病気にかからない方法はないものか

病気なき人生への条件

 

人が病気にかかる原因として七項目が挙げられた。

 

①人は直立歩行する。

②人は衣服をまとう。

③人は家に住む。

④人は火食する。

⑤人は文化生活を行なう。

⑥人は社会(国家をも含めて)生活を行なう。

⑦人は生存競争する。

 

これらが原因であるならば、この原因を取り除くことによって、病気にかからないということができる。では、この原因は容易に取り除くことができるだろうか?

 

 

①人は直立したために、脳髄が極度の発達を遂げて、万物の霊長たる位置を獲得したのであるから、この直立を放棄するならば、それは万物の霊長たる地位を捨てることになる。このことは、われわれがしばらく四つん這いを続けるとき、その脳力の低下、ことに数学的脳力の低下は顕著である。このことを知ってみると、人間が脊柱の設計通りだからとて、いまさら四つん這いに帰ることはできまい。かのノックス・トーマス博士のナチュラルパシー(自然療法)は、四つん這いに這い歩く健康法であるが、頭が下がると、頭脳は充血してその発達が阻害せられ、必然的に必ず脳カが低下する。したがってわれわれは、四つん這いなどの方法によらずに、直立したまま健康にならなければならない。直立する以上二本の後肢で歩くことよりほかに人間の歩行のしかたはない。

 

②人は衣服をまとうため、皮ふの機能を妨げ、その酸化作用や同化作用を妨害し、このために疾病の原因を作っていることは明らかである。しかし、昔から「裸で道中がなるものか」といわれている通り、人類が文化生活をする以上、衣服を除くことはできない。たまには「体を顔と思え」といって、裸で暮らす人もあるが、これを一般の日常生活に取り入れることはできない。したがって、われわれは衣服を用いながら、健康生活ができなければならない。

 

③人は家に住むため、健康が影響される。四つん這いに這い、裸で野天に暮らせば、それは健康になることはできるだろう。しかし、直立して歩行し、衣服を着ることが人間生活に必要であるならば、家屋も当然なければならない。健康生活上、家屋はいかにあるべきかということが、問題でなければならない。

 

④人は火食する。人類の文化生活はきわめて悠久な歴史を有するから、人間の構造もまた、それに適するようになっている。したがって食物の大部分は調理し、火食しているから、これをいま急にわれわれの生活から離すことはできない。しかし現在の食生活が理想であって、これを改良することはできないということはない。われわれは食物については科学的に考察し、生化学の知識を応用し、われわれの生活に適する正しい食生活を創始しなければならない。

それというのも、食物はわれわれ心身の組成を司る物質であって、その適否は直接われわれの心身の健否に影響するものである。これは食品の選択、栄養価、その調理法、ならびに摂取法、食物に対する観念など、食生活全般にわたって改良を加えなければ、到底健康生活を望むことはできないであろう。しからばわれわれは食生活をいかに改革すべきであろうか。

 

⑤人は文化生活を行なう。文化生活は、人類の進化待望の的であり、今後ますます発達せしめなければならない。われわれは文化生活によって、一面にはわれわれの健康生活を確保した面もあり、文化の人類生活上その福祉を増進した功績は大きい。しかし他方現状のままでは、人類を不健康にする要索の多いこともまた見逃しえない。都市における上下水道、その他の衛生設備はその前者であり、人口の過密、煤煙、各種の有毒ガスの放散、粉じん、ならびに混雑せる交通機関などは後者である。人類文化の進展にともない、その弊害除去に向かって、その対策が併行して進められなければ、文化が人問の健康におよぼす思影響のほうが多くなるであろう。人は文化生活を享受しながら、その健康を確保するにはいかにすべきであろうか。

 

⑥人は社会(国家をも含めて)生活を行なう。文化の発達にともない、その生活は複雑となり、あまたの分業を生じ、その分業の総合によって、われわれの文化生活は成り立っているから、文化生活は即社会生活であり、これが地域的にまた民族的に結合すると、それが国家生活である。この必然的な社会生活ないし国家生活はまた種々の負荷を人間に与え、これが当然その健康生活に影響することは明らかである。しかして人聞には、その社会生活が必須であるから、われわれは必要なるその社会生活をしながら、健康を維持しなければならない。

 

以上①から⑦までの原因は、一つといえどもこれを取り除くことはできない。してみれば、われわれはこれら人間の生活をしながら健康でなければならない。この願望は無理であろうか?もしこれが無理であるならば、われわれは依然として「人は病の器」の域を脱することはできないのである。

 

 

文明の余弊

 

人類の歴史始まって以来ここに四千年、営々としてその文明を築き上げてはきたが、人類を襲う疾患の種類は、近時日を追って増加し、その死亡率もまた減少していない。もっとも人間の平均寿命は遅々とはしているが、延長の傾向にはある。しかしその国々に依り、特有の疾患を有し、こ の疾患は年とともに増加し、その死亡率も急速に上昇している。たとえばわが国における結核、米国におけるがん、心臓病はその好例である。これらの疾患の増加することは、その国の文化の進展の傾向と密接な関係がある。すなわち直接的にはその国の衣食住の変遷の傾向と一致するということができる。

ならば、これら疾患増加の傾向を食い止める手段やいかにという問題は、われわれに与えられた至上命題でなければならぬ。この命題が根本的に解けなければ、文化は進んでも人類の健康は増進しないことになる。

 

 

医学のあり方

 

