西式健康法

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消化の理解

約49分

◆月刊『テトラパシー』誌昭和11年(1936年)第六巻第三号~第六巻第七号に「消化の理解」と題して掲載された記事を順次再録します。なお、旧字体や仮名遣いはできるだけ現代の文字に改めております。

❮月刊『テトラパシー』昭和11年11月発行第6巻第3号❯より

                消化の理解 (第1回)

北米にて 西 勝造

消化及び分泌の機構とその構成、破壊と結果

“人間の有機組織は、その健全と快適とについては、分泌機能の実効的遂行に所為するものである。もしも排泄の不完全からして、不用物が系統内に堆積するままに放任せられると、中毒性症状がまもなく続発してくるのである”

エリック・プリッチャード博士『嬰児及び幼児の生理学的育成法』

“The human organism is dependent for health and comfort on the efficient of performance of the excretory function. If, from want of elimination’ waste products are allowed to accumulate in the system, toxic symptoms soon supervene. — Dr. Eric Pritchard: —The Physiological Feeding of Infants and Children

宿便保留即ち慢性腸停滞あるいは腸麻痺が直接または間接に、あまたの重症性及び極めて重症性障害と疾患とを招致することについては、私は既に別著に於いて完全にこれを挙示しておいたつもりである。私の引用せるが如く、これについては幾多の権威ある証人もあり、更にこれを絶対的に明瞭ならしめている。読者の多数は、慢性便秘即ち宿便が疾患の中で最も険悪な最も恐るべきものであることを既に確知せられているであろう。

これは拙著『闘病の秘訣』の巻頭に於いて私の挙示せるところである。しかしながら、少数の医学専攻家は私の提示せる数多の証拠を見ても、あるいは承服せられないかも知れない。

それは衰弱して不幸な転帰をとった人々が解剖された場合、その腸管の内部には少しも宿便が見当たらないからである。しかし変死したり、打撲傷を受けて急死したりした人々の大腸内には、多量の古い糞便の堆積せられるのを剖見するであろう。かかる医師諸氏は更に科学的証拠を求められるであろう。これに反し、多数の我が会員諸氏に於いては、一般の読者と同様に私の唱えることに対しては直ちに賛意を示され、如何にせば宿便即ち慢性腸停滞を防止し得るや、既にこれが根を下ろせるときには、如何にしてこれを治癒し得べきやを知らんと欲せられるであろう。かかる二様の読者が満足されるためには、我々は消化と分泌器官との機構とにつき考察し、更に我々の腸が変質を起す様態を探求してみたいと思う。これによって明らかにせられる重要な事実は、懐疑者を説服せしむると同時に、腸を良き状態に保持せんと欲する人々、または腸を健全に且つ正常に回復させんと欲する人々に、所要の知識を提供するであろう。

我々の多数は、我々の身体を殆んど考慮せずして何等の思慮もなく人生を漂泊している。我々は自ら好ましく思うもの、或いは他人の勤むるものを食べるのである。その結果、我々が肉体的不快を経験すると、我々はそうした障害の原因を胃または肝臓あるいは腸のみに求め真の健康法を究めず、真の生体の機構を知らざる人々の製剤に係わるある薬剤または他の丸薬を用いて、事態を矯正せんとするのである。かかる薬剤は、一時的には極めて有効であっても、これを再度服用していると、遂には習慣と化し、究極に於いては、悲惨な結果を招くであろう。

我々の身体は、世界に存在する最も驚異的な機構である。人間の制作せる最も精巧且つ最も完全な機関といえども、これを神が我々に賦与せる奇跡的な自働的な自己整調性、自己清掃性、自己注油性及び自己修理性に比すれば、甚だしく不手際な駄作としか思われない。

我々の眼(まなこ)が、望遠鏡や顕微鏡のように強力でないことは事実である。しかしながら、我々の眼は、望遠鏡あるいは顕微鏡として働くばかりでなく、写真機としても働くのである。それは顕微鏡、望遠鏡及び写真機を兼備せるものであることを知らなければならない。我々は種々なる距離にある物体に焦点を合わせる為に、長い管を引き出す必要はない。しかし望遠鏡を用いる場合にはそうしなければならないのである。人間のレンズは、望遠鏡、顕微鏡及び写真機のレンズの如く硬直せるものではなく、屈伸性を備え、その機能を求められるや、即時に且つ奇跡的に自ら調整作用を行い、あらゆる種類の職能を遂行するのである。我々が窓や眼鏡等を掃除する時、たとい如何に繊細な布切や鹿皮、ブラシ、羽毛等を用いてもこれに掻き傷を残さざるを得ないであろう。人間の眼の窓は、絶えず眼瞼によって拭われ、且つ涙によって洗われて、必要とあらば一世紀の間でも清浄に保たれ、掻き傷を残すことがない。涙は実に奇跡的な溶液であって、軽い防腐性を有しており、単に眼を清潔にするばかりでなく、更に塵埃を拭い去り眼の隅にある格別に柔らかき粘膜を冒す疾患性細菌を滅殺するのである。

(続く)

❮月刊『テトラパシー』昭和11年11月発行第6巻第3号❯より

                           消化の理解 (第2回)

北米にて 西 勝造

消化と分泌器官とについての話は、上品な人々の間ではこれを避くる傾向がある。これは陳腐な、がさつな、下品な厭らしき胸の悪くなる話柄であるように考えられている。

しかしながら、これは眼と同じく驚異すべき機構である。不幸にも、科学は未だ身体の作業を充分に把得するに至っておらない。我々の知識はかくのごとく断片的であるにも関わらず、私は消化器官が眼と同じく奇跡中の奇跡であるとを明瞭に支持し得ると思っている。

我々は、口腔内に於いて唾液を作るのであるが、この唾液こそは、少なくとも涙と同じく驚異的であり且つ実効的である。唾液を作る腺は三組ある。これらの腺は各々特有な溶液を作るのであって、それは他の二つの腺によって分泌せられる溶液とは甚だしく異なっている。咀嚼せる食物の性質如何に応じ、これらの唾液腺はある液汁または他の液汁或いは適当な混合液汁を分泌するのである。

唾液は食物を滑らかにし、良く且つ嚥下しやすくさせて調理するばかりでなく、必須な且つ重要な化学的変化をも行うのである。唾液腺は、食物が眼に見え、鼻に感じた時に働き始める。かくして口腔内に水液を溜まらせるのである。

更にまた食物を見た時、匂いをかいだ時、胃は多量の強き酸性胃液を分泌し始めるのである。塩化水素酸(HCl)は皮革、木片、金属をも分解させる強力な腐食剤である。同時にこれは強き殺菌性を持っている。

清浄な胃は、毎日2ℊ乃至20ℊの純粋塩化水素酸を分泌する。然し乍ら、如何なる科学者も、如何にして胃がかかる強き酸を生成するかを説明していないし、あるいは、また胃の柔らかき内壁がどうしてかかる液体によって障害せられないかを解義していない。

この胃液は希薄にしても、我々の手の甲の柔らかき皮膚に塗るときは傷害するであろう。

胃液の成分もまた我々の摂る食物に応じ、身体によって周到に調節せられる。それというのも、各種の食物は個々に処理せられ、化学的に精錬せられるからである。

多量の塩化水素酸は肉類を処理する時に必要であり、少量のものは米、パン、野菜等を処理する時、ごく少量のものは、牛乳を処理する時に必要である。

正当なユダヤ人は、肉と牛乳とを同時に摂らない。古代の人々は、現代の我々多数のものよりも明らかに消化ということに精通していたのであった。

肉食者は、菜食者よりも塩化水素酸を多く必要とし、且つこれを生成することも多い。「胃弱」の人々は牛肉を止めた方がよいであろう。そして白身の魚肉、ヒラメとかカレイを少量摂るが良いのである。

消化の弱い人々にとっては、大体菜食主義とし、軽い魚肉、少量が効益のあることは古人も良く知っていたところであった。

(続く)

❮月刊『テトラパシー』昭和11年12月発行第6巻第4号❯より

                                     消化の理解 (第3回)

北米にて 西 勝造

ポウロ(St. Paul)はローマ人に寄せた書に記して“弱きものは、少量の魚肉に多量の野菜を食すべし”と言うている。ヒポクラテス及びその門下は、消化障害のある人々、塩化水素酸の分泌が不充分な人々に対し、肉食を慎むことを命じている。

