西式健康法

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朝食廃止について

約29分

◆月刊『テトラパシー』誌昭和13年(1938年)第7巻第5号~第7巻第6号に「朝食廃止について」と題して掲載された記事を順次再録します。なお、旧字体や仮名遣いはできるだけ現代の文字に改めております。

❮月刊『テトラパシー』昭和13年3月25日発行第7巻第5号❯より
(昭和12年9月28日開催本部例会講義より収載)

         朝食廃止について (第1回)
西 勝造

朝食を食べるという事は、もう長い間習慣となって行われておりますが、英国の医者でもってSir DArey Powerこの人の書きました The Foundations of Medical History 1931 医学歴史の要点を書いた本でありますが、この46頁の処に朝飯ということがあるのです。はじめの方をちょっと申し上げますと、こういうふうに書いてある。「夜明けの最初の従属的な食事であって、事実この言葉が初めて用いられたのは1463年に遡り得るに過ぎない。サクソン人、ノルマン人は空腹のまま多くの仕事をやっていたものである。彼らは夜明けとともに直ちに起床するや、多くの場合午前11時あるいは12時頃まで殆んど全く何物をも摂らず、多くの労働に従事したものである。朝食ということが初めてやられたのは、エドワード四世の母君にあらせられるヨーク公妃である。公妃は7時に起床せられ、朝の祈祷を聴かせられ、それから正装せられた後、次の間にある小さなお部屋に行かせられ、そうしてその後気を晴らさせられる為、今のせんべいのようなものを召し上がった」というので、従来の食事でなかった事は明らかに記されているところです。

朝食はまもなく一部の人には一つの例となった。それは最初のものですが、続いて読んでみますと「1512年ノーザンバランド太守の朝食は、肉食日には次のものからなっておったのである。太守と奥方は一種のトレンチャパン、まん丸くなって中がちょっと凹んだものですが、この二切れ、極めて小さなもの、または若干のひき割麦、それから四分の一ガロンの水をとり、それから羊の煮た骨のくっ付いた肉四半分、また牛の煮た背骨の肉、こういうものを食べておられた」こういうことが書いてある。しかし多くの場合、それは飾りにつけられたのが多いので、あとはお下がりとしてその部下のものにやられたものと思われる。一つも残さないで食べることはあまり感心しない。だからそういう具合に献立に書いておっても、これはただ眺めるくらいのもので、直ちに下げてしまうという。

これは歴史ですが、その当時、門番、馬丁従僕には、飲み物だけで、別に朝飯は与えられなかった。その飲み物にこういう字があります。これはちょっと字引をひく時間もありませんでしたが、何かの飲み物なんですが dryinkyngs 飲み物でよいと思います。どんなものから採っているか知らんが、まあ飲み物として何が含んでいるか分からない。そういうものを与えられただけで、後は何も与えられなかった、ということが、その47頁にございます。

まあそんな訳で、朝飯を食べるという事は、極めて最近と言っていい位です。これを辞書の方で引きますとこうなっている。

これは Henry Cecil Wyld : — Universal English Dictionary 1934  この大辞書には朝食という言葉即ちBreakfast  この項目の中に「一日の最初の食事、これをブレックファストというのは、夜間の断食(fast)がこの食事の時に於いて破られる(Break)からである」と書いてある。それから今一つShoterd Oxford Dictionary 1935 手許にありますが、それには「朝食」として(1)「人々が朝、その断食を破るところのもの」とこういう直訳です。それからピリオドを打ちまして「一日最初の食事」としてあります。それから(2)「時としては食事の事を意味する」とあります。1926年頃には必ずしもブレックファストは朝食という意味ではない。昔は無論昼飯に近寄るということがあるのですね。それからフランスの私どもの手許にあります辞書でLittré et Beaujean: — Dictionnaire de la Langue Fran(aise 1931) これにはDéjeunerデDéというのは打消し、それからジュネ― jeaunerは断食ですから、結局現在、朝飯は断食を破るという事になります。いずれにしても、一日のうち最初に摂るということであります。

