのであるが、国王だけに病を治す力があるのはおかしい。これはわれわれにだってあるに違いない、ということになった。

わたくしは、これに血液循環論から簡単に説明を加えることができる。国王の触手療法の絵画を見ると、患者は国王の面前に出ると思わず国王のお顔を拝もうとする。ところが国王は天を仰いで天の神を念じているから、顔を見せようとしない。患者は国王に接近して、この時こそとばかりにしきりにそのお顔を拝もうとする。従って、今迄とったことのない姿勢、つまり患者の体は後方へ反り返るような姿勢になる。その結果、胸が張り、肺胞が開いて、酸素と炭酸瓦斯との入替えが盛んになる。肺胞の毛細管が働くから、たまっていた血液は肺に流れこみ、右心房も右心室も空になる。従って頸部静脈血がどんどん右心房に降りてきて、触手しなくとも治るという現象を来すのである。そこへ王様が合掌した手を触れるのだからますます奏効する。それに王様の手がるいれきを治し得るものだという信念は、十分な精神療法的効果を現わすものである。

ところが普通の平民同士だと「お前はるいれきだ、まあ起きなくてよい、寝ていろ、さあやろう。」と云った具合の挨拶で、くの字なりに寝ている患者に触手をやるようなことになるから、その結果は少しも治癒に向かわない。そこでるいれきだけは国王のところへ持って行かなくてはならぬ、と自然信じられるに至ったのである。

安産合蹠法

合掌とともに合蹠(がっせき)ということがある。入沢達吉博士の『日本人の坐り方に就いて』の中の「アグラ」のところにも述べられているが、膝頭を左右に伸ばして前で蹠(あしうら)を合わせる坐り方である。これは昔の武人の坐像によく見られる坐法で、普通のあぐらを組んでいたのでは、いざ鎌倉という咄嗟(とっさ)の場合に間に合わぬところから、昔の武士は合蹠のあぐらをかいた。合蹠は生理的に効果のある坐り方であるが、現代のわれわれには窮屈な坐り方となってしまった。

起床と就寝の際、合掌合蹠法を実行すれば極めて効果的である。歩けない病人などは、疲労せぬ程度に臥床のまま、合掌合蹠法を実行することは、治病上保健上効果の多いものである。

特に婦人の場合、合掌合蹠法さえ実行すれば、安産請合である。但しこの前後には必ず金魚運動を忘れぬことである。これさえ実行していれば、子宮後屈にも子宮外妊娠にも子宮筋腫にも絶対ならぬのである。この合蹠法で、逆子を生理的位置に転移して安産した実例を、わたくしは数多く知っている。

両腕を左右に開き、また五本の指も開き、急に前で両手の指先を突き合わせる。左右五本の指先が、お互いに合えばよし、食い違いがあったら、どこかに故障を持っている証拠である。次に背後で合わせてみる。前後どこで合わせても、食い違いのない人は、先ず健康体である。半身不随の人は、合わせようにも合わさられないし、神仏の前で合掌もできないことになっている。

十一、心身感應と精神分析

心身の感応

わたくしの主宰している西会には、殆ど各階層の人が入っており、中に和歌の上手な方もいる。その方がわたくしの健康法を、次の一首に要約してくれた。

背と腹をともに動かし水を飲みて

よくなると思う人はすこやか

水のことに就いては栄養の項で述べたし、またよくなると思うことも、精神の項で触れた。また背と腹に関しても、その概要は述べた。更に心身の感応関係の点に就いて、ここで補足したいと思う。

われわれの体は、即ち生体は、その主要な成分は水であり、残りの大部分は蛋白質である。いわばわれわれの体は、水と蛋白質でできているともいい得るのである。この点に関しては、三度三度植物性食品ばかりをとっている人も。また動物性ばかりとっている人も、そこに、はなはだしい相違は見られない。

そこで蛋白質の基本性格に就いて考えるとしよう.蛋白質は、その種類は極めて多く、従ってその分子式も多種多様であるが、結局はアミノ酸が基礎となっている。われわれが蛋白質を含んだ食品を食べると、それは消化器官で一旦アミノ酸に分解されて吸収され、そして吸収されたアミノ酸は再び蛋白質に合成されて、生体の成分となるのである。