胃液は、身体の液汁(血液、リンパ液、母乳等も含めて)と同じく、天然の防腐性と殺菌性とを持っている。我々は食物及び飲料と共に、無数の疾患性細菌を嚥下するのであるが、かかる細菌は、まず鼻汁及び唾液に次いで塩化水素液たる胃液によって、忠実に処理せられていく。

犬が腐った肉片を嚥下すると、総ての腐敗の根源は胃の中で殺滅せられる。かくして肉塊は健全化せられ、且つ無害性のものとせられるのである。

我々は一世紀前に盛名のあったジョン・ハンターの著書1835年公刊『第四巻』(John Hunter:—Vol. ⅠⅤ, 1835 P.96)その96頁に次の如く記述されているのをみるのである。

“もしも甚だしく腐敗せる肉片を犬に与え、しばらくしてから犬を殺して検査してみると、肉片は新鮮となり、総ての腐敗が終了せることが見出されるであろう” 云々。

胃は食物を消化するに過ぎない。食物が胃によって吸収せられるという考えが一般に流布しているが、これは誤りである。

吸収は極めて長い小腸内に於いて行われるのである。しかしながら、食物は夥しき微小なる突起物、即ち腸内壁の顕微鏡的「絨毛」(じゅうもう)を通して吸収せられる時までに、奇跡的な化学的溶液によって、更に精錬せられるのである。この溶液は、膵臓、胆嚢、及び腸管自体によって多量に分泌せられ、且つその成分は個々の所要に順応し、周到に調整せられるのである。著名なロシアの学者イワン・ペトロウイッチ・パヴロフ教授はその名著『消化腺の作用』(Prof. J. P. Paulov:—The Work of the Digestive Glands 1910, P.3, 31 and 32)

1910年公刊その3頁、31頁及び32頁に於いて次の如く記述している。

“消化の機能は、最近生理学教育上に流布せるが如き抽象的形態を以って説くことをもはや許されない。反応作用液の相異及び複雑性は次のことを示している。即ち、あらゆる単一な場合に於いて、消化管の作業は丹念に企画せられ、巧みに遂行せられ、なかんずく、当面の仕事に特に適合せられていくのである。個々の食事に対し——即ち処理すべき各組の物質の対し——特殊な性質を持つ反応作用液の適当な化合物が生成せられる。消化液の性質は、毎時の分量の変化を律する同一の法則に準拠し、分泌の過程中に於いて変化するのである。かくして我々は、諸腺の作業の驚くべき正確さを更に良く把得することが出来るのである。諸腺は、その求められるものを毛幅ほどの猶予も見せず、各個の時期に過不足なく供給していくのである。諸腺は種々なる成分の分泌液(多少とも酵素を含み、或いは個々の酵素の種々なる配合を含みたるもの)を生成し得るのであって、膵液の場合に於いては、かかる酵素の若干が所在している。加之(しかのみならず)、溶液のその他の性質(独りその酵素の含有量のみならず)も同じように変ぜられるのである。

 キッセン(Dr. Khizhin)博士が、胃袋を用い犬について行いたる研究によれば、混成食物の投与並びに牛乳、パン、肉片等の個別的投与によって飼養すると、各々の時期に於いて、胃腺の活動に特殊な変化が起されるという。分泌の特殊性は胃液の性質に限られていない。その流れの速さ及び継続時間並びにその総量にも及んでいる。パンに注がれる溶液は、最大の消化力を有している。我々はこれを簡約して「パン汁」と称している。

パン汁は牛乳に比し4倍の酵素を含んでおり、この点に於いて4倍の濃度をもっているのである。消化力のみならず、すべての活動も食物の性質に応じて変化する。しかしながら、

酸度は肉塊の場合に最小である(0.46%)。これと同様に、分泌液の総量及び分泌の継続時間も、食物の性質に所為している。

我々が食物を見積るに際し、その総量を測り或いは乾性物質の量を求め、或いは最後に窒素の含有量を調べるかしても、先の関係は同じように明らかとなるのである。(それというのも、胃液はたんぱく構成素に対してのみ働くからである)

例えば肉食の場合についてみると、最初の1時間または2時間に於いては、最大の速さの分泌が起るが、各時間中に供給せられる分泌液の量は殆んど同じである。パン食の場合においては、常に最初の1時間内に於いて、顕著な最大の速さが起り、牛乳食の場合に於いては第2時間または第3時間内に於いて、同じような最大の速さが現れるのである。

膵臓の作業もまた胃腺の作業と同じく、その分泌液が各種の食物に注がれる時の速度の点に於いて、特殊化せられている。もしも動物を飼育するに際して、食物の種類を変ずるならば、胃液の酵素含有量は日を追うて漸次食物の所要に適応してくることが見出されるのである。与えられた食物の影響を受け、実験動物の体内に於いて、膵臓活動の特殊状態が確立せられた時、我々は食物を変化し、同一動物の体内に於いて、これを数回転倒させることができたのであった”云々。

(続く)

❮月刊『テトラパシー』昭和11年12月発行第6巻第4号❯より

                                  消化の理解 (第4回)

北米にて 西 勝造

唾液腺及びその機能について、パヴロフ氏は次の如く述べている。(71頁及び73頁)

“⑴唾液腺の機能は、刺激の程度及び性質に順応し、その分量及び性質の両者を著しく変ずるのである。

⑵分泌せられた唾液の分量及び成分の変化は必ずしも常に並行しない。事実、これ等の両者は著しく不同であることが多い。

⑶しかしながら、その差異は、ある程度の系統的調整を受くるのである。例えば、食物を動物に与える時、その食物が乾燥して硬ければ粘液腺によって行われる分泌も多いのである。この通則は特に粘液腺に適用せられるものであるが、牛乳はこの通則に対して顕著な例外をなしている。

 牛乳に対しては、肉の場合よりも多量の唾液が粘液腺に分泌せられるのである。牛乳に関するこの例外は、次の事実に鑑みる時興味深きものがある。即ち粘液性唾液が牛乳と混合する時には、後にこの混合物が胃液と混ずる場合に、更に一層緩く更に容易に消化せられる凝塊がつくられるのである。牛乳性唾液は、極めて濃縮しており、すべての有機酸の中で最も豊富なものであり、その体積も大きい” 云々

パヴロフ氏は、動物に関する極めて精巧な実験に即して諸種の発見をなし、科学界も一般的にこれを容認しているが、氏はこれ等の発見を要約して、次の如く語っている。

“更に探求すべき幾多の問題が残されているけれども、我々は既に今日までに達成せられたところで満足すべき理由がある。

我々の研究より得たる結果は、従来の粗雑な且つ空虚な概念を永久に打破し得たものと思う。その概念とは、栄養管が消化作用の各位相の特殊な所要条件に関係なく、あるゆる機械性、化学性、または熱学性要因に対し、普遍的に反応するという事である。我々はかかる朦朧たる槪念の代わりに、錯綜せる機構が、その輪郭を明らかにせることを把得している。この機構は、自然界の他の総てのものと同じく、その行うべき仕事に対し、最も微妙に且つ正確に適応せられている” 云々

身体の化学工作は甚だしく驚異的であるため、最も偉大な化学者さえも当惑せしめている。かかる化学者は、身体内で行われる変換及び再変換の化学的過程を残らず発見して、これを解義せんとしているが、全く徒労に終わっている。身体は容易に脂肪を砂糖に或いは砂糖を脂肪に変ぜしめ、肝臓及び組織内に動物性澱粉、グリコーゲンと称せられるものを貯蔵し、緊急な所要を生じた時に、これを即時に変じて糖分とし、これを何等の遅滞なく吸収せられる形態のものとするのである。

精製せられた食物は、小腸の管壁によって吸収せられるけれども、本来の消化は小腸内で行われない。消化は、身体内に於ける吸収及び賦形(ふけい)を意味している。驚異的に調理せられた食物の分子は、その外観および化学的成分に於いて、我々の摂取せる米、パン、海藻、野菜、チーズ、漬物等と全く異なっており、消化し易くせられた食物の流れとして、腸から個々の細胞へ運ばれて行くのである。個々の細胞は無数に達するものであるが、独立し、且つ知能力をもつ小さき実体として働くのである。細胞はその傍を流れてゆく食物を吟味し、あるものを吸収して、あるものを退け、且つ吸収したる食物の中で不適当と認むる部分を、細胞自体の排泄物と共に排除するのであるが、かかる排泄物は多少とも有害性である。

