
毛管運動について
毛管運動については、いろいろな形で何度も解説をしてまいりましたが、この代表ブログでは解説していなかったようですので、簡単にポイントの解説をさせていただくことにしました。
血圧測定と単位
まず知っておいていただきたいことが『mmHg』 という単位です。この話を詳しくすると長くなるので、ごくごく簡単に申し上げますと、現在では血圧以外では全く用いられることのない単位です。
比重の重い液体である水銀を使って、例えば上腕を空気袋で圧迫していき、その後徐々に減圧して、血管を閉塞させた時点(トクトク音が消失)と、血流が再開した時点(トクトク音再開)を聞いて、血圧内壁にかかる血液の圧力の大小を測定するという仕組みです。
比重の大きい水銀を使った理由は、比重の小さい例えば水のような液体だと、必要なガラス管の長さが3メートル近くになってしまうため、当時の医師が携行できないから、というのが理由のすべてです。
ガラス細管の外側には、上昇した水銀柱の高さを示す、ミリメートル目盛りが刻まれていますから、それによって、『水銀柱が何ミリメートル上昇したか』を表示した、極めて原始的な単位です。
地球の自転による遠心力の大小(緯度によって異なる)や、大気圧の高低によっても数値が影響を受けてしまいますし、無重力下では測定することすら出来ません。
きわめて正確な表示を求められる、工学系の単位系としては、まったく不適切で、科学、工業分野では使いものにならない単位である、ということで、他の分野では全く使用されなくなりました。
15mmHg
15mmHg というのは、生理学の本によると細静脈血管入り口付近の理論的血圧値とされています。
なお、この15mmHgという数値、水銀柱であれば1㎝5mmは重力に逆らって上がることができる圧力ということになります。
しかし、我々の体内を流れているのは、水銀(比重:13.6)ではなく、ほぼ水と等しい比重1.05 の液体(血液)ですから、水や血液であれば、およそ20cm持ち上げることのできる圧力、ということになります。
もちろん、それら血管は細すぎて、実測は不可能で、あくまで理論値ということになりますが、生理学上の常識とされている数値です。
なぜ毛細血管圧ではないのか?と疑問を持たれる方も多いかと思いますが、そのレベルでは浸透圧による圧力勾配によって血流が成立すると考えられていますから、細胞の活動による血漿中成分の成分吸収、細胞からの排出物によって、液体密度(浸透圧エネルギーの根源)が常に変化し続けていますから、固定数値としては表示しないことになっているようです。
そこで、血液循環の中心を心臓と考えた場合、立位の場合には心臓から20cm以下の部位にある静脈血管中の血液は、基本的には心臓には戻れないことになってしまいます。
もちろん、右心による吸引作用もありますし、肺による呼吸ポンプ作用もありますが、それだけでは不十分ということは、ある機能、構造によって証明されています。
脹脛の筋肉
まあ、当て字ということになりますが、脹脛という漢字の発音は『ふくらはぎ』です。
他の哺乳類のこの部位の筋肉には、ほとんど発達は見られず、立位二足歩行を基本とした人類が、全生物の中で唯一獲得した、そして最も重要な静脈血の補助還流システムです。
一般的に、主要な血管、神経線維は、体位の変化、筋肉の収縮などによって圧迫されることのない位置に配置されています。ごく一部の例外を除いて。
ところが、静脈血管だけは筋肉繊維中を走行するもの、表皮との間に挟まれて、姿勢変化、筋肉の収縮、弛緩によって圧迫されたり、開放されたりということを繰り返すようになっています。
ヒト、たぶん、多くの哺乳類も共通であるとは思いますが、四肢の静脈血管には静脈弁という、心臓方向へのみ血液を流す働きをするワンウェイ・バルブが備わっています。
この組み合わせ、静脈血管の配置、柔軟性、静脈弁によって、補助還流システムを構成している、という訳です。この仕組みのことを『筋ポンプ作用』と言います。
採血の時など、上腕をゴムバンドで軽く縛って、手のひらを握ったり、開いたり、という動作を求められることがありますが、これも静脈弁によるポンプ作用によって、静脈血管を推し広げ、表在静脈は縛られていますから、穿刺をしやすくするという理由です。
つまり、立位によって、どれだけ心臓と足先の距離が離れていようと(20cm以上の高低差)、歩き回ってさえいれば脹脛の筋肉による強力な『筋ポンプ作用』によって、静脈血は積極的に心臓に戻される構造になっているのです。