更にアミノ酸を研究してみると、それは酸性のカルボオキシル基と塩基性のアミノ基に、アルキル基が調整体として即ち三位一体として化成しているのである。

われわれの体液は、水素イオン濃度指数pHが七・二から七・四の状態にある時、最も健康状態にあるものだと前述した。カルボオキシル基が強いと酸性となり、またアミノ基が強いと塩基性に傾くものであるが、両者の中庸をとって、常に中性に保つように調整するのがアルキル基である。この調整作用は、カルボオキシル基の場合は熱解離か電解離で処置し、アミノ基の場合は水解離で処理されるのである。

そしてでき上がった中性のアミノ酸から蛋白質が合成され、生体になるのである。

蛋白質によってでき上がったわれわれの生体の六官、即ち眼(色)耳(声)鼻(香)舌(味)身(触)意(法)は動物性神経即ち脳脊髄神経によって主宰されることになる。ところが体内の内臓では、カルボオキシル基とアミノ基とアルキル基が三位一体となって中性を保とうとし、この方は植物性神経即自律神経によって主宰される。

ところが、われわれの日常生活に於いて、肉食、運動、不安、悲哀、水浴、背部運動、交感神経刺戟等の生活は、カルボオキシル基の力を強めて体液を酸性に導くし、菜食、安静、安心、喜楽、温浴、腹部運動、迷走神経刺戟等の生活はアミノ基の力を強めて体液を塩基性に導くものである。そこでわたくしは、背部運動と腹部運動を同時に行う、即ち背と腹をともに動かすことを主張するのである。そうすることによって、体液は中和の状態になり、自ら健康体となるのである。

西式健康法

常盤会々員の死

 雑誌『自由国民』(昭和二十五年三月号)が、慶大教授林髞博士と原実博士を対談させ、各界の名士の健康を採点させたことがある。その中で、林博士は、リーダース・ダイジェストの編集長鈴木文史郎氏の一日に二度も三度も温浴する入浴第一主義に対して、入浴は健康上よろしいといって七十点を採点し、西式健康法を実行するという左派社会党の委員長の鈴木茂三郎氏に対しては、三十点の減点をしたのである。

ところが一年後には、鈴木文史郎氏は胃癌と胆石で、十何回かの手術、三万グラムの輸血、直輸入の高価なアミノ酸栄養素の注射等、金に糸目をつけずに治療したが、遂に逝去されたのである。これと反対に、西式で減点三十点の鈴木茂三郎氏は、東奔西走、いよいよ元気一杯で、未来の主相たるの大抱負を持ちつづけておられる。

過度の入浴は、即ち温浴は、体液を塩基性にするもので、胃癌等のアルカリ性の疾病におかされるおそれがあるので、わたくしは温冷浴法を創案したのである。それによると体液の中和が保たれ、また入浴の疲労もなく、浴後直ちに活動ができる。温冷浴を実行すれば、病弱体が健康となり。風邪を引かなくなるから、多くの実行者に喜ばれるのである。

わたくしたちは、藤田欣哉氏や石井光次郎氏や合気術の植芝氏等と、毎月一回、丸の内の常盤亭に集まって昼食をともにし、食後健康座談をする常盤会という社交クラブを作っている。入浴第一主義の鈴木文史郎氏もこの会の会員の一人であった。しかし鈴木氏はいつも昼食がすむと、「今日は忙しい。」といって、あたふたと帰って行くのである。

わたくしは鈴木氏の相貌から、また入浴第一主義の主張から、胃癌の相を看取したので、

「どうです、一度ゆっくりわたくしの健康漫談に加わりませんか。」と、それとなく誘ったことがある。その時も「いずれ暇な時……」といって、胃癌を物語る特徴ある眼差しを残して、帰って行った。