口腔及び胃の諸腺、胆嚢、膵臓等によって、多数の驚異すべき且つ著しく個性化せる溶液が分泌せられるのみならず、種々なる内分泌腺によって更に驚異すべき液汁が極少量に精製せられ、これは身体及びその作業に対し、最も潜在的な効果を与うるものである。甲状腺から分泌せられる液汁の分量及び成分が僅少な不足を生じても、出生した時には頑丈で、望みの多かった幼児を白痴、ちんば、矮小となさしむるであろう。

かかる内分泌腺の分泌する液汁は、消化及び排泄器官の適正な機能にとって、最も重要であることは言うを待たない。これ等の腺は、適当に精製せられた適正な食物によって、健全に保持せられるのであるが、その反面に於いて、これ等の腺は健全である限り、全部として身体及び身体を構成するすべての部分の健全と勢力とに貢献するのである。

通常の人は、毎月あらゆる種類の驚異すべき液汁を小さなバケツに一杯くらいを生成している。我々は毎日約1.13リットル(約6合3)の唾液、1.7乃至2.3リットル(約9合5勺乃至1升2合6勺)の胃液、0.6リットル(約3合2勺)またはそれ以上の膵液、0.6乃至1.1リットル(約3合乃至6合3)の胆汁を成して吸収し、これ等の液汁はすべて栄養管に注がれるのである。

しかしながら、我々は少量の水を、尿、呼吸、唾液、汗等の形態に於いて排泄するに過ぎない。従って唾液腺、胃、胆嚢等によって生成せられるこれ等の驚異すべき且つ相互に全く異なれる化学的液汁は、その大部分が排泄せられず、身体によって清掃せられ且つ純化せられ、再び唾液、胃液、胆汁等に転化せられ、反覆して用いられるわけである。

身体内に於いて最も驚異すべき器官はいうまでもなく、その極めて小さき器官、例えば内分泌腺の如きものであって、その一滴の僅少な断片でさえも、かくの如き小冊子では述べ尽くし難いような奇跡を行い得るのである。

不幸にも我々は未だこれ等の腺については殆んど知るところがない。その驚異すべき機能は、科学者の未だ殆んど把得していないところであり、これはおそらく我々の限られた智慧のほかにあるものと言えよう。

大きな器官の機能を跡付けることは遙かに容易である。そこで、我々は人体内に於ける最大器官即ち肝臓の活動を一瞥したいと思う。

肝臓は、他の器官の多くと同じく、単一な機能に限定せられておらず、諸種の職能を示すものである。外見は不体裁な不格好な肉片としか思われぬ舌が、口腔及び歯牙を清掃し、食物を吟味し且つこれを批判し、これを嚥下し、言葉の器官として働き、健康の指標を成すのと同じく、肝臓も多岐にわたる諸種の機能を持っている。その二千万に達する胆汁生成細胞は、四六時中毎に約0.6リットル(3合2勺)の胆汁を生成するのであって、この胆汁は食物を精製するために必要であり、胆汁の成分は身体の所要に応じて変化するのである。

更にまた肝臓は、我々の摂取せる砂糖をグリコーゲンまたは動物性澱粉に変じ、これを必要のある時まで貯え、身体の食料室として働き、我々の健康に必須な鉄分及びビタミンを貯えるのである。

我々は血液の赤血球に含有せられるヘモグロビンのために鉄分を必要としている。赤血球は、我々が呼吸を行うために欠くことを得ないものである。母乳は何らの鉄分を含有しておらないので、新生児はその肝臓内に九ヶ月分の鉄分を貯えて生れてくるのである。

我々の健康の忠実な守護者たる肝臓には、奇跡的なビタミンが蓄えられている。幼児及び成人にしてビタミン欠乏の為に、虚弱または病身となれるものに対しては、肝油が与えられている。すべての肉食動物及び鳥類は、死体からまず第一に肝臓を引き出してこれを貪り食うのであるが、これは、これ等の動物や鳥類がビタミンのこと及びその貯蔵所を知っているが為であるという。

肝臓は消化の補佐器官及び食料室として働くのみならず、それはまた身体の偉大なる濾過器兼焼却場であって、有害物質は、その無比な化学工場によって、害性の少なきもの或いは無害のものに転化せられるのである。例えば、肝臓はたばこの含有するニコチンを殺滅し、腎臓によってそれが排泄せられる用意を備えるのである。その他幾多の毒物も同じように処理せられる。無害のものとなし得ざる毒物は、肝臓によって貯えられる。それというのもこれ等のものは、系統を毒するに任せられるよりも、肝臓に貯えられる方が傷害を与うることがなくて済むからである。例えば、種々な道程をとって吸収せられる鉛と水銀及びその他の毒物は、いずれも肝臓内に貯えられるのである。

肝臓の収集せる毒物の一部分は、胆汁に混ぜて排泄せられる。胆汁はブーシャール(Bouchard)氏の研究によれば、尿に比し六倍の毒性を持つと言われている。かかる肝臓の毒物は腸へ注入せられ、腸が正常に働いている時には、糞便と共に排泄せられてゆくのである。しかしながら、宿便即ち慢性便秘が所在していると、胆汁は再吸収せられ、再び肝臓によって排泄せられるので、胆汁は更に一層濃縮し、且つ毒性を増大してくるであろう。便秘の結果、濃縮せる胆汁がこうして吸収せられると、我々は「肝臓性」または「胆汁性」(気むずかしさ)となり、顔色が黄色く変化してくるのである。かかる場合、我々は肝臓に罪を帰しているけれども、それは概して我々の自ら招けるものであることが多い。

(続く)

❮月刊『テトラパシー』昭和11年12月発行第6巻第5号❯より

                                                      消化の理解 (第5回)

北米にて 西 勝造

我々の糞便は、眼や鼻からみれば嫌厭(けんえん)すべきものであるか知れないが、自己の身体に対し理解力ある関心を抱くだけの賢明さのある人々から見れば、最も興味深きものである。多くの人々から見れば、誤って糞便が単に食物残滓からのみ成ると信じている。

長期の断食を行う人々は、便通がないかもしれない。その時には、これ等の人々も便秘しているのである。それというのも、飢餓しつつある身体でさえも、毎日、かなりな多量の排泄物を生成し、これ等の排泄物は大腸へ送られているからである。

動物に関する実験の指示する所によれば、糞便の大部分は身体不用物、細胞の排泄物、死せる細胞、その他の不用物質から成り、しかもこれ等のものの多くは毒性を持っている。もしも動物につき、ある長さの腸を一時閉鎖し食物の残滓がこれに近づかぬようにすると、直ちに脳血管に出血を起こし即死するのである。またこうした狐離(こり)せる腸の部分の内壁は、ある時期後に於いて一見正常な糞性物質を以って覆われているのが見出されるであろう。これ等の物質は腸壁を貫通してここに到達せるものである。我々は、ダブリュウ・デー・ハリバートン教授の名著『生理学提要』(Prof. W. D. Halliburton:—Handbook of Physiology, 1923, p580)1923年公刊その580頁に次の如く記述されているのを見るのである。

“通常の混合食に伴う糞便は、比較的、殆んど食物残滓を含有しておらない。少量のものは飢餓中に於いてさえも排泄せられる。フォイト(Voit)氏及びヘルマン(Hermann)氏が、別々に指示せるところによれば、ある腸蹄形を空虚にし、且つこれを他の部分の腸と隔離しておいても、二、三日後になると糞便と同一の物質を含有するに至るのであって、これ等の物質は、腸液、脱落せる上皮細胞及び細菌より成っている。

食物を摂取した時には、その食物が繊維質を含んでおらない場合でも、糞便の量が増してくるのであるが、これは機械的及び化学的刺激が腸液及び上皮細胞の脱落を誘致するために起るのである。糞便は、約1%の窒素を含有しているが、これは、主として細菌の体内及び分解せる上皮細胞に含有せられているものである。食物に蛋白を加えても正常状態の下に於いては糞便の含有する窒素は、実際上何等の差異を現わさない。