かねがね申し上げましたとおり、朝食というものは毒になるのでありまして、ここに英国人で以って、L.P. Weaver — の書きました「人間の健康」と申しますが、人間の健康法、この人間健康という書物の第三章15頁の第三章に載っている健康に於ける食物の立場という所に、大体食事というものは、一日に1回もしくは2回、これが一番理想である。一日のうち朝は止めた方がいい。朝食べるという事は毒であるからです。それは何故毒かと言えば、太陽がずっとあがっていって天頂、つまり自分の頭の頂上まで来るまでは、同じ神経でも排泄の方に使わなければならん。それを上の方に神経を変えるという事は不自然である。だから理想から申せば一食である。しかしそれはやむを得ない場合は二食でよろしい。だから強いてとまでは申しませんけれども、一食乃至二食、そして太陽が昇り詰めるまでは、食事はしない方が身体の為によいのだ、つまりそれ迄は排泄の方に時間を使わなければならないから、あとから食事を摂る、こういうことになっているのです。結局朝食というものは、私どもはやはり太陽が頂上に昇るまでは食べないというのが、身体の為によいという事になるのであります。朝飯を食うなんていうのは、自分の身体を理解しないからで、まあ私ども十年来の会員の方々と接近しておりますというと、中には朝飯を食わないで痩せる人がある。痩せるのは当然腸につかえているのです。そういう人は一日も早く健康になって頂きたい。しかしながら、また一面ご家庭の関係上朝飯を止めると、家庭の円満を欠くという人もあります。…… 私などはのべつ円満をかき通しで、朝ばかりでなく昼も家でやらないし、夜も滅多に食ったことがないという男なんです。

それから朝やめるという事につきましては、ここに西式そのものはどういうところから一体出発しているかということを、ここで申し上げますと、ここに一つ公式が書ける。この公式というのは、人間分析というような問題にすればなるんでしょうが、第一にまず血液というものを考える。この血液というものはこれは体液であって水に属する。そこでこれは沐浴ということを考えなければならない。この沐浴というものはいつも申し上げる通り、ここには全身の温冷浴、脚湯、それから足の交温浴(こうおんよく)ということが、これがまた当然必要になります。またここに申し上げなければならないことは、全身温冷浴の出来ない方がある、それは何故かというと、血圧の高い方は、全身温冷浴を直ちにやるということは出来ないから、そういうような方は、足の先からやって段々上の方に行って、全身に及んで戴きたい。というのは、これは病人なんですから、病人は病人らしく手段を講じなければならない。血圧の差がある方が直ちに水に飛び込むということは危険でありますから、それをお止めになった方がよい。細かいことは、パンフレットに書いてございます。

(続く)

❮月刊『テトラパシー』昭和13年3月25日発行第7巻第5号❯より

(昭和12年9月28日開催本部例会講義より収載)

 

                                 朝食廃止について (第2回)

西 勝造

それから次は皮膚であります。皮膚と肺というものを考えると、皮膚と肺、これは同じような系統です。これは気体、気体は即ち空気です。これからここで気浴(きよく)は即ち風浴、いわゆるローブリー式と称しているのがこれなんです。だから我々生体というものを、こういう具合に理論的に考えて見ますと、第三には神経というものに考え及んでいく。神経はこれはまた太陽ということになります。それからこれは火です。つまり液体と気体、即ち水と空気と火と、こうなります。火は即ち日光浴という事であります。日光浴は一つの、また裸療法もその中に含めて考えることが出来ます。それからその次に筋肉と骨格というものを考えていく、筋肉というもの、骨格というものを考えると、これは植物なんです。植物、これは即ち土です。これから何が出るかと言いますとこれはビタミン、それからホルモンという事になります。そこで結論だけを申し上げますというと……私のドグマ(独断)に驚かされるでしょうけれども、これはいろいろ論拠がありますから、決して私が独断でやっている訳ではありません。植物は土から来る、それはビタミンであり、ホルモンである。姿勢、平床、硬枕、生食それから食養、こういうことになります。しかしながら、大体人間の身体をそんな具合に分析することは間違いです。けれどもこれも若い方々が、いろいろ学問をしていらっしゃるもんですから、そういう方々の為に、特にやむを得ず人間を切りさいなんで行かなければ、説明できませんからこのように分けている訳です。

この、筋肉と骨格という事について、ビタミンを論じ、ホルモンを論ずるということは、どこから来たかと言いますと、こういうこれは新しい文献に依っている。これは医者でありまして、むろん医学の学者として立派な方で、シューア Dr. Sure という人の書きましたThe Little in Lfie 1937 (偉大なる微生物)これは何を書いたかと言いますと、ビタミンとホルモンの事が書いてある。これを全部お読みくださると、只今申し上げましたような、筋肉と骨格というものは、つまり土から出たものであって、我々は土に親しむという意味に於いてビタミン、ホルモンというものが如何に必要であるかが判ります。先生は以前1933年には『健康体と疾病に於けるビタミン』という書物に書いている。

これは立派なもので、今度は更にこういう本を書いて、このビタミンというものとホルモンというものは、我々の健康を殆んどリードしているということを明らかにしている。最初よりそれを難しく説かないで、極めて易しく説いておりますが、もちろん専門家を教えるという言葉もありますし、中にはまたこういう事を好きな人もあるから、そういう人には読ましてもよいという事を書いておる。ですからもっとこの書をお読み下さるというと、神経系統であろうが、皆ビタミンやホルモンに深い関係を持っていることが判る。

