病気になるとなぜ的確に治せないのだろうか

病気の治し方

 

病気になると、なぜ的確に治せないのだろうか?この回答はきわめて簡単である。それは「治し方が悪いからである」、あるいは「治し方を知らないからである」と言うほかはない。そもそも人が病気になるのは、以上あげたような種々の原因があるのであるが、どうしてそれが病気という現象にまで発展するのだろうか?一体病気はわれわれが考えるように、そんなに忌み嫌うべきものであろうか?われわれはまずこの点を研究しなければならない。

 

 

病気に対する新しい観念

 

病気は、古来四百四病といわれておったが、現在では十七万六千余あるという。いまこれを大別すると、炎症・せき・出血・骨折・発熱・下痢・嘔吐・発疹・腫物・水腫、および精神異状、ならびにその過程に要約し得るものと思う。そのほか全身の倦怠とか、足がだるいとか、半身不随とかいう一見、上に属しないようにみえるものもあるが、よく観察すると、それらといえどもみな自然良能の発露であるから、本論の進行上矛盾をきたすものではない。

まず発熱ということをとってみると、現代医学ではこれを探究して、千差万別の原因をあげているが、要するに体内に生じた、または侵入した徽菌あるいは毒素を、熱によって解消しようとする自然良能のあらわれにほかならない。

下痢は、学者の研究によると百余の原因をあげておるが、これを要約すると九つの原因になるが、これも要するに腸内に発生した、もしくは侵入した毒素を、体内の水分を動員し、かつ腸のぜん動を促進して、急速に体外に排世しようとする作用である。

その九つの下痢の原困とは、①過食、②細菌、③毒素、④刺激、⑤失調、⑥環境、⑦恐怖、⑧驚怖、⑨下剤であって、いずれもけっしてそんなに騒ぐほどのものではなく、下痢という症状である限りは、心配すべきものではないのである。ただここに注意すべきは、健康であった生体が、にわかに下痢により脱水するときは、血中に「グアニヂン」の生成となって、尿毒症状を露呈することであり、このさい水の補給を考えない現代医学の指導方針は、再教育によって是正させる必要がある。下痢という症状は、生体からの細菌または毒素の急激なる排除であるから、生体は浄化せられ、それによって生体それ自身が助けられるのである。

嘱吐は、毒素のために起こることもあり、また過食するときにも起こる。特に便秘のときの過食は幅吐を催す。嘔吐を催すときは、嘔吐するのが療法である。このときは、水分と胃酸とを失うから、生水と食塩との補給を必要とする。嘔吐の技術は姿勢を正し、左手をもって腰部を押さえ、右手のこぶしをもって、頚椎一番をトントンと叩くときは、容易に嘔吐することができる。嘔吐する人は、便通に気をつけねばならない。

発疹は、体内の毒素(腸内は体内ではない)がその毒力が強く、腎臓を過して排泄するときは、腎臓を障害するから、これを皮ふを通して体外に排泄しようとするものであるから、かくのごとき毒索の所有者は、発疹することが必要なのである。

腫物は、糖尿病的体質のものに化膿菌が繁殖したとき、これを一カ所に集めてせん滅し、これを膿として排泄しようとするものであって、そのような場合には、腫物ができることが必要である。

水腫は、多くは過食、または栄養過剰の場合、その分解生成物が腎臓の能力以上となり、その毒素が組織細胞の聞に停滞堆積し、その渡度が細胞の生存を脅かす程度になったとき、組織細胞の問に水分を増加して、その濃度をうすめねばならぬ。そのような状態を、われわれは通常水腫というのであるから、これとても生体を助けようとする自然良能の作用にほかならない。

精神異常は、通常の精神状態ではもはや生存不可能の状態となったとき、精神異常を起こさせてその問に生体を正常状態に復帰しようとするものであるから、これとて自然に必要なる手段である。

その他疾病には千態万様、ほとんど名状することのできない種々の症状があるが、一言をもってこれをいえば、いずれも生体を助けようとする自然良能の作用に外ならない。

してみると、古来われわれが疾病として悩んでいた種々の症状は、実はわれわれ生体を助けようとするために、自然に備わる身体違和解消の機能である良能作用によって生起されるものであって、少しも苦悩すべきものでなく、かえって身体の違和に対して、療法が施されているのであるから、むしろ喜ぶべき現象であったのである。すなわち「症状即療法」であったのである。

 

 

病気の治療

 

このように観ると、古来幾多の先輩が疾病を治療せんとし、症状解消を目的として血みどろの努力を傾注したことは、この自然良能の作用を妨害しようとしたものであって、「療法を治療する」という全く意味をなさないこととなるのである。極言するならば、従来の意味における病気を治療するということは、自然良能の発露を打ち消そうとしたことであって、人類生存の自然の努力を無効とし、人類殺傷のためにあらゆる手段を尽くしていたという、はなはだけしからぬことになるのである。したがって従来の医学が唯一の目的とした、病気を治すなど、いうべきことのありえよう道理はないのである。

ここにおいてわれわれは、疾病の治療ということに対し、新たなる観点に立ち、構想を改めて出なおさなければならないということは、自ら明らかになってきたのである。

すなわち従来の医学が、症状を疾病とし、この症状を打ち消そうとしての対症療法なるものは、この自然が施す治療を妨害するもっとも嫌忌すべき手段にほかならない。すなわち生体の生存を阻害せんとする原因に味方するものであって、これがため天与の寿命をいかに縮めていたか、計り知ることができない。幸いにその方法が無力であったから、われわれは生存を続けることができたのである。病気はそのような方法では、治らないのが当然であり、治ったら人類の破滅であろう。

 

 

病気は治るもの

 

したがって、「病気になったらなぜ的確に治らないのか」という問に対し、われわれはいまここに、「それは、治療の進行を妨害しているから治らないのだ」と答えることができる。つまり、「もしも治療の進行を妨害せず、自然良能の発露をそのままにするか、逆になんらかの方法でこれを助けてやり、しかして第二義的に生じた違和を、適当に処置していったならば、病気は的確に治るのである」といい得るのである。

「病気の的確に治らないのは、治療を妨害しているから治らないのである」とは、何とパラドキシカル(逆説的)な言い方ではないか。これを裏からいえば、自然の治療作用を妨げることがなく、むしろこれを人智をもって助長するならば、病気は容易に治癒するのであると、いまここに断言することができるとは、なんと人世に明朗なる光明を与えるものではなかろうか。暗夜に矩火を点ずるものといって過言ではないであろう。

この観点に立てば、「人は病の器」ということわざも、ここにそのめでたき終幕を告げるにいたったのである。もはや「人は病の器」ではないのである。症状即療法をさとったからには、今後われわれ人類は、健康無病にして明朗幸福なる生活をすることができることになったのである。なんとすばらしいことになったではないか。