食物に繊維質を加えると糞便の嵩が増大するが、その一因は、繊維質の大部分がそのまま排泄されることにある。

他の一因は、繊維質が粘膜を刺激して、多量の腸液を分泌させることにある。最後の一因としては、食物の残滓の多いことが細菌の発生を助長することを指摘し得るであろう。

平均してみると、乾燥せる糞便の重さの三分の一乃至五分の一(食物によって異なる)は細菌からなっている。

乾燥せる細菌が毎日排泄せられる平均分量は、8gである。これは0.8ℊの窒素即ち糞便の窒素の約半分である。ストラスブルガー(Strasburger)氏の推定によれば、約128兆の細菌が毎日人糞と共に排泄せられるという。かかる細菌の大多数は死亡している。

 腸含有物は、野菜を含む場合に於いてより迅速に運行する。それというのも、不消化性繊維素が蠕動(だどう)を刺激し、従って大量の水が結腸での吸収を免れるからである。従って、通常の混合食の場合に於いては、35gの乾燥性物質及び100gの水が毎日糞便として排泄せられるのである。これに反し、野菜食の場合においては、その量は各々75g及び260gである”云々

人間及び動物の腸は、一部分は食物残滓、一部分は無数の脂肪せる細胞、一部分は同じく無数の斃死せる細菌及び生きた細菌、他の一部分は肝臓及び他の器官の排泄せる有害物質を以って満たされているわけである。

一部の近視眼的科学者、即ち偽装科学者の提唱せるところによれば、我々はかかる細菌及び毒物の信じ難きほどの堆積を排除し得るという —— 疾患の顕微鏡的微生物は、科学上での最も強烈な毒物即ちコプラの毒でさえも、これに比すれば軽いと言われる毒物を排泄することを忘れてはならぬ。—— のであって、その方法は大腸を載除し、腹に人工的孔口(こうこう)をつくり、或いは強烈な最近殺滅性薬剤を用いて結腸の「中毒症を抗止し」或いは「感染を解除する」にあるという。

我々は排泄器官が障害を起こしたからとて、この器官を責めてはならない。それというのも、かかる障害は排泄器官の起こしたものでもないし、その含有せる細菌の起こしたものでもなく、その原因は我々の自身の過失にあるからである。正常に生活せるものの、結腸は障害も或いは疾患も起らない。

結腸の含有せる幾千万の顕微鏡的微生物は、自然の法則に従って生活する者には、何らの害悪をも与えない。我々の身体は、顕微鏡的微生物を処理し且つこれを克服するように造られているのである。しかのみならず、我々の結腸内に含有せられた幾多の細菌は、我々の健康にとって必要なものである。

腸を無菌状態にして動物を飼育しようとする試みは、すべて惨めな失敗に終わっている。強烈な薬剤によって、我々は結腸内の疾患性細菌を破滅させ得るであろう。しかしながら、我々はそれと同時に結腸に含まれた無害な且つ有用な細菌をも殺戮することとなるであろう。しかのみならず、我々は腸壁を構成する細胞を虚弱にし且つこれを破壊するであろう。かかる細菌は、疾患性細菌と極めて類似せる物質から形成せられているのである。

(続く)

❮月刊『テトラパシー』昭和11年12月発行第6巻第5号❯より

                                            消化の理解 (第6回)

北米にて 西 勝造

思慮深き人が身体の運行について考察してみるならば、排泄が栄養と同じ重要性を持つことが明らかとなるであろう。栄養と排泄とが適当に均衡を保っておらざる限り、植物も動物も人間も疾患に侵されて衰弱し死滅してしまうであろう。排泄不全を伴う栄養過多は、植物、動物及び人間にとって致命的である。最も豊富な且つ最も健全な食物を供給しても、事態は決して良くならないであろう。かえってこれを悪化せしむるのである。

ヒポクラテスは二千三百有余年前その『箴言』書中に於いて“身体が不健全であるならば、諸氏がこれに栄養を与えれば与えるだけこれを傷害するのである”云々と訓えている。

排泄は腸、腎臓、皮膚及び肺臓のその能動作用によって行われる。他面に於いて、これ等の器官は肝臓及び身体のその他の部分から排泄物質を受くるのである。エリック・ブリットチャード博士はその著『嬰児及び幼児の生理学的育成法』(Dr. Eric Pritchard,:— The Physiological Feeding of Infants and Children, 1932, p.69)1932年公刊その69頁に次の如く記述している。

“人体有機組織はその健康と快適とについては、排泄機能の実効性遂行に所依している。もしも排泄の不全よりして、不用物が系統内に堆積するのを放任せられるならば、中毒性症状がまもなく続発するであろう。不用物は、肺臓、皮膚、腸及び腎臓によって排除せられる。これ等器官中のあるもの、または、それ以上のものが職能を果たし得ないことがあるかも知れない。一つの器官の機能不全はある限度内に於いて、他の器官の機能亢進によって代償せられるであろう”云々。

支障なき排泄の重要性は、我々身体排泄物がすべて有害であるという事実よりして、十分に窺知せられるであろう。かかる排泄物の不当なる停滞貯留は、その毒性の激しさを著しく増大し、これが吸収せられると、健康が低下し、疾病、疾患及び不幸なる結果を招来するのである、ジョン・ハーヴェー・ケロッグ博士はその著『腸衛生』(Dr. John Harvey Kellogg:

  • 1923, p.68)1923年公刊その68頁に於いて次の如く語っている。

“糞便の重要な構成分は、決して糞便の含有する不用物ではない。これは余りにもしばしば看過せられている事実である。腸の粘膜は皮膚の如く排泄器官である。腸粘膜の大きさはわずか7平方フィート即ち皮膚の約三分の一に過ぎないけれども、排泄口としての重要性は皮膚に劣らざるものであり、恐らくはるかに大きいと信ずべき理由がある。この事実は、最近に知られたに過ぎない。ロージャー(Roger)氏及びその他の人々の研究によって、腸粘膜は我々組織内に生成せられた致命的毒物、或いは外部から侵入せる致命的毒物を体内から排除することが明らかにせられた。例えば四分の一グレーンのモルヒネが皮下に注射せられると、この毒物の大部分は、半時間内に胃及び腸内に現れるであろう。かかる毒物の排泄方法は、最近の研究に鑑み、胃の重要なる職能の一つであることが明らかである。

 身体内で不必要となった分解物は、腸を通して排泄せられる。腸に注入せられる胆汁は、体内で生成せられた致命的毒物の若干を含有している。かかる毒物は、便秘に伴う当然の結果として、再吸収せられるとしばしば濃縮するのである。

 結腸は、単に不用となれる食物残滓の容器ではなく排泄器官であって、激しき毒性を持つ胆汁の排除せられる通路でもある。胆汁が尿に比し六倍大の毒性を持つことは、既に明らかとなっているところである。胆汁の分泌は間断なく行われている。従って、これを即時に体内から排除することは、胆汁に比し遙かに毒性の少なき尿の排除よりも重要である”云々。

不幸にも一般の人々は、その排泄物が如何に毒性を持っているかを把得していない。ここにいう排泄物とは、決して比較的無害な食物残滓からのみ成るものではない。実にこれにもまして不幸なことには、多くの医師が正常な腸の正常な運行というものを熟知しておらない。正常な生活をなす正常な動物、何ら訓練をせられていない嬰児、原始的未開人及び白痴者は、毎食時の後で自動的便通がある。

ヒポクラテスは二千三百有余年前、ある機会に健康な人々は、一日に三回または四回の便通があると語っている。(拙著『一日一回便通主義の可否』参照)文化は最も重要な排泄器官の正常な運用を破壊し去っている。文化は我々に対し、一日一回のみの便通があればよいと命じている。

多数の医師は、一日一回の便通を「正常」とみなして教えている。事実上すべての医師は「よく整形せられた糞便」を健康の示徴なりと信じているのである。事実文化人はよく整形せられた糞便が一回あるのを通例としているが、これは自然人即ち未開人の間に於いては見ざるところであって、確かに便秘の示徴であり、腸含有物の更に液状部分が身体によって吸収せられていることの示徴であって、多くの場合に於いて、これは自家中毒の証左でもある。畢竟するに、身体が吸収せられた毒物を中和して、これを無害となし得る力には限度がある。ケロッグ博士は『腸衛生』1923年公刊のその117頁に於いて次の如く記述している。

“よく整形せられた糞便は、常に便秘を意味している。それは結腸がソーセージの如く詰まっており、糞便が長く停滞せるため水分を吸収せられて硬くなれることを物語るものである。全結腸には糞便が充満している。従って、便通は多端から入ってくる食物残滓の圧迫による結果に他ならない。