御子息とか御親戚とかに医者がいるものだからと、会員一人がささやいていた。

今になってみると、わたくしの去るものは追わず来るものは拒まずの主義が、氏を死に導いたような気がしないでもないが、まぁ、結局、わたくしの健康法とは縁が無かったのであろう。

それにしても、胃癌の相を看取することも知らず、慶大教授医学博士の肩書で、入浴第一主義を推唱して病勢を悪化させ、遂に死に至らしめるなど、罪なことだと悲歎する次第である。これについても思い出されることは、ブルガー教授の「不思議にして且つ同時に最も失望することは前例のない医学全盛時代に、医師尊重の念が減少したことを記録せねばならぬことである。」の一節であり、またF・デューマン博士の「医学とは、人をだます技術であって、その教えは、たとえ人がどのように解そうとも、虚妄であることに変わりない。」という言葉である。

神経系統

神経といえば、多くの人々は脳のことばかり考えるが、神経にはいろいろの種類がある。専門家は神経系統を動物性神経と植物性神経とに分け、また前者を脳脊髄神経とも呼び、後者を自律神経とも呼んでいる。

動物性神経は、手、足、顔面、頸、胸、腹等の隋意筋に分布され、植物性神経は内臓、脈管、腺等の不隋意筋に分布されている隋意筋は骨格に着いている筋肉で骨格筋とも呼ばれ、筋の性質から横紋筋ともいわれることがある。不隋意筋は内臓、脈管、腺等の筋であるから内蔵筋とも呼ばれ、筋の性質から平滑筋ともいわれる。但し心臓の筋肉は特殊なものであるから、特に心筋という名前がつけられている。

頭が痒いから手を上げて掻く動作は、動物性神経による行為であり、このようにわれわれの意志によって自由になる神経、意識に隋って行為を起させる神経を動物性神経というのである。ところが、胃が拡大しているから収縮させようとしても、これらはわれわれの意志によって自由にならぬ。意志にしたがわぬ神経を植物性神経というのである。この不隋意な筋肉をも、不隋意な脈管をも自由に隋意に扱い得る身体をつくり上げるというのが、わたくしの健康法の一つの目的でもある。例えば血圧や脈搏を自由に調節できるような体につくり上げるのである。

自律神経即ち植物性神経は、交感神経と副交感神経(迷走神経)に分れている。

次に神経及び精神を発生学的に考察してみよう。

原生動物のアミーバは唯一個の細胞から成り、消化、呼吸、排泄、運動、繁殖、感覚その他一切の生活作用は、その一個の細胞内で営まれ、組織も器官もない、感覚即ち意識だけはもっているらしく、環境に適応して偽足を出して移動したり、生活に不適当な環境に遭うと、休眠状態に入るのである。これを独逸の学者は類精神作用と呼んでいる。

アミーバのような原生動物はもちろん、海綿動物も、環境に適応するための感覚はもっているが、神経系という名のつくものはない。腔腸動物のある種類になると、神経細胞が網状をなして散在するのが見られる。動物も進化するにつれて、神経細胞も生成され、それが神経節または神経球となって中枢の働きをなし、感覚も分化して触覚、視覚、聴覚となって働くようになる。

西式健康法

更に進化して脊椎動物になると、その中の最も下等の部に属する円口類、次が魚類即ち八ッ目鰻等になると、交感神経が現れてくる。そして魚類でも高等になると、現在意識の五官が鋭敏に完全に働くようになる。

哺乳動物になると、この交感神経の他に、副交感神経が働いているのを、見ることができる。

動物界に於いては、交感神経及び副交感神経即ち自律神経を、動物性神経の意志の力によって、少しも自由にすることができないが、人間に於いては、ある程度これに働きかけることができ、また心身の修養と鍛練によっては、自由にこれを働かせ得るようになるのである。

自律神経に就いて

われわれの意志によって自由にならぬ自律神経を、自由に働かせるためには、次に自律神経の如何なるものであるかを知らなければなる。図表でも解るように、自律神経は交感神経と副交感神経(迷走神経)に分類できる。

