ますます迷走する、政府コロナ対策
本年5月8日より、新型コロナウイルス感染症(以降;COVID-19と表記)が感染症の『2類相当』という分類から、インフルエンザと同様の『5類』に引き下げられるとのことです。
私自身は、それが、別に歓迎すべきことでも、懸念すべきことであるとも思いません。
ご承知のことかも知れませんが、何がどう変わるのかということを整理して簡単に解説します。
感染症予防法
正式な法律名は『感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律』というのだそうですが、一類から五類まで、具体的に病名が指定され、感染、発症者に対する、行政が行うことが出来る強制的措置などが定められています。
例えば『第一類』には、エボラ出血熱、ペスト、ラッサ熱等が指定されています。行政に、強制入院(都道府県知事が必要と認めるとき)であるとか、対物消毒等の処置を行うことが実質上義務付けられています。
ご承知のことかとは思いますが、COVID-19は感染症法上の正式な分類は未だにされておりませんで、『二類相当』という位置付けがなされています。
まるで、最初から、弱毒化を予想していたかのような対応です。
と言いますのは、世界的な大流行などしたことのない、重症急性呼吸器症候群(SARSコロナウイルスに限る)であるとか、MERS(中東呼吸器症候群)、さらには細かい条件は付きますが、鳥インフルエンザなども、正式に二類に分類されているからです。
にもかかわらず、世界中でこれだけ大流行し、犠牲者の数もけた違いに多かったにもかかわらず、分類を『二類相当』にしていたことは、ひとつの謎です。
陰謀論者に言わせれば、元々兵器として開発されたウイルスだから、一定期間経過後は弱毒化変異をしてくれないことには、兵器として使えない。
なぜなら占領軍、地上部隊を送り込むことが出来ないから、ということになります。
政府予算の節約のため?
もちろんこれも、あり得ないことであって、すでに3回でも4回でもワクチン費用全額国庫負担、入院等医療費も国庫で負担するという政策をずっと取り続けていますから、すでに不自然なくらいの莫大な国費をつぎ込んでいます。
本格的航空母艦一隻分くらいの予算は使ってしまっているわけですが、維持費と言うことを考えれば、空母よりは安く済むということにはなるかとは思いますが。
次に、『五類感染症』について解説します。五類感染症になると、インフルエンザと同じ扱いとなります。つまり、受診者がインフルエンザに感染していると知った医師は、所轄保健所への届け出義務がある、というだけです。
特別な医療費補助などの制度は存在しません。
もちろん悪条件が重なれば、インフルエンザといっても決して甘く見てはいけないのですが、原因ウイルスがインフルエンザ・ウイルスであるということが、比較的容易に特定可能な、俗にいう『風邪』の一種である、ということです。
一気に変えると混乱するから徐々に変えていく、というのがお役所の常套手段なのですが、三段階降格というような大幅ダウンですから、階級が付与される公務員であれば、依願退職するしかないというような処分に相当します。
何が変わる? ワクチンは?
そこで、分類ダウンに伴って行われるのが、医療費の実費負担(もろん、健康保険制度の対象ではありますから、2割負担であるとか3割負担という意味)ということになるところなのですが、政府のお慈悲によって当面は治療費も、ワクチン費用も無料にしてくださるということのようです。
ありがたいことです、涙が出ます。もちろん冗談です。
その一環として、それはまったく別な審議会のようなところの意見であって、政府として正式に決定したわけではまったくない、ということになるのでしょうが、予算の問題もあってか、ワクチン無料接種は年1回くらいにしたらどうか?ということも議論されているとのことです。
ご承知のように、ワクチン多数回接種者は日本には、およそ6千万~7千万人くらいはいらっしゃいます。
そして、全員に起こる共通な現象であるのかどうかとなると、確実であるとは断言できませんが、COVID-19に対する中和抗体量は、ワクチン接種後3か月を経過すると急激に低下してしまう、ということがデータから明らかとなっています。
そのことが判明してから、ワクチン接種推奨間隔を5か月経過後から4か月経過後に短縮したはずなのですが、これからは年に1回だけという案が出ているとい訳で、政府としては観測気球を上げているのだと思われます。
内閣支持率への影響をかなり気にしているのでしょう。何と言っても朝令暮改の岸田内閣ですから。
ワクチンの効果を無条件に信頼しているから、積極的に接種を受けていたような方々なら、1回だけ無料としておけば、残りの2~3回は自費で接種を受けてくれるだろう、という期待があるのかも知れません。
つまり、経費節減と感染拡大予防の一石二鳥というベストプランのつもりなのでしょう。
どうせ、感染予防効果はほとんど期待できない(製薬メーカーも認めている)し、重症化予防効果も怪しいということになれば、まあ、気休めとしての制度は残しておこう、政府に対する信頼感を維持するためにも、といったことであるのかどうかは判りませんが、医学的、科学的には意味不明と言うしかありません。
いったい、何をしたいのでしょう?