身体不用物が、当然そうあるように、迅速に排泄せられている時には、結腸は二食分以上の食物残滓を含有してはおらない。

また、朝食後に於ける便通は完全に行われるため、腸壁の分泌する防腐性と整滑性粘液とは、身体残屑容器を清掃し且つ防腐して、これを保健的状態の保つ機会をもつに至るであろう”云々。

一般の人々は、朝一回の整形せる糞便があれば、健康であり且つ正常であるという謬想に捉われているばかりでなく、その糞便が比較的悪臭を持っていなければ無害であると確信している。また排泄物が、殆んど臭気を持たないことも、余りにもしばしば見るところである。それというのも、悪臭性及び有毒性液状とガス状部分とが、身体内へ吸収せられてしまったからである。それ故に、真の健康体には悪臭の糞便が無く、不健康体で悪臭の無い糞便を排泄する場合もある。ケロッグ博士は、その著『自家中毒症または腸中毒症』(Dr. Kellogg:

  • Auto — Intoxication , or Intestinal Toxoemia, 1922, p.38)1922年公刊その38頁に於い

て、次の如く語っている。

“著しき便秘の場合に於いては、糞便が殆んど臭気を持たないことが多いことの事実は、腐敗の所在せざることの証左ではなく、むしろ腐敗し易き物質が汲み尽くされ、腐敗生成物が吸収せられたことの証拠である。かかる場合に於いては患者に緩下剤を与え、悪臭性糞便中に結腸上流部分で行われつつある能動的腐敗の豊富な証左を見出さしむることが必要である”云々。

この場合の緩下剤としては、サンサム(Dr. Sansum)博士は、クリーム・オブ・マグネシア(略称クリマグ)の如きは理想であると述べている。

世人を禍する今一つの謬見がある。多くの人々は規則正しく便通があり、あるいは便が柔らかいからというので、便秘に冒されていないと信じている。慢性便秘症患者、即ち宿便保留者の場合においても、便通の規則性や下痢が見られることさえ多くある。腸管は27フィート(約8.2m/編集部注)の長さを持っている。結腸自身もその長さは約3フィート(約0.9m/編集部注)はある。人々は肛門の近くに所在せる二、三寸(約6㎝~9㎝/編集部注)の物質を毎日排泄し、、多量の食物残滓を常習的に身体内に滞らせているであろう。

しかのみならず、腸は決してガラス管張りの排泄管ではなく、伸張性を持っている。時として腸内にはバケツ一杯に近い硬い排泄物が詰まっていることがあり、かかる恐るべき充填物の中心を貫いて小さき溝が所在し、その溝を通じて下痢を見ることがある。時として、腸は憩室を形成し、不用物がこれに堆積して、石のように硬化していることもある。

腸は正常含有物のみならず、かさばった異物さえも、よく数ヶ月停滞させるものであって、これは、ヴィ・ピー・ノルマン氏が『英国医学雑誌』(Ⅴ. P. Norman: — British Medical Journal, 27th. June, 1925)1925年6月27日号に公表せる報告より、窺知せられるであろう。

(続く)

                                       消化の理解 (第7回)

北米にて 西 勝造

“直腸内における異物の滞留に関する次の病例は、それが排除せられるまで長き期間(7ヶ月)を要し、且つ数ヶ月間何等の不快をも起さなかった点よりみて、若干の興味がある。

ある既婚婦人年齢38歳は、1924年4月10日子宮繊維様腫のため手術を受けた。患者は11月1日完全に回復して退院し、3月1日までは何らの変化も起さなかったが、その時に至って便秘が昂進し、且つ直腸内の充満感を訴え始めた。便秘はますます激しくなり、遂に3月19日には多量のひまし油とエプソム塩とを投与したにも関わらず、便通が全く停止するに至った。患者は肛門から何か突き出したように感じたので指でこれを摘み、やっとこれを引き出してみると、濡れて濃縮せるガーゼ、長さ8インチ(約20.3㎝/編集部注)幅4インチ(約10.16㎝/編集部注)厚さ約1インチ(約2.5㎝/編集部注)のものであった”云々。

手術の際に取り残されたものである。こんな例は、先年、私の知っている東大学生で虫様突起炎だと言われて手術を受け、後でどうしても具合が悪いというので、私に相談されたので、私はもしやガーゼでも残っているのではないかと注意した。再手術の結果、長さ6寸(約18.2㎝/編集部注)、幅3寸(約9.1㎝/編集部注)のガーゼが出た、それで健康体になった。

著名なレントゲンの権威アルフレッド・シー・ジョルダ博士は、1924年12月13日号の「ランセット」(Dr. Alfred C. Jordan:— Lancet, 13th, Dec. 1924)誌上に於いて次の如く述べている。

“腸麻痺と中毒症とは、糞便の度数または質によって窺知し得ざるものである。蒼鉛を用うるレントゲン検査によると、患者は一日に一回または二回の便通があるけれども、しかも、数週間糞便を停滞させていることが明らかにせられている。

分解しつつある糞塊は、盲腸及び上行結腸内に堆積して刺衝物として働き、粘膜のカタール即ち結腸炎を起こすのである。糞性物質の少量が粘液と混じて刺衝せる腸内を通過して、骨盤部結腸と直腸とに充分堆積した時に排便を起すのである。排便は数回に及ぶことがある。しかしながら、盲腸には依然として糞性物質が詰まっているため、盲腸はその含有物をこの硬く詰まれる盲腸内へ送り込むことができないのである。従って、下方回腸は、顕微鏡的微生物に溢れた汚水流と化し、激しき中毒症を起すのである。かかる事態は、我々同胞の多数の者に見られるところである。従って、かかる人々は、破滅の死線上にあるものと言わねばならない。腸麻痺の等閑に伴う重大な一般性症狀は、あえて言うまでもないところであると思うが、栄養管内に起る局所性障害としては、一般に良く知られている病態、即ち虫様突起炎、胆石、胃及び十二指腸潰瘍があり、最悪のものとしては癌がある”云々。

科学者の多数は、微生物の裡(うち)に多数疾患の原因を見出している。微生物の研究に没頭せる研究室内の諸学者が、疾患の主因または唯一の原因を微生物に置いているのは、無理からぬところである。しかしながら、真性細菌恐怖症、更に適切に言えば、細菌狂症、更に適切に言えば、細菌狂症が大多数の医師そのものを捉えているのは誠に遺憾である。細菌が疾患を起すのか、あるいはまた疾患が細菌を生ぜしむるのかは問題である。

植物、動物及び人間の性格は、その栄養と環境とによって定まるのである。顕微鏡のみによって看取せられ、且つ細菌と称せられる下等植物または動物に対しても、なぜにこの生命の一般的原則を適用しなのであるか。土壌は種子よりも更に重大である。それというのも、種子はこれを受け入れる土壌においてのみ発芽し、これを受け入れざる土壌に於いては死滅するからである。我々は細菌を受け入れるため、その性質に合った土壌を用意して、これを招致している。我々はまた無害性細菌に対し、我々の体内に堆積せる有害物質を支給してこれを有害性細菌と化し、且つその毒性を著しく増大させている。
我々は自己の過失を棚に上げて、罪なき胃、肝臓、肺臓または腸を咎めるのと同じように、細菌を責めているのである。

腸内に堆積せる食物の残滓物は、二種の変化を受くるであろう。即ちかかる食物の残滓は、発酵するかまたは腐敗するであろう。発酵と腐敗との差異は、根本的重要性をもつものであって、これは明かになし得べきところである。棚上に置き忘れたリンゴは褐色に変じ、軟化し且つ酸っぱき臭いを起すであろう。しかし、これは甚だしく厭なものではない。他方において、置き忘れた肉類または卵は、発酵に非ざる腐敗の起これることを、その恐るべき悪臭を以って我々に示すであろう。肉類及び卵の蛋白は腐敗を起すのである。

これに反し、果物、穀類、牛乳等の含水炭素は、発酵を生ぜしむるのである。同じように、腸停滞に悩むものであっても、その滞留せる物質が体内に於いて比較的無害な発酵過程を受くるか、または腐敗と称せられる有害な変化を受くるかによって重大なる差異がある。ピー・ジェー・カンミッヂ博士は、その名著『小児と成人の糞便』(Dr. P. J. Cammidge:—The Foeces of Children and Adults 1914. P364)1914年版その364頁に於いて、次の如く記述している。