人間の健康は、それは医学の受け持つ範囲である。医学は人類を疾患から予防し、かかった疾患を治療せねばならぬ。リットレー・ヂルベールによれば、

「医術とは、健康を保持し、かっ疾病治療を目的とする」

とある。もしも現代医学が、疾病の治療もできず、健康の保持もできないという現状であるならば、医術とはいえない。フランスの格言に、

「予防は治療に勝る」

というのがあるが、現代医学は疾病の予防の方法も教えられない。

「一トンの治療は一ポンドの予防に如かず」

ということわざはあるが、その予防法は一ポンドはおろか、一オンスの方法も与えられていないのが現代医学の姿である。でも、現代医学者は病気の予防はできるというかもしれない。ならば質問する、風邪の予防ができますかと。日本脳炎の予防ができますかと。できないだろう。もしできるというならば、それは詭弁というものだ。

ならば、人類は依然として「病の器」の域を脱することができないのだろうか、動物の生活に帰る以外は。

イヤイヤ、それでは余りに知恵がなさすぎる。万物の霊長たる人間が、その健康においてのみは動物に劣るということは、なんとしても残念である。

学術は進歩したという。科学は輝かしい業績を示し、人類はその恩恵に浴している。世は原子時代だという。このような進歩した科学を築き上げることができた同じ文化の時代に、医学のみがその外観の壮を誇るのみで、その内容の空疎なのはなぜであろうか。健康の保持もできない、疾病の治療もできないということは、なにかそこに研究の目的や方法に大きな誤りがあるはずだと考えられないだろうか。

シデンハムは、

「疾病とは有害なる素因を駆逐するために自然の採る方法である」

と喝破している。体内に生じた生存上有害なる素因を駆逐するのが疾病なる現象でありその目的であると見れば、この疾病なる現象を対象とする現代医学の原理、方法には根本的な誤りがあるということになる。もしこの断定が正しいとするならば、現代医学の原理と方法を正しい方向に転換すれば、そこに新たなる原理を生み、新たなる方法が発見されるはずである。この新たなる方法や原理をもって、医術の目的たる「健康を保持し疾病を治療すること」のできる医学が築き上げられる。このような正しい医学が築き上げられたときは、それは人類がその誇りとする文化生活を営むということを条件として築き上げるのだから、われわれは再び動物の生活に帰ることなく、健康にして疾病にみまわれることのない愉快な明朗幸福な生活に入り、天寿を全うすることができるのである。

ここに「病気にかからない方法」がなければならない。

「疾病とは有害なる素因を駆逐するための自然の採る方法である」にかかわらず、この疾病そのものを有害なるものとして、死力を尽くして征伐(せいばつ)しておったところに大きな誤りがあったということがわかったのである。すなわち疾病は心身の違和を調整しようとする自然良能の作用にほかならない。こうしてみると疾病は療法であって、これはおおいに喜ぶべき現象であるといわねばならない。それを大変なことだとして、なんとかしてこれを打ち消そうとして、いわゆる対症療法に身をやつしておったところに、誠に人間の愚かさがあったのである。

 

 

西医学の原理

 

西医学では、この自然良能の作用を疾病とみず、療法とみるから、これを「症状即療法」という言葉に要約し、西医学におけるきわめて重要なる原理を構成するものである。

病気の症状はすなわち療法であるから、もはや従来の考えによる悲しむべく恐るべき病気はここに消滅して、喜ぶベき楽しむべき療法である症状という新たなる意義を持つ病気を得たのである。病気が療法であるから、われわれはもしこれを助け、これに協力してその療法たる目的を速やかに達成するように導き助成するならば、さらにこの症状の副作用ともいうべき真に生体に有害なる要因を発見して、これを解消することができるならば、そしてそれが西医学で可能ならば、われわれはこの西医学をもってしてこそ「健康を保持し疾病を治療する」ことができるのである。

西医学のこの革命的原理は当然革命的方法を生む。この方法こそわれわれが太古より熱望してきた「病気にかからない方法」に相違なかろう。

症状即療法の概念は古来幾度か唱えられた。古代においては中国の書経に、

「若し、薬瞑眩(めんげん)せざれば、その疾いえず」

とあって、この瞑眩というのは症状のことである。徳川時代の吉益束洞もまたおおいに瞑眩論を唱え、瞑眩を起こす薬物を投じ、好んで瞑眩を起こさせて病気を治していた。

しかしこれらはいずれも、「症状即療法」という原理のみに終始して、このために生ぜる第二義的障害を解消するという原理に徹しなかったために突効があがらず、ついには専ら症状を打ち消す対症療法が治療の全部となってしまったのである。

重ねていう。西医学は「症状即療法」の原理に徹するから、下痢すれば「下痢が療法」、発熱すれば「発熱することが療法」、やせて骨と皮とになるならば、「その骨と皮とにやせるのが療法」、人事不省に陥れば、「人事不省が療法」、脳溢血や脳貧血で倒れれば、「その倒れることが療法」なのである。しかしこれら千差万別の症状に対し、その起こるがままに放任するのでなく、いちいちこれを吟味研究し、その症状を起こしたがために、生体から失われるのを補給し、弱体化したものを補強し、不完全な機能を補償するなどの方法を採るのである。ゆえに西医学における症状即療法は、古来の瞑眩論とその根底において、その方法において全くその選を異にし、誠に治療医学の最高峰をゆくものといい得るであろう。

病気にならない方法を求めるには、病気の原因を究めなければならぬ。病気の原因と症状とは千差万別であるが、西医学ではその原因を究めてこれを汗吐下和の四法に要約している。そうして病気を治すのもこの汗吐下和の四法としている。

この病気の原因とその治しかたを汗吐下和の四法に要約したことについては、多くの解説を必要とするが、それは章を追って次第に明瞭になってくるであろう。