生水と湯冷まし
西式健康法では、「生水を十分に飲む」ということを健康法の基本の一つに据えています。
量としては、1日当たり1升~2升(1.8ℓ~3.6ℓ)を推奨しています。必要量には個人差が大きいのは、気温や活動量によって変動が大きいからで、大まかな目安ということになります。
これは、何十年おきかで流行する、「白湯、湯冷まし健康法」的な、明らかに、害はあるけれども一益もないに等しい行為をしてはならない、という意味でもあります。
どうもこのような『間違った健康法』、『根拠なき迷信』は、何度否定されても、何度否定されても、何十年ごとにゾンビのように甦ってきてしまうようです。
何故?白湯や湯冷まし飲用を推奨?
私が、この再発した「湯冷まし礼賛」、「白湯礼賛」の風潮に気付いたのは、インターネットの記事に掲載されていたからです。
科学的、医学的な解説はほとんどなされていないようで、「アーユルベーダ医学」とか、「漢方医学」系の情報が基になっているようです。
主な主張を列挙しますと、
①胃腸全体が温まり、活性化することによって消化力が高まる。
②胃腸の活性化により、老廃物の排泄がスムーズになり便秘の解消につながる。
③基礎代謝が上がる。(冷え性の改善?)
④湯冷ましは、体に吸収されやすく、胃腸を冷やさない。
また、別な視点としては、残留塩素やその他殺菌、一部有害物除去効果に期待するという、どう考えても100年前の発想による主張も見受けられます。
また、それ等の中にも、湯冷まし派と白湯(温湯)派とに分かれているようです。
印象としては、どちらも科学性はほとんど無く、あるいは100年前の常識に基づいた発想ですから、統一した見解のようなものを見出すことはできません。
何度か申し上げた記憶がありますが、だいたい『活性化』という用語を使って説明しているものに、まともなものは滅多にありません。
なぜ、胃腸全体が温まると消化管が活性化し、消化力も高まる、という発想になるのか理解は困難です。
最初の前提(胃腸が温まると消化管が活性化する)自体が、いい加減であって、その上さらに「だから、老廃物の排泄がスムーズになり便秘の解消につながる」と言われても、とても納得できるものではありません。
さらに、昨今の常識によると『基礎代謝が上がる』ということが、大変『良いこと』のように捉える風潮がありますが、生理学的、生物学的に明らかに誤りです。
生存、繁栄のために徹底した省エネ化、効率化を目指してきた究極の生物である人類が、意味なき、エネルギー消費増加の結果である、体温の無意味な上昇を生じさせてしまう、基礎代謝の増加がトータルで考えて、良いことであるはずがありません。
また、前述のように、湯冷ましを飲むべしという派と、温湯を飲むことに意義がある、という二派がいるようですが、どちらも害の方がはるかに大きい、ということは明確に申し上げられます。
免疫反応発現状態の解釈を勘違い?
科学的、医学的な立場から白湯の飲用を薦めている人はほとんどいないようですので、まともな医学・科学論争に持ち込めないことは、ある面残念です。
体温上昇は基本的に良いこと、という発想は、たぶん、たぶんですが、風邪をひいた時の発熱という現象(体温上昇)から、『体温上昇=免疫力向上』という、「風が吹けば桶屋が儲かる」的な発想であろうと思われるのですが、いささか思慮に欠けた発想です。
発熱という現象、生物としての活動、例えば捕食であるとか、現代社会ではほとんど関係ありませんが、自己防衛能力を極端に低下させてまで、高熱を出し、寝込んで苦しんでいるのは、そういう状態を自ら創り出して、免疫能を最高状態にもっていった結果です。
そのままだと、細菌、ウイルス類に生命を奪われてしまう可能性があるから、特殊な状態(高熱を発するような)を自ら、本能が創り出しているということです。
漫然と、体を温めたり、といっても部位ごとの至適体温というものがあります。
多少の湯を飲んだところで、全身の体温にはほとんど影響を与えることはありませんし、湯によって想定外の熱を受けた生体は、体温調節機能(不感蒸散、発汗等による放熱)を発現させて、体温が上がらないように調整してくれます。
哺乳類などは、常に発生した過剰な熱エネルギー、つまり何もしないと体内に熱エネルギーが溜まってしまう状態を、適切な熱放出、放散をして一定の体温を維持する構造を保有しています。
体表からの直接熱放散や呼吸による呼吸器、鼻腔からの気化熱、ヒトであればさらに体表に広く分布するエクリン汗腺からの発汗による気化熱等を利用して体温調節を行っています。
多少の湯を飲んだところで、体温を高めに維持することなど、生理学的には起こり得ない現象である、ということです。
白湯を飲むことによって得らえるエネルギー量は?