“腐敗性腸消化不良 —— 腸管内に起る蛋白の腐敗過程は、含水炭素物に起る発酵性変化よりも、明らかに大なる重要性を持っている。発酵は、それが多量に行われる場合を除き、概ね無害である。しかしながら、蛋白の腐敗分解によって生ずべき物質は、著しき程度に於いて、毒性窒素塩基である関係上、その異常生成は、重大な症状を起こすことがはるかに多い。健康な人の場合でさえも、腸の下方部分の含有物中に於いては、ある量の蛋白分解が起るのである。化学的研究の表示するところによれば、かかる分解物は、かなり増大してもなんら明白な臨床的症状を起こさないという。

明確な臨床的徴候が現出するのは、腐敗性変化が著しい時か、あるいはこれが長く持続して有機組織の防御機構を圧制する時かに限るのである。

腸腐敗の生成物は、身体の通常的細胞活動を以ってしては分裂することを得ざる芳香性核を含有しているのであるが、この事実により、これ等の核は尿中に現れ、腸内に起りつつある変化の程度と性質とを表示すべき貴重な指標をなしている。従って、臨床的症状の所在している時には、尿の分析は単に診断上有用であるばかりでなく、何等かの重症性症状の現れる前に、その容態を探知するに役立つであろう”云々。

(続く)

❮月刊『テトラパシー』昭和11年12月発行第6巻第6号❯より

                                            消化の理解 (第8回)

北米にて 西 勝造

現代医学は「症状が療法」であることを把得しておらない。発熱はその身体が発熱せざるを得ない情勢にあるからであって、もしこれに下熱剤が投与せられると、かえって細菌は増大するのである。嘔吐も下痢も、すべて生体が生きんとする標徴に他ならない。尿中に毒物が排出せられたからとて腎臓病と過信してはならない。泌尿系統の保健法を講ずるのが先決問題なのである。

ジョン・ハーヴェー・ケロッグ博士は、その著『自家中毒症または腸中毒症』1922年版その28頁に於いて、次の如く記述している。
“醱酵と腐敗とは、拮抗する過程である。発酸は酸性物を生成するのであって、これ等の酸性物は、その大部分に於いて、人体に無害であるが、腐敗性細菌に対しては、敵坑性を持っている。

かかる賢明な装備は、自然の経済上における最大重要性を有している。野菜食は糖分、澱粉、デキストリンの如き発酵する物質を含む。従って腐朽を起すときに於いても、動物性組織の腐朽に伴う厭わしき且つ有害性ガス及びその他の物質を生成しないのが通例である。
牛乳も同じように多量の糖分を含んでいるので発酵するのである。卵及び肉類は発酵せずして腐敗を起し、甚だしく厭わしき且つ有害性生成物を発生するのである。
これは糖分を欠いているためである。卵及び肉を濃き糖分溶液中に入れておくと腐らないであろう。砂糖が、防腐性を持っていることは周知の事実である”

レオナード・ウイリアムス博士はその著『中年と老年』(Dr. Leonard Williams:—Middle Age and Old Age,  p.24)(発行年なし)その24頁に於いて、次の如く語っている。

“自然性食物 — 即ち人間の干渉好きにかからぬ食物の重要性は、普通大腸桿菌(だいちょうかんきん)の働き具合に於いて程、よく解明せられる場合は他にない。この桿菌の性質は、まったくこれを育成する地盤の性質によって支配せられるのである。これが今日の通常混合食者の場合に見るが如く、動物性蛋白の温床で培養せられると、これは著しき腐敗性を持つ微生物と化し、人間の最悪仇敵の一つとみなし得るであろう。

これは大腸のみに着眼するに留まらず、隣接器官へも侵入して有害性過程を起すであろう。しかしながら、この細菌が主として含水炭素からなる食物によって育てられると、我々の最悪な仇敵たる腐敗性を失い、我々の最善な朋友たる発酵性を現わすに至るのである。

今までに述べたところと関連して起ってくる問題は、含水炭素物を桿菌の正常住所たる腸管の下流部分へ到達せしむることを確保するには、いかにして事態を整調すべきやと言うことである。含水炭素物は、分裂せずに口腔を通過し、十二指腸を抜け小腸内に於いては腸液の種々なる活動を受けずに済まさなければならない。しかしながら、含水炭素物が、繊維素の不溶解性被膜に包まれたまま口腔内に摂取せられると、これは種々なる胃腸の作用力によって変ぜられずに、体内に入っていくことも困難でない。さもない限り、胃腸の作用力は含水炭素物を圧倒し去るであろう。

かくして含水炭素物は、普通大腸桿菌の常住所たる結腸に達し、この細菌群を仇敵より転じて朋友となすのである”云々。

チャールス・ディー・エーロン教授は、その著『消化器官の疾患』(Prof. Charles D. Aaron:— Diseases of the Digestive Organs, 1921, p. 685)1921年公刊その685頁に於いて、極めて顕著に我々に次の如く語っている。

“メチニコフ(Metchnikoff)氏の指摘するところによれば、細菌の分泌物は食物の如何によって異なるという。小さき糞性物質を二つの管に入れてみるならば、即ち一つの管内には肉の小片と水と共に入れ、他の管内には野菜の小片を水と共に入れるならば、前者の管内の液体は、二日後に家兎(かと)に対し甚だしく害毒性を現わすに反し、後者の管内の液体は、家兎に対し全く無害である。かくのごとく、これ等二つの管内に於いては細菌生成物が異なっているが、この細菌は同一の源泉から派生せるものである”云々。

腹部疾患専門教授アンソニー・バスラー博士は、その著『腸と下方栄養管との疾患』(Dr. Anthony Bassler:— Dseases of the Intestines and Lower Slimentarv, 1920, p.169)1920年その169頁に於いて、次の如く語っている。

“蛋白誘導体のみを含む媒質によって培養せられた大腸細菌が、蛋白分解を指示するインドール、フェノール、硫化水素、アンモニア及びその他の生成物を造ることは周知の事実である。この細菌が必然的に蛋白性物質を利用することは明らかである。その結果は腐敗である。それというのも、この媒質は漸次にアルカリ性と化し、悪臭が発生し、その結果として生成せられる物質は、五感に対して厭わしきものであるばかりでなく、食物としても全く不適当である。これは、細菌性腐敗に他ならない。

同一の蛋白媒質内に存在する同じ細菌であっても、大腸桿菌の利用し得べき糖分がこの他に加わっていると、全く異なる種類の分解を起すのである。腐敗による生成物の代わりに、乳酸、少量の脂肪酸、並びに二酸化炭素及び水素が生ずるのであって、これ等は、含水炭素の破壊に特有なるものである。この場合の反応は、永続的に且つ漸進的に酸性であって、その臭気も厭わしくないし、生成物も無害であり、且つ差しさわりがない。これは細菌性発酵に他ならない”云々。

ジョン・ハーヴェー・ケロッグ博士は、その著『自家中毒症または腸中毒症』1922年出版のその247頁に於いて、次の如く語っている。

“食物は、結腸内に於ける腐敗性物質の唯一の源泉を成すものではない。栄養管へ絶えず注入せられる胆汁、腸液及びその他の腸内分泌液も、十分な量の腐敗性物質を提供して、豊沢な腐敗性大腸菌を保持するのである。しかしながら、かかる物質が即時に体内から排除せられたる時には、腐敗性過程の発生すべき十分な時間がないのである。腐敗性過程は、含水炭素の受くべき発酵過程の発生よりもはるかに多くの時間を必要としている。

しかしながら、断食の場合に於いては、腸は殆んど完全に不活動性となるのである。食物は、蠕動性活動の自然な刺激物である。食物が胃の中に摂取せられると、直ちに能動的収縮性波動が始まり、1分につき3回乃至5回の速さで胃に広がり全栄養管に及ぶのである。食物が抑留せられている時には、かかる運動も停止し、胆汁及びその他の分泌液は堆積して腐敗を起すのである。而して、その毒物は吸収せられ、舌には苔が生じ、息が臭くなり、尿は腐敗による生成物を負荷し、腸自家中毒症に伴う全ての証拠が強調化せられてくるのである”云々。