交感神経について述べれば、脊髄の第二、第三頸椎の横突起の前側から、尾骶骨に達する間に、二十三対の交感神経節が所在し、そしてこれらが互いに相連絡して節状策(交感神経幹)の径路をなしている。交感神経節と脳脊髄とは神経原(連合神経線維)によって連絡し、また交感神経節から更に第二の神経原(配給神経線維)が出て、その神経線維が内臓その他の各器官並びに組織に分布されている。

副交感神経は頭蓋部副交感神経と骨盤部副交感神経とに分れ、脳脊髄神経の神経線維と一緒に派出される。その各神経の分布状態は上表のように、交感神経と副交感神経の二重に分布され、いわゆる二重支配となっている。

西式健康法

ニコラ・ベンデの研究によれば、副交感神経は、消化、栄養、同化、排泄等の主として建設的機能を有し、特に迷走神経は栄養本能即ち固体保存の本能を司り、骨盤部副交感神経は生殖本能即ち種族保存の本能を司るといわれる。交感神経は生活本能即ち環境に対して働きかけ、または環境より自己を防衛する本能を司るものと述べている。

しかし現実に於いて、この両系統の機能を研究すると、交感神経と副交感神経とは、互いに相反する作用を持っていることがわかる。一方の神経が緊張すると、他方は弛緩し、他方が緊張すると一方が弛緩するという作用を持っている。

さて、前述したように、背部運動は交感神経を緊張させるもので、また腹部運動は迷走神経を緊張させるもので「背と腹をともに動かす」ことによって、両神経は拮抗状態になるのである。

この拮抗状態になったかどうかを知るには、瞳孔を見ると解る。瞳孔が縮小していれば迷走神経緊張症(ワガトニー)であり、散大していれば交感神経緊張症(ジンパチコトニー)である。

そこで、人に法を説く場合、あるいは借金を申し込む場合、相手の瞳孔の状態を見て、しかる後に問題を切り出さねばならぬことが解るであろう。

自律神経が拮抗状態にある場合、暗示が最も効果的に働くものであるから、背腹運動を行って拮抗状態にし、しかる後に「よくなるよくなる」という動物性神経の思念を、自律神経に働きかけるのである。

道元禅師は『普勧坐禅儀』に、次のように述べている。「左に側(そばた)ち右に傾き、前に躬(くぐ)まり後に仰ぐことを得ざれ。耳と肩と対し、鼻と臍と対せしめんことを要す。舌上の腭(あぎと)に掛けて唇歯相着け、目は須らく常に開くべし。鼻息微に通じ」と、静坐の正しい姿勢を教え、さて次に「身相既に調えて欠気(けんき)一息し、左右揺振して兀兀(こつこつ)として坐定(ざじょう)して、箇の不思量底を思量せよ、不思量底如何が思量せん、非思量、此れ乃ち坐禅の要術なり。」と述べている。わたくしの健康法は坐禅そのものの修行でないから、左右揺振とともに兀兀坐定(こつこつざじょう)の腹部運動を勤修し、両神経が拮抗状態になったところで「よくなる、よくなる、よくなる。」と思念するのである。

この左右揺振はわたくしの背部運動であり、兀兀坐定は静坐法であり、腹式呼吸法であり、わたくしの腹部運動である。

わたくしは先年、原田祖岳老師に左右揺振兀兀坐定(さゆうようしんこつこつざじょう)を、右のように解説しては如何なものでしょうかと、いったら、老師は「いかんいかん」と、にべもなく反対されたのである。ところがその後、老師はわたくしの主張を承認されて、老師の著書にもこの意味のことを述べている。

精神分析

わたくしの創案した精神分析図は、次のようなものであるが、未だかつて何人も、このような精神分析図を発表したものがない。

西式健康法

即ち現代の心身医学による動物性神経と植物性神経とを掲げ、更に植物性神経の交感神経と迷走神経(副交感神経の代表)とを図表としたものである。これに配するに、心理学の現在意識と潜在意識を以ってした。