5類に分類を下げたのは、ただ、防衛費大幅増額を優先したいから、コロナ関係支出を減らしたいというだけのことなのか、少しでも感染拡大を止めたいと考えてのことであるのか、まったく医学的な観点からではなく、政治的レベルでの議論でしかないと言えます。
まあ、そう考えると、常々申し上げておりますように、政府分科会の中には本当の意味での専門家、ウイルス学者であるとか、呼吸器感染症の専門家をまったくと言って良いほど参画させていないということは、あくまで、政治上の都合で政策、対策を決めていけるように、ということなのでしょう。
マスクについて
同時に、マスクの推奨基準も改めるとのことです。再三、再四申し上げておりますように、マスクの装着による自分自身に対する感染予防効果、感染者が他人を感染させてしまうことを防ぐ効果につきましては、世界中どこにも、まったく科学的かつ信頼に足るデータがありません。
先日のカナダ事情で述べさせていただいたように、少なくともカナダでは自らを守る効果はある程度あるだろう、という防弾チョッキ的な位置付けですが、日本では、本人の感染予防および自身が感染していた場合には、他人に対する感染防止、という両者に対する万能的な効果が、何となく信じられているといった雰囲気です。
しかし、繰り返しになりますが、有効性に対する信頼に足るような科学的、医学的データはまったく存在しません。で、あるからこそ、政府で勝手に、適当に決めることも可能である、ということになります。
そして、こういう時の決まり文句は、『総合的に判断して』ということになっているようです。
三浦瑠璃さんのフジテレビ番組降板理由も『総合的に判断した結果』ということでした。
何も具体的なことは述べていないのですが、独特な官僚用語で、官僚はいかにも慎重かつ、積極的に推進しているようなニュアンスを持たせる用語を創り出すのがとても得意です。
つい最近までは、「スピード感をもって」であるとか、大昔は「前向きに」という用語が多用されてきましたが、最近の常套句としては「総合的に判断して」という表現が多用されています。
繰り返しになりますが、マスコミは「つまり、具体的な理由は何なのですか?」という質問をしてくれなければ困るのですが、マスコミはそのまま垂れ流すだけで、まったくと言って良いほど機能していません。
推奨内容の変更理由は?
5月8日以降、という設定は、5月19日から21日に開催が予定されている、
広島サミットの前に、国民のマスクの装着率を下げておきたい、というのが狙いだという説があります。たぶんそうなのだと思います。
海外からのVIPやその随行員、警護員にまで、マスク装着を強要する訳にもいかないし、だからといって日本側関係者は閣僚から、周辺警備の警察官まで全員マスク装着というのは、調和を乱すということなのか、これも総合的に判断した結果なのでしょう。
とにかく、これではっきりしたことは、マスク装着の有効性など、実質的には政府でも全く信じてなどいなかった、でも、国民が有力な手段と信じて行っている行為に水を差すわけにはいかない、という意味不明な大衆迎合だったということが明白になりました。
もちろん言い出しっぺの責任回避、という要素も大きいのではないかと思いますが、呼吸器感染症(ほとんどは実質的な空気感染)に対するマスクの有効性は、いったい誰が言い始めた事だったのでしょう?それも全く不明です。
たぶん、結核やハンセン病対策といったことで100年近く昔から、ほとんど科学性も証拠もないものの、やらんよりはマシだろう、といった感覚で始められて、長いことやっているうちに、いつの間にか常識として定着してしまったことなのでしょう。
単なるインフルザや冬季の風邪感染防護対策、あるいはその目的を兼ねた防寒具として、かなり昔から日本においてはマスクをしている方々も多かったという印象はあります。
20年前であれば、ほぼ全員がガーゼマスクであったと思われますが。
ガーゼマスクは論外としても、不織布マスクであれば、相応の感染防止効果があるのなら、インフルエンザ・ワクチンなど必要もないということになりますし、医療機関や老人施設では、もともとずっと以前から、マスク装着、手洗い励行などを徹底していた訳ですが、実質的な空気感染であるウイルス性の呼吸器感染症には全く無力、だということが現在では共通認識です。
手洗いの励行も、食中毒防止にはかなり有効ではありますが、呼吸器感染症には全く無力です。
海外のマスク事情
一時期には、多くの海外諸国でも法規制によるマスク装着を義務付けていたようです。
この理由ははっきりとはしないのですが、一時期、日本における感染者が非常に少なかったということが理由であった可能性があります。
諸外国においても、有効なのかもしれないなということで過大評価したのでしょう。どうせ、他に有効な日常的対策も存在しませんでしたから。
それでも、マスク装着率が断トツの日本が、一時期1日当たり感染者数が世界一になってしまったという事実によって、世界の常識は、マスク有効性幻想に気付いたようです。日本では全くその気配がありませんが。