これに示した重要な引用文によって明らかな如く腸に関する限り、腐敗は発酵よりもはるかに危険であることを、諸子は充分把得せられたであろう。不幸にも肉食者は肉を完全に咀嚼せずに丸呑みをする結果、肉片が消化液によって分解せられずに結腸に達するという事実により、腐敗の危険は一層増大している。

シー・エー・ハーター博士は、その著『消化管の普通細菌感染』(Dr. C. A. Herter:— The Common Bactrial Infections of the Digestive Tract, 1907. P.327)1907年
公刊その327頁に於いて次の如く語っている。

“肉の過量の摂取は、しばしば不完全咀嚼を随伴している。その結果、筋繊維の塊物は小腸を抜けて下方回腸及び大腸に達し、そこで腐敗性細菌に襲われるのである。腐敗性細菌は、肉のプロテイド及びカゼインの裡に、その給養に良く適合せる媒質を見出している。

糞便中に数多の肉片または肉繊維の小塊が所在しているのは、肉の不完全な效用化の指標である。従って、これは肉を更に注意深く且つ賢明に用うべきを警告する信号と考うべきである。既述せるが如く、肉食者の腸含有物は菜食者のものよりも、腐敗性を持ち且つ胞子を生む細菌を余計に包含している”云々。

(続く)

❮月刊『テトラパシー』昭和11年12月発行第6巻第7号❯より

 

               消化の理解 (第9回)

北米にて 西 勝造

宿便保留即ち慢性便秘それ自体は、軽少な障害に過ぎないであろう。これに伴う大きな危険は、これが自家中毒症、即ち全体としての身体の中毒化を招致するところにある。

栄養管内に停滞せる食物は、それが発酵するに過ぎない時には、比較的無害性であるけれども、それが腐敗する時には極めて激しき毒が発生するのである。

さて、かかる毒物は既述せるが如き驚異的な身体の機構によって防遏(ぼうあつ)せられるのであろうか、あるいはまたこれ等の毒物は奇跡的な身体の防御陣を圧服して、言い難き害悪を与うるものであろうか、これは重大な問題である。

若干の科学者は、宿便即ち慢性便秘が重大な自家中毒症を招致することを否定している。

しかしながら、その否定は不十分な知識に即せるものでる。私の常に力説せるもの及び別著書に述ぶるところを精読せられるならば、慢性自家中毒症が宿便即ち慢性腸停滞によって起されるものではない、と断言していた多数の人々も、恐らくはその誤れることを知るであろう。

身体が正常に形成せられ且つ正常に栄養を支給せられている限り、腸の細菌によっても容易に中毒化せられないことは確かである。正常な体格を備え、且つ賢明な生活をなせる人々の器官は、完全な作業状態にある。したがって、これ等の器官は腸含有物の不当な停滞を経験することはない。これは、原始的生活をなせる未開人を研究してみればすぐ解るであろう。未開人は、我々を悩ますところの宿便とか腸麻痺とか腸停滞とか、その他幾多の腸障害というものを知らないのである。しかし、文化人や超文化人の間に於いては事態は全く異なっている。文化人は、次に列記せる事由からして、宿便即ち慢性便秘及びこれに伴う自家中毒症に悩まされるのが極めて通例である。

(1)その食物選択が誤っている。それは主として、精製せられ、濃厚化せられ、詰まりやすい食料品からなっているので、便秘を招致するのである。しかのみならず、その食物は腸  に充満して、これを活動せしむべき粗質物を欠いている。

なおまた身体の正常な作業に対して最も重要な鉱物性要素を欠き、ビタミンを含有しておらない。ビタミン飢餓は殊更悲惨である。それというのも、これは全体として身体を虚弱にし、特に腸壁を弱くし且つこれを傷害するからである。
これについては別著中に述ぶるであろう。

(2)文化は1日1回便通の崇拝、排便中の誤れる姿勢、肉体運動の偏重または欠乏、熱すぎる湯浴、冷水浴偏重等によって便秘を助長している。

(3)腸内に於ける停滞貯留物質塊状の堆積は、機械的調圧及び腸の変質を招致するのである。結腸は屈曲し、部分的に捲縮するかまたは伸長して、骨盤中に下垂するであろう。これ については既に拙著『闘病の秘訣』書中に於いて述べておいてところである。

いずれの場合においても、排泄物の通路は著しく妨害せられるのである。しかのみならず、腹部の筋壁はしばしば座居生活を通して虚弱化し、内臓器官を転位させ且つ捻転させるであろう。

(4)慢性腸停滞即ち宿便に悩む人々は、刺激性をもち且つ腸を虚弱化する下剤、浣腸等を行って、その障害を克服しようと試みるのであるが、これは既に虚弱化せる腸壁を更に一層障害し、且つこれを裂傷させ、かくて有害な腸含有物の吸収路が開かれてくるのである。

以上要約した四つの要点は、別著書に於いて詳述してあるから、読者は充分これを納得して頂きたいと思う。

しかしながら、正常な健康状態にある場合に於いては、腸壁は停滞せる腸内で生成せられる毒物を通さないのであるが、腸壁が不正食、屈曲に伴う機械的張圧等及び著しき刺戟性ある薬物の腐食作用を通して虚弱となれるときには、事実かかる毒物を吸収して、これを各種の系統中へ送り入れるものであろうから、この重要なる問題を先ずもって処理しなくてはならないであろう。

故コム博士は、著名な医師であると同時に優れた化学者でもあったが、氏はその著『腸自家中毒』(Dr. A. Combe  : — Intestinal Auto—Intoxication, 1908, p.12 and 74)1908年公刊、その12及び74頁に於いて、次の如く記述している。

“腸及び付属器官の解剖学及び生理学を一瞥するならば、腸管が腸内容毒素のため且つこれを克服するために収縮して、これに応化せることが容易に実証せられるであろう。

腸細菌及びその生成物が、かくも厭わしきものではないとすれば、なぜに有機組織は、第一、第二、及び第三次の防御陣を豊富に具備しているのであろうか。なぜに胃液は消化性毒素を中和する力をもっているのであろう。なぜに腸上皮細胞(皮膜)は、クイーロロ(Queirolo)氏ハイデンハイン(Heidenhain)氏チャーリン(Charrin)氏及びテデスシ(Tedeschi)氏の実験が極めて良く挙示せるが如く坑毒性(毒物破滅性)の働きを演ずるのであろうか、なぜに腸から帰る血液は、肝臓を通過し、肝臓の上皮細胞は、大なる解毒力を備えているのであろうか、なぜ我々は第三の防御陣として坑毒性腺、即ち甲状腺、胸腺、副腎を備え、そのチマーゼ(分泌液)は我々の確知せるが如く血液中を循環する、腸起源のある毒素を改善し、且つこれを中和するのであろうか。最後には排泄器官は腸腐敗の生成物が無害であるとすれば、なぜに絶えず、これを退けて排除するのであろうか、アンモニア及びアセトンは呼吸を通して排除せられる。皮膚は、汗、インドール、フェノール及びサルフォエーテルを排泄し、最後に腎臓は、腸毒物の多数を尿を通して排泄するのである。

従って、身体経済は絶えず消化管内で生成せられる物質に対し、力強く防御陣を布いているのである。

しからばこれは何によって実証せられるのであろうか、そうでないとしても、かくの如く酵素(化学的変化)及び細菌によって絶えず生成せられる物質が、有機組織に対して危険な毒物を含んでいることは、何によって実証せられるであろうか。

チャーリン(Charrin)氏及びカッシン(Cassin)氏の立証せるところによれば、一連の毒素は、消化管を通して、これを身体内に導入すると、その毒性を全部または一部失うという。

五等量の細菌培養液(濾過せるもの)を、循環中に注射すると致命的であるが、その五十倍のものを経口的に投与しても、何ら障害も起らないであろう。

腸粘液の外層を掻把法によって、剝ぎ去り或いは熱(乾性または湿性)イオヂン等によって変じ、その直後、表面を清掃するならば、同量の毒素も迅速に致命的と化することが知られるであろう”云々。

(続く)

❮月刊『テトラパシー』昭和11年12月発行第6巻第7号❯より

 消化の理解 (第10回・最終回)
北米にて 西 勝造

エー・ブライス博士は、その著『腸自家中毒症』(Dr. A. Bryce: — Intestinal Auto – Intoxication, 1920, p. 56)1920年公刊その56頁に於いて次の如く記している。