そのシステムが作動している限り、組織中に戻り切れない血液成分(血漿成分=間質液)の貯留量が徐々に増加して、浮腫み(むくみ)を生じさせることもありません。
しかし、平均的現代人の生活をしている以上、『浮腫』を生じることが避けられない、という現実があります。
都市生活者にとっての宿命
野山を歩き回るようなことが、まったくと言って良いほど無くなり、立位によって生じる高低差、静脈血の還流不十分によって生じる現象が浮腫であり、組織内に滞留、貯留することが避けられなくなってしまった、ということです。
そこで、その組織内に滞留した血液成分(浮腫、過剰な組織内間質液)を最も速やかに還流する方法として考案されたのが『毛管運動』という訳です。
一応、毎日朝夕2回、各々1~2分実施すれば、その問題を解決できる、ということにはなっていますが、残念ながら、平均的な現代人ではまったく足りません。
それはそうです、考案された時代は実質的には大正時代から、昭和の初期ですから、多くの人が日常的に下駄や草履(筋肉の使い方が固い底の靴とは全く異なる)などで相当距離を歩行し、また家庭内においてもほとんどの人々が、畳にちゃぶ台といった生活でしたから、筋ポンプ作用の発現時間も、日常的な姿勢による高低差平均も、現代生活とはかけ離れていた訳です。条件がずっと良かった、ということです。
そういった方々、当時の平均的日本人を対象とした内容が、1日2回程度、1~2分間の毛管運動実施ということなのです。
ですから、きちっと、ひざや足首、肘関節、手首も固めることなしに、ぶらぶらさせるような毛管運動ではダメで、腕、脚部全体に均一な微振動を与えないと、残念ながらあまり効果は期待出来ないのです。
西式運動器の電動化は終戦直後から
アメリカ留学経験を持っていた西勝造先生は、たぶん、口に出しては言えないものの、日本の敗戦を予想していたものと思われます。
基本的な工業力や一般産業の発達、進歩の程度が、米国は日本とはけた違いに進んでいるという事実を、その目で見て知っていたからです。
それでも、欧米の方針(悪く言えば“手口”)は熟知していたと思われますから、一部の人々が恐れていたように、『日本人の男性の多くは去勢される』であるとかいった噂はまったく信じずに、戦争に負けて米国施政下に入るであろうが、それはいずれ、米国の生活スタイルが日本にも定着すると考えたものと思われます。
まさか、多くの国民が自家用車を持つことが出来る、などということまで考えていたかどうかは不明ですが、生産性向上のための産業の効率化、機械化といったことは当然予想していたでしょう。
つまり、1~2分の毛管運動では全く足りない時代が来ると予見して、その当時から電動化を考えていたということになります。
楽をすればするほど
補わなければならない量は増える
大正時代には自動車事故で亡くなる方というのは、たぶん、日本全体で年にせいぜい数人であったと思われます。
徒歩以外の主力の交通手段である、人力車や馬車などによる事故自体は、それなりに発生していたものと思われますが、死者やけが人の数は、今日よりはるかに少なかったはずです。
速度も遅いし、乗車可能定員の数も少ない訳ですから当然と言えば当然です。しかし、一人の運転者が、複数人の利用者を運んだ方が効率は良いに決まっています。
荷物も然りです。また、速度を早くした方が、一人が単位時間で運べる人数も貨物量も増やすことが出来ます。当たり前です。
それでも、一方で、速度が速くなり、複数人を一度に運ぶとなると、万一の事故の場合、トータルでのダメージが2次曲線的に増加するということも常識です。
飛行機事故では、些細な整備不良が原因で2~3百人が一度に死亡することもありますが、自動車や船舶で一晩のうちに北米大陸まで移動できるのかというと、これまた言うまでもなく不可能です。
大きな利便性の裏側には、常に大きなリスクと必要な対策をせざるを得ない訳で、大きな利便性とそれに対する対策は表裏一体ということです。
日常的にこれだけの利便性を甘受していながら、その解消は大正時代の労力と、経済負担なしに補える、と考える方が『虫が良すぎる』と言ったら言いすぎでしょうか?
健康を維持したければ、原始の生活に戻るか、受けた利便性に相応する対価、労力を払わない限り、帳尻を合わせることはできない、という極めて単純な話です。
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