ですから、これは独断で申し上げる訳ではないのであります。

それから第五番としては、血管ですが、血管と心臓、これは西式の方から行きますと、血管も心臓も結局同じものです。例えば、我々の口から肛門まで同じものである。途中、胃というものが出来、腸というものが出来ている。こういうものは必要上出来たのであって、初めの初生動物、例えば「みみず」なんていうのは、口から肛門までが抜けっぱなしです。その食べ物が複雑になればなるほど、いろいろのものが備わって来た。人間というものには、十二指腸が出来たり回腸が出来たりして複雑になっている。

元来動物は、口から肛門まで同じ系統であります。心臓、血管、毛細管もこれと同じ訳でありますが、これは発生学の方でご覧になると分かります。

その中、原動力となって働くのは毛細血管で、その根本は真空の為である。真空は太虚(たいきょ)である。それはまた空虚であります。この空虚というものが、明瞭にお解りにならんというと心臓血管を論ずることは出来ない。即ち、我々には真空が出来て活動を起す訳です。そこでここに、毛細管の重要なる所以があり、それから随って、これと密接の関係ある平床というものを論じなければならぬ。それから今度は、硬枕も論じなければならない。

そこで結局、正常の血圧というものをここに述べて来なければならない。正常の血圧ということを研究してきますと、最小血圧は最大血圧の11分の7とこういう結論が得られるのであって、常にこれを保たれるということが即ち健康なんです。

即ち心臓、血管に於ける血流は毛細管によって出現するので、これを発揮せしむる毛管運動は、平床硬枕というものが分からなければ本当のことが判らず、従って正常血圧というものも判って来ないという事になります。

(続く)

❮月刊『テトラパシー』昭和13年3月25日発行第7巻第5号❯より
(昭和12年9月28日開催本部例会講義より収載)

           朝食廃止について (第3回)
                       西 勝造

次は六番と致しましては腸と脳であります。腸と脳というものはまたこれ真空です。真空から毛管現象が起こり、その毛細血管の機能が不十分であれば、腸と脳というものはたちまち故障を起こす。そしてこれは肉体的であると同時に精神的である。精神的でありそれからまた自然力である。ですから、我々は毛細血管というものは完全に平等に我々の身体の頭のてっぺんから足のつま先、手の指先まで同じように働いていさえすれば、それこそ腸と脳が完全に働くのであって、それが真空が全部働いている時なのであります。ですから動脈末梢と静脈のこのつなぎ目の毛細血管というものは、そのものが肉体的であり精神的であるという事になるのです。我々は、何か道端で怖ろしいものを見ると、全身がぞっと寒気だつ。つまり肉がすっかり引き締まってしまう。これは我々に目があるからそうなるのです。

不幸にして、いっそ目がなければ目前にどんな猛犬がおっても知らん顔をしているから、猛犬がびっくりしてしまう。これは今朝の新聞で読んだのですが、上海において日本の飛行機が10メートルという低空飛行をやった。屋根にすれすれに飛んだものですから支那人も見とれてしまって、撃つことも何も忘れて呆然としてしまったと書いてあったが、そこなんです。そこをよくお考え下さい。

毛細血管はつまり精神と肉体だから、あの中に精神がこもっている、また肉体がこもっている。その肉体が人間の代表であれば、精神も代表である。

それから七番目と致しましては足と脚で、これは何故こういう問題が出現してくるかというと、我々は —— 動物は動くということによって、或いは座っておっても、体重が足にかかってくる。ですから足を怪我したら、直ちに我々は脚を引きずって歩かなければならない。体重を測りまして、体重の関数というものがでる。ここでもって高等数学というものが出てきますが、まあしばらくこれはお預かりしておきます。つまり足にかかっている体重です。まあ微分積分で身体を片っ端から分解していけば、結論としては足と脚というものにかかってくる。例えばこの鉄道協会(当夜の会場)を建築しますのに、私どもはいくらか寄付していますが、これを造築しますにも、やはり基礎工事に総経費の半ばはかかっています。それほどに基礎というものは大切で、人間の足もこれと同様です。ですから、人間が立って歩くという事については、足というものが非常に大切です。ここに考え及ばないものに医学ありとすれば、足に故障のある人がつんのめってしまうように、いつか終いには倒れてしまわなければなりません。

我々は地下鉄道の基礎工事についてもよく研究したものですが、とにかく基礎工事に非常な経費が掛かってしまう。それは何故かというと、地盤が悪いからです。ですから、我々は、足というものと体重との関係を研究して、少しでも基礎に異常を呈したら治す、或いは狂いの来ないように予防しておかなければならん。この手段は即ち毛管運動です。