“エル・アール・ドラグステット(L. R. Dragstedt)氏、ジェームス・モーアヘッド(James Moorhead)氏、及びエフ・ダブルユー・バークキー(F. W. Burcky)氏(実験医学雑誌1917年公刊421頁 Journal Exper. Med., 1917, p.421)等は述べて曰く、閉塞せる腸の管腔内には、甚だしき毒性物質が所在していることは疑いを容れざるところである。最もその所在は未だ血液中に於いて実証せられたことがない。狐離せる腸蹄係内の液体は夥多(かた)の腐敗性細菌を含んでいる。従って、それが腸の下方部分の蹄係(ていけい)の場合であるときには、その結果穿孔及び一般性腹膜炎が起るのである。腸の狐離蹄係を殺菌水及びエーテルによって洗滌して防腐性となしたる後これを閉塞すると、何等の害悪性効果に苦しめられずに生命を保っていた。腸壁が障害せられておらざる限り、何等の中毒症も起らなかった。従って、致命的な毒物は腐敗性細菌が壊疽組織に対して作用する成果である。これ等一切のことは、腸の健全な粘膜が、偉大なる坑毒性及び殺菌性の性能を有していることを実証するものである”云々。

ジョン・ハーヴェー・ケロッグ博士は、その著『腸衛生』1923年公刊その228頁に於いて、次の如く道破している。

“腸粘膜が障害せられていないときには、腸粘膜は、濾過器と同じように働いて、多数の腸毒物を排除し、效用物質のみを血液中に導入させ得るのである。身体内における最大の腺である肝臓は、かなりな程度に於いて、毒物を破滅させる力を備えている。身体内には、他に内分泌腺の如き種々なる器官が所在していて、毒物の破滅を補佐している。その顕著な実例をなすものは、甲状腺である。腎臓は毒物を破滅させると共にこれを排除し、皮膚及び肺臓もまたかかる防御作用に参与している。

身体の防御力が障害せられざる限り、夥しき多量の毒物が腸内に発生しても、なんら可見的な害悪性効果は知らないであろう。これは多数の便秘症の人々が、腸の不活動によってなんら害悪的結果を蒙らざるように見える所以である。

しかしながら、いずれの場合においても、腸の濾過器は毒性物質を排除する上において、十分に働かないようになる時節が早晩くるに違いない —— その時に至ると、肝臓ももはや血液に導入せられる全ての毒物を破滅させることができないし、甲状腺及びその他の腺は機能過多によって疲弊し、腎臓もまた毒物の排泄によって、血液の正常な清浄さを保持することができないのである。

中毒の症状が現れる時には、この事実は、身体の毒物破滅機構が破壤し去っていることを示すものである。緊急の場合に応ずるため、自然の装備せる保安の大きな極限は費やされ、自家中毒症に対する防御は一掃し去られ、組織には、かかる微妙な神秘性疾患生成素が氾濫している”云々。

ラングドン・ブラウン(Dr. Langdon Brown)博士は1913年王立医学協会の栄養性中毒症討論会に於いて、峻下剤の使用は腸壁の損傷及びひいてはその虚弱化を招致するため、腸壁はもはや腸内に含有せられる毒物に抵抗することを得ず、且つ毒物が体内に吸収せられるのを防止し得ないようになるであろうと、次の如く警告を発している。

“無制限な通痢は、栄養性中毒症に対する万能薬たるを得ない。それと言うのも、これは腸粘膜のはく奪(腸壁の損傷)を起し、かくして毒素の吸収に対する防御方法を身体から奪い去るからである”云々。

以上引用せる諸学者の説に徴(ちょう)するならば、如何に懐疑的な人であっても恐らく次の事を把得するであろう。即ち腸壁は、正常な場合には腸含有物より毒物を吸収しないけれども、腸壁が不正食、機械的張圧及び著しき刺戟性及び腐食性をもつ峻下剤によって、甚だしく虚弱化せられ或いは障害せられると毒物を吸収するであろう。不幸にも腸は痛覚神経を持たない。我々は強き峻下剤またはその他の方法によって、漸次に腸を壊疽させていても、糞便中に血液が現われるまで、その障害に気づかないのである。疝痛やいわゆる腹痛は腸自体から来るものではなく、かかる組織は腸に代わって苦悩の信号を発するのである。

これは生理学者の熟知せるところである。

私は別冊の著書に於いて、既に胃腸、肝臓、胆嚢、神経病、脳病等について論究し、かかる疾患が大体に於いて、時としては主に宿便保留即ち慢性腸停滞及びこれに伴う自家中毒症に起されることも、幾多の信頼すべき権威者の説によって明らかとしたのであった。

便秘の如き極めてありふれた普遍的な且つ軽微なる障害が自家中毒症を介して、身体及び惱の最も重症性疾患を招致することを疑うている人々は、次の如き二つの質問を発するのが常であって、これは到底解答の与えられないものであるように考えている。「もしも宿便即ち慢性便秘が若干の人々に虫様突起炎、結腸炎、胆石、神経病、四肢厥冷(けつれい)症、中風、脳疾患、癌等を起すとすれば、なぜ宿便即ち慢性便秘は、全ての人々にかかる疾患を起さないのであるか」。これが第一の質問である。「もしもある有害な毒物が腸内に生成せられて系統内に吸収せられ、そこで疾患を起すものとすれば、なぜある人に於いては虫様突起炎または胆石が招致せられ、他の人に於いては精神錯乱が招来せられるのであるか」これが第二の質問である。

かかる問題は、生理学及び医学の基本を熟知せざる人々からみれば、答え難きもののように思われるかも知れない。

かかる質問を発するのを慣例としている懐疑者は、本編の筆者の如き医師に非ざる者の意見を軽視する傾向がある。従って、私はこれに対し私自身の言葉を用いて答えず、さりとて心の狭き同邦人の医師の言葉など借りようとはしない。その代わり、約30年も前のものではあるが、世界的に著名なるハーター博士の言葉を借りて、その答としたい。ハーター博士の説ならば、それがたとい古くとも、如何なる懐疑者も如何な専門家もこれを傾聴するに違いなかろう。ハーター博士はその著『消化管の普通細菌感染』(Dr. Herter:— The  Common Bacterial Infectious of the Digestive Tract, 1907. P.274,276,and 307)1907年版その274、276,及び307頁に於いて次の如く語っている。

“多くの場合に於いて、臨床上の経験が明示せるところによれば、殆んど同じ体重の2名の者も、同一の薬剤に対して異れる反応を現わすのであって、これは常例的にそうである。

これは一般に用いられている薬剤、例えばストリクニン、モルヒネ、コカイン、ヂギタリス及びアンチピリンに於いてみられるところである。

甚だしきインヂカ尿(indicanuria)に冒されている6名の患者中、1名の者は頭痛(時としては扁頭痛性)他の者は腰痛、他の者は癲癇の発作、他の者は精神抑圧、他の者は漸進性筋肉萎縮、更に他の者は周期性嘔吐に悩まされていた。かかる自家中毒症の異れる症状が如何なる程度まで共通の要因に所依し、あるいは如何なる程度まで異れる能因に所依しているのかを確知することは有意義であろう。消化管内に於ける極めて類似せる細菌性過程が、ある人の場合には主として消化障害を招来し、他の人の場合には(消化管自体の感応性が少なきため)毒物の吸収を著しくし、更に遠在器官の障害、例えば痛風、関節炎、貧血症または神経障害を招致するのであって、これには十分な理由がある。

腸から吸収せられた諸種毒物の中毒性結果の性質について論究する際にも述べておいた如く、個々の人々は、同一の中毒性能因に対してその反応を異にすることは、極めて確実なことであろう。例えば、神経系統及び赤血球細胞の両者を傷害し得べき物質が腸から吸収せられるならば、ある個人はまず神経系統の障害によって不具者となるに反し、他の人は先ずもって血液の損傷によって不具者となるであろうと思われるのである。(この場合に於いては、各自の腸からかかる物質が同分量に吸収せられるものと推定するのである)”

ハーター博士は、なにゆえに宿便即ち慢性腸停滞及び自家中毒症の結果が均一でないか

を、極めて明確に指示している。畢竟ずるに自然界には均一というものは存在しない。工場は機械によって均一品を製造している。自然は変種を生成するのである。

これは有機生命の根本法則に他ならないのである。

(了)

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