  また神道の魂魄、荒魂、和魂、幸魂、神直比魂を掲げ、儒教の仁、義、礼、知、信の五常を配し、更に仏教の第一識から第九識までを図表し、苦、集、滅、道の四諦も、それに配したもので、これこそ前掲の「心身感応分析図」とともに世界に誇るべき「精神分析図」であると、自負している。読者各位の御高評を得ば幸である。

1 = 0

わたくしは保健治病に就いて、一者を説き中庸を述べてきが、更にこれを徹底させ掘り下げて行くと、無(む)となり空(くう)となり虚(きょ)となるのである。しかしこの理論を、講壇で観念を弄んでいる観念哲学者のように、単なる思弁でこれを解決することを好まない。思弁的解説はいわゆる観念の遊戯に陥り易い。

わたくしは健康と疾病の関係を、X軸とY軸の上に現わすことにしている。そしてX軸とY軸の真中を一直線に行くところに健康がある。ところが何かの原因によって、第二図の1、m、n、o,pのように健康の途中から健康をを害し悪くなったり治りかけたりして、O線から曲線を描いてゆくことがある。これを零の線即ち dy / dx =1=0 に持ってくるというのが即ちpからaなりbなりcなりの零線に持ってくるのがいわゆる入神の技の要るところで、これがわたくしの健康法である。これを数学的に計算して行くには、複素函数をもって、第三図のように1、m,n,oの曲線を計算して、即ち患者の病歴曲線を作り、次にp,q,r,s,tを予想して、複素函数の計算をして、零線中のeに結びつけて健康へ復帰するのである。この方法だと、患者は少しも意識しないうちに本復してしまう。これがいわゆる神技である。

西式健康法

第二図では、Paにするのは先ず上手の方で、Pb,Pc,Pd等のように段々回復道程の遠くなるのは、それだけ下手というわけである。

  第一図のo線上にPをとる。さてPからX軸とY軸とに直角に線を引き、各々PM、PNとすれば、PMとPNは同じ長さとなる。PMを交感神経とすればPNは迷走神経である。即ち健康である場合は交感神経と迷走神経とは互いに相拮抗して等しいのである。

さて交感神経を +100 とすれば迷走神経は -100 となる。 +100と -100 を加えると、数学では零になって、何も無いことになるが、実際は交感神経も迷走神経も一〇〇%に働いているのである。

何人も胃袋を持っている。胃袋に対して、交感神経が +100 働き、また迷走神経が100 働いている時、胃は最も健全であり、おそらくその人は胃に対する何等の意識をも感じないであろう。胃に対する意識が全然無いからといって、その人に胃が無いのでなく、現実には胃は完全に働いて存在しているのである。但し胃を完全に働かせるものは神経でなく、神経をそのように働かせるように、神経に慣性を与えるところに真の健康者の覚りがある。

『荘子』に「足を忘るるは履の適せるなり、要を忘るるは帯の適せるなり。」とあるが、右の心境を述べたものである。これが 1=0 の哲学であり dy / dx =1=0 の哲理である。

われわれが日常職務に熱中している時は、自分というものを完全に忘れている。それだからといって、自分が存在しないわけではない。

この心境、この境地が、有にして無であり、無にして有である。色であって空であり、空であって色である。色即是空、空即是色である。

わたくしは更に 1=0 を説明するために、1= √-1  =0 の虚数の説明もしたいのであるが、あまりに専門にわたるので、本書では割愛するであろう。この点に就いては拙書『西医学の数学的原理と応用』を一読されれば幸である。

空観と仏僧達

わたくしが 1=0 の説明に到達するまでには、いろいろの過程を経過している。

福岡炭鉱の第三坑町をしていた頃、当時福岡の寺の住職をしていた高階瓏仙師の弟子が、得意気に空(くう)の説明をするのであるが、どうしたことか時々咳をするので、大事な空がとぎれとぎれになる。そこでわたくしは咳きのないところに初めて空が説けるので、咳ばかりしていては空を説く資格がないと、突っ込んだ。