そうなってくると、諸外国では国民にマスク装着を強要するようなことは許されない、という極めて常識的な判断によって、多くの国でマスク装着に関する法律を停止したものと思われます。
装着義務も解除も政府の責任において行っている、というところが日本政府の対応と大きく異なるとこところです。
日本政府のやり口は卑怯
日本はというと、言うまでもありませんが、正式な法律、条令などでマスク装着を強制したことなど一度もなく、マスコミをうまく使って、マスクを装着しなければいけない、という強力な世論、雰囲気を醸成し、従わせるという、諸外国からうらやましがられるような世論操縦に成功しています。
日本国民の国民性というのも、かなり寄与しているものと思われます。
それでも、今度はサミットの雰囲気を壊さないために、マスク装着推奨もやめましょう、ということになると、私は大歓迎ですが、まったく科学性も何もなかった、という事実を、政府自ら告白したようのものです。
そうなると、以前ご紹介した航空機内でマスク装着を拒否したがゆえに前科者にされてしまった奥野氏の人権はどうなるんだ?ということが問題になります。
大分県臼杵市の県議の方の落選も、誤った情報によって得票を大幅に減らしてしまった結果であり、政府、マスコミ主導の悪質な選挙妨害ということになります。
奥野氏事件で言えば、ピーチアビエーションの当日の運行管理責任者とパイロットによる科学的には誤った大衆迎合判断、過剰反応によって、不要な緊急着陸をしてしまったということになる訳で、この問題の原因といえば原因であった、奥野氏に対する司法の判断は、まるで戦中を思わせます。
執行猶予こそ付いたものの、前科者にされてしまった彼の人権はどこへ行ってしまったのでしょう?
マスクはまったく無意味であった、とくに換気能力が極めて高い航空機内では、仮に奥野氏が感染していたとしても、マスク装着をしていなかったことにっよって、他人に感染させてしまうリスクを上げる可能性が少しでもあったのか?
そこが争点となるべきでしたが、裁判官も検事も『機長の指示に従わなかったことによる、威力業務妨害』などという、見当違いの無茶苦茶な判断で、単なる、細かいことにこだわる、基本的には善良な変わり者を前科者にしてしまいました。
マスクの効果など、実質的空気感染であるCOVID-19の感染防止にはまったくと言って良いほど役立っていなかった、関係なかった、ということが多くの学者、識者、国民の合意事項となった場合(サミット開催に伴って、マスク装着の推奨基準を大幅に緩和するということになれば、そういうことです)に、執行猶予付きとはいえ、奥野氏に懲役刑判決をくだした裁判官は奥野さんに泣いて謝るのでしょうか?
それとも、あの当時は日本中の人々がそう思っていたのだから、やむを得ない、仕方のない判決だったのだ、と顔出しなしの音声も変えた取材なら受けて反省の意思を見せるのでしょうか。
戦地で残虐行為をしてしまった、下級戦犯の弁明と同じです。
太平洋戦争中に、我が国の保有装備と兵員数と米国の保有装備と兵員数を比較して、ひょっとして戦況は不利なのではないか?という感想を述べること自体が許されざることであり、非国民として取り締まりの対象になる、お国に逆らう者は、あらゆる法規を明白な拡大解釈をしてでも取り締まるという姿勢と同じでしょう。
もっとも、その当時、そういった一連の行為に対する取締りが、大日本帝国憲法にも、当時の刑法、治安維持法等にもまったく抵触することがなかったのか?という点については良く判りませんが、今日では現行法規に抵触する可能性があることを百も承知で、その可能性を少しでも減らそうと、司法関係者が知恵を絞った結果ですから、考えようによっては戦前の司法よりずっと悪質です。
司法自らが、違法性がないことであっても、法の抜け道を必死に探して罰しようとしていたことは明白です。
奥野氏の事件発生から、逮捕起訴までおよそ2ヶ月以上要した、ということがこの事実を如実に語っています。
さすがに、現在の警察、検察には、戦中の特別高等警察のような強大な権限はない、という認識がありますから、どのような罪で起訴すれば、何とかギリギリ合憲、合法的な範囲に収めることが出来るかと、司法関係者で十分に協議していたからに他なりません。
フランスなどでは、国が決めたことだから抗議デモなどの示威行為も可能ですが、何と言っても日本では、別に政府が強制している訳ではありませんから、抗議活動そのものが成立しません。
究極の世論操縦であり、すべては自己責任という体制は世界中の専制的為政者から羨ましがられているのではないでしょうか。
お上の政策、政府がマスコミと一体となって醸成、刷り込んだ国民的合意に逆らうやつは、何としてでも罪に問う、という恐ろしい社会が目前に迫っているようです。
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