それから触手療法というものが入ってくる。足を治すのには、触手療法というものが是非必要になってくる。

それから八番としては、今度は体躯でありますが、これは一体何かと言いますと、均衡のとれた体躯であるかどうかという事で、これからここに均衡関数というものが登場してくる。均衡関数というものは、これまた肉体的であり、また精神的であらねばなりませんが、これはどうしてもテトラパシーでなければ片付かぬ。なぜ片付かんかといいますと、例えばいくら神様や仏様にお参りばかりしておっても、毒ガスや爆弾がやって来た時、南無妙法蓮華経をやったってだめです。また、毒ガスというものは吹いてしまえば飛んでしまう、こんな事を考える方は大馬鹿なんで、精神だけではどうにもならない。そしてこれは、ご家庭に対する了解に待たなければならない。例えば、いつ何時に支那から飛行機が2台、3台洩れて飛んで来ないと誰が保証できましょう。あるいはウラジオあたりから、順風の場合には飛行機が14時間で東京に飛んでくることもできる。そのウラジオから飛んで来ないと誰が保証できましょう。ことに支那の小説を見ても、お分かりの通り、上海の雲は人間が乗ることが出来るというほど非常なもくもくしたものですから、今日はよく飛行士があの雲の中にはいって飛んでいくので姿が見えません。西遊記の筋斗雲(きんとうん)は一夜にして三百里も走ったなどという話があります。その大陸の雲の中に入って敵の飛行機が洩れて来ないと誰が保証できましょう。日本まで飛んでやれというような勇敢な者が出ないとは限らない。ですからその時の用心がなければなりません。それにはこういう竹の筒を造って上の方に穴をあける。そこに一杯ガーゼを入れて、その上にコップ一杯くらいの活性炭をお入れになって、ガスがやってきたら鼻をつまんで竹の筒の中で息をしていればよい。鼻をつまんで竹の筒の空気を吸うことは稽古しておけば何でもない。しかし鼻がつまっていてはいけませんから、鼻がつまったら鼻をかんでおく。その鼻の故障は足を冷やしたために起るものですから、やはり足を治しておかなければいけない。……まあ万一の為にそういう竹の筒を用意しておいた方が良いと思います。毒を消すのにクリマグでも立派に消毒できますから、その点ご安心なすってよろしゅうございます。

(続く)

❮月刊『テトラパシー』昭和13年3月25日発行第7巻第5号❯より

(昭和12年9月28日開催本部例会講義より収載)

                                 朝食廃止について (第4回)

西 勝造

そこで毒ガスというものは、大体一般にどんなものかというと、軽いものでは一酸化炭素、重いものはホスゲン、これ等は一種の窒息性でありまして、それを一度嗅ぎますと、大抵一~二時間で死にます。一酸化炭素は空気より軽いので飛んでくる。ホスゲンは空気より二~三倍重いので持って来られません。けれども一酸化炭素は持って来られる。一酸化炭素が落っこったら、この毒ガスは空気を追っかけておりますから、風の吹いてくる方、つまり風上に逃げて行かなければなりません。こういうことは、私どものように、鉱山におった者はすぐ考え及びます。しかし、この中毒性ガスを受けましても、温冷浴をやっている方は中毒を起しません。これについて日本曹達会社ですが、その会社で西式を初めて行うことになって職工たちを集めたけれども、いくら言ったって、職工は言う事をきかない。そうして工場長のお話も聴かない。ところがいろいろ工場の中に皮膚病が出来ますが、裸療法をやるとすぐ治ってしまう。それで、裸療法の効果というものが分かるようになって皆実行したから、皮膚病というものには絶対かからないというので、安心しています。

この頃はイパリットのような、ああいうものはもう出来ない。大丈夫です。あれは我が国では使わないが、糜爛性ガスでありますから、一応心得て書く必要はありますが、すべて酸性のガスですから、アルカリ性に中和する。もしガスが身体についてしまったら、コップ2~3滴のクリマグ水で洗う。そしてクリマグの服用をやると治ります。これ等については、いろいろその筋でも民間に印刷物などでよく注意をしていらっしゃるけれども、手や足なら我が西式でよい。ぐっと足を上げて振っておればよろしい。なお、平常水風呂にはいる練習をしておかなければならない。どんな寒中でも、水風呂に入れるような体質を持っていなければなりません。そういう体質を作っておけば、万一の場合にも害を受けることは極めて少ない。