わたくしも若かったので随分乱暴なことをいったものだが、由来禅寺では雲水僧が武者修行のつもりで、禅門破りにくることになっているから、別段乱暴でもなんでもないことである。すると、その坊さん「そいつは参りました。わたくしはただ口でいってるだけですから。」と、頭を下げた。

昭和八年頃、わたくしの名がいくらか世間の評判になった頃、今、曹洞宗の管長になっておられる高階老師は、往事をなつかしんで、福井の西島氏を通じて書面を送ってこられた。わたくしの空観哲学は、高階老師と龍樹の『中論』に啓発された点が頗る多いのである。

またこんなこともあった。

戦後であるが、健康法とは関係なしに日頃懇意にしていた加藤直法氏が、わたくしの旅行中に死んだのである。そこで遺族の方たちが、あんなに昵懇(じっこん)にしていた間柄であるから、御通夜の晩にでもきて、親戚一同に健康法の話でもしてくれないかとのことである。

お邸は高輪の泉岳寺の近くであった。

頼まれるままに、それにしても御通夜に健康法の話もどうかと思い、般若心経の空と色に就いて一席しゃべった。わたくしの話の途中に、居合わせていたお坊さんが「お話の途中で残念ですが、先約がありますから、失礼します。」と中座された。

話が終ってから、二、三質問があったりして、「わたくしの話は仏教の専門家とは大分違っていますから。」と辨解し、「あのお坊さんは、どちらのお寺ですか。」というと「あのお坊さんは高神覚昇というんです。」とさりげない返事である。

これにはわたくしも驚いた。『般若心経』の大家の前で『般若心経』の講義をしたのである。「それはそれは高神さんとは知らなかったものですから。」というと、一座の人々は「専門家のお説教よりも西先生のお話の方が、解かりよい。」と相槌を打ってくれたので、心がなごやかになったものの、釈迦に説法したのであるから、あまり、いい心持でもなかった。

それから一日おいて、覚昇師から書面が参り「わたくしは二十年以上も仏教の大学で般若心経を講義してきたが、正直のところ、空と色に就いては、徹底して説明ができなかった。昨夜、貴方の説明を聴いて、初めて心経の真意が解かった」という意味のことが、丁寧に書かれていたのには、この人こそ真の仏僧と、その謙虚さに自ずと頭が下がったのである。

わたくしは心経の大家から折紙をつけられたような気がして、益々自分の説に自信を得てきた。そのうちに、こちらから出向いて、敬意を表し、仏教に対する疑問の点など伺いたいと思っているうちに、それから二、三日後の新聞に覚昇師の死が報じられたのである。まことに、諸行無常である。色即是空、空即是色である。「空の空なるかな、しこうして総て空なり。」(旧約聖書)である。

十二、西医学の機械化

戦時中、元大蔵次官田昌氏が、満州国から、わたくしの健康医学を研究するために派遣されてきた四十余名の高級官吏を前にして、とかく知識階級の人は理論には興味を持つが、実践はしないものである。わたくしもその一人であるがと述懐し、その夜、わたくしの再三の注意も忘れて、惜しくもこの世を去った。田氏はそれより十余年前、前実業之日本社増田義一氏の紹介で、腎臓が悪く糖が出て、医者から見放されたから、何とかしてくれといって、実業之日本社の社長応接室で会ったのである。

田氏もそうであったが、誰でも、病気をして医者から散々おどかされ見放された後は、わたくしの指導方法を忠実に実行する。ところが一度快癒すると、いわゆるのどもとを過ぎると、けろりと熱さを忘れてしまう。しかしこれは世間一般の人情なのであろう。

全快後、田氏はよくいったものである。朝夕十分間宛運動法をやらなくても、何か、機械にでもかかれば二、三分で、効果があるという方法はないものでしょうかとか、また飲めば西式健康法と同じ効果を現すような薬はないものでしょうかと、相談されたものである。こういう相談は、名士になればなるほど、有名人になればなるほど、同じような質問をされるが、有名人や名士だけに多忙で、朝夕の十分間がおしいのかもしれぬ。