一日あたり、どの程度の湯を飲めという提言であるのか、科学的なベースデータがある訳ではなさそうですから、それぞれ、提唱者自身の経験がベースになっていると思われます。あるいは、古来の伝承なのかも知れません。
そういうわけで、各々見解は異なるのではないかとは思われますが、一応、どなたかの主張をベースに、沸騰させた後の温湯を飲用して得られる、熱エネルギー量を計算してみましょう。
西式とは異なって、生理学等は全く無視した見解が多いようですから、1日当たりの推奨摂取量等について述べた主張は見当たらないのですが、ある方の説によると、温湯(この提唱者の言い分では飲む直前の湯温は50℃程度とのこと)の飲用量は1日当たり、500~600cc 程度としていました。
エネルギー量計算の前に、ちょっと付け加えさせてもらいますと、白湯推奨派の方々にとっては、『生水』は禁忌でしょうから、その他の水の飲用がないのだとすれば、残りは食物中の水分に期待、依存するということであると思われます。
しかし、これでは、今日の生理学常識からしても、絶対的に水分摂取不足状態です。
それでも、白湯を飲んで良いことがあった、と感じている方は、もともと、水をほとんど摂っていなかった人、ということである可能性が高いものと思われます。
圧倒的な水分摂取不足状態であったために、仮に白湯であったとしても、仮に量的には全然足りないとしても、それまでの極度の水分不足状態よりははるかに多く水分を摂取していることになりますから、それによる効果を体感した、という以外の解釈は正直なところ困難です。
話を戻して、白湯を飲むことによって得られるエネルギー量を計算してみましょう。
1㏄の水の温度を1℃上げるのに必要な熱量が1カロリーですから、体温より6~8℃程度高い白湯を、600㏄ 程度飲用した場合、その白湯を通して体内に入ってくる、言い換えれば得られる熱エネルギーは、4~5kcal 程度ということになります。
もちろん、体温より低い水を飲むと上記の計算とは逆に、その分身体の持っている熱エネルギーを(体温)を失うことになります。
また、近代栄養学では、炭水化物摂取によって得られる熱量を1ℊ 当り4kcal と定めていますから、白湯を1日600cc 飲んだとしても、それによって得られる熱エネルギーは、炊いたご飯50粒程度(約1g)に過ぎないことになります。少なくとも計算上は。
そうなりますと、白湯を適量飲もうが、ご飯をもうほんの軽く一口、箸先にちょっと載せたような量のご飯を食べても、得られる熱エネルギーは同量、ということになります。くどいようですが、あくまで計算上ではということですが。
もちろん、暖かいご飯であれば、その分熱エネルギーは多いことになりますから、もっと少量でも同じ熱エネルギーを得られることになります。
たったその程度の熱量ですから、身体全体で持っている熱エネルギーからすると、まったく問題にもならない、端数も良いとこ、誤差の範囲といったレベルです。
議論するまでもないような話です。どうでも良い、というレベルの話なのです。
念のために申し上げておきますが、西式では冷たい水の摂取を推奨しているわけではまったくありません。
西式で言うところの「生水」は常温が原則です。
もちろん、西式公表当時、井戸水以外には低温の飲料水というものは存在しなかったということもありますが、前述の理由によって、冷水を飲んだところでそれによって奪われる熱エネルギーは微々たるもので、「何が何でも、冷水は避ける」といったほど忌避しなければならないものでもない、と言うこともできます。
白湯の問題点は?