すぐ手や足を上げて振る。裸療法をやる。水風呂に入れば治ってしまう。毒ガスはそういう具合に願います。

九番は運動。運動は即ち自然界の原則であって、自然界には当然運動がある。これはどういうものをやるかというと、最初に金魚というものを考える。それから毛管、脊椎運動、これは動力学的療法です。

それから十番としては安静です。自然界の静止、これは動の蓄積になります。第一に平床、それから硬枕、これは睡眠であって、即ち静力学的療法になります。

次が十一番で細胞、原子、これは無論細胞療法です。細胞療法は即ち断食、それからここで咀嚼主義と言って、このことは著書にも雑誌にもありますが、しかしこれも極端になりますと言語障害症になります。それから朝食廃止と、ここで初めて朝食廃止になります。こういう風になってくる。

以上、十一まで述べましたが、人間としてはこれに五常というものが含まれる。人間でなければ五常はいらない。即ち仁、義、礼、智、信というものがここに入る訳です。

生命 —— 生殖 —— 遺伝、というものがここに間断なく循環して行く。ここで勢い哲学の領域に入る事になりますが、これがテトラパシーで、精神でもなく肉体でもなく医学でもなく、薬物でもなくて、もうすべての研究が包括されている。ですから、現在の医書に書いていらっしゃるという事が、私どもの方から申しますと、単にその20分の1すらもやっていらっしゃらないという事が言える。これで果たして信頼していいか。どうしても将来医者自身がテトラパシーにはいって戴かなければならん。今のところではとても安心して生命を任せることはできない。現代のお医者さんの方では40歳で死のうが、30歳で死のうが、あれは病気をして死んだなあという様に極めて簡単で、ちっともそこに何等の考えを持っていらっしゃらない。また同僚が病気に罹った時でも、……私どもに懇意な方がありますが、病にかかるとどうも駄目だ、あいつに頼んだって碌なことをしないから治療は頼めない。病人になると仲間の悪口ばかり言っている。ですから西式を少しでも知っていらっしゃる医者は安心することが出来るというのはこういう訳です。何も一々現代医学を、みだりに誹謗しようとするわけではありませんが、しかしながら、自分は自分の子供を失い、親を失い、兄を失うとか養父を失うとか致しておりますので、現在の医学に対しては、その真価が判っている。結局、自分でやるより外に方法がない。そうしてみるというと、こちらが中心となってやらざるを得ない、という事になるのです。

こういう訳で、健康法というものが出来上がったので、私の申し上げている処の材料は多くの医書を読んだ結果で、皆様も出来るだけお読みになって頂きたい。

その次に申し上げることは

金魚運動でありますが、我々の脊柱はいろいろの方向より見まして、揃わなければなりません。それから実際に私も不格好な男ですけれども、こういう具合に平床の上に休むと背中がピッタリと着いてしまう。これが着かない方は板の上に寝ると無論痛い。それは寝た時に水平になるべきアーチが水平にならないから痛い。病気をしたような方は背中がピッタリつきません。それで記憶して頂きたいのは西の銘の文句にある「其形ヲ踐ム者ハ惟レ肖タリ」(その形をふむものはこれにたり)まあその真似事でもなさるというと、段々よいように変わっていくという事になるんです。曲がりなりにも好い真似をすれば、段々好い方に似てくる。ですから、ともかくも平床に寝る。そして脊柱の着かない人は着くように努める。

こういうことが必要になります。

(続く)

❮月刊『テトラパシー』昭和13年4月25日発行第7巻第6号❯より

(昭和12年9月28日開催本部例会講義より収載)

 

                                    朝食廃止について (第5回)

西 勝造

この前も申し上げました通り、あなた方は普通3時間乃至4時間でもって小水にいらっしゃったのが、もし10分か15分で小水にいらっしゃらなければならなくなったという時には、感謝しなければならない。ありがたし、かたじけなし、とお礼を言わなければならない。それは積悪をなすったからいけないので、これを出さないのが不自然です。これはお棄てになるより仕方がない。「およそ天下の疲癃残疾、惸独鰥寡皆我が兄弟の顛連として告ぐるに無きなり……」(およそてんかのひりゅうざんしつ、けいどくかんかはみなわがきょうだいのてんれんとしてつぐるになきなり……)自分で悪いことをしていらっしゃったからで、身体に毒を溜めていずに知らん顔して流していらっしゃればよい。10分か15分で小水に行かなければならないような身体を造ったのは誰を恨みましょう。自分から出たことなので恨む事はない。いつ迄もこれを溜めておくと、膀胱カタルを起す。毒が全身に廻る。