多忙の時間をさいて、運動をする努力そのものが健康になるのだと説明してきたが、わたくしも、何とか機械化したいものと想を練っていたのである。

わたくしは健康医学の基本として、四大原則や六大法則を掲げてきたが、一方、われわれの生活を、夜間の静の生活と、昼の動の生活から吟味しているうちに、新しい健康理論が組織立てられるようになった。それは人体旋転論である。われわれの動の生活の中には、力学的に常に旋転運動が含まれている。特に歩行にこれが現れる。そこでこの理論の要旨を、昭和十五年七月に『動的姿勢の研究とスポーツ』の中で説いたのである。

当時は、いわゆる臨戦待機の時代であり、軍閥官僚の全盛期であった。文部省が各学校に静的姿勢図を配って体育資料としているのに、動的姿勢だの、旋転が健康にどうのこうのというのは、この際遠慮してもらいたいという話である。それに軍需品以外は極端な物資の窮乏時代であったから、わたくしは、それやこれやで、旋転理論の機械化を中止せざるを得なかった。

今回ようやく、これを完成し、その名も『人体旋転儀』と命名し、幸い江湖の高評を得ている次第である。

以上のようなわけで、わたくしは戦時中はもちろん、これが機械化されるまでは、旋転論に触れることを避けてきたが、最近、特に戦後、欧米の理学界では人体と旋転運動、生命と律動運動等に研究を向けてきた。

S・G・グラザンスキーの『生命の構造と起原』、トッケの『廻転と律動』、カールの『生命の起原』等々がそれである。問題が問題だけに、宇宙物理学、数学、化学、生物化学、医学等の該博な予備知識を必要とするので、ここでは理論には触れないが、要は遠心力と求心力を応用したのが、『人体旋転儀』であり、従ってこれを利用する時は。病気は治り健康は増進されることになる。あるべきところに毛の無かった婦人に毛が生えてきた事例もある。

わたくしは、旋転儀を利用すれば、何人も三十二才の若さに若返えり得ることを主張するものである。理論を述べずに効能のみを宣伝することは、わたくしの好まぬことであるから、これくらいで止めることにしよう。

わたくしはまた『顎下懸垂機』を創案している。これは昔からあった子供の頭を両手で支えて高く持ち上げ、関東では「長崎見えるか。」といい、関西では「お江戸見えるか。」という習俗から暗示を得たものである。

もちろん臥床している病人を、顎をもって吊るし上げることはとんでもない話で、病状によって平牀の角度を変えて、顎下で懸垂して行き、健康体に導くのである。懸垂機は脊柱を整正する最も合理的方法で脊髄神経に連絡する諸病はこれで治ることになる。特に脊髄カリエス、半身不随、性不能症等に奏効する。また脊椎三十三個の配置を整正するから身長は伸びてくる。いわゆる長身機でもある。もちろん、胸部、腹部の疾患にも卓効を現すものである。何故に奏効するかの理論は、前述した脊柱の頁で納得できるであろう。

ついでに書き添えておくが、『美容機』(一名頭脳明快機)を創案して、若い女性並びに明快な頭脳を念願する真摯な男性に歓迎されている。これは自分の足の運動で、腎臓部と頭部に微振動を与える機械である。腎臓の微振動は、その機能を高めるものであり、従って体液を清浄にし、全身的に肌膚を美しくする。頭の微振動は、脳の機能を高め、脳腫瘍などを治してくれる。本機によりてんかんも治った事例がある。

本機による足の運動は、大根脚を細くし、鶴のような脚を、適当な太さに肉をつけてくれる。足の運動が全身の健康を左右する理論は、既に述べたところである。

これでわたくしの健康医学が、一先ず機械化されたのである。会員の某氏は、これを『三種の真機』と呼んで、大いにその起死回生の効験にあやかっている。これで世の名士や有名人のわがままな要求にも、現実に応じ得るようになった次第である。

 

本書は、今日の人権意識に照らして、不適切と思われる表現がありますが、時代背景と作品の価値、また著者が故人であることを鑑み、そのままとしました(西会本部)

 

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西式健康法 西会本部
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