水は、温度を上げていくと溶存させている気体の溶解力が低下します。液体の分子活動が盛んになって、気体成分が溶解していられずに、放出されてしまうのです。
つまり、一度沸騰させた水は、しばらくの間空気に曝すなどして、また自然に空気中の気体を溶解させるまでの間、少なくとも気体成分に関してはまったくと言って良いほど溶け込んでいないということです。
しかし、ヒトを除くあらゆる生物は、何億年もの間、溶存気体を含んだ自然の水以外は飲んだことがありません。
ということは、各々生物の消化管内細菌は、溶存気体(主流は酸素)を相応量含んだ水によって構築されてきたわけです。
ところが人類だけは、ある時期から、一部の誤った情報によって、溶存気体をほとんど含まない水を飲んで、わざわざ正常な腸内細菌叢の構築を妨害している人がいる、ということになってしまうのです。
もちろん時代によっては、井戸水等に含まれている可能性のある有害細菌類を殺菌する、という立派な目的がありましたから、まだまだ赤痢の流行で大勢の人が亡くなってしまうような時代には、白湯などにも立派な存在意義があったわけですが、今日では害しか見当たらない、ということなのです。
生水の意義
生水というのは、加熱していない水ということです。煮沸したところで、含有ミネラル分が減少してしまう訳ではありませんから、唯一の問題点は溶存気体の著しい減少、特に溶存酸素量の問題です。
我々はドジョウではありませんから、「基本的」には腸管から酸素を吸収しているわけではありません。
あくまで、腸内細菌の生育条件を決定する重要な要素の一つ、という位置付けになります。
共存共栄の関係にあるヒトとヒト腸内細菌は、何千万年も昔から溶存酸素量の十分に含まれた水を飲んで、消化管内は満たされている、という前提で、その共生関係を築いてきました。
突然『冷えは万病の基』といったような意味不明な理由で、酸素の供給を絶たれてしまったら、少数派である好気性腸内細菌群は明らかな劣勢に立たされてしまい、嫌気性菌の天下となってしまいます。
もちろん、嫌気性菌は悪玉菌などということは全くありませんが、数百種数百兆個とされる、腸内細菌のバランスを崩す大きな要素となってしまうことは間違いのないところです。
大腸の呼吸機能
これは余計な情報かも知れませし、以前にも何らかの媒体でご紹介したような気がしないでもないのですが、溶存酸素量を最大にした液体を肛門から注入し、血中酸素濃度が低下してしまった人に対する、呼吸器経由外の酸素供給法としての研究が行われているのです。
つまり、まったく別経路で『エクモ』(体外式膜型人工肺)的効果、作用を期待する研究中の代替治療法です。
重度の肺炎を起こしている場合などでは、いくら高濃度の酸素を呼吸器経由で吸わせても、簡単には血中酸素濃度を上げることはできません。肺胞のガス交換能力が著しく低下してしまっているからです。
そこで、大腸から溶存酸素濃度の高い液体(浸透圧差を十分に考慮する必要があります)を供給しても、血中酸素濃度の大幅な改善がみられるのだそうです。
ドジョウではないものの、大腸壁から吸収した溶存酸素を豊富に含んだ水は、そのまま血中酸素としての機能を果たしてくれる可能性があるようで、容易に赤血球のヘモグロビンとも結合してくれるようなのです。
呼吸器から高濃度酸素を吸引させ続けることは、活性酸素過剰発生にと伴う細胞ダメージの問題が常に付きまといますが、溶存限界以下の溶存酸素液であれば、その問題も全く生じないようなのです。
また、肛門から直接気体の酸素を送っても、血中酸素濃度の相当な改善がみられるそうなのですが、この方法ですと高濃度酸素を呼吸し続けた際と同種の問題が生じることが懸念されます。
そういう意味では、飽和状態(あるいはそれ以上)の溶存酸素を含有した液体を、浣腸のように肛門から注入するのが一番無難、かつ安全な方法と推定されますが、液体を注入した場合に、医療、看護の現場としては、肛門から逆流した汚物混じりの供給液の処理という問題が生じますので、一般医療機関に普及するまでには、まだ相当な年数が必要なようです。
用途からして、大腸内視鏡検査のように、前日から下剤だ、洗腸だのといった準備をしておくわけにはいかない状況の方が多そうです。
エクモの高度な動脈結合のための措置、衛生管理と排泄物の処理と、どちらが事後の処理が簡便かつ安全かということになります。
救急救命における医療に関しては、わたしも専門知識はまったくありませんから、この辺りで止めておきますが、ただ、それでも、溶存酸素が豊富な『生水』を日常的に十分量飲むという習慣は、より理想的な補完的酸素取り入れ法としても貢献してくれる、という可能性は十分にあるかと思います。
というより、間違い無く存在することになります。
特に肛門からではなく、経口摂取の場合には、小腸絨毛の毛細血管からも溶存酸素をたっぷりと含んだ水を、消化物と一緒に小腸絨毛毛細血管中に吸収することになります。
消化管内の酸素は、大腸に入ると腸内細菌によっても一部消費されてしまうとされていますので、経口摂取した方がより多くの酸素を血中に取り込むことができる、とも考えられます。
自然のふるまいこそが、最も理想的であったということを、人類は幾度も経験してきました。
良かれと思って余計なことをしてきたことも多々ありました。この「白湯を飲むべし」という説も同じことであるような気がします。
(了)
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