ですからそういう場合には、喜んで膀胱に感謝しなければならん。やれありがたし、どうもよく教えてくれた、そこでこれは流してしまう。膀胱が膨らんで尿が流れないから痛くなったり、血尿が出たりする。これ等は、その根本が足の故障から来ることが多い。足を痛めたとか硬化したとかすると、心臓、腎臓に影響を及ぼす。そして尿意頻數(ひんさく)となり、それがまた背痛(Backache)にまで進展して行く。背痛と言うのはつまり背中の痛い病気であるが、大分平床に寝て背中もぴったり付くようになったから、もう良かろうなどと思って1週間も止めていると、背中があちこち痛くなったりする。これが即ち背痛で、他の種々の原因からも来て居る。ついでですから、これをちょっとお話しますと、第一が先刻来お話ししました尿意頻數で、第二は摂護腺の癌の前駆病としても現れる。もっともこれは男子に限ります。それから第三は急性腎臓炎です。それから第四が腎臓結石で、五番は腎盂炎です。私のは医学をやったのじゃないから、或いは発音が違っているかも知れません。医書を読む事はたくさん読みますが、医学の専門的の言葉は、或いは違っているかも知れませんが、事実に誤りはありません。なお原因を続いて挙げますと、六、遊走人腎、七、生殖器、泌尿器系統、これには膀胱炎は含まれておりません。八、琳毒、九、子宮頸疾患(病毒感染)、十、圧縮性繊維性子宮、十一、圧縮性妊娠子宮 —— 医学辞典によってやっておりますから多少おかしいのがありましても文字には狂いはない。十二番が子宮後屈となっている。ただこれは原因中に膀胱カタルがないということを示すために書いたんです。背痛、つまり背中が痛いという原因にはしかしながら膀胱炎はない。だから膀胱カタルというものはこれは後の問題です。つまり小水が頻々出なければならんという時に、その時にあなた方はやれありがたし、かたじけなしと小水に行かなければならん。小水の排泄は決して不自然でない。

不自然のことのように考えていますが、これは小水を垂れ流すのが自然です。これは結局足に来なければならん、足首が悪いんで腎臓の痛みが現れる。それから1週間なり、10日間から或いは2週間も辛い物を食べるとそれは尿が近くなります。しかし、知らん顔をしてお捨てになればよろしい。その時一つ尿の試験をなすってもよろしい。しかし、化学的変化があってもビックリなすってはならない。知らん顔してお出しになればよい。

帰って来てから知らん顔をして毛管をやっている、知らん顔をしていればいるほど早く治ってしまう。それをどっか故障があるんじゃないかと言って、鹿つめらしく試験反応を見て、ハハァ腎臓が悪いんですとやっている。そうして病人に極めてしまうんです。だから世の中に病人をつくるのが医者だと言うんです。15分か10分おきに小水に行って知らん顔をしていれば、何も故障を起こす必要はない。むしろ溜めて置いて、それでもってもとへ戻すと膀胱炎になるんです。しかしそのようにして膀胱炎になろうとなさる方はご隋意におなりになればよい。ここが西式の面白いところです。それはご勝手です。よろしゅうございますか。そこのところが西式の面白い所です。これはここにある西洋の医書に書いてある、もし医者の要らないというような人があるとすれば、よほど勇敢な人でなければならぬ、よほど正直の人でなければならぬという事を書いている。

(続く)

❮月刊『テトラパシー』昭和13年4月25日発行第7巻第6号❯より
(昭和12年9月28日開催本部例会講義より収載)

 

                                   朝食廃止について (第6回)
                                                              西 勝造

現在の医者は治るものと思って平気で医業を開業している。これは嘘つき、詐欺であるという事をいっている。しかし本当の事を知らないのだから、それは仕様がない。知識の無い者は導かなければならぬ。教えなければならぬ。

結局西式は一大哲学で、それはどういう哲学かといえば、一元、二元、併行一元説という、こういう説なのであります。我々人間は、生まれた時は一元、Primarism 生まれた子供は、肉体だけで西も東も知らない。段々大きくなって精神活動が始まり、ここに二元となり、最後は一元となって死んでしまう。十歳くらいの子供に、おい精神が本当か肉体が本当かと聞いても、そんなものは知らない。精神も肉体もそんな事は考えない。十歳以上になると段々と肉体的の事を考えると共に精神的な事を考えるようになる。次第に人間論というものを考える。唯心論、唯物論を考える、こういう様になってくる。

この二元論ということについて、哲学上の事を話し申せばいくらでも申し上げられますが、ともかくも、これは最も古い問題で、しかも新しい問題です。心と肉の問題です。精神だけが病気を司ると考えているのは誤っている。また肉体だけと思うのも誤っている。現代医学というものは、肉体だけが対象となっているし、それから精神療法は精神だけしか考えない。どちらも幼稚なものだと言える。

で、精神が先か、肉体が先かということについては、朱子は理先気後説(りせんきごせつ)を唱えている。朱子の理というものは、これは精神ですから、理先気後説は精神が主で肉体が従です。朱子学の系統を踏んだ人は全く二元論者です。

中江藤樹先生は、初め朱子の学に心酔して二元説に熱中しておった。ところが、段々歳を取るようになって、37歳の時、陽明全集、例の王陽明の学説を読んでから理先理後説、肉体が先で精神が後だということを唱えました。中江藤樹先生は41歳で死にましたけれども、とにかく立派な学者です。中江藤樹先生は、この気先理後説にはいったのは37歳の時ですから、37歳、38歳、39歳、40歳、41歳、僅かに4年間の生命でそうして死んでしまった。もし、中江藤樹先生に今5年の生命を与えたならば、いわゆる平行論者になったろうと思う。彼に今9年の生命を与えたならば、精神は明らかに肉体に入っている、単に肉体が先で、精神が後である、そういう幼稚な哲学で彼は終わらなかったと思う。惜しいかな、彼は41歳で死にましたが、50にもなったら、おそらく平行説に入ったろうと思います。

この平行説は無差別である、一元の境地にはいればもうこれは一理です。中庸にいわゆる「初めは一理に始まり中ごろ散じて万事となり、末はまた合して一理となる」というのはこれです。「これを放てば六合に亘る」これが六大法則であります。だから人間の病気、もし病気になったら六大法則をなされば治る。もしこれをなすって段々痩せる方があれば、それは、その痩せていくのが宜しいんで、少しも差し支えがない。

六大法則はこれを放てば六合に行きわたるというのは、ここにあるのです。どっちに転んでも、ちっともご心配はない。

かつて、こういう事実があります。某国大使ですが、ある所に於いて夕飯を食われた。そうしたところが、しばらくたってその娘さんが騒ぎ始めた。言葉が解らないので原因が解らない。しかし、その様子からみると足が痛いらしい。原因が解らないから療法もない。みんなうろうろしてしまった。とにかく医者を呼べという事になって医者を呼んだが、大使はもうびっくりしてしまっている。しかし、これは座った事もないのに、日本へきて座るものだと思って、長い間座っていたので、しびれを切らしたのだ。それを知らないで大騒ぎをしたが、間もなく治ってしまった。仕方がないので医者に幾らかやったことを聞いていますが、まあ大体経験のない事をやると恥をかく。しかしこんな場合、毛管でもやればすぐ治ってしまう。だから人間の病気というものは、病気になったら六大法則をなすって、もし段々痩せてゆく方がいれば、それはその痩せてゆくのが療法であるとお考えになればよろしい。

この前お話したかもしれませんが、ウッドレーの書いた「我々の健康」という書物の第4章の61頁に体重と健康のことが書いてある。もしあなたの寸法が5尺2寸8分と致しますと、これをメートルに直すと1.6mになりますが、その1mという頭をとってしまって、残りの6だけを体重にすれば理想的である。つまり60㎏で、貫に直せば16貫になります。仮に健康の人があって、身長を1.68mとしますと、この人の理想的体重は68㎏で、まァ大体65㎏から70㎏の間を往来していれば、この人は病気をしない。こういう事を言っております。

(続く)

❮月刊『テトラパシー』昭和13年4月25日発行第7巻第6号❯より
(昭和12年9月28日開催本部例会講義より収載)

                                  朝食廃止について (第7回)

西 勝造

私の常に申しますのは、皆さんが座高というものお測りになりまして、これを三乗したものを10で割ったものが体重なんです。これ以下は良い、以上になれば病人、身長はセンチ、体重はキログラムで表す。例えば私の座高が85㎝なら、その85を三乗して、10で割るので61㎏412gになる。こういうものが、私の座高から来た目方になります。だから私は61㎏であるから健康、もし私の体重が62㎏になるというと、それは病気なんです。あるいは肉付いて太る事があるかも知れませんが、座高に変わりありません。いずれにしても科学者が研究した事を見逃してはなりません。62㎏以上になってはいけません、以下ならいい。以上になるというと心臓麻痺を起すとか、あるいは腎臓、その他に症状を起こす。だからその点をご注意申し上げておきます。

常に申し上げます通り、近代の戦闘に於いて現有戦闘力というものは、精神的と物的の二大要素が必要である。いくら精神的要素があっても物的要素がなければいけません。

今朝の東京朝日新聞に献金が600万円になったと出ていましたが、これは一人当たり10銭位にしかあたっておらぬ。だから寄付金などというものは、実際知れたものです。我が国において陸海軍の献金は来年いっぱいどのくらいになるか分かりませんが、中々戦費の方はこんな事ではすまない。或いは百億を突破し二百億を突破するかも知れませんが、その時になって国民は金を差し出す覚悟がなければならぬ。しかし無いものはいくら出そうとしても出せない。ですから、なるべく消費しないで積み立てて置かなければならぬ。ですからこれから朝飯を止めて、それを10年間なら10年間、お積みなさっておいて、何時で政府の御用に応ずる覚悟がなければならぬと思う。

それについてはもう長い間にわたって、私は朝飯の害を述べている。また、今日では英国人のウェバーという医者によって、朝飯はおやりにならん方がいいということが、書物に書かれている。その他たくさんこういう朝飯の害毒などということを立証することができるのであります。その毒になるものをわざわざ食べて、そうして何も病人にならんでも宜しいじゃないか。そこで、一食でいいという事は、先刻申しましたが、この書物にも一日一食がよいということを書いている。とにかく、我々は朝飯を食べないという事がいい。よく朝飯は食べずにいられないという方があるが、そういう方は糞便の溜まっている人です。

その朝食を止めにくい方が止めるには、どうすればよいかというと、それはできるだけ今までお食べになった朝の御飯、これを段々時間を遅らせる、そして結局12時か1時に朝飯を兼ねた昼飯をやるというところまで持っていく。しかし空腹なのを我慢してやっている必要はない。お腹の空いたときには水をお飲みなさい。水も一時腹(いっときばら)と申しまして、水の方がいいという方がありますけれども、それは寒天を召し上がったって宜しい。朝飯を食わなければ楽しみがないという人がありますが、朝飯を見るのも嫌だという人もあります。私など朝飯を食っている人の顔を見ると気の毒で仕様がない、朝飯というものは犯罪です。食っている人から見ると楽しみがないというのですが、楽しがっている人の顔を見ますと、ハハァこの人も病人かなと思う。お食べになりたい方は、病人なんですから、それはおやりになった方がいい。しかしそういう方の通じはというと、いつも溜まっている。その点をお考えにならなければならない。それでいつ何を食べるかという事は、断食療法にも書いておりますが、玄米、半搗米(はんつきまい)、七分搗など最も良い。

それから、どういう食い方をしたらよいかという問題に入りますが、大体いくら食ったらよいか、この事についてはこれは原稿ができていないので、はっきりしたことは申し上げられませんが、とにかくいろいろ計算のやりかたをお示し致しますと、ここに仮に今90㎝の座高の方があったと仮定すると、座高を掛け合わせたものは腸の面積810平方㎝、これは座高90㎝の方の腸の面積です。あなた方はまあ大体筋肉労働をしていらっしゃらないが、1平方㎝あたり大体において、少し多いと思いますが、4ネムですから、4ネムに810平方㎝を乗じて計算しますと3,240ネムと、そう解釈すればよい。もし白米とすれば、今仮に1ℊを5ネムとして3,240ネムを5で割ると出てきたものは648gになります。みんなこれを食わなければならぬ。白米1合は145gですから、648を割ると出てきたものは0.44,即ち4合4勺となります。ところが、実際問題として日本で消費する米の量はざっと申し上げますと、平均1人当たり1年1石ですから1日の量は2合か3合、詳しく言えば2合7勺ということになる。これをネムに直しますと、2合7勺の目方は391.5gです。そうすると、このネムの値は1g5ネムになりますから、出てきたものは1957.5ネムとこうなります。この1957.5ネムというものを只今の3,240から引くと、後に残るネムというものは、1,282というものが副食物のネムとして出てくる。このネムの副食物として実はそこまで計算したのであります。後は毎日何がいくら何がいくらというようにお考えになると、お解りになる。私の方にも計算は出来ておりませんが、これは、私がやったのはあなた方にお話ししてもちょっとお口に合わない代物らしいんですから、自分の書きかけの研究内容だけをお示ししたんです。そんなものは決して食わんという事になっちゃ困りますが、今の研究の例を示しますと、大根、ニンジン、ゴボウ……俺はこんな物食ってはいないと怒られるかも知れませんが、これだけおあがりになっておれば、後はご自由に召し上がっていい。これはどういう具合になるかというと、ネムの値をお出しになると立派に出てきます。ネムの方は今日は持ってきませんでしたから、それはいずれ会員の方には印刷にでもして差し上げることに致したいと思います。そうすると、あなた方がここになんでもお出しになると宜しい。例えば肉類三分の一、或いは野菜三分の一、海藻類三分の一、こういう式をお出しになる事もできる。

(続く)

※注:本書には今日の人権意識に照らして不適切と思われる表現がありますが、時代背景と作品の価値、また著者が故人であることに鑑み、そのままとしました。(